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2010-04-23

マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」(9)


僕が、ポランニーのいう「暗黙的認識」について、自分の体験のなかで、あれはまさしく「暗黙だ」と思うことがあるのだ。外国語にかんする体験だ。




僕は下手な英語を聞いたり話したりできるのだが、完全に話せるというわけでもないものだから、その英語を話す相手によって、分かり具合にずいぶん違いがある。

自分とあまり親しくない人が、自分とあまり関係がない話題を、自分じゃない、例えば横にいるアメリカ人に向かって話しているときなど、全く分からないこともある。それから、相手の話す言葉の端々から、内容を推測して、とりあえず推測した内容にもとづいて返事をしてみたりして、それで会話が問題なく進行すれば、結果オーライ、みたいなこともある。

しかしそうではなく、完全に、100パーセント、相手の話す英語を理解できるということもあるのだ。相手が親しい人だったりする場合が多いが、何を言っているのか、日本語を聞くように、分かることがある。ところがそういうとき、ふと我に返ってみて、今相手が具体的にどういう英語で話していただろうと考えると、分からないのだ。何語で話していたのか、相手がはたして英語で話していたのかすらも、もちろんそのはずなのだが、分からなかったりする。相手の話す内容そのものが、ダイレクトに自分の頭に入ってくるような感じがするのだ。

相手は当然英語を話し、こちらもその英語を聞いて、個別の単語やら、それらを結合する文法やらから、頭の中で、意味をつくり出しているには違いないのだが、その部分は実際には、全く感知されない。まさに暗黙のうちに、それらが行われ、つくり出された結果である、相手の話す内容だけが、頭に浮かんでくるというわけだ。これは日常ではあまり使わない英語についての体験だったから、「何語で話していたのか」などということをわざわざ考えたわけだが、もしかしたら普段、何も考えずに話している日本語についても、同じなのかもしれないよな。実際日本語の場合でも、相手の言ったことを、相手が言ったとおりの言葉遣いで再現するということは、けっこう難しかったりするものだからな。