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2010-04-16

マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」(4)


ここでマイケル・ポランニーは、「身体」というものの役割を強調する。暗黙的認識においては、外界にある事物を、身体を通して、内面にとりこみながら、それらが統合された意味を見つけ出すのである。老舗ラーメン屋のラーメンは、もちろんそれは口から身体のなかの胃袋に入っていくものだけれど、それだけではなく、舌やのどの神経、そしてもちろん、これも身体の一部である脳細胞を使って、スープや麺を味わい、それらが似たような他のラーメン屋とどう違うのかは意識されることはないけれど、全体として他のラーメン屋とはまったく違う、その老舗ラーメン屋のラーメン独自の、一つの人格をもった「意味」として、意識されることになる。それはその感知された人格の内側に、自分の身を置くことであると言ってもいい。

それはもちろん、ラーメンに限った話ではなく、芸術作品を鑑賞するときなどにも、その作品を見ることで、作品は自分の内側にとりこまれ、その一つ一つの部分が明確に意識されるということはないけれど、身体の内部でおこる無意識の反応が統合されて、作者の精神というものが意識されるようになる。

道徳教育では、道徳の内容が自分の内側にとりこまれ、今度は自分が行動し、判断するときの暗黙的な枠組みとなる。科学理論を理解しようとするときも、やはりそれは暗黙的に内側にとりこまれるのであって、科学理論そのものを意識的に理解するというよりも、科学理論が説明した自然の内容を理解しようと意識するときに、暗黙的に感知されるものとなる。

この暗黙的な理解というものを、明瞭に意識しようとしてしまうと、暗黙的に存在する一つ一つの要素と、その全体を統合する意味というものは、まったく破壊されてしまう。一つの単語だけをとりだして、何度も注意して発音してみると、それがどういう意味を持っていたのか、よく分からなくなっていまう。ピアニストが自分の指の個別の動きを意識してしまうと、ピアノがまったく弾けなくなってしまう。

「かくして、私たちはきわめて重大な問題のとば口に立つことになる」と、ポランニーはいう。
「夜に謳われた近代科学の目的は、私的なものを完全に廃し、客観的な認識を得ることである。たとえこの理想にもとることがあっても、それは単なる一時的な不完全性にすぎないのだから、私たちはそれを取り除くよう頑張らねばならないということだ。しかし、もしも暗黙的思考が知(ナリッジ)全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら、個人的な知識要素をすべて駆除しようという近代科学の理想は、結局のところ、すべての知識の破壊を目指すことになるだろう。厳密科学が信奉する理想は、根本的に誤解を招きかねないものであり、たぶん無残な結末をもたらす誤謬の原因だということが、明らかになるだろう」
暗黙的な認識というものが、あくまで、個人の身体というものに由来する、個人的なものである以上、それを取り除こうとすることは、知識そのものの破壊を意味するからだ。そしてポランニーは、科学おける「新たな発見」というものについても、暗黙の力が大きな役割を果たしていることを、明らかにするのである。

(つづく)