京福電車の嵐山駅から桂川沿いを上がって、しばらく行ったら右に曲がるのだが、まずはおびただしい数の仏像さんがお出迎え。嵐山羅漢といって、近くの寺が呼びかけて、各地の人がそれぞれの想いをこめて、寄進しているものなのだそうだ。
広い敷地に趣きのある建物が建っていて、旅館かと思うほどなのだが、湯豆腐を食べさせるだけの場所なのだ。テーブルがいいか、座敷がいいかを聞かれて、どちらが眺めがいいかを尋ねたら、座敷のほうに案内された。この座敷というのが離れになっていて、中庭を通っていくのだが、この中庭も離れも風情があって、お上りさんとしては、いちいち感心するわけだ。座敷からはもちろん、中庭が一望できて、枝振りのよい桜も植わっていたから、まだ咲きはじめだったが、これからさぞきれいだろうな。
できて45年ほどとのことだったが、豆腐を食べるためだけに、これだけの建物を建ててしまうというのが、観光客相手であるにせよ、京都人の風流というものなのだろうな。
出てきた料理は、いちいちうまい。というか、正しく言えば、出てきたのは、もちろんメインは豆腐なのだが、あとは温泉玉子だったり、コンニャクだったり、小魚を甘辛く煮たものだったり、野菜の天ぷらだけは、唯一料理といえそうなものだったが、あとはうまいとまずいの基準をどこに据えたらよいか、わからないようなものばかりなのだ。しかしこの建物で、この庭を見ながら食べると、うまいという以外に、思うことはできないのだ。最後に出てきたのは、豆腐味のプリンに、ブルーベリーのソースをかけたものなのだが、これをホテルかどこかで食べたら、貧相な味だと思うかもしれないところ、ここで食べるから、滋味あふれる素朴な味わい、ということになるわけだ。これはやはり、都の人の力技だな。
帰り際に、こういうところはまったく気がきいて、細かい配慮が行きとどいた東京の知人が、ふつう逆だろというところ、おみやげとして持たせてくれたもので、この店で初めにお茶請けとして出されたものなのだ。食べたときには、アンズかな、支那竹かな、と思うような食べごたえなのだが、聞いたらなんと、ナスを塩漬けにして2年間寝かせて、それを改めて、醤油に漬けたものなのだそうだ。
僕など塩を振って10分で食べるというところ、2年間も漬け込むという、その行いは、あらゆる想像を絶するわけだが、これが京都なのだな。今これを書きながら、ちょっとわかった気がした。「素材の味」などというが、内陸にあって海から遠い京都の人にとって、それを言われてしまっては、まったく勝ち目がないわけだ。そこで戦いの土俵自体を、全然違った場所に移してしまって、素材のまわりに、いかに風流な世界をつくり上げることができるのか、というところに、全力を注いだということなのだな。
今まで京都の、男前豆腐や、すき焼きラーメンや、その他いろんなものが、なぜそのもの自体の味で勝負しないのか、とても不思議だったのだが、すこし謎がとけた気がしたな。