日曜日にラーメン屋に向けて三条会商店街を歩いていると、途中で上賀茂の農家のおばちゃんが露店を出しているのに会う。おばちゃんがまたいい人なので、僕はおばちゃんと二言三言話しながら、すぐきだのぬか漬けだの野菜だのを買うことにしている。こないだラーメンを食べてから帰りに買おうと思ったら、もうすべて売り切れて帰ってしまっていた。だからおばちゃんを見かけたら、後回しにせず、その場で買うようにしないといけないのだ。
昨日は袋にいっぱいの伏見とうがらしを300円で売っていたから、それを買ってジャコで炊くことにした。きっちり煮詰めて冷蔵庫に入れておけば、一週間くらいは持つのだから、そういうちょっとした常備菜があるというのも悪くはない。僕は常備菜というのは、これまであまり作ったりはしなかったのだが、おばちゃんのとうがらしを消費するためだから仕方ないのだ。
とうがらしはジャコといっしょに、酒、みりん、うす口しょうゆで炊く。しょうゆをくれぐれも入れすぎないようにしないと、ジャコにも塩気があるし、最終的に煮詰めたときに、辛すぎることになってしまう。
こういうものは、歯ごたえを残して…などというのが今風だが、京都でとうがらしとジャコの炊いたんを食べると、例外なくくたくたにやわらかく煮ている。でも家庭料理というのはそうなのだよな。やわらかいというのがおいしさだというのは、やはり離乳食を子供に与えて育てる、母親ならではの感覚なのじゃないかという気がする。
京都はジャコを多用するわけだけれど、それって要は、新鮮な魚が手に入らなかったということなのだと思うのだよな。だからあるものに、徹底的に手を加えておいしいものにする。ちりめん山椒などは、京都の名物になっているわけだけれども、それも元々は、手元にあるジャコをいかにおいしく食べるかということから、発展したものなのじゃないかと僕は思う。
あとは京都では、ニシンというのも同じ位置づけなのだと思うな。ニシンも干し物だから、京都にも昔から入ってきていたのだろう。魚屋で以前、ニシンをナスと炊いたり、ふきと炊いたりするのだと教えてもらった。