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2011-06-24

ikoi cafe

毎週木曜の昼めしは、ikoi cafeでランチを食うことにしている。
僕が毎週読んでる週刊文春を、この店は発売日に買って置いているから、それを読みに行くということが大きいのだけれど、まあこの店が気に入っているということもある。

僕が定期的に巡回している飲食店は、昼が新福菜館三条店とここ。
夜はほっこりバーKajuとスナック都。
昼は週いっぺんで、夜は月いっぺん。
この4軒が、僕としてはこの界隈で、いちばん気に入ってる店だということになる。

飲食店をやるという時、まずもちろんそれは事業なわけだから、きちんと利益を上げなければいけない。
赤字は悪であり、事業主としてはそれは何としても避けなければいけないということがあるわけだよな。
でもそれでは黒字だったら何でもいいかというと、必ずしもそういうわけではない。

飲食店が黒字を出そうという時、やるべき事というのはいくつもあるだろう。
店がきれいに掃除されているとか、店員が明るくさわやかに接客するとかいうことから始まって、原価率やら地域の特性やら何やらかにやら、考えるべきことは山ほどあって、それらはたしかにどれも重要だということになるはずだ。

でもそれらを、どれも満たしているという店が、おもしろいのかとか、居心地がいいのかというと、必ずしもそうではないんだよな。

僕はラーメンが好きで、ラーメン屋めぐりをしたりもするのだが、よくチェーンのラーメン屋で、いかにも綿密なマニュアルが用意されていて、店主は一から十までそれを守るべく、頑張ってやっているのだろうなと思うような店がある。
その努力や賞賛に価することだと思うし、そういう店が人気店になることだってままあることなのだけれど、僕はそういう店にはまったく意味を感じない。
なぜならそういう店では、店主がやりたいことは「儲けたい」という一点なのだ。
儲けるためには、お客さんが求めるものを敏感に察知し、それをできる限り安い値段で提供する。

でも例えば僕が、どこかの店へ行ってラーメンを食べようと思うのは、単に自分が求めるラーメンを食べたいということだけではなく、やはり店主とのコミュニケーションを求めているというところが大きいのだよな。
ラーメンとはただ人間の腹を満たすだけのものではなく、それが人間と人間とのあいだでやり取りされる限り、何かの意味を持つということは避けがたいことだ。
その時、それではそのラーメンに、店主がどのような意味を込めてお客に手渡すのかを味わうことが、ラーメンを楽しむということであって、その意味が、「自分が儲けたい」ということであったとしたら、これほどつまらないことはない。

だけれども、その「ラーメンに自分の想いを込める」ということは、そうやって言葉で書くと簡単そうで、どこのラーメン屋だってそれを目指していそうなものだけれど、実はけっこう難しいことなのだと思う。

ラーメン屋を経営していくということを、事業として捉えた場合、「利益を上げる」ということがまず目的として設定されて、そのためにはどうしたらいいのかということが、無数の「手段」として羅列されていくことになる。
僕は飲食店を経営しようと思ったことはないから、それらの手段としてどのようなものが掲げられているのか、詳しいことは分からないけれど、おそらくどれももっともで、たしかにそれがないと、お店は儲からないよね、という類のことが言われているのだろうと思う。
チェーンのラーメン店の場合などでは、その羅列された手段のひとつとして、たぶん、「店主の想いを込める」などということが掲げられているに違いない。

しかしラーメン店主がラーメンに思いを込めるということを、ほんとうの意味で考えようとした場合、それでは足りないのだ。

儲けるための手段としての「想い」などというものは、すぐに見破れるものであって、それが単なる便法に過ぎないということを、客はよく分かっている。
そうではなく、店主がほんとにお客に想いを伝えようとしたならば、ラーメン屋を経営する、その事業を行うという、その目的そのものが、「儲けるため」ではなく、何らかの店主の想いを「実現するため」であるという形に、書き替えられなければいけないことになるはずなのだ。

それは重大な問題であって、なぜかというと、儲けるという目的のために行う無数の手段という、経営学の論法が、まったく通用しないことになるからだ。
だからと言って、経営学が嘘なのではない。
たしかに経営学で言われているようなことは、実際に実現されていなければ、店は利益を出すことはできない。

であるとすると、どうならなければいけないのかというと、店主が何かを実現したいと、そのためにラーメン店を経営することが、「結果」として、経営学が要求するような一つ一つのことがらを実現していると、そういうことが行われなければならない。
手段ではなく、結果である、という大転換が、そこで果たされなければならないのだよな。

それではそれは、どのように転換できるのかということは、少なくとも今、僕は説明することができないし、説明が可能であるものなのかどうかもよく分からない。
でもそれが果たされていると感じるのが、ikoi cafeを初めとする、僕が巡回するいくつかの店なのだ。

ikoi cafeも、店の隅から隅まで、出てくる料理から、テーブルや窓際に置いてある小物の一つ一つにいたるまで、ママの人間性が感じられる。
そのことに対する好き嫌いはあると思うし、店はどちらかと言えば若い女の子を主なターゲットとして設定されているから、僕などはちょっと肩身が狭いものもあるのだけれど、まあそれなりに居心地がよくて、毎週飽きずに通っているというわけだ。


晩酌は肉じゃが。
海軍式の、砂糖と醤油以外の調味料やらだしやらは一切入れずに、アクも取らないというやり方なのだが、すごくうまい。

大七生もとは飲み切った。

ikoi cafe