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2011-06-04

民主党、ナスとピーマンの味噌炒め

池田信夫という、これは経済学者なのか、よくわからないが、そのひとと、田原総一朗が対談して、その時に池田が「なんで日本の政治はこれほどグダグダになるのか」と聞いたら、それにたいして田原総一朗が答えたという、その答えがおもしろかった。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51714623.html
「かつての自民党は派閥の集金力が求心力になっていた。金を集められる人望のある政治家が派閥の領袖になり、彼が集めた金が政治力の源泉だった。それが90年代以降、日本経済に余裕がなくなり、派閥の力が落ちて求心力がなくなった」
日本経済が右肩上がりで、成長していたときには、日本がどちらに進んだらいいかなど考える必要もなく、余った金をどう分配するかだけ考えていればよかったのだが、経済が停滞してくると、そういうわけにはいかなくなった。これからどうしなくちゃいけないのか、それを政治家がはっきりとした言葉にして、世の中に訴えなければならなくなった。そしてこれまでのところ、それを唯一なし得たのは、小泉純一郎だった、と。

池田は、小泉は天才だったから、言葉の力で首相にまでなれたけれども、小泉のようなタイプの、小泉ほど力がない他の政治家は、つぶされてしまって首相になれないような、そういう政治システムの欠陥があるのじゃないか、だから首相を投票によって選ぶ、首相公選制が検討されることに意義はあるのじゃないか、という。まあ僕は、そこのところはよくわからないけれど、時代が大きく変わったのに、日本人がそれに気づかず、過去の右肩上がりの時代にやっていたこととおなじことを、いまでもひたすら繰り返してしまっているということは、あるのじゃないかという気がする。

そういう意味じゃ、民主党の若い議員とか、僕は期待するものはあるんだがな。枝野官房長官の記者会見を見ていても、もちろん枝野長官に首相の器があるのかどうか、僕はよくわからないけれど、きのうなども、こちらが見ていても、枝野長官はそう言ってるのに、何度おなじこと聞くんだよと思うような記者の質問に、枝野長官は、いやな顔ひとつすることなく、何度もおなじことを、真摯な態度で答えていたりする。

自民党が、ほんとにダメダメな政党であるということは、今回の不信任さわぎでよくわかったわけだし、小沢一郎も同様、鳩山由紀夫は、菅首相が前言をひるがえしたというので「ペテン師」と言っていたけれど、だいたい今回だって鳩山由紀夫は、まさかと思うようなあざやかな手のひら返しの技を見せてくれたわけだし、前だって政治家を引退すると言ってそれを取消したりしているわけだから、「お前に言われたくないよ」ってなものだと思うけれども、菅総理が「若いひとたちに引き継ぎたい」と言うのなら、それをぜひ、うまく実現させてほしいとは思うのだよな。

きのうの昼めしは、おとといの肉じゃがに白めし。

白めしは、ふだんはふつうの、ちょっと小さめの片手鍋で炊いているのだけれど、炊けてすぐのやつを食べているということはあるかとは思うが、これがうまいのだよな。あまりにうまくて、食べ過ぎてしまいがちになるから、米を炊く量をすこし少なめにするようにしているのだ。

晩めしは、そろそろナスが安くなってきたから、ナスとピーマンの味噌炒め。

豚コマ肉とナス、それからピーマン、そして油揚げを炒めて、そこに味噌ダレを流しこんで味をつけたという代物。味噌ダレはもちろん、名古屋でおみやげにもらった八丁味噌を使用。調味料は、何を入れようか、いろいろ考えるのが、料理をするうえでかなりたのしいことだと思うのだけれど、今回の味噌ダレには、まず当然、酒とみりん、砂糖、隠し味ていどの醤油、それに八丁味噌。ここにおろしたショウガとかニンニクとか、唐辛子、それにゴマなんかを入れると、一気に味が韓国、中国風になっていくのだけれど、きのうはとりあえず和風ということで、すりごまだけを、皿に盛りつけてからふりかけてみた。けっこうイケました。

調味料の量というものは、どのくらい入れたらいいんだろうと思うひともいるかもしれないけれど、そんなのどのくらいだっていいのだ。ちょっとくらい多くたって、少なくたって、まずくて食えない、なんてことはない。計量スプーンで計るという悪習が、いつからなのか、取り入れられたおかげで、調味料の配合というものが、あるひとつの「正解」があるというような気分が、日本国民に充満しているところがあると思うのだけれど、調味料というのはそんなものではなく、むしろ、「虹の7色」みたいなものなのだよな。配合を変えることにより、いろんな味が、グラデーションのように広がっている。もちろんあまりバランスを崩すと、おいしくなくなるということはないではないが、基本的には、それぞれの良さがある。そういう調味料のグラデーションを、いろいろやってみることで体験して、それを材料やなにかにあわせて、自分でいろいろ変えてみるということが、料理というものについての、かなり大きなたのしみなのじゃないかと僕は思う。