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2011-05-06

高木仁三郎 「市民科学者として生きる」

先日僕が、日頃からお世話になっている人に、「原発・エネルギーの問題にとりくみたい」と話したら、「まずはこれを読め」と言われ、教えられたのが、この本だったのだ。
「反原発の団体は、それこそ山のようにあるけれど、私はこの人はいいとおもう」
とのことだった。

だいたい僕は、今回福島原発の事故が起こるまで、原発やエネルギーの問題に興味をもったことは一度もなく、ましてや「反原発」のことなど何も知らなかった。高木仁三郎という人のことも、当然はじめて耳にしたが、「現代思想5月号」で、孫正義氏のアドバイザーともなっている飯田哲也は、高木を「反原発の神様」であると書いている。

1954年に中曽根康弘らが「原子力研究開発予算」を国会に提出したことを起点として、日本の原子力開発は始まり、原子力委員会が設置され、科学技術庁が発足する。原子力開発のための研究所や会社が発足し、アメリカやイギリスから技術を輸入しながら、原子力発電所がつくられていく。石油ショックの年には、田中角栄首相のもとで、交付税の制度がととのえられ、原発を受け入れる自治体には強烈な「アメ玉」が与えられるようになり、原発立地が加速していく。

そういう動きにたいして、日本だけでなく世界で、「反原発運動」がうまれ、それはやがて大きな流れとなっていく。外国においては、それが「政治的に回収」され、一定の社会制度にくみこまれ、「緑の党」などを生み出していった。ところが日本では今日まで、反原発運動は「異端」のままであり続けたと飯田はいう。

反原発運動の政治スタイルが、「二項対立的」であるとか、「ユートピア志向で正義をもとめすぎる」など、稚拙であった面があるかもしれない。しかしより本質的には、水俣病でも見られたように、大衆的な異議申し立てを徹底的に無視し、却下し、異端視する政治文化が、日本にはあるというのが、飯田の考えだ。

高木仁三郎は、1938年生まれ。東大理学部を卒業し、日本原子力事業株式会社へ就職。原子力の専門家として10数年を過ごしたのち、35歳でそれをやめ、反原発運動に身を投じていく。「市民科学者として生きる」は、高木が61歳、大腸がんで亡くなる前年に書かれたもので、日経新聞「私の履歴書」のような調子で、自分の人生を振り返りながら、高木が半生をかけて格闘した「核の時代」を描いたものだ。

「反原発の神様」といえば、どれだけの闘士かとおもうところだが、この本から見えてくる高木の素顔はたいへん穏やか。戦った相手である、国や原発推進派を糾弾するような口調はまったくなく、むしろ自分の迷いや反省、誹謗中傷されることにたいする悲しみなどもふくめた、等身大の自分自身が描かれている。自分の利益や立場をまもることに興味をもたず、自分の体を痛めつけながら、正しいと思う道を邁進するその姿は、「高潔」とよぶのにふさわしい。

60年安保世代の高木だが、党派嫌い、組織嫌いの性格で、政治運動には関わらず、学生時代は「ノンポリ」で過ごした。原子力の会社へ入っても、べつに原子力に疑問を感じるでもなく、研究活動に打ち込んだ。ところが徐々に、会社での居心地の悪さを感じるようになっていく。原子力について研究すればするほど、
「放射線物質のことは、まだまだわからないことが多い」
とおもう高木にたいして、会社は
「放射能は安全に閉じ込められる」
「こうすれば放射能はうまく利用できる」
ということを、外に向かって保証するという役割を期待していた。また「個」がみえず、意思決定のプロセスがはっきりしない、「日本の会社」という世界では、「自分の意見」というものを持てなくなってしまううえに、原子力産業においては、推進派と反対派がはっきり色分けされていて、反対派はアウトサイダーとして締めだされていく。

そんな会社で、疎外感と孤立感を深めた高木は、東大の研究機関に転職するが、その時点ではまだ原子力にたいして、反対はおろか、批判派ですらなかった。しかし研究の過程で、さまざまな場所の海や山の放射能を精密に測定するうちに、どこへ行っても、アメリカやソ連の核実験の影響で、「死の灰」とよばれる人工の放射能が、人体に影響がないレベルであるとはいえ、かなりの量で検出されることを知った。

折しも水俣病や、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害問題が話題となり、会社が詳しいデータを隠したり、原因調査に加わった科学者が、企業を擁護したりするのを横目で見ながら、高木は自分がこのまま、ただ研究を続けていていいのか、悩むようになる。専門家として限られた範囲の研究に没頭し、放射能汚染という社会問題に目をつぶろうとすることは、あの戦争において、国家に飲み込まれ、一人ひとりが自分の意見をもつことができなくなったことにより、無謀な戦争へと駆り出されていった、そのことと同じではないのか。そういうおもいが高じ、また三里塚闘争でたたかう農民や、宮沢賢治との出会いがあるなかで、高木は市民とともに生き、市民のために研究をおこなう、「市民科学者」としての道を選ぶに至る。

高木は淡々と筆をはこびながら、日本の原子力政策の問題や、行政や電力会社の問題、原子力の「専門家」の問題などについて、自分自身の「体験」として、描き出していく。穏やかで、平易な文を追いながら、読者はそれらをあらためて追体験し、諸問題を、陰影をともなったものとして理解できるというところが、この本のまず第一におもしろいところだ。

高木が「原子力資料情報室」の専従となり、実際に反原発の活動をおこなうようになってからのことも、もちろん詳しく書かれている。デモや署名運動、ハンストなどもやっているのだが、それだけでなく、外国のNGO機関と連携しながら、高速増殖炉「もんじゅ」のために、フランスから船で運ばれてくるプルトニウムを追跡し、情報を公開したり、「MOX燃料」の危険性についての国際研究を2年間にわたっておこない、英文300ページ以上にわたる報告書を、10数カ国の研究者と共同しながらまとめたり、また市民のための学校や公開講座をおこなったりと、かなりの多彩な活動をしている。そこで高木は、ひとりで何でも抱えてしまう性格なのだろう、すべてにおいて中心的な役割を果たし、そのために体を酷使してしまったことが、自分がガンになった理由だろうと、自戒をこめて述べられている。

この本の印象が、「闘争」などというイメージから想像される、毒々しいものがまったくなく、じつに爽やかなものであるということは、著者の穏やかな文体によるところが、まず大きいとおもうけれども、それだけでなく、高木にとっての「反原発運動」というものの性格に負うところも、かなり大きい。

高木は「反原発」について、
「何かに反対したいという欲求ではなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現」
であるという。「先天的な楽天主義者」と評され、「見るまえに跳ぶ」をモットーとして、飛び出してから考え、試行錯誤によって何かを獲得していくというやり方をする高木だったが、どうしたらいいかは、はっきりとはわからなくても、「どんな世界を実現したいか」という理想は、つねに明確にもっていた。それは、先の戦争のときのように、個人がただ国家に飲み込まれて、流されてしまうのではなく、一人ひとりが「自立した個」として生きる、そういう世界を実現したい、ということだ。

現代において「核」というものは、国際政治における力の源泉となっていて、また国家機密の技術であるがための機密性や閉鎖性をもっている。したがってそれは、中央集権型の巨大技術とならざるを得ないのであって、それを国家や企業が所有するということは、エネルギー市場という、人間にとって最も必要なもののうえで、大きな支配力をもち、権力をもつということになる。ここで産官学が結託し、「原子力村」ともよばれる、大きな体制がかたちづくられるというとき、一人ひとりは「何をいってもダメだ」というあきらめに支配され、ものを言わず、未来にたいする希望を失うことになってしまう。

高木は、そうでなく、市民が未来にたいして、希望をもてるような社会を実現したいとおもい、そのために、科学が役割を果たす、「市民の科学」をつくり出したいとおもった。そのとき、高木の生きた時代のなかでは、「反原発」ということが中心課題にならざるを得なかった、ということだった。高木にとって反原発とは、自分の理想にむかう上での、ひとつの通過点であったのだ。

僕は高木の理想について、まさに共感できるものがある。今回福島原発の事故に出合い、そこで自分の権力をなんとか守ろうとする経産省や東京電力の姿を、イヤというほど目にし、しかもいまだ、多くの原子力発電所が、狭い日本に林立しているというとき、それでは自分は、何をしなければいけないのか。何ができるのか。この本を読み、僕ももうしばらく、考えてみたいとおもう。