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2011-05-25

鶏と小松菜の汁。厚揚入り。

中村桂子さんが、高木仁三郎「いま自然をどうみるか」について、書評を書いてる。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20110522ddm015070018000c.html
さすが桂子さん、わかりやすいす。

高木さんのこの本を読むと、高木仁三郎というひとが、ただ原子力の専門家で、原発に反対している、というだけのひとじゃなく、もっと深い奥行きを持ったひとだということがわかる。
「人間と自然が、どうかかわっていったらいいのか」
という問題なのだ。

人間はここ数百年、自然の外側に立ち、自然を客観的に分析したり、また支配したり、自然は人間にとって、あくまで何らかの行為の「対象」として存在してきた。それが「近代」というものの考え方なのだと思う。

それが行き着いた果てが「原子力」というところで、核爆弾はすでに、地球を何回こわしても足りないくらいの数を、各国が保有するにいたっている。また原子力は、「核の安全利用」と言われてきたが、その安全性というものは、「人間がまちがいを犯すものである」ということを考えるならば、はなはだ危ういものであることがわかった。いったん暴走を始めてしまった原子力エネルギーは、それをとりあえず停止させるというだけでも何ヶ月もかかり、さらにそれらを無害にするためには、数十年という時間がかかる。

このようにひたすら自然を破壊していくものに、世界が、そして個人の生活が、完全に依存してしまっている現在というものは、やはりどこかおかしいのではないか。人間が自然と、もっとちがった形で、折り合いをつけながら生きていくということが、本来できるのではないか。それが高木の問題意識の出発点となっている。

でもそれだけなら、べつにそんなことは誰でも考えることであり、珍しくもなんともない。「自然との共存」とお題目を唱えるだけで世界が変わるなら、そんな気安いことはない。

高木は「環境問題」という言葉に、違和感を感じるという。それは「環境」という言葉を使った瞬間に、それを人間と「切りはなす」という意味合いをふくむからだ。でも本来、人間と、そのまわりの環境とは、切り離せるものではない。人間が道具を使う、その時道具は、人間自身にふくまれている。おなじように、人間が目にし、かかわりをもつ、あらゆるものは、人間がそれにたいして、自分なりの「意味」をあたえたものであり、それはすでに、「自分自身」にふくまれるものなのだ。

昔のひとは、すべての自然を、自分とおなじ「生きたもの」として考えてきた。あらゆる自然現象は「神」の御業であり、それは「生命」をもったものだった。生きた自然と、対等な立場でやり取りする人間。つい数百年前まで、人間は自然とのかかわりを、そのように考えてきた。

ところが「科学」が誕生し、人間と自然とを切りはなし、自然とは単に、さまざまな物質が、機械のように組み合わされたものであると考えるようになって、そういう人間と自然の対等な関係はくずれた。人間は自然を、機械をつくるように、操作の対象として見るようになってしまったのだ。

高木はこのように、現在の危機にたいして、環境問題という、おなじ地平から異を唱えようとしているのではなく、「生命としての自然」という、新たな地平に立って、反原発運動に取り組んでいたひとだったのだ。僕がこのひとにたいして強烈に共感したというのは、そういうところだ。

そして高木は、その突破口として、「運動」というところに活路をもとめる。それはなにも、運動によってもたらされる「力」によって、世界を変えていこう、ということではない。運動をつくり上げていく、そのプロセスにおいて形づくられる、人間と人間との対等な関係、それこそが、「新たな自然観」をひとびとが自覚する、おおきなきっかけになるという。障害者など弱者が、「いてもいい」という、ただ消極的な立場ではなく、異なったひとが「いるからこそ」、そういう多様性が社会にあるからこそ、社会がちゃんと、自然の内側にあるものとなっていく。高木はそういう確信のもと、運動に取り組んでいた。

いいじゃないですかね、こういうひと。僕はこういうひとは、すごく好き。中村桂子さんが高木さんに共感するというのも、たぶんそういうところなのじゃないかと僕は思う。

きのうの昼めしは、近所の「ikoi cafe」で肉じゃがのランチ。この店も、週に1ぺんのペースで行っている。店に置いてある週刊文春を読むためということもあるが、ママを応援したいということも大きい。もちろん、味もうまい。

晩酌は、鶏と小松菜の汁。厚揚入り。いちおう「汁」としてみたが、これは「鍋」とどうちがうのか、微妙なところだ。また「おでん」とか、「煮びたし」とかとも、ちょっと近いような感じもする。まあしかし、そんなことはどうだっていいわけで、たぶん、もともとは、料理にそんな区別はなかった。肉や野菜をぐつぐつ煮て食べればうまいと、そういうこった。昆布だしに、たっぷりの酒、それに多めのみりんと淡口醤油で味をつける。

酒は佐々木酒造「古都」本醸造を2合。