小林秀雄は、ベルグソンについてのしんどい論文を「新潮」に連載しながら、この「考えるヒント」を「文藝春秋」に連載したのだけれど、ベルグソンの論文とは違ってこちらは、「常識」とか「歴史」とか、「言葉」とか、「忠臣蔵」とか、一般の人が興味を持てる題材を選び、文章もやわらかくてわかりやすいのだが、背景に、今小林秀雄が格闘しているベルグソンの哲学が、色濃く匂っていて、小林秀雄、円熟の境地、彼が到達した、一つの地点というところなんだな。実際小林秀雄をまず読むのなら、文庫本も出ているこの「考えるヒント」というのは、一般の評価だと思うし、僕もここから入って、深みにはまっていったのだ。
小林秀雄の何がいいのかというと、彼は「知識」とか「知識人」とかいうものを信用せず、人が生身の人間として、見たり聞いたりして感じること、経験すること、これを常に、全てのものの中心に据えるのだよな。客観的なものごとだけが、知識といえることであり、個人の経験などという主観的なものは、取るに足りない小さなことだと思われている現代において、そうではない、個人の経験というものが、全ての知識の出発点なのだということを、これはドン・キホーテみたいなものだよな、世界中を向こうにまわして言い続け、そして実際に、小林秀雄は、自分自身の経験から出発して、文芸の世界から、音楽から、絵画から、哲学から、その他ありとあらゆるものについて、素手で格闘し、自分のものとし、そしてその歩みが、日本における近代批評の歩みそのものとなっている。男らしい人生、すごい人だよな、ほんとに。
小林秀雄の文章は、小説などを読み慣れている頭からすると、ちょっと難しい感じがするのだが、それを味わうということそのものが、読者としての、一つの経験なのだ。小林秀雄は、専門的な用語や知識を極力使わず、日常に普通に使われる言葉と、誰もが身に備えているはずの常識だけで、全てを書き表そうとしているから、難しく思えるのは、前提となっている知識が足りないためではなく、小林秀雄が伝えようとしている考えそのものが、現代に生きる自分たちにとって、不慣れなものである、ということなのだよな。それを味わい、慣れて、親しんでいくということが、小林秀雄を経験するということなのだ。
小林秀雄全作品〈23〉考えるヒント〈上〉
考えるヒント (文春文庫)
考えるヒント〈2〉 (文春文庫)