今日も鍋にノックアウトされて、完全にグロッキーなわけだ。今日もやはり、何故鍋はこんなにうまいのか、ということについて、先日、答えが出たはずなのに、考えてしまうのだな。しかし今日こそはわかった、鍋というものは、何故鍋はこんなにうまいのか、と食べる者にひたすら考えさせるというところに、鍋の鍋たる所以があるものなのだ。
鍋を食べていると、今日はみぞれ鍋なので、例えばまず、豚肉から食べるのか、豆腐から食べるのか、という選択肢があって、ってもちろん、それはこちらが、勝手に選択しているのだが、じゃあ豚肉から食うなら、次には、シイタケに行って、長ネギに行って、水菜に行くのか、それともしめじに行って、白菜に行いくのか、はたまた、直で水菜に行くのか、などの、無数の選択肢が、食いながら、生み出されてしまう。で、その選択肢それぞれが、まるで別の料理であるかのように、違ったうまさ、だったりするわけだ。
でもそういう選択は、食い物を食うという習慣の中で無意識に行われるから、なかなか意識的には気付けないのだよな、だから無意識に、色んなうまさを味わっていながら、それを意識的には、感じることが出来ないから、こんなにうまいのに、何故なのか理由がわからない、ということになるんじゃないかと思うのだ。
ところで、鍋というものは、様々な料理の元祖の一つであるということは、たぶん誰かが、証明してくれているんじゃないかと思うのだが、元祖であるということは、どういう意味かというと、そこから様々な料理が、生み出されていった、ということだ。それというのも、結局は、鍋を食べる人が、常に、何故鍋はこんなにうまいのか、と考えざるを得ず、肉や魚を醤油で煮るからうまいんだ、と気付けば、煮付け料理が生み出されてみたり、野菜を肉や魚のだしで煮るからうまいんだ、と思えば、煮浸しや、野菜の煮物が生み出されてみたりする。鍋が、何故うまいのかわからない、ということが、創造の原動力になっていて、その答えを見つけるごとに、新しい料理が生み出されていく、ということじゃないかと思うのだよな。鍋というものが、味としては、十分うまいのにも関わらず、人間の理解にとっては、果てしなく、自由度が大きいということだと思うのだ。
と、今日は鍋を食いながら、考えてみたわけだ。自分でもようわからんが。
ちなみに明日は、久しぶりに土曜日に、恵美で朝ビールの予定です。