小林秀雄が29歳、前年文壇にデビューした、その翌年の作品が主に収められている。
文芸春秋で毎月書いていた文芸時評は、この年の初めに終わってしまったみたいで、どうしてなのかな、初めから期間が決まっていたのか、それとも何かの理由があったのか、いずれにせよ小林秀雄の文芸時評は、ハチャメチャな面白さがあったので残念。
って、80年も前のことを今頃残念がってもしょうがないんだけど。
この年は、その文芸時評で、筆が滑ったり、言葉が足りなかったりして、批判を受けた所もあったのだろう、それに対する弁明の文章がいくつかある。
とにかく初めの1年、死に物狂いで物を書いて、とりあえず離陸して、一段落したという感じだったんだろうな。
小説も2作、収められている。
僕は第1巻の小説、それに第2巻のランボーの詩の翻訳は、どうも退屈で飛ばしてしまって、実はこの第3巻にある小説も初め読んだら退屈で、飛ばしてしまったのだけれど、まあ三度目の正直、ただ退屈だというだけで、きちんと味わってみないのは良くないなと思い、最後まで読んでからもう一回、この小説をきちんと読んでみたのだ。
一言で言うと、小説は、小林秀雄が自分をさらけ出したものなんだな。
夢と現実が混交し、死をとても身近に感じる、そういう状態が書き込まれている。
ちょっと切なくなるような感じ。
小林秀雄は一高の頃、神経病で学校を休学したそうで、神経が過敏なタイプだったんだろうな。
だから自分を見つめ出すと、どこまでも奈落の底へ落ちて行ってしまう、という所があるのだろう。
小林秀雄は元々小説家が志望で、処女小説も志賀直哉に送ったりしているそうで、なので文芸批評は、それを志したというよりも、大体世に名を売った懸賞論文が、賞金で借金を返済することが目的だったと言うし、お金のため、生活のため始めた、という所が大きかったんだろうな。
でもそれはまさに、場所が人を得た、なんて言葉なかったっけ、ということであったわけで、これから半世紀にわたって、長い批評家人生を歩んで行くことになるわけだ。
なるほどな。