「おっさんひとり推し」、先日別サイトで立ち上げましたが、
「べつに内容的に、おっさんひとり飯の中でやっても問題ないのでは」
とアドバイスをもらいました。
料理レシピと商品レビューではずいぶん趣旨が違うので、
混ぜるとややこしくなるかと思ったんですが、
言われてみたら同じサイトにあったほうが、見る人にとっても便利ですよね。
そこでこれから「おっさんひとり推し」は、
こちら「おっさんひとり飯」内で、
レシピ記事と並行してアップしていくようにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
2013-05-02
2012-03-18
手間をかけずに最高のつまみ。
「ぶりカマの塩焼き」
毎週土曜日は、「休日」と決めて、ブログを更新したあとはのんびり過ごすことにしています。
フリーで仕事をしているので、休日は自分で決めないといけないんですよね。
ほんとうなら、土曜や日曜などを休みにしないで、平日を休みにしたほうが、世の中はなにかと空いていたりするわけでしょう。
でも土曜日や日曜日の、車の音もあまり聞こえない、「いかにも休日」といった街の雰囲気を目の当たりにしてしまうと、仕事をする気にならなくなってしまうんですね。
もうこのブログにも、何万回となく書いているんですけど、休みの日には、まずスーパー銭湯へ行きます。
まっ昼間からのんびり風呂に入るというのは、最高の気分なんですよね。
サウナやら水風呂やら、露天風呂の温泉やらに取っかえ引っかえ浸かったり、露天風呂の脇の寝台で寝そべったりして、1週間の疲れを徹底的に追い出します。
世の中で、サウナほど疲れが取れるものは、ほかにはないんじゃないでしょうか。
サウナのあとは、言うまでもなくビール。
毎週欠かさず行っている、「新福菜館」の三条店へ移動します。
この店では、もう常連になっているので、席につき、「いっしょで」と言えば、いつもとおなじものを出してくれます。
まずキムチをアテに、ビールを一杯。
餃子が出てくるのを待ちます。
皮の厚さとアンの分量、肉と野菜の割合、ニンニクの利かせ具合、焼き加減、などなど、おいしい餃子に必要と思われる、あらゆるバランスが絶妙で、何度食べても飽きることがありません。
割り入れられている生卵は、しばらくはくずさずに、8割方食べたころになって初めて、麺にまぶしつけるようにしています。
こうすると、味の変化が楽しめるというわけなんですね。
このラーメンを食べて、あまりのうまさに死亡して、家に帰って2~3時間昼寝をするのが、休日の約束事になっているというわけです。
新福菜館三条店のラーメンは、ほんとうにおいしくて、もう100杯以上は食べていると思いますが、それでも新たな発見があるんです。
新福菜館は戦前の創業ですから、戦後に確立した現在のラーメンのスタイルとは、かなり違うところがあって、奥が深いんですよね。
新福菜館のラーメンは、スープに大きな特徴があって、まっ黒な色をしています。
「京都のラーメン」というと、なんとなくイメージとして、うす味の、淡い色のラーメンを想像するでしょう。
実際各地で、「京風ラーメン」と呼ばれるうす味のラーメンを出している店があったりします。
でもあれは、あくまで「外の人から見た京都」のイメージで、京都の地のラーメンは、そういうものはほとんどないんです。
京都発のラーメンとして、全国に知られているのは、「天下一品」です。
あのこってりとした天下一品のラーメンが、京都発だとは、思ってもみない人が多いんじゃないでしょうか。
「來來亭」という、関西・西日本を中心としたラーメンチェーン店があるんですが、それも京都発の「背脂醤油系」というラーメンを元にしていて、背脂がたっぷりとふり入れられ、かなりこってりしています。
京都の料理は、やはり「味付け」にこだわるところがあって、野菜などはうす味で炊くけれど、魚や肉はきちんとこってり炊くなど、素材によって味付けを使い分けますから、肉を中心としたラーメンは、やはりこってりとした味付けになるということなんだと思います。
新福菜館のラーメンスープがまっ黒い色をしているのは、「甘み」が入っているからです。
戦後のラーメンは、基本的に甘みを入れることがありませんが、これは当時、ライバルであった「そば」との、差別化をはかる意味だったのじゃないかと思うんですよね。
日本人にとっては、肉のだしを使ってそばを作るなら、「鴨南そば」に代表されるような、こってりと甘い味付けが王道になるでしょう。
でもそうしてしまったら、当時新興の食べ物であったラーメンは、そばに対抗できなくなるから、あえて味を変え、甘みを付けないようにしたというのが、僕の想像です。
ところが新福菜館は、戦前の創業だから、まだラーメン・そば戦争がそれほど激化していなかったということなんじゃないかと思うんですよね。
それで、日本人の王道である、「肉には甘辛いこってり味」ということを、そのままラーメンに持ち込んだのじゃないかと思うんです。
新福菜館のラーメンが、なんとも「ほっ」とする、やさしい味であるというのは、そこに理由があるのじゃないかと思っています。
ところで豚肉に醤油の味を合わせるのは、意外にむずかしいでしょう。
トンカツにただ醤油をかけても、あまりおいしくないことから分かる通り、豚肉と醤油とは、そのままではうまく合いません。
ですから豚肉でだしを取るラーメンは、醤油の味にするために、いろいろな工夫をしているんですね。
まず代表的なのは、「ニンニク」でしょう。
豚肉のだしに、ニンニクを入れると、嘘みたいに醤油味に合うようになりますよね。
戦後のラーメンは、基本的にニンニクを入れることで、醤油味に合わせているのだと思います。
それからもうひとつ、「和風だし」もありますよね。
豚の角煮を作るとき、和風に作ろうと思うと、ニンニクを入れるわけにはいきません。
そのかわり、昆布やかつお節の和風だしを使うんですよね。
以前のラーメンは、これを「味の素」が担っていたと思いますが、30年くらい前に登場した、「和風ラーメン」とか、「ダブルスープ」のラーメンとかは、実際に昆布やかつお節でだしを取っていますよね。
ところが新福菜館のラーメンには、ニンニクはあまり入っていないし、味の素もあまり使っていない。
スープを仕込みするところをちょくちょく見ていますけれど、大きな雪平鍋いっぱいのスープにたいして、ニンニクや味の素と思われるものは、ほんとに小さじ1杯くらいしか入れていません。
ニンニクは、まだ戦前には、日本人には馴染みがなかったんだろうと思うんですね。
味の素も、本格的に使われるようになったのは、戦後なのではないでしょうか。
和風だしも使われていません。
和風だしは、使おうと思えば使えたのかもしれないけれど、経費がかかることになってしまうでしょう。
それでは、新福菜館では、どうやって豚のだしと醤油を合わせているのだろうと考えたんですが、それが昨日、わかったんですね。
「酸味」なんです。
ニンニクと和風だしの他に、豚肉と醤油を合わせるための方法が、もう1つあって、それは酸味を加えることでしょう。
トンカツに、醤油だけかけてもおいしくないけれど、これをぽん酢にすれば、おいしく食べられるということなんですね。
それで、そう思って新福菜館のラーメンを食べてみると、ほのかな酸味が感じられる・・・、気がする。
いやたしかに、新福菜館のスープが、こってりとしていながらも、「さわやか」であるのは間違いないんです。
こってりと甘辛い味のラーメン自体が、まず世の中にあまりないものなわけですけれど、さらに酸味の入った、さわやかな味のラーメンも、ほかにはそれほどないでしょう。
新福菜館のラーメンの、僕は中毒に、完全になってしまっているんですけれど、なぜ新福菜館のラーメンが、これほどまでに人を惹き付けるかということの秘密が、この「甘み」と「酸味」にあるのかと、昨日思ったというわけなんです。
ただこれは、お店の人に確かめてはいないです。
お店の人に、味付けの秘密をとやかく聞くのは、あまり品がいいものじゃありませんよね。
あくまで「自分の納得」のために、考えたというものです。
あと新福菜館の、ほんとにおいしい味を味わいたいと思ったら、三条店じゃないとダメです。
このブログを見て、新福菜館のラーメンが食べてみたいと思った人は、ぜひ三条店へ行ってくださいね。
というわけで、今日も前置きがたいへん長くなってしまい、申し訳ない次第なんですが、晩酌は、「ぶりカマの塩焼き」にしました。
昼間にお腹いっぱい食べたから、軽いものにしたいと思ったんですが、食べてみたらけっこうなボリュームで、そう軽くもなかったです。
料理法は、なんといっても塩焼き。
焼いてしまいますから、それほど鮮度にこだわらなくても、見切り品で十分です。
ただおもてうらに塩をパラパラとふって、弱いめの火でじっくり焼くだけ。
カマは分厚いし、中に骨もあるので、なかなか火が通りにくいから、ちょっと焦げるくらいまで焼くのがポイントなのではないでしょうか。
ぶりカマは、脂が乗っているので、多少焼き過ぎてもだいじょうぶだけれど、生焼けだとおいしくありません。
脂の乗った、ホクホクのぶりカマは、酒のつまみには最高ですね。
漬けた当日は、まだちょっと浅漬かりでしたが、昨日はいい感じになっていました。
置き過ぎると今度はかたくなってくるので、2~3日目あたりが食べ頃ですね。
鍋に水を張り、砂出ししてよく洗ったシジミとだし昆布を入れ、シジミの殻が開くまで、アクを取りながら煮るだけ。
あっという間にできるのに、しみじみとおいしく、肝臓にもやさしいんですから、言うことありません。
燗の温度は、好みがあるとは思いますが、人肌くらいの、熱くも冷たくもない、まったく刺激のないくらいのところが、日本酒の風味も飛ばないし、飲み口もやさしいです。
味噌は、ふつうの麹味噌だと、翌日はあまりおいしくありませんが、赤だし味噌なら、翌日になっても味が変わりません。
2012-03-17
イワシ料理の定番。
「イワシの梅煮」
ひと雨ごとに、春の足音が聞こえる季節となってきましたね。
今日は京都は、暖かな雨が降っています。
秋から冬が、魚は何といってもおいしいわけで、サンマに始まり、サバ、ブリ、そしてカキ。
気が狂うかと思うような、うれしい連打が続くこととなります。
春は魚は、それほどでもないですが、アサリは旬に突入しましたし、鯛もこれから桜の時期が、旬なのだそうですね。
それからイワシも、春から夏にかけて、旬を迎えていくこととなります。
イワシは安く、昨日も大きめのが4尾入って、98円という信じられない価格でしたが、味の方も、馬鹿にできないものがあるでしょう。
旬の、まるまる太って脂が乗ったイワシのおいしさは、言うまでもないことなわけですけれど、そこまでいかなくても、十分おいしく食べられます。
旬の時期のサンマのような、圧倒的な存在感はないものの、地味ながらきちんと走者を塁に進めていく、「イチロー」のような存在といえるでしょうか。
イワシはまずは、塩焼きしてもおいしいです。
これはあまりに当たり前すぎて、料理の本にも出てくることはないし、店でも出されることはありませんが、サンマの塩焼きに、引けを取るところはありません。
サンマ同様、イワシもはらわたまで食べられます。
イワシは鮮度が落ちると、はらわたから悪くなっていくので、店でもはらわたを取り除いて売るそうです。
ですからはらわたのついてるイワシは、それなりに鮮度がいい証拠なのだとか。
ただ塩焼きは、冷めてしまうと、急速にまずくなるんですよね。
あれはどうしてなのでしょう。
魚の脂が高温で加熱されることに関係があるんでしょうか。
なので、酒を飲みながら、ちびちびと食べるには、塩焼きは、イマイチ向いていないから、煮付けることになる。
イワシを煮付けるといえば、黄金なのは「梅煮」。
イワシの独特のクセと、梅干しの酸っぱい味が、なんともよく合うわけなんですよね。
檀一雄はイワシの梅煮を、「お茶」で煮付けるという荒業を、「檀流クッキング」で見せてくれるんですが、それは次回に譲ることにして、今回はふつうにやりました。
イワシは、頭が付いてるやつは、よっぽどはらわたが嫌いでなければ、そのまま使ってだいじょうぶです。
小さなウロコが付いているので、水洗いして、手でよくこすって落とすようにします。
これを檀一雄は、「ていねいにそぎ切りする」と書いているんですが、その意味が今回、初めてわかりました。
梅干しは、きれいに切らないと、皿に盛りつけた時、汚いものが付着しているようになり、見た目がすごく悪くなるんです。
檀一雄のレシピは、細かい理由が書かれていることがほとんどなく、実際に檀の言うとおり作ってみて初めて、その意外な意味がわかることが、とても多いです。
檀は作家としての自負があるから、料理法については細かく説明しないのかと想像したりします。
梅干しは、小さめのを5個入れました。
わりとたっぷり入れたほうが、おいしいと思います。
それにだし昆布、水と酒を半カップずつ。
砂糖大さじ3くらいと、みりん4分の1カップくらい。
このへんの分量は、適当でいいです。
ただ問題は、しょうゆの量。
梅干しが入るので、塩分が煮ているうちに出てきて、初めの段階でちょどよい味付けにしてしまうと、塩っぱくなりすぎることになる。
煮汁を煮立てて味見をし、「ちょっと甘すぎる」くらいの加減にしておくことが重要です。
火加減は、強めの中火。
魚の煮付けは、とにかく煮過ぎないようにすることが大事なので、煮時間だけは、気を付けるようにした方がいいと思います。
ホクホクのイワシに、梅干しの酸味がたまりません。
イワシは、見た目がかわいいのも、食欲をそそるところです。
カブは、鶏肉などと一緒に炊くのがまたおいしいけれど、あっさりと塩漬けにするのもいいですよね。
カブの実は、皮をむき、4~5ミリ厚さ程度に切る。
茎はかたいので使わず、上半分の葉っぱのところだけざく切りにする。
カブはあっという間に浸かり、3~4時間でもう水が上がってきます。
これを昨日は食べてみたんですが、カブは浅漬かりでおいしかったけれど、葉っぱの方は、まだ青くさくて、もうちょっと置いたほうがよかったです。
水菜はほんとに、さっと煮るのがポイントです。
酒を3合ほど飲み、それでお腹がいっぱいになるので、ご飯は食べません。
朝うどんを食べ、日中はおせんべいやお菓子でつないで、夜は酒、食べ終わったらすぐに寝る、という生活をしています。
それで太ることもなく、一時より3キロほど痩せました。
2012-03-16
旬のアサリで春を満喫。
「アサリ酒蒸し」
アサリが旬に突入しました。
アサリは5月と10月が産卵期なのだそうで、その前の3月~4月と9月が、殻いっぱいに身が詰まって、おいしい季節なのだそうです。
旬の食べ物は、やはり安いしおいしいし、言うことないですね。
ナスなどでも、夏から秋にかけての露地物は、みずみずしいし、苦味もまったくないし、ほかの季節のとは全然ちがいます。
肉には旬とか、あまり聞いたことないですよね。
野菜には、旬の野菜があるけれど、やはり旬は、なんといっても海のものでしょう。
肉食が中心の人は、旬のたのしみの半分は、味わっていないことになりますよね。
たしかに旬だけあり、いつもよりでかい。
食べてみたら、ほんとに殻いっぱいに身が詰まっていて、味もモチモチ。
さすが旬はちがうと実感しました。
でも砂出しは、スーパーなどで、パックに水と一緒に入って売られているアサリの場合は、もう砂出し済みなので、しなくてもだいじょうぶ。
それに少しくらい砂を噛んでいたって、煮れば砂は鍋の底に沈みますから、あまり問題ないですね。
砂出しするには、「3%の塩水」とかいいますが、これはべつに、分量を計る必要はありません。
要は「海水と同じくらい」という意味なんですね。
海水とおなじくらいの濃度の塩水に浸けると、アサリの奴ら、家に帰ってきたかと安心して、のんびり砂を吐き出しまくるというわけです。
なので塩を溶かした水を味見して、海で溺れかけて海水を飲んでしまった時のことを思い出し、それとおなじくらいの塩辛さにすればOKです。
でも海で溺れたことがない人は、たしかに1回は計ってみて、海水の味を憶えたほうがいいのかもしれないですね。
海水は、けっこう塩っぱいです。
砂出しすると、いつもアサリは、貝のすき間から、長い口を伸ばします。
フタを急に開けると、驚いたアサリがあわてて口を引っ込めたり、またそれが、素早い奴とトロい奴がいて、トロい奴がフタを開けられたのに気づかず、口を伸ばしっぱなしにしていたりするのを眺めるのがたのしかったんですが、今回のアサリは冷静沈着、口を伸ばしたりする奴は1匹もいません。
死んでるのかと心配しましたが、煮てみると全員殻をひらいたので、そういうわけでもないみたい。
それでわかったんですが、旬のアサリは、「腹いっぱい」なんですね。
アサリが口を伸ばすのは、家に帰ったと思ってくつろいでるのかと思ってましたが、どうやらそうではなく、お腹が減っていたということなんでしょう。
それで口をいっぱいに伸ばして、エサがないか、探していたんですね。
ところが旬の奴らは、しこたま栄養をたくわえて太っているから、もうエサなど探す必要がない。
アサリの世界もなかなか厳しいのだなと、あらためて思いました。
酒と水を半々、あわせて半カップくらいに、醤油をひとたらし入れたもので、殻をこすりあわせてよく洗ったアサリを煮、殻が全部ひらいたら出来あがり。
簡単で、これが一番うまいアサリの食べ方だというのだから、言うことありません。
でもアサリの酒蒸しは、せっかくのアサリのおいしいだしを、あまり活用できないんですよね。
皿に残っただしは、魚の煮付けの煮汁といっしょで、アサリをつけて食べるためにあるもので、飲むものではないでしょう。
それで今回は、半々の酒と水1カップくらいと、煮汁の量を増やし、それを別の鍋にとり分け、さらにうすめて、吸い物も作りました。
まあもちろん、こんなことしない方が、アサリの酒蒸し自体はおいしいですが、やっても「まずくなる」というほどではありません。
プリプリの旬のアサリは、たまりません。
これもなかなかです。
いやもちろん、ここまでやらずに、ふつうに酒蒸しでもいいんですよ。
スグキを売っている上賀茂の農家のおばちゃんに、「スグキのおいしい食べ方」を聞いたら、もちろんそのまま、何もつけずに食べるのが一番だけど、「卵焼きもおいしい」とのことだったんです。
それで卵を買って帰ったんですが、家で、さあこれから卵焼きを作ろう、という段になって初めて、今まで卵焼きを作ったことがなかったことに気が付いた。
ネットで調べてみたら、卵焼きを作るには、卵焼き専用のフライパンが必要なんですよね。
もちろんそんなものはありませんが、フライパンでも卵焼きは作れるとのことだったので、やってみることにした次第。
さて、これを丸めていくわけなんですが・・・。
完成した卵焼き、上の写真のとおり、正面から見るときれいなんですが・・・。
味については、やはり卵焼きというものを、根本的に勘違いしていたことが判明。
甘みをまったく入れなかったので、塩っぱいばかりで、ちょっとイマイチな代物となってしまいました。
しかしもちろん、食べられない程ではなかったので、完食はしましたとさ。
酒は日本酒。
旬のアサリを味わい、春を満喫。
ちなみにアサリの身入り・・・。
2012-03-14
魚の煮付けは目分量でやるのがポイント。
「ぶり大根」
しじみは「二日酔いに効く」んだそうです。
このごろシジミの味噌汁にすることが多く、翌朝うどんを入れて食べると、酒がのこった身体にキクような気がしていましたが、やっぱりそうだった。
しじみにはバランスよく必須アミノ酸が含まれているから、アルコールによって損傷をうけた肝臓を修復するのに、効果的なんだとのこと。
その他にも、ミネラルやら、タウリンやら、グリコーゲンやら、肝臓が二日酔いから立ち直るのに役立つ成分がたくさん入っている上に、しじみは低脂肪だから、肝臓の負担にならないんだとか。
そういう説明を見ると、「なるほどねー」とは思うわけですが、もう一方で、「そんなの言われなくても知ってたよ」とも、思うことになるんですよね。
オレの身体は、細かいことはわからなくても、しじみが二日酔いに効くことは、はじめからわかってた。
物事をくわしく分析することにより、それまではよくわからなかった様々なことが、明確に理論化できるようになったというのは、たしかにいいことですよね。
現代の文明は、そういうやり方で生み出されているわけで、その恩恵を、誰だっていっぱいに受けている。
こうやって、自分のヘボな料理をブログで公開し、それを多くの人に見てもらえることだって、パソコンやインターネットが発明されたからです。
現代文明の利器が、世の中からなくなってしまったら、ほとんどの人は、生きていくことすらむずかしくなるかもしれません。
でも、そういった分析と理論化が、「すべてではない」と知っているのは、大事なことだと思うんですよね。
分析や理論化がされる前から、しじみが二日酔いに効くことは、「オレの身体」は知っていた。
人間の肉体は、今のように分析や理論化が始まる何十万年も前から、ずっと存在しつづけてきたわけだから、分析や理論化によらなくても、自分にとって必要なことを感知する能力は、すでに備えていたはずでしょう。
しじみが二日酔いに効くことが、分析や理論化されることは、自分の肉体が感知していたことを補強することではあるけれど、今はじめてわかったわけではない。
料理についても、おなじことが言えるんじゃないかと思うんです。
分析と理論化がとり入れられ、そのために「計量スプーン」が発明された。
計量スプーンはたしかに、知らない料理の大まかな作り方を知るには便利なものだけど、毎日料理をしている人で、実際に調味料を計量スプーンで計っている人は、そう多くはないのではないでしょうか。
計量スプーンは、料理に慣れてくると、「使わなくてもできる」ものになってくるわけですが、さらに言えば、計量スプーンを使おうとすることで、かえってわかりにくくなってしまうことが、あるんじゃないかと思うんです。
「魚の煮付け」が、「なんだか苦手」と思っている人は、少なくないんじゃないでしょうか。
知り合いの反応を見ていると、魚の煮付けを作った時に、「すごいねー」と褒められることが多いような感じがする。
魚の煮付けは、べつにむずかしい料理でもないし、たぶんカレーやシチューなど、肉を煮込むことに親しんでしまっていて、魚を料理するのが身近じゃないということなのかと思っていたんですが、それだけじゃないんですね。
「計量スプーンをつかった思考方法」が、魚の煮付けをわかりにくくする大きな原因だったんです。
たとえば魚の煮付けを作るとして、一人分の調味料の分量が、
・ 水カップ2分の1
・ 酒カップ2分の1
・ 砂糖大さじ3
・ みりんカップ4分の1
・ しょうゆカップ4分の1
であったとするでしょう。
それでは、「これを2人分作るには、どうしたらいいか」という問題があるわけです。
レシピの大前提として、「2人分の分量は、1人分の2倍」であることになっているでしょう。
でも煮付けの場合には、そうはならないんですね。
魚の煮付けをする時には、カレーやシチューなどとはちがって、火を強めにして、煮汁を急速に煮詰めていくことになるわけです。
魚が煮える時間は、10分なら10分と、魚の厚みや脂の多さによって、決まっている。
サバを20分煮てしまったら、パサパサになってしまうわけですよね。
ですから、2人分だからといって、2倍の時間煮るわけではない。
そうなると、おなじ10分なら10分という時間のなかで、蒸発する水分の量は決まってくるわけだから、煮付けの場合には、2倍の分量を作るときでも、水分の量は、変化させる必要がない。
水と酒の分量は、2人分になったとしても、1人分の時とおなじ、それぞれカップ2分の1のままでいいというわけなんです。
それでは調味料の分量が、1人分と2人分とで、すべておなじでいいかといえば、またそうでもない。
煮付けは、煮詰めて最後にのこった煮汁を、ソースとして使うことになる。
魚を器に盛ったら、煮汁を上からかけて、食べるときには皿の底にたまった煮汁を、魚につけたりするわけですよね。
そのソースとしてつかう煮汁の分量は、2人分になれば、やはり2倍にならないといけないから、砂糖とみりん、それにしょうゆの分量は、2倍にする必要があることになるんです。
魚の煮付けはこのように、「煮詰める」という過程がくわわるために、レシピの大前提である「2人分の分量は、1人分の2倍」ということが、まったくくずれてしまうことになる。
そうなると、人数のちがいにより、レシピがどう変わるのかまで、くわしく書かないといけなくなり、それだと複雑すぎるということなんですね。
この複雑さが、「魚の煮付けはむずかしい」と人に思わせる、大きな原因なのではないかと思うんです。
しかし実際に日常的に魚の煮付けを作っている人で、この複雑さを意識している人はいないでしょう。
その理由は、「レシピを見ない」からです。
家族の人数は、ふつう決まっていますから、いったん調味料の分量が決まってしまえば、あとはずっと、それとおなじでやるので問題ない。
べつにレシピの分量を2倍にしたり、3倍にしたりする必要はないわけです。
また日本食の調味料は、甘みとしょうゆの「割合」が重要で、絶対量は、それほど問題にならないということもある。
甘みとしょうゆを両方入れると、おたがいが味を打ち消しあって、「塩からさ」は、甘みとしょうゆの中間あたりに落ち着くことになる。
だから、たとえば、「みりんとしょうゆ、それぞれ大さじ1」と、「みりんとしょうゆ、それぞれ大さじ2」は、それぞれ「おなじ塩からさ」がするということになるわけなんです。
甘みとしょうゆの絶対量は、「濃さうすさ」に関係してくるもので、それはどのようなものでも、完全に好み次第、こってり濃い味が好きな人もいれば、あっさり薄味が好きな人もいる、ということなんですね。
魚の煮付けはこのように、レシピとして表現すると、非常に複雑になってしまうのに、それを目分量で適当にやってしまえば、それなりにおいしく食べられるものになる。
レシピには、まったくそぐわないものであるのだと思うんです。
それが、レシピの思考方法に慣れた人から見ると、「むずかしい」と感じてしまうことにつながっているのだと思うんですが、なんのことはない、
「魚の煮付けは、目分量でやれ」
ということなんですね。
というわけで、前置きが異常に長くなってしまい、申し訳ありませんでした。
昨日はぶり大根。
アラはあらかじめ塩をふり、30分以上おいて、湯通しし、水でよく洗って、血のかたまりやヌメリを落とす。
七味をふって食べてもおいしいです。
2012-03-11
やってみれば難しいことは全然ない。
「サバの生姜煮」
魚の煮付けができるようになったときは、目の前がパーッと開けたような気がしたものだ。
それまで煮付けというと、どうも理解できない、近寄りがたいもののように思え、あまりやろうとも思わなかった。
少ない煮汁で煮ることや、落としブタをすること、強い火で煮汁を煮詰めることなどなど、ふだん自分がやっている料理とは、まるで別世界のように思えていたからだ。
しかしこれは、いま思えば、カレーやらシチューやらの西洋流の、肉をつかった煮込み料理に慣れすぎて、時間をかけてコトコト煮ることだけが煮込み料理だと思い込んでいたのだった。
たしかに肉がやわらかくなるには、何時間という時間が必要だから、弱火で煮続ける必要がある。
ところが魚の場合は、ものの10分もあれば火が通ってしまうのだから、おのずと違ったやり方をすることになるわけだ。
煮込み料理の基本は、汁を煮詰めることにより、煮汁を濃厚な味わいにするところにある。
肉を何時間も煮ていれば、弱火でも、煮汁は自然と煮詰まっていくけれど、魚を煮込むには、それを10分程度の時間のなかでやってしまわなければならないことになる。
だから10分で煮汁が煮詰まるだけの、少なめの煮汁で煮始めないといけないし、少ない煮汁でも、それが煮るものの上にきちんとかぶるよう、落としブタをしないといけない。
また火も強めでなければならないということだ。
つまるところ西洋流と日本流の煮込み料理は、一見ちがったやり方をしているように見えるけれども、結局それは、「材料がちがう」というだけのことなのだ。
「煮込む」ということの内容については、肉でも魚でも、根本はおなじことになる。
それを日本では、魚を短時間で効果的に煮込むために、独自のやり方を発展させてきているというわけだ。
そういう、料理の「からくり」が見えてくると、おもしろくて、俄然やる気になってもくるではないか。
魚の煮付けは、どんな魚を煮込むにも、基本的におなじやり方をすれば良いのだけれど、サバの場合はショウガをきざみ込んで、「生姜煮」にするのが、京都などでは多いようだ。
これが関東なら、「味噌煮」だろう。
どちらもサバの臭いを消すために、強めの味付けにすることになっている。
フライパンは万能で、焼いたり炒めたりするだけじゃなく、煮たり茹でたりするにも使いやすい。
魚を煮付けるのに、いちばん大事なのは「煮時間」だ。
魚は煮過ぎるとパサパサになってしまうから、適切な煮時間を守る必要がある。
切り身の魚やイワシなどの場合なら、7~8分から、10分も煮れば十分だ。
鯛などのアラなら、10~15分。
脂がたっぷり乗っている、ブリのアラなら20~30分。
その煮時間にあわせて、煮汁の量を決めることとなる。
限られた煮時間で、ぴったり煮詰まる程度の量にしなければいけないというわけだ。
これは鍋の形でもちがってくることにはなるけれど、水と酒の量を合わせて、
「10分で煮詰まるのは1カップ」
と覚えておいて、ほぼ間違いない。
10分煮るなら1カップ、15分煮るなら1.5カップということだ。
煮汁の分量は、魚の分量には関係ない。
純粋に煮時間だけから決めればいい。
水と酒の割合は、半々くらい。
酒をケチらないのがポイントだ。
鍋に昆布をしき、サバは10分ほど煮るから、水と酒は合わせて1カップ。
これを火にかけ、まず砂糖とみりんを入れる。
砂糖とみりんは、たくさん入れればコッテリするし、少しだけ入れればあっさりする。
これはまったくお好み次第だけれども、砂糖は大さじ3程度、みりんは4分の1カップくらいが標準的だろう。
これに味を見ながら、塩辛さがちょうど良くなるまでしょうゆを入れる。
だいたい4分の1カップくらいになるはずだ。
あとは細くきざんだショウガを、たっぷりと入れる。
骨が付いてるものの方が、だしが出るから、煮付けるにはうまい。
水でよく洗い、骨のあたりに付いている血のかたまりなどがあれば、臭みのもとになるから、ていねいに取り去っておく。
半分にでも切って、皮が縮むから、皮に切れ込みを入れておくようにする。
沸いた煮汁に魚を入れる。
魚の上下は、盛り付けるときとおなじ方向で入れるようにする。
真ん中に穴をあけておくと、蒸気が抜けて、浮き上がりにくくなる。
火加減は、「強めの中火」。
煮汁がきちんと沸き立って、魚の上にかぶる状態をたもちながら、フタはせず、7~8分煮る。
7~8分煮たら、落としブタを外し、煮汁の量を確認して、まだたくさん残っているようなら、火を強めて煮詰めるようにしても良い。
落としブタを外す場合は、魚の上側が乾くから、スプーンで煮汁をすくい、上からかけてやるようにする。
煮時間が来たら、もしまだ煮汁が煮詰まり切っていなかったとしても、魚はとり出すようにする。
あとは煮汁だけ、好きな加減に煮詰める。
煮上がった魚はやわらかくて崩れやすいし、皮もはがれやすいから、フライ返しなどを使って慎重にやる必要がある。
煮魚に青ねぎをかけるのは、広島で僕がしょっちゅう通っていた食堂の流儀。
ホクホクの煮魚に、煮汁をつけながら食べるのが、最高であるのはいうまでもない。
鍋に砂出ししたシジミと昆布を入れ、水を張って火にかける。
アクを取りながら煮て、シジミが全部ひらいたら、赤だし味噌をとき入れて出来あがり。
もちろん味噌は、ふつうの味噌でも問題ない。
今日は、東日本大震災からちょうど1年。
改めて、亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。
またこの1年間、大変な思いをしながらも、頑張ってこられた被災者の皆さんに、心よりお見舞いを申し上げます。
僕自身、被災者の皆さんのために、できることは少ないのですが、被災者の皆さんとともに歩む気持ちだけは、持ちつづけていたいと思っています。
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