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2012-12-31

広島行き

仕事の打ち合わせで広島へ行くことになった。
広島はぼくが2年ほど住んでいたことがある土地で、思い出も多い。





広島へ来たら、何はともあれまずラーメン。
県外にはあまり知られていないのだけど、広島市のラーメンは大変うまい。





皮切りは、ビールにギョウザ。
広島のギョウザはわりと小ぶりで、ニンニクが利いている。





さらにおでん。
屋台からの流れなのだろう、広島のラーメン屋はおでんを置いていることが多い。ラーメンスープをだしに加え、しっかりとした味がする。





そしてラーメン。
具はチャーシューと細もやし、青ねぎが広島ラーメンの基本だけれど、この店ではメンマも入っている。





うまい。
スープは醤油とんこつなのだけれど、そこに鶏ガラやら魚介だしやら野菜やらが加えられ、何ともやさしい味がする。麺は細くてコシがある。





ラーメンを食べたら本屋を巡回。
丸善広島店では「おっさんひとり飯」を、「男の料理」コーナーのど真ん中、いい場所に置いてくれていた。売り場の担当と店長にも挨拶し、しっかりと営業活動。





打ち合わせが終わったら、夜も酒。






再びおでん。
でもこちらはうす味の正統派。





サバ寿司も、脂が乗りまくっている。







抱き合っているのは広島グルメ評論界の重鎮、シャオヘイ氏。
シャオヘイ氏が運営する「快食.com」は、広島市内のほとんどすべての飲食店を網羅し、食べ歩きをする人のバイブルとなっている。一定の価値観で書かれているからわかりやすく、広島にいた頃はぼくも大変お世話になった。










広島の人の気風を、ぼくの印象としてひとことで表現すれば、

「情が厚い」

となると思う。
しかも広島の人は、その情をまっすぐにぶつけてくる。

昨日もシャオヘイ氏と抱き合い、おでん屋の大将と抱き合い、帰ってきた。
ぼくはこれまで、男同士で抱き合ったことは、広島以外ではあまりない。



抱き合うにいたる前、広島では独特の手続きが踏まれることが多い。
相手はこちらを、何かけなすようなことを言ってくる。



昨日も初対面のおでん屋の大将、「おっさんひとり飯」をパラパラと眺め、

「写真が下手くそだなあ」

と言う。
こちらも負けずに、

「素人が一生懸命やってるんだから、もっと褒めろや」

となる。

といって、べつにケンカになるわけでもない。
相手もこちらも、たがいの距離を計りながらやり取りし、最後は抱き合って別れる関係になる。



その土地の気風は、初対面の人がどのように仲良くなるかに、強く表れるもののように思う。

名古屋では、自分の腹の底を見せることで、人と仲良くなれたように思う。
京都では、仲良くなるまで時間がかかるが、時間さえかければ、仲良くなれるように思う。

そういえば、長年暮らした東京で、どうやって人と仲良くなれるのか、意識したことがなかったから、いずれ機会があれば試してみたい。


2011-12-05

真綿でくるまれるような心地よさ。
広島の人と、ラーメン


広島には2年ちかく、住んでいたことがあり、そのあいだにこのブログをとおして、友達がたくさんできた。このブログは、はじめてから4年半がたったのだけれど、今の形になったのは、広島にいたときだ。飲食店での飲み食いのことを書くようになり、自炊した料理の写真をのせるようになった。広島は、私にとっては、「ブログの生みの親」とも言える存在だ。

私は札幌で生まれたが、3才で関東に越してきて、それから40年ほどを東京で過ごした。そのあと名古屋に2年ほどいて、いちど東京へもどり、広島に2年ほどいて、今は京都で、やはり来てから2年ちかくたつ。こうやって日本のいろんな土地を転々とすると、もちろん自分が生まれ育った地元でずっと過ごすことの幸せは、得ることができなくはなるが、その分、自分が住んだそれぞれの土地のあり様を、他の土地とも比較しながら、知ることができる楽しさがある。やはりその土地の風土や人の生き方は、実際にそこに住んでみない限り、決してわからないことがあるだろう。



ある土地の人々の生き方は、そこへ外からやってきた人間の目からみると、「異分子である自分と、どのように関係を結ぼうとしてくれるのか」というところに、特徴が表れるようにおもう。外から来た人間にとっては、そこで新たに関係が取り結ばれていくわけだから、土地の人たちが、日常でどんな関係をもち生きているのかが、見えやすいところがある。

名古屋などはその点、非常に直球で、何のてらいもなく、その人の素のままを、ぶつけてくることが多い。電車の中などで、お婆さんが、見ず知らずの人にたいし、家族に話しかけるのとおなじような調子で、言葉をかけてきたりするのは、その典型だ。名古屋の人は、他人にたいする敷居が非常に低く、こちらが変に構えてしまうことがなければ、誰とでもすぐに友達になれる場所であると感じる。

それにたいして、千年以上にわたって都であった京都は、諸国からの外来者が歴史的に多く、時には乱暴者の外来者が、騒動を引き起こすことだって、稀ではなかっただろう。外来者にたいする敷居が、非常に高い場所であるという気がする。毎週一回、かならず食べに行っているラーメン屋から、常連の扱いをうけるようになるまで、1年半もの時間がかかった。ちょくちょく行くバーのマスターも、本当に親しげに接してくれるようになるまでには、やはり1年ほどの時間がかかったような気がする。京都の人は、外から来た人にたいし、どんな人なのか、慎重に値踏みするところが、たぶんあるのだろう。



広島のばあい、土地の人と、親しい関係になるためには、ある「儀式」が必要であるようにおもう。広島の人は、知らない人を、とりあえず、殴ってみるのだ。もちろんそれは言葉のうえのことで、それも軽くじゃれ合う程度のものなのだが、それを相手が、殴り返してもかまわないし、とにかくその人なりのやり方で、受け入れる姿勢をしめすと、そのあとから、無二の親友のような関係になれるものであるとおもえる。うちの息子が、まだ小さかった頃、近所のはじめて会った子供から、
「オレなんかな、2才になって、3才になって、それでいま、4才なんだぜ」
と自慢され、3才だった息子が、
「へー、すごいね、がんばったんだね」
と応じた次の瞬間、もうすぐに友達になって、遊んでいたことを思い出すところがある。

どこの土地でもおなじだが、いったん友達になると、その土地の人は、非常にあたたかく、接してくれることになる。広島の人は、そのあたたかさが、まさに相手を真綿でくるむような、細部にまで行き届いた配慮をしてくれると感じる。決して出すぎることはなく、かといって不足もない。その人が必要とすることを、必要なだけ、あたえてくれる。それが広島の人の、人に接する流儀なのだろう。

今回、あるイベントに招待をうけ、1年ぶりに広島に来たのだが、広島の仲間達からの、心からのもてなしをうけ、なんとも居心地のよい、あたたかな気持ちになっている。




広島の食べ物も、広島の人たちのそのような考え方を、そのまま表したような味がする。その代表例が、広島のラーメンだ。

全国的に有名なお好み焼きの陰にかくれ、あまり知られていないのだが、広島の地のラーメンは、大変うまい。関西から西日本のラーメン標準の、醤油とんこつなのだけれど、これが京都や岡山、山口などとは異なり、広島のラーメンは独特だ。

とんこつのスープは、独特の風味があり、山口の醤油とんこつラーメンなどは、「臭い」とおもえるほど、クセを引き出したりするし、また逆に京都のラーメンは、とんこつのクセを、醤油の風味で消すようにしている。しかし広島のラーメンは、そのどちらともちがう。ひとことで言えば「やさしい」味なのだが、とんこつの味も、醤油の味も、どちらも出すぎることが決してなく、材料を何かひとつ、特定することがむずかしいような、渾然一体とした調和をなしている。聞くところによると、スープにたっぷりの野菜や、昆布やかつお節を、使っているとのことだが、もちろんそれも、出過ぎることはない。

チャーシュも小ぶりで控えめ、やはり細くて控えめなもやしに、多すぎない青ネギ、その下に、太すぎず、細すぎない、しかし歯ごたえのしっかりとした麺が沈んでいる。派手なところは一つもないのだが、食べると「ほっ」とするような、確実な満足感がある。

広島のラーメン店は、とくに老舗といわれる店は、営業姿勢も同様で、街の中心地からはだいぶ離れた、あまり目立たないような場所で、店構えも派手にすることは一切なく、ひっそりとお客を待っている。メニューも余計なものはおかず、「中華そば」だけの店も多い。「広島ラーメン」として、全国に売り出すなどということも、考えることは露ほどもないから、観光客が押しかけることもあまりなく、地元の人達だけに、長年にわたって愛されつづけている。

そのような姿勢は、現代風の考え方からは、はるかに隔たった、古風ともいえる考え方だといえるだろうが、それをいまだに、しっかりと守りつづけ、支えつづけている日本人が、広島にはいる。そしておそらく、全国のいたるところに、土地土地のさまざまなあり方で、古風な日本人が、今でも無数にいるのだろう。




2011-09-18

サンマを三枚におろしてみたら、かなり失敗

四国の香川へは、これまで10回近く行き、そのたび何軒かで讃岐うどんを食べているが、多くの店が簡素な店構えで、言葉は悪いが、小汚い感じすらするところがおもしろい。

高松市の繁華街などでも、名店と言われる店は、東京でいえばガード下にある立ち食いそば屋のような、何の色気もない、雑然とした店構えをしている。ところがそういう店で食べる讃岐うどんが、ファミレス風の小じゃれたチェーン店より何倍もうまいのだ。だいたい讃岐うどんは、1玉100円そこそこで出すのだから、ほんとにうまいものにしようと思ったら、店舗になどお金はかけていられないということだろう。

丸亀の郊外にもすごい店があった。畑の隅に道具置き場にでもするような掘っ立て小屋が建っており、それがうどん屋になっている。入り口は道路のほうを向いておらず、90度横を向いている。最近はその店も有名になり、観光客で賑わっているらしいが、30年前はお客は全員地元の人で、薬味のネギが足りなくなったら、お客が自分で畑へ行き、引っこ抜いてきたネギを自分で洗い、刻んで入れたりしていたものだ。

名店の店構えが簡素であるというのは、広島のラーメン屋にも言える。広島市には、全国的にはほとんど知られていないが、非常にうまいラーメン屋が多数ある。そのどれもが、飲食店の水準としてみると並以下の店構えで、しかも多くが、市の中心地から遠く離れた、便の悪いところにある。繁華街に一軒いい店があるのだが、そこは広さ2坪ほどの、それこそバラックだ。

広島のラーメン屋の名店は、多くがおばちゃん一人とか、または夫婦や家族など、ごくごく小さな範囲でやっていて、それを崩そうとしない。40年も50年も、小さな店のままの店もある。その店は、最近は多少の観光客も来るようになっていて、店先にずらりと行列ができるようになっている。しかし生ラーメンの通信販売程度はやっているが、相変わらず事業として拡大しようという気は、これっぽっちもないようだ。またその店のニューが、「中華そば」のみで、それを何十年にもわたり、一切変えようとしないのは、すごすぎると言えるだろう。

有名店であれば、事業拡大の話は、それこそ山のように飛び込んでくるだろう。しかし広島のラーメン屋は、頑ななまでにそれを拒否しているのだろう。実際チェーン化して、味が変わらなかったという話は、あまり聞いたことがない。ラーメンをうまく作るということと、事業を成功させるということとは、まったく別の才能だろうから、その両方をたまたま兼ね備えた、稀有な人でない限り、ラーメン店のチェーン化は難しいのじゃないか。


よくフランチャイズのラーメンチェーン店で、「絶対に儲けさせます」などと言って、定年退職後の人などを募り、チェーンを拡大していく例がある。でも多くの場合、そういう店は非常につまらない。うちの近所でも、最近そういう店が一軒つぶれた。

そういうラーメンチェーン店が、多くの場合採用する基本的考えは、「顧客満足」だ。だいたいそういう店では、店員のあいさつが非常にいい。店構えも流行りのセンスで、きれいにデザインされている。ラーメンの味も時流に合わせ、和風だしが流行れば和風だし、背脂が流行れば背脂を入れた、多くの人が好みそうなものに調整していく。そうやってできたラーメンを食べてみると、たしかに各所で、こちらのツボを突いてくる。「なるほどねえ」と思うこともないではない。でもそういうラーメンには総じて、「お客に対して伝えたいこと」がない。

ラーメンを食べるというのは、たしかに食欲や、また自分の嗜好を満足させるためのものではある。しかしラーメンは、お客にとってはただ単品の物体として存在するものではなく、ラーメン屋の店主から、自分に向けて渡されるものでもあるだろう。その時そこに、自然に「コミュニケーション」が発生する。お客がラーメンを食べることは、そのラーメンを作った店主との、心の交流でもあるわけだ。

コミュニケーションにとって最低限必要なのは、「内容」だろう。店主がお客に対して、何らかの伝えたい内容を持っている。それをお客が受け取り、理解して初めて、コミュニケーションは成立する。伝えられた意味が、奥深い、味わいに満ちたものであればあるほど、お客はそれに感動することになる。

しかし店主がお客に伝えたいことが、単に「顧客満足」であったとしたら、それはなんにも言ったことにはならないだろう。顧客が満足するのは、あくまで結果なのであり、その前提として内容が必要だ。その内容が、スープをどうしました、麺はこうしました、などということだけならば、それはただお客に媚びていることにしかならないじゃないか。

ラーメンがほんとにうまいと思う時、お客は無意識に、そのラーメンに「個性」を感じているのじゃないか。個性こそが、ある特定の人間を表すことができる。ところがその個性は、「かたより」の中にしか表現されない。顧客満足を目指し、問題点をすべてつぶして、全方位にまんまるにしてしまったものの中に個性はない。個性は必ず、なにか大きく欠けたものの中に表現される。

大きく欠けた所がありながらも、それがひっくり返ってしまわずに、危ういバランスを保っている。それが人間のおもしろさがあり、そういうおもしろさがあって初めて、その人間を「愛する」気持ちが生まれてくる。ところが物事が事業化され、それが進んでいくと、多くの場合、そのかたよりがなくなってしまうのだよな。


というように、食品の事業化は、独特の難しさを持つものと思うが、醤油や味噌を初めとして、それが大きく成功している例も山ほどある。そういう成功例の一つが、「冷凍うどん」だろう。

これは事業のやり方というより、うどんの特質によるのだろう。冷凍うどんは、冷凍されなかったうどんと、味がそれほど変わらないようだ。スーパーで売っている、1玉60円程度の冷凍うどんでも、下手なうどん屋のうどんよりよほどおいしい。最もうまいのは加ト吉だが、これは定価で100円以上するからほとんど買わない。加ト吉のうどんは、よほどの店じゃないと、これよりうまいことはないんじゃないか。


またうどんは、食い方を選ばないのがいい。そばなどだと、ああして食えこうして食えと、いちいちこだわりが多くうるさい。よくそば屋のテーブルに、店主がそばについてのうんちくを長々と書いた説明書きが置かれていることがあるが、余計なお世話だ。その点うどんは、好きな薬味に醤油をぶっかけて食べるだけでも、十分うまいのがエライ。

しかも冷凍うどんは、湯がいて水にさらし、それを器に入れるのに、5分とかからない。食べるのにも1分。朝飯としてこんなに優れたものは、他にはなかなか無いだろう。



昼飯にはソーミンチャンプルー。ツナ缶と、ニラや長ネギなどの香味野菜、それにゆがいて水で洗ったそうめんを、塩コショウして炒め合わせる。非常に簡単だが、これがまたうまい。



晩飯には、昨日の残りのぶり大根。なぜか煮凝りにはなっていなかったのだが、味がしみて大変うまい。


ぶり大根の汁が余っていたから、ナスを煮てみた。甘辛い汁にナスがよく合い、これもとても良かった。

それから昨日、サンマを刺身にしてみようと思い立ったのだ。


魚を三枚におろすのは、今まで一度もやったことがなかったのだが、ナニやってみれば、それほど難しくもないもんだ。


ただこの刺身、一見うまそうに見えるが、実は失敗したのだな。皮を剥がなかったのだ。だから食う時、ひと切れずつ、皮を剥いで食わないといけなくなってしまった。ただし味は良かった。

あと小骨をそのままにしたのだが、やはり食うのが面倒だ。でもこれを骨抜きで取らなきゃいけないとかいう話になると、それはそれで面倒なのだが、どうしたらいいのかな。


あとは冷奴にセロリの浅漬で、昨日も冷酒を2合。



2011-08-28

新福菜館三条店の大盛りラーメン(長い前置き付き)

京都のラーメンがうまいとは、もう何度となく書いてきていることなのだが、どれだけ書いても書き過ぎということはない。

京都のラーメンがうまいというのは、全国的にはほとんど知られていないだろう。ラーメンの知名度は宣伝によるところが大きい。どんなにうまい、その土地独自のラーメンがあったとしても、地元の人が食べて楽しんでいるだけでは、他県の人に知られることにはならないわけで、具体的にどのようにやるのかは知らないが、大掛かりな宣伝活動が必要になるだろう。行政なども関わって、町おこしの一環として、その土地の地ラーメンを新たに開発し、全国に売り出すなどということも聞いたことがある。

一時「地ラーメン」のブームもあり、多くのラーメンが世に知られることになったわけだが、地元に他に観光の目玉があったりして、わざわざラーメンを売り出す必要がないなどという場合、非常においしいのにほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと地元民に愛されているラーメンが存在したりする。

その一つが広島ラーメンであるというのは、間違いのないところなんじゃないか。


広島にはB級グルメの名物として、お好み焼きがある。これは全国的に非常に知られているわけで、お祭りなどで出る屋台も、広島風お好み焼きはフランクフルトや焼きとうもろこしと並び、主力メニューの一つとなっている。

広島のお好み焼きは、お好み店の店主で一人、商才にたけ、お好み焼きの普及に心血を注いだ人がいて、その人の努力によりこれだけ全国的に有名になったといっても間違いじゃないだろう。ただ地元民が一週間に一度は食べる、などというだけでは、名物にまではなかなかならない。

しかし広島には、お好み焼きの陰に隠れて、ひっそりとうまいラーメンがあるのだな。


広島県のラーメンというと、「尾道ラーメン」が非常に有名なのだけれど、広島市にはそれとは別のラーメンがある。戦後の屋台から始めた店の流れを汲むもので、他の土地のラーメンと比べても、かなり独自だと言えるのじゃないか。

ベースは、西日本のラーメン標準の「醤油豚骨」なのだけれど、出汁をただ豚骨だけで取るのじゃなく、香味野菜はもちろんとして、まず鶏肉を入れる。それだけじゃなくさらに昆布やら鰹節やらを入れるのだ。

尾道ラーメンも魚介出汁を入れたスープが有名だが、尾道市にある老舗のラーメン屋では、元々は魚介出汁を使っておらず、1980年代に土産物として売り出す時に、「尾道ラーメン」という名称と共に、魚介出汁を入れるようになったということなのだ。だから、魚介出汁入りのラーメンが開発されたのは、広島市のほうがよっぽど早い。

また最近は「ダブルスープ」といって、肉の出汁と魚介出汁を混ぜて使うスープが、新手のラーメン屋で流行っていたりする。これだって、いわばダブルスープの元祖は広島だって言ったっていいのである。

とまあ、広島市には以前住んでいたことがあるから、広島となるとついヒートアップしてしまうのだが、広島市のラーメンがうまいのは間違いない。

魚介出汁が入っているのだが、これは言われなければ絶対わからない。つまり広島のラーメンは、魚介出汁が入っていることを売り物にしているのじゃなく、魚介出汁はあくまで隠し味として、目立たぬように入れているのだ。

醤油豚骨のラーメンは、どうしても男性的な、尖ったところがあると思うが、広島の醤油豚骨には、そんな様子は全くない。様々な材料が使われているため、あくまでまろやか。出しゃばったマネは一切せず、旦那の横にピタリと寄り添い、旦那が必要な時にさっと手助けをするよくできた嫁のようで、余分な自己主張は一切ないのだが、足りないところも全くないという、考えられない芸当を軽々とやってのける。

多少のバリエーションはあるのだが、広島市内には、この広島ラーメンを出す店が、数十軒はあるだろう。でもこれを全国的に売りだそうという気はまったくないんだな。しかも名店ほど、駅から遠く離れた辺鄙な場所でやっていたりする。地元の、小汚い店構えの店で、おばちゃん一人で作るラーメンが、信じられないほどうまかったりするのだ。

まあ知ってる人にとっては、観光客などが来ないほうが、味が変わらなくていいわけだが、せっかくこれだけうまいのだからもったいない、という気も、ちょっとはしてしまう。


とまあ、前置きを書いているうちに、もうほとんど疲れて、京都のラーメンまで辿りつけないような気がしてきたわけだが、京都のラーメンも、これまたすごいのだ。

だいたい「京都ラーメン」という言葉自体が存在しない。京都はラーメンがうまいなどということを、普通の人は知らないだろう。京都もそれを売りだそうという気配もないし、だいたい京都にはすでに観光資源が山のようにあるから、今さらラーメンなどを売り出す必要もないのだろう。

しかし京都のラーメンについて知らなくても、京都発祥のラーメンを食べたことがある人は、実は全国に非常にたくさんいるはずなのだ。


まず「天下一品」が、京都のラーメンだ。これは全国でチェーン展開をしているから、食べたことがある人は多いだろう。でも天下一品が京都のラーメンだというのは、知らない人がほとんどだろう。


それから「来来亭」という、これは東京進出をしておらず、西日本に限定してチェーン展開しているラーメンチェーン店なのだが、このラーメンも、「背脂醤油系」という、京都の一つの代表的なラーメンを元にしている。でもこれが京都のラーメンだということも、ほとんどの人は知らないだろう。

それにだいたい、「餃子の王将」が、京都発祥だ。これはラーメンの味としては、あまりどうということはないのだけれど、ラーメンのチェーン店としては、全国有数の規模だろう。

このように、京都発で全国展開しているラーメンチェーン店は多いのだが、京都をまったく売り物にしないところが、面白いというか、不思議なところだ。まあしかし、ラーメンで京都のブランドを付けても、あまり意味がないということか。


あとは「第一旭」という、神戸や名古屋でも暖簾分けした店があるラーメン屋が京都発なのと、それから「新福菜館」という、戦前に創業した、京都では最古、全国的に見てもかなり古い部類に属するラーメン屋がある。新福菜館は、京都以外では店を出していないみたいだ。


というわけで、言いたかったのはただ、昨日も新福菜館三条店へ行ってきました、という、それだけのことだったわけなのだ。


新福菜館三条店のラーメンについては、あまりにもう何度も書いているから、ここではあまり繰り返さないが、昨日は久しぶりに「大盛り」を食って、これがまたやはり、なかなか趣深かった。

大盛りといえば、どんなラーメン屋でも普通は、150円増しくらいにして、麺とスープの量が増えるという、ただそれだけのものだろう。しかし新福菜館は違う。大盛りになると、ラーメンの構成自体が違うものに変化するのだ。


まず新福菜館のラーメンは、並だとチャーシューに青ねぎだけが乗っているのに、大盛りになるとそれにもやしが付く。そして生卵が入ってくる。もやしと生卵は、オプションメニューではなく、大盛りにすると、標準で付いてくるものなのだ。だから例えば生卵が入らないようにしたいと思ったら、注文して生卵を抜いてもらうようにしないといけない。

そしてさらに、チャーシューの量も増える。もちろん麺の量も増え、値段は200円増しの800円。考えられないほどのサービスなのだ。

ラーメン自体の完成度としては、並の方が高いから、初めて新福菜館三条店のラーメンを食べようと思ったら、僕は並をすすめたいところだが、大盛りもまた抜群の風情がある。

なぜ大盛りに、並の量を増やすだけでなく、わざわざもやしと生卵を入れたのかを考えると、昔ながらの商売人の、粋な感覚を感じることができるのだな。

この大盛りを考案した、たぶん新福菜館の創業者だったんだろうが、その人にしてみれば、自分の作ったラーメンは、あくまで並盛で十分な完成度をもっているものであり、その麺やスープの量をただ増やしてしまうと、自分の考えている理想の世界が崩れてしまうと思ったということなんじゃないか。麺を食い、スープをすすり、チャーシューを齧るというその繰り返しは、並盛で食べてこそ、一番満足できるものであり、それを単純に量を増やしてしまったら、間が抜けたものになってしまう。どうしてもそう思えてしまい、それが許せなかったから、そこにさらに、もやしと生卵を配置して、間が抜けないようにしたのだと思えるんだよな。

商売よりも、あくまで自分の世界を重視する、職人気質がここにはっきりと顔を出している気がして、そういう人間性を感じられるところが、この新福菜館三条店の大盛りラーメンを食べる大きな楽しみだ。

だからこれは、食べ方として、僕が今まで食べていたやり方は間違っていたのだな。僕はまず初めに、生卵をレンゲですくって、もやしの上にまぶしつけるようにしていたのだけれど、いやもちろん、ラーメンの食い方など、どうにでも好きなようにやればいいのだが、この大盛りを考案した人の気持ちを考えると、まずは生卵はそっとそのままにしておいて、普通のラーメンの味を味わってほしいと思っただろう。新福菜館の基本の味をまず味わい、そのうちそれに飽きてきたところで、おもむろに生卵を汁に溶かし込んで、ここに一味やニンニク唐辛子など、卓上に配置された調味料を追加したりもし、味を変えて後半を楽しむと。こういう食べ方を想定したんじゃないかと思えるんだな。次に大盛りを食う時には、僕はそうやってみることにする。

ちなみに広島ラーメンの老舗の店では、「大盛り」というメニュー自体が存在しない。メニューは「中華そば」一つだけ。これも、並盛がもっとも完成度が高いという、同じ考えに基づくものなのだと思う。だからせっかくのおいしいラーメンをもっと食べたいと思ったら、ラーメンを2杯、注文するしか方法がなく、僕は広島でその店のラーメンを初めて食べた時には、実際にそうした。


2010-12-18

オフ会で乾杯

今回広島で、ネットの仲間何人かとも会った。

顔出しOKのみやっちさん。

手タレゆみさん

それに増井さん

ゆみさんと増井さんは初対面だったのだが、ネットのやりとりがある人とは、あまり初めてという感じもしない。

店はゆみさんに探してもらった、広島駅近くの「いちけん」。

とりあえずビールで乾杯。

僕はその後はずっと熱燗。

刺身。

カキフライ。

やはり広島では、魚介を食べないとな。

白子の天ぷら。

ごぼうの天ぷら。
すごい量。

この他にも食べ切れないくらいのおいしいつまみと、酒もたっぷり飲んで、4人で総額12,000円。
みやっちさんは酒飲まなかったということはあるけれど、それにしても激安だった。

増井さんは32歳、その8歳年下の奥さんが迎えに来て、またその奥さんというのが、アイドル系で超かわいい。
自慢の嫁だと言ってたが、しっかりしてそうで、しかももうすぐ赤ちゃんが生まれる。
まさに幸せいっぱい、おやじな僕は、ボルテージ、いきなりレッドゾーンに突入してしまいました。

皆翌日仕事だったので、早めに切り上げ、その後僕は、駅の近くのラーメン屋「上海」へ。

熱燗におでん。
おでんは芯まで、真っ黒に味がしみている。
広島ではラーメン屋でおでんが出ることが多いのだが、ラーメンのスープやタレを入れてあるのだな。
しみじみとした味がする。

中華そば。
「すずめ」とはまた違う、わずかに豚の臭みを出したスープ。
寒い夜、体の芯からぬくもりました。


2010-12-16

すずめ

9ヶ月ぶりの広島。
まず向かったのは、「すずめ」。
お好み焼きで有名な広島だが、じつはラーメンもおいしい。
同じ広島県内だと、尾道ラーメンが有名だが、僕は広島市内のラーメンのほうが好きだ。
醤油豚骨に昆布とかつお節がかくし味として入っているという独特なもので、終戦後に「沖稔」という人によって編み出されたのが源流だといわれている。
この「すずめ」は沖氏の経営していた食堂の従業員が始めた店で、広島市では「陽気」とならんで老舗の一つ。
陽気もおいしいのだが、僕はすずめのほうがうまいと思う。
僕が広島市で一番好きなラーメン店がこの店だ。

広島の人は、広島のラーメンを称して、「何の特徴もない普通のラーメンだ」と言うことが多い。
たしかにこのラーメン、特徴がないといえばない、普通といえば普通のラーメンなのだが、僕はこのラーメン、努力が足りない結果として特徴がないということではなく、特徴などというものは不要であるという明確な考えのもと、それが苦労して消されたものであると想像する。

スープを一口すすると、ラーメンが自己主張するのではなく、あくまでこちらに寄り添ってくるということを感じるのだ。
味に余分なところがなく、かといって足りないところもない。
「ああたしかに僕は、こういうラーメンが食べたかったのだよな」と、食べてみて思う。
そういう味なのだ。

ラーメンに限らず、広島の老舗の店では、そういう味の食べ物を出すところが多い。
そうやって自分を虚しくし、人に寄り添っていくスタンス、どこにでもあるというものでは決してなく、広島の地域性を示すものじゃないかと僕は思うのだが、ほんとにいいな、好きだなと思うところだ。


食べログ 「すずめ」

2010-10-26

「うまさ」の違い

京都というのは、全国的にはあまり知られていないが、ラーメンがうまい場所で、しかもまったく系統の異なる、違ったラーメンがいくつもある。スープが甘辛かったり豚骨のみを使っただしに、生醤油の品のある風味が一本びしっと通っていたりものすごくこってりしていたり獣臭ただようスープに背脂まで入れて、それを唐辛子で引き締めていたり、それぞれはっきりとした特徴があって、旗印をきちんと掲げている。これは京都という場所が、千年以上都だったということによって培われた、ブランドをつくり上げることのうまさということなのだと僕は思う。ラーメンに限らず、「男前豆腐」などというものにしても、味に特徴があるということに飽きたらず、パッケージまで、他にはどこにもない、強烈なものに仕立ててくるわけだ。

それに対して広島のラーメン、広島のラーメンというのも、全国的にはまったく無名なのだが、実は広島というのはラーメンがうまい場所であって、その中でもいちばんの老舗店の味というのが、食べた瞬間に、「あ、僕はこういうラーメンが食べたかったんだ」と思ってしまうような、なぜ店主は僕の気持ちが解るのだと思ってしまうような、そういうものなのだ。京都のラーメンとは違って、特徴と言えるものをあげるのは難しく、むしろ特徴などというものは極力感じさせないようにしているとすら思える。そうではなく、客が何を望むのか、それを過不足なく読み取り、その通りのものを出してくる。余分なものは一つもなければ、足りないものもない。まさに神業とも思えるのだが、広島はラーメンだけではなく、老舗の食堂やお好み屋でも、そういう味を出してくるところは多く、それって「人に仕える」ということの、理想的な姿だと言えるのじゃないかと僕は思ったりする。

ところが面白いことに広島には、それとは正反対の、対極ともいえる姿勢も見えるのであって、広島には「広島つけ麺」という、冷やした麺を激辛のつけ汁につけて食べさせるというものがあるのだが、この元祖と言われる店では、お客に対して、私語禁止、新聞や雑誌を読みながら食べるのは禁止、残すのは禁止、写真撮影も禁止という、ほとんど軍隊かと思うような、日本の一般的な感覚ではまったくあり得ない、そんな店が存在することすら想像もできないようなことが、普通に行われ、客も嫌がるわけでもなく、それに従っている。これは客の方が、店に対して、「仕える」存在になっているということだと思う。激辛な食べ物というものも、ある意味、舌に対する暴力とも言えるわけで、それを口を腫らし、涙を出しながら、黙って食べるということも、従順さの一つの表現と言えなくもない。

名古屋にいた頃には、僕はあまりラーメンは食べなかったのだが、名古屋には「あんかけスパ」という面白い食べ物があって、「あん」という名古屋独特のソースがかかったスパゲティなのだが、これが食べてみても、何が原料なのかまったく解らない、というものなのだ。名古屋というのは、物事をとにかく重ねていく文化であると思うのだが、その「あん」も同じで、ミンチやトマトや、野菜、果物、スパイスなどなどが入っているとのことなのだが、それら材料のいずれの味も感じず、「うまみ」だけが感じられるというものになっている。個別の材料の味が、わざとしないように、味を調整しているのだと僕は思うのだが、それは広島で特徴を消すということとはまた意味合いが違って、それら多様な材料によって、「純粋なるうまみ」というものを表現しようとしているように思えるのだ。個別の材料に固有のうまみではなく、それを超えた、普遍的なものとしてのうまみ。そういう意味では、これは京都とは対極にあるとも言えるよな。


2010-03-01

十日市町 「寿楽亭」

この店は、朝の10時に開店して、麺がなくなったら終わりということで、前に来たときは、「最近は不景気でお客さんが減っているので、午後4時頃までやっていることもある」と言っていたので、余裕をかまして1時半頃行ったら、麺がもうあと並盛1人前しか残っていないということで、僕が最後の客だった。危なかったな。というか、危ない中にも、ツイてるな。

まずはビールにおでんと決め込んだが、このおでん、薄味の和風だしで、関西風ってことなのかな、これはこれで、なかなかうまい。

ラーメンだが、僕はこのラーメンを食べるの、3回目か4回目なのだが、やはりうまいな。わずかに豚骨の匂いが香る、かなり濃いスープで、材料を贅沢に使っているのだと思うが、しかも同時に、それだけ濃いにもかかわらず、濃さが後を引くことがなく、キレがある。全体の印象としては、「あっさりしている」ということになるのだな。濃いだけのラーメンも、あっさりしているだけのラーメンも、世の中にはいくらでもあると思うが、それをどちらも両立するラーメンというのは、これはなかなかないんじゃないか。

たぶん、この味は、女将の性格そのものなのだろうな。情が深そうで、それでいてさっぱりしている感じで、二言三言、話したことがあるだけだが、いい人なのだ、この女将。

麺は細めの麺を、少しコシを残してゆでてあり、チャーシューはぷりぷり、あとは太めのもやしに、たっぷりの青ネギが入っている。

2010-02-25

三篠町 「高砂屋」

この店は夜だけの営業で、この頃は家で晩酌することが増えた僕にとっては、なかなか行きにくい店なのだが、広島を離れるにあたって、やはり来なければいけないだろうということで、実は今日は、つまみの材料をスーパーで、買い揃えてあったのだが、来てみることにしたわけなのだ。

暖簾がずいぶん、低いところにかかっていて、これは何を主張しているのか、目に入りやすいということかとは思うが、今どき流行りの、腰パンを思い出すのだよな。

この店ではやはりまず、おでんにビール。広島のおでんはよく、どうやったらここまで黒くなるのだろうと思うくらい、汁が真っ黒なやつがあるが、ここのはそれほどでもない。ほどよい加減なのだ。

そして、ラーメン。前に一度来ただけで、5つ星を付けたのだが、僕の舌は間違ってなかった、やはりうまいな。自画自賛だが。ひとことで言うと、人間に「ラーメンのツボ」というものがあるとして、そのすべてをグイグイと押してくるような、そういうラーメンなのだな、これは。

広島の標準的な醤油豚骨とは、ちょっと違って、たぶん豚骨より、鶏ガラが多く使われているのじゃないかという感じがする。あっさりとしながら、濃厚なコクのあるだしで、それにちょっと強めに、醤油味が付けられている。ラーメンのスープと言えば、これだろう、という、まさにそういう味なのだ。

麺がまた、ちょっと細めで、素麺のような食べ応えがする、やわらかいのだが、コシがあるという、普通といえばまったく普通なのだが、他ではあまり、食べたことがないようなもの。チャーシューは、歯応えがあって、しかもジューシー。言うことないな。

全体として、ありそうで、ない、普通のラーメン。女将のお母さんの代から入れると、もう50年になるそうだが、ぜひこの味を、長く続けてほしいな。