2012-02-15
クリーミーなだしを吸い込んだ白菜が絶品。
「塩鮭のミルク鍋」
「組織は変えられるのか」という問いの、最もよくある答えとして、
「トップが変われば組織は変わる」
というものがあるだろう。
トップは組織についての全ての権限をもっているのだから、トップがその気になれば、組織はいくらでも変えられる・・・。
もちろんそれは、その通りなのだが、日本人の多くは、このことばに無力感を感じているのではないだろうか。
だいたい日本が、もし一つの組織であるとしたならば、この10年ほどのあいだに、日本人は選挙によって、トップを何度も替えてきた。
小泉政権は、国政選挙ではなかったけれど、自民党員をふくめた総裁選挙で成立した。
「自民党をぶっ壊す」と大見得をきり、郵政選挙では抵抗勢力の議員に刺客をたて、大幅な議席増をしたけれど、それでけっきょく、日本はよくなったのか。
ただ大企業の立場と利益をまもり、弱者が切り捨てられ、格差が拡大しただけだったのではないか。
つづいて日本国民は、自民党から民主党への政権交代をもはたした。
民主党は、長年の自民党支配を転換し、自民党にはできなかった数多くの政策を実行してくれるはずだった。
しかし結果は、この体たらくである。
民主党は今では、かつての自民党と何も変わらないことになってしまっている。
自民党も、民主党もダメだった。
それでは政界再編をし、第3極をつくるしかないとのことで、現在さまざまな思惑がうごめいているようだけれど、しかしもう、ただトップの首をすげ替えたからといって、日本が変わるものではないということは、多くの日本人が感じはじめているだろう。
何かもっと、根本的なところで、日本は変わらなければならない。
それが何なのかは、私自身もよくわからないけれど、先週発売された「週刊文春」に、参考になると思えることが書かれていた。
京セラとKDDIを創業し、現在はJALの会長をつとめている、稲盛和夫氏のインタビューだ。
民主党の応援者だった稲森氏は、鳩山元首相の要請をうけ、2年前、倒産したJALの会長に就任した。
「誰がやっても火中の栗を拾うようなものだ」といわれたJAL再建だが、なんと1年後の昨年には、もう黒字化を果たしていたのだという。
現在はJAL生え抜きの社員が社長となり、1年後には稲森氏が会長を退任すべく、準備が進められている。
絵に描いたような、見事な「V字回復」というわけだ。
稲森氏は、まずJALの体質を変えることに専念した。
長年国の政策に依存することでつちかわれた官僚体質が、JALには抜きがたく残っており、稲森氏は幹部からキャビンアテンダントまで、さまざまな社員たちと膝詰めで話をした。
幹部には、
「皆さんのような考え方では、町の八百屋も経営できない」
と言ったのだそうだ。
稲森氏が強調したのは、
「これからJALは、株主のためでもない、政府のためでもない、社員の幸せを目的として経営していく」
ということだ。
それまでは、政府やお役所の横槍がずいぶんあり、それがJALの経営方針を左右することも少なくなかった。
稲森氏は、
「役所の干渉は、一切心配しなくていい。私が全部、正面から受けるから」
と幹部たちに言った。
そうして、社員たちがJALを「自分の会社だ」と思うようになると、骨身を惜しまず努力するようになったのだという。
稲森氏は、
「ふつうの経営者は、経営を『損得』で考えるけれど、そうではなく、経営は本来、『善悪』で考えなければならない」
と言う。
ものごとを善悪で考えるためには、立派な人間性をもっていなくてはならない。
だから経営者はまず、「自分が人間としてどうあるべきか」を考えることが必要となる。
JALはアメリカン航空をリーダーとした「ワンワールド」という航空連合に加盟していたが、ある時ライバルの「スカイチーム」が鞍替えをもちかけてきた。
日本のお役所も、それとはなしに、圧力をかけてきた。
スカイチームはすでに強力な太平洋路線をもっていたから、JALが加盟すれば、さらに大きな勢力となる。
しかしJALが抜けることにより、アメリカン航空は一気に劣勢に追い込まれることとなる。
長年いっしょにやってきたアメリカン航空にたいし、そのような仕打ちをすることは「人間としてそれでいいのか」と、社内で検討させた結果、やはりこれは善悪で判断し、ワンワールドのままで行こうということとなったという。
「社員の幸せ」とか、「人間としての善悪」とか、言われてみれば当たり前のことだ。
しかし組織のトップが、そのことに対し、まっすぐに筋を通そうとすれば、組織から大きな力が生み出されていく。
「会長である自分が、一人でしゃちほこばってやろうとしても、JALのような大きな会社が動くものではない。社員の一人一人が、自分の会社を変えようとしなければ、会社など変わっていかない」
稲森氏のことばは、「これからの日本」を考える上でも、示唆に富むといえるだろう。
「トップが変われば、組織は変わる」
それはたしかに、その通りなのだろう。
JALの再建が、鮮やかにそれを示している。
ただ会社と日本とをくらべて考えてみたとき、異なることは、会社のトップは社員が選ぶわけではないけれど、日本のトップは、国民が選んでいるということだ。
もちろん国民は、首相を個人指名しているわけではないけれど、それなりの選択はしてきている。
もし日本がどうにも立ち行かないのが、トップが悪いためだとしたら、それはそのトップを選んだ、日本国民の責任だ。
日本は、日本国民が悪いから、うまくいかないということなのだろう。
それでは私たち日本国民は、どうしたら「良いトップ」を選ぶことができるのか。
おそらく、それを考えるためには、稲森氏に学ぶことがあるだろう。
「人間としてどうなのか・・・」
「幸せ・・・」
「善悪・・・」
日本人がとうに忘れ去ってしまったような、「古びた」とも思えるこのような考え方が、現代における超巨大企業の再生にすら有効であることを、稲森氏はしめしている。
「人間としてどう生きるべきなのか」
現代ほど、この問いの答えが、見えにくくなってしまっている時代はないのかもしれない。
しかしそれを、日本人の一人一人が、自分の問題として見つけていこうとすることからしか、日本が再生していく道は拓けていかないのではないだろうか。
肉ばかり食べていると、やはり魚が食べたくなる。
魚は健康にいいといわれるが、どう健康にいいのか、詳しいことは知らない。
しかし身体が「食べたい」というものを食べていれば、健康にいいのだろうと、勝手に思っている。
ただこれも、注意が必要だ。
身体は往々にして、すぐに甘えたことを言ってくる。
食べ過ぎた翌日は、すぐにお腹が空く。
身体がどういうつもりで言っているのかについては、耳を澄ませるようにしないといけないだろう。
スーパーに塩鮭が安く売っていたから、これで「ミルク鍋」をすることにした。
ミルク鍋は和風だしを使うが、クリームソースとほぼおなじ味がする。
「鮭のクリームソース」は定番だから、鮭はミルク鍋にも合う道理だ。
入れる野菜は、すこし洋風っぽくジャガイモに玉ねぎ。
あとは白菜、油揚げ、小松菜にシメジ。
昆布と削りぶしでだしを取り、そこにだしと同量の牛乳を注ぎこむ。
みりん、それに少なめのうすくち醤油で味をつけ、塩を足す。
うすくち醤油だけで味付けしてしまってもかまわないが、醤油は少なめにしておいたほうが色がきれいだ。
さらにバターを1かけ落とす。
好みでニンニクのうす切りを入れてもいい。
あとは、鮭、ジャガイモ、玉ねぎ、白菜・・・と、煮えにくいものから鍋に入れていくだけ。
粗びきの黒コショウをかけて食べる。
クリーミーなだしをたっぷりと吸い込んだ、白菜が絶品。
うどんはグラタンのような味で、これがまたいい。
2008-06-20
今朝の読売新聞
第二の秋葉原事件阻止、祇園祭に「車両阻止部隊」
先日の秋葉原での無差別殺傷事件をうけて、7月に行われる祇園祭で警備を強化するという話。
日本というのは、お祭りとか、大晦日の初詣とか、人が大勢集まる場所について、警備が厳重なほうなのじゃないかと思う。先日の広島でのお祭り、とうかさんでも、かなりの数の警官、警備員が巡回、見張りをしていた。

初詣などでは、ロープで区切ってコースを作り、そこをいつも一定の人数だけが通るように調整をしたりする。将棋倒しを防ぐためだろう。
じつは本当にびっくりした経験があって、台湾でホームステイしたときのことだったのだが、大晦日に台北にある101ビルという、当時は世界一高かった高い高層ビルで花火があるというので、家族で見物に出かけた。高層ビルの花火というのがどういうものだかいまいちイメージできず、展望台か何かから地上の花火が見れるということなのかと思ったら、ビル自体に花火が仕込まれていて、それが次々点火されてビル全体が花火につつまれる様を、地上から眺めるというものだった。

たしかに物凄くきれいなのだが、これは日本ではできないだろうなと思った。消防法とか、何とか法とか、たぶん法律や条令が無数にあって、役所がぜったいにOKを出さないだろうなと思うのだ。
でもさらにびっくりしたことがあって、そこに50万人の人が集まるのだが、警官が一人もいないのだ。交通規制もされていない。花火が3分ほどで終わると、50万人の人がいっせいに、まわりにあふれ出す。
最寄の地下鉄の駅の入り口は人でつかえて入れないし、交差点の信号は普通に点灯していて、車もバイクもエンジンをかけて前に進もうとしているのだが、そこに50万人の人間が歩道も車道も所かまわず押し寄せていく。エンジンをかけた車と車の間の細い空間を、信号を無視して通っていくのだが、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まるわけにいかない。将棋倒しになるのじゃないか、車に押しつぶされるのじゃないか、と思うとさすがに怖くなり、死ぬんじゃないかとすら思った。
しかし台湾のホストの家族やまわりの人たちは、それをとくべつどうとも思っていない。普通のことなのだ。翌日新聞を見て、今年は何人が集まったが、死者は出なかったみたいだね、と話している。国によって文化がこれだけ違うものなのかと、あらためて思い知ることとなった。
日本人というのは、自分というものが、あまり無いのだと思う。他人に合わせ、波風が立たないようにする。だから規制とか法律とか、そういう上から来るものについても、わりに素直に従う。それが日本の経済成長を支えても来たのだろうが、ところが一旦、そういうきまりが無い世界に行ってしまうと、めちゃくちゃになってしまうところがあるのだろう。
戦争中、中国で民間人を大量虐殺してしまったことや、最近では東南アジアで節操のない買春をくりかえすことなど、みんなもやるから自分もやる、ということで、何でもしてしまう。それをすることが自分にとってどうなのか、と考えることがない。今のいじめとかそういう問題も、根本は同じなのだろう。
自殺者が3万人をこえたそうだが、皆に合わせているうちにどうにもならなくなると、自分の正当性を主張するのではなく、逆に自分を抹殺してしまう、そういうところがあるのだと思う。
でもそうやって規制をしていくことにより、社会を動かしていくことは、もう限界なのだろう。
「食ショック」という特集で、膨大な食品が廃棄処分になっているという。コンビニで時間をすぎた弁当を捨てるというのは有名だが、野菜ジュースにほんのわずかの土が混じっていたとか、肉マンの重さが数グラム軽かったとか、そういう理由でどんどん回収し、捨ててしまうのだという。
きまりに反し、それについて問題になると困る、ということなのだろうが、そのとき、本当は食べられるのに、とか、ただでさえも食料自給率が低いのだから、できるだけ捨てないようにしたほうがいいんじゃないか、とかいうことが省みられることがない。
セブン&アイHDが農業参入、生産法人を8月に設立だそうだが、農業関係者以外の団体が農業に参入するためには、制限が多くなかなか難しいとのこと。農業関係者を保護するためだろう。しかし食料自給率を上げることが重要であるとしたら、考えなければいけないことがあるだろう。
しかしただ規制を取り払うだけでは、たぶんただめちゃくちゃになってしまい、新しい規制ができるだけだろう。それでは日本人の物の考え方を変えなければ、と考えたとしても、到底そんなことはできっこない。
どうしたら良いのかは分からないが、何かはしないといけないのだと思う。
先日の秋葉原での無差別殺傷事件をうけて、7月に行われる祇園祭で警備を強化するという話。
日本というのは、お祭りとか、大晦日の初詣とか、人が大勢集まる場所について、警備が厳重なほうなのじゃないかと思う。先日の広島でのお祭り、とうかさんでも、かなりの数の警官、警備員が巡回、見張りをしていた。
初詣などでは、ロープで区切ってコースを作り、そこをいつも一定の人数だけが通るように調整をしたりする。将棋倒しを防ぐためだろう。
じつは本当にびっくりした経験があって、台湾でホームステイしたときのことだったのだが、大晦日に台北にある101ビルという、当時は世界一高かった高い高層ビルで花火があるというので、家族で見物に出かけた。高層ビルの花火というのがどういうものだかいまいちイメージできず、展望台か何かから地上の花火が見れるということなのかと思ったら、ビル自体に花火が仕込まれていて、それが次々点火されてビル全体が花火につつまれる様を、地上から眺めるというものだった。
たしかに物凄くきれいなのだが、これは日本ではできないだろうなと思った。消防法とか、何とか法とか、たぶん法律や条令が無数にあって、役所がぜったいにOKを出さないだろうなと思うのだ。
でもさらにびっくりしたことがあって、そこに50万人の人が集まるのだが、警官が一人もいないのだ。交通規制もされていない。花火が3分ほどで終わると、50万人の人がいっせいに、まわりにあふれ出す。
最寄の地下鉄の駅の入り口は人でつかえて入れないし、交差点の信号は普通に点灯していて、車もバイクもエンジンをかけて前に進もうとしているのだが、そこに50万人の人間が歩道も車道も所かまわず押し寄せていく。エンジンをかけた車と車の間の細い空間を、信号を無視して通っていくのだが、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まるわけにいかない。将棋倒しになるのじゃないか、車に押しつぶされるのじゃないか、と思うとさすがに怖くなり、死ぬんじゃないかとすら思った。
しかし台湾のホストの家族やまわりの人たちは、それをとくべつどうとも思っていない。普通のことなのだ。翌日新聞を見て、今年は何人が集まったが、死者は出なかったみたいだね、と話している。国によって文化がこれだけ違うものなのかと、あらためて思い知ることとなった。
日本人というのは、自分というものが、あまり無いのだと思う。他人に合わせ、波風が立たないようにする。だから規制とか法律とか、そういう上から来るものについても、わりに素直に従う。それが日本の経済成長を支えても来たのだろうが、ところが一旦、そういうきまりが無い世界に行ってしまうと、めちゃくちゃになってしまうところがあるのだろう。
戦争中、中国で民間人を大量虐殺してしまったことや、最近では東南アジアで節操のない買春をくりかえすことなど、みんなもやるから自分もやる、ということで、何でもしてしまう。それをすることが自分にとってどうなのか、と考えることがない。今のいじめとかそういう問題も、根本は同じなのだろう。
自殺者が3万人をこえたそうだが、皆に合わせているうちにどうにもならなくなると、自分の正当性を主張するのではなく、逆に自分を抹殺してしまう、そういうところがあるのだと思う。
でもそうやって規制をしていくことにより、社会を動かしていくことは、もう限界なのだろう。
「食ショック」という特集で、膨大な食品が廃棄処分になっているという。コンビニで時間をすぎた弁当を捨てるというのは有名だが、野菜ジュースにほんのわずかの土が混じっていたとか、肉マンの重さが数グラム軽かったとか、そういう理由でどんどん回収し、捨ててしまうのだという。
きまりに反し、それについて問題になると困る、ということなのだろうが、そのとき、本当は食べられるのに、とか、ただでさえも食料自給率が低いのだから、できるだけ捨てないようにしたほうがいいんじゃないか、とかいうことが省みられることがない。
セブン&アイHDが農業参入、生産法人を8月に設立だそうだが、農業関係者以外の団体が農業に参入するためには、制限が多くなかなか難しいとのこと。農業関係者を保護するためだろう。しかし食料自給率を上げることが重要であるとしたら、考えなければいけないことがあるだろう。
しかしただ規制を取り払うだけでは、たぶんただめちゃくちゃになってしまい、新しい規制ができるだけだろう。それでは日本人の物の考え方を変えなければ、と考えたとしても、到底そんなことはできっこない。
どうしたら良いのかは分からないが、何かはしないといけないのだと思う。
2008-06-05
今朝の読売新聞
オバマ氏がアメリカ大統領選、民主党の候補に選ばれたとのこと。アメリカはこれから、どうなるんだろう?
共和党はマケイン氏、安全保障のプロを自認し、現状を踏まえながら、手堅く進めていくのかなと思う。オバマ氏はブッシュ大統領の実績を批判し、イラクの問題についても米軍の早期撤退を主張する。北朝鮮やキューバの圧政指導者との無条件の対話も掲げているという。どんな人間とも胸襟を開いて向かい合えば、問題は解決すると思っているのか?でも世の中には悪意を持つ人間もいるわけだから、そんなに簡単ではないのだろう。
結局はマケイン氏が勝つのかなとは思うが、アメリカが今、何か変わろうとしているということはあるのかなと思う。オバマ氏の政策が具体性を欠くと言われるそうだが、それではどう変わったら良いのか、誰にとってもまだはっきりしていない、ということなのかもしれない。
---
日本人の父親と、フィリピン人の母親を持つ子供で、両親が結婚しているか、そうでなくても生前に認知されていれば、日本国籍をもらえたが、生後に認知された場合は、これまでは日本国籍はもらえなかった。それを最高裁が違憲と判断、生後の認知でも日本国籍でなければ、法のもとでの平等に反するとした。
これまで日本国籍の取得に条件をつけていたのは、結婚もしないで子供をつくる女性が悪い、という考え方が底流にあるのではないかという気がする。それはずいぶんひどい話しであって、判決は遅すぎるくらいなのだろうと思う。
その一方で、日本の出生率が、過去最低だった05年の1.26よりは上昇したが、相変わらず低水準の1.36だったとのこと。出生率は2が現状維持という意味なのだと思うから、日本は人口減に向けてまっしぐらに進んでいることになる。
国家というものは、国境の中で人口が増え、その人たちが働いて生産性を上げていくことが、力の源泉なのではないだろうか?そうであるとすると、いま日本は、衰退に向かっていることになる。政治家にとって最も考えなければいけない問題なのではないかと思うが、「産まない女が悪い」みたいな発言しか漏れ伝わってこない。産んでも産まなくても、女が悪いのだから、まぁほんとにひどい話しである。
---
タバコを増税し、1箱1000円くらいにするということを、超党派の議員連盟を発足させ、検討することになったとか。欧米でそういう例があるということだと思うが、そういう国ではタバコだけでなく、消費税も15パーセントとか、そのくらいだったりする。消費税は世論の反発があるから上げられないが、タバコなら増税できるということなのだろう。まったくタバコ飲みを馬鹿にした話である。
だいたい喫煙人口は25パーセントくらいあるそうだから、本当は世の中に対してけっこうな影響力を持てるはずなのだが、ここのところ、やられっぱなしである。タクシーは全面禁煙、公共の場所でも全面禁煙。タバコは依存症という病気だ、ということになってから、どうも分が悪い感じがする。吸っているほうも、ほんとは辞めたいのだが、辞められなくて仕方なく、という意識があるようにも思う。
しかしどうせ吸うなら、堂々と開き直って、積極的にやってもらいたいものだ。別に身体に悪くたっていいじゃないか。タバコを吸う時のあの至福のひと時、それすら許さない世の中の狭量が、いじめや引きこもりを生む土壌をつくっているのではないのか?
誰か暇な人がいたら、喫煙者人権同盟でも立ち上げて、政治家にロビー活動でもしてもらいたい。そしたらぼくも、署名くらいはしたいと思う。
ははは。
今日のコボちゃん。おじいちゃんが友達から、昔いたほたるが戻ってきた、という話しを聞いてくる。みんなの努力のおかげだそうだ、という話を聞いたコボちゃん、幼稚園で友達と、努力すれば戻って来るんだよ、よし、ぼくもやろう、と意気投合。何を戻すのかと思ったら、恐竜ですって。
あはははは。
共和党はマケイン氏、安全保障のプロを自認し、現状を踏まえながら、手堅く進めていくのかなと思う。オバマ氏はブッシュ大統領の実績を批判し、イラクの問題についても米軍の早期撤退を主張する。北朝鮮やキューバの圧政指導者との無条件の対話も掲げているという。どんな人間とも胸襟を開いて向かい合えば、問題は解決すると思っているのか?でも世の中には悪意を持つ人間もいるわけだから、そんなに簡単ではないのだろう。
結局はマケイン氏が勝つのかなとは思うが、アメリカが今、何か変わろうとしているということはあるのかなと思う。オバマ氏の政策が具体性を欠くと言われるそうだが、それではどう変わったら良いのか、誰にとってもまだはっきりしていない、ということなのかもしれない。
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日本人の父親と、フィリピン人の母親を持つ子供で、両親が結婚しているか、そうでなくても生前に認知されていれば、日本国籍をもらえたが、生後に認知された場合は、これまでは日本国籍はもらえなかった。それを最高裁が違憲と判断、生後の認知でも日本国籍でなければ、法のもとでの平等に反するとした。
これまで日本国籍の取得に条件をつけていたのは、結婚もしないで子供をつくる女性が悪い、という考え方が底流にあるのではないかという気がする。それはずいぶんひどい話しであって、判決は遅すぎるくらいなのだろうと思う。
その一方で、日本の出生率が、過去最低だった05年の1.26よりは上昇したが、相変わらず低水準の1.36だったとのこと。出生率は2が現状維持という意味なのだと思うから、日本は人口減に向けてまっしぐらに進んでいることになる。
国家というものは、国境の中で人口が増え、その人たちが働いて生産性を上げていくことが、力の源泉なのではないだろうか?そうであるとすると、いま日本は、衰退に向かっていることになる。政治家にとって最も考えなければいけない問題なのではないかと思うが、「産まない女が悪い」みたいな発言しか漏れ伝わってこない。産んでも産まなくても、女が悪いのだから、まぁほんとにひどい話しである。
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タバコを増税し、1箱1000円くらいにするということを、超党派の議員連盟を発足させ、検討することになったとか。欧米でそういう例があるということだと思うが、そういう国ではタバコだけでなく、消費税も15パーセントとか、そのくらいだったりする。消費税は世論の反発があるから上げられないが、タバコなら増税できるということなのだろう。まったくタバコ飲みを馬鹿にした話である。
だいたい喫煙人口は25パーセントくらいあるそうだから、本当は世の中に対してけっこうな影響力を持てるはずなのだが、ここのところ、やられっぱなしである。タクシーは全面禁煙、公共の場所でも全面禁煙。タバコは依存症という病気だ、ということになってから、どうも分が悪い感じがする。吸っているほうも、ほんとは辞めたいのだが、辞められなくて仕方なく、という意識があるようにも思う。
しかしどうせ吸うなら、堂々と開き直って、積極的にやってもらいたいものだ。別に身体に悪くたっていいじゃないか。タバコを吸う時のあの至福のひと時、それすら許さない世の中の狭量が、いじめや引きこもりを生む土壌をつくっているのではないのか?
誰か暇な人がいたら、喫煙者人権同盟でも立ち上げて、政治家にロビー活動でもしてもらいたい。そしたらぼくも、署名くらいはしたいと思う。
ははは。
今日のコボちゃん。おじいちゃんが友達から、昔いたほたるが戻ってきた、という話しを聞いてくる。みんなの努力のおかげだそうだ、という話を聞いたコボちゃん、幼稚園で友達と、努力すれば戻って来るんだよ、よし、ぼくもやろう、と意気投合。何を戻すのかと思ったら、恐竜ですって。
あはははは。
2008-05-27
今朝の読売新聞
アメリカの保守の論客だという、ロバート・ケーガンという人が、新著を出版したということでインタビューに答えている。
「冷戦の終結後、人々は二つの見方を受け入れた。大国間の地政学的競争は終わったという見方と、自由民主主義が勝利してイデオロギーの競争も終わったという見方だ。(中略)だがどちらも誤りだった」
「驚くべきことに独裁体制が今後も生き残りそうな、一つの政体として復活した。国が豊かになり、経済の近代化が進めば、政治も変わると思われていたが、中国は政治的開放が進まず、ロシアは専制色を強めた。この体制はたぶん数十年は続く。共産主義ほどの感染力はないにせよ、模倣しようとする指導者も増えると思う。今後は大国間の昔ながらの地政学的競争と民主主義対独裁主義というイデオロギーの競争という二つのせめぎ合いが重なり合って続くだろう」
(米国の今後について)「第一に、米国人は自覚していないが、米国には自身の力で世界の形を決めていこうとする強固な伝統がある。次の大統領がバラク・オバマ氏でもジョン・マケイン氏でも、それに変わりはないだろう。第二に、米国と民主主義同盟との結びつきは強まる。仏独の指導者も地政学的な利害を考え、超大国、米国と緊密な関係を結ぶ決断をした。中東や東アジアの安全保障も米国の力を軸に構築されている。米軍の撤退は当面、だれも望んでいないと思う。それが世界の現実だ」
ケーガン氏はネオコンで、次期大統領候補であるマケイン氏の外交顧問の一人というから、著書の出版は大統領選挙に向けた運動の一環なのだろう。しかし今後もアメリカを中心に、民主主義国家が結びつきを強めながら世界が形作られれていくとは、短期的にはその通りであるにしても、それを数十年のスパンで継続するものであると考えるのは、楽観的に過ぎるのではないかと思う。
原丈人氏は『21世紀の国富論』で、「冷戦が終結し、西側の資本主義体制が勝利したことで、今後は資本主義が永久に続くかのように思われてきました。しかし、その後の世界で起こっていることは、世界中が一斉に、しかも過度の利潤追求に走りだしているという現実です」と言う。
「それまで短期的な利潤追求が行きすぎることなく保たれてきたのは、対峙する社会主義体制下の計画経済という存在があったからこそでした。もうひとつの体制が脅威となっていた時代もあったし、もはや脅威ではなくなった1970~80年代でさえも、その存在ゆえに資本主義はその優れた側面が前面に現れていたところがあると思います」
「しかし今、アメリカが中心を担っている資本主義のシステムは、仕組みそのものが疲弊し破綻しかけていることに、もっと多くの人が気づくべきです。アメリカだけでなく日本でも、年金基金などが多くの資金をヘッジファンドに投入しています。カネがカネを生む現象を美化し、夢の実現と錯覚させている」
「そこにあるのは、マーケットがすべてを決定し、マーケットにおける価値がすべてという、行きすぎた市場万能型資本主義に他なりません。カネをいくら膨らませたかによって価値を比較するスタイルの資本主義は、多くの問題点を解決できないまま、破綻に向かって突っ走っているのです」
ぼくはその通りだと思う。ケーガン氏は独裁体制をばい菌扱いする。しかし独裁体制は支配層が自らの利益を最大化しようとして作り出すものであり、それは形こそ違え、内実においてはアメリカのやろうとしていることと何ら変わるものではない。
原氏は世界を変えることができるのは、新しい技術なのだと主張する。人間が機械に合わせるのではなく、機械を人間に合わせようとしていくこと、その根幹には、コンピュータ上の情報をもっと人間のやり方にそった形で保存できるようにし、それを中央に一元的に集めるのではなく、個人個人が分散して持つことができるようにすること。そのような技術革新が新たな産業を生み出し、経済を活性化し、それによって新たな文化が生み出されていく。またその技術は人と人との結びつき方を変え、政治を変えていく。すごい展望である。
今こうして、一見先行きの見えなくなっている時代。しかし逆に言えば、千載一遇のチャンスが到来しているのである。
「冷戦の終結後、人々は二つの見方を受け入れた。大国間の地政学的競争は終わったという見方と、自由民主主義が勝利してイデオロギーの競争も終わったという見方だ。(中略)だがどちらも誤りだった」
「驚くべきことに独裁体制が今後も生き残りそうな、一つの政体として復活した。国が豊かになり、経済の近代化が進めば、政治も変わると思われていたが、中国は政治的開放が進まず、ロシアは専制色を強めた。この体制はたぶん数十年は続く。共産主義ほどの感染力はないにせよ、模倣しようとする指導者も増えると思う。今後は大国間の昔ながらの地政学的競争と民主主義対独裁主義というイデオロギーの競争という二つのせめぎ合いが重なり合って続くだろう」
(米国の今後について)「第一に、米国人は自覚していないが、米国には自身の力で世界の形を決めていこうとする強固な伝統がある。次の大統領がバラク・オバマ氏でもジョン・マケイン氏でも、それに変わりはないだろう。第二に、米国と民主主義同盟との結びつきは強まる。仏独の指導者も地政学的な利害を考え、超大国、米国と緊密な関係を結ぶ決断をした。中東や東アジアの安全保障も米国の力を軸に構築されている。米軍の撤退は当面、だれも望んでいないと思う。それが世界の現実だ」
ケーガン氏はネオコンで、次期大統領候補であるマケイン氏の外交顧問の一人というから、著書の出版は大統領選挙に向けた運動の一環なのだろう。しかし今後もアメリカを中心に、民主主義国家が結びつきを強めながら世界が形作られれていくとは、短期的にはその通りであるにしても、それを数十年のスパンで継続するものであると考えるのは、楽観的に過ぎるのではないかと思う。
原丈人氏は『21世紀の国富論』で、「冷戦が終結し、西側の資本主義体制が勝利したことで、今後は資本主義が永久に続くかのように思われてきました。しかし、その後の世界で起こっていることは、世界中が一斉に、しかも過度の利潤追求に走りだしているという現実です」と言う。
「それまで短期的な利潤追求が行きすぎることなく保たれてきたのは、対峙する社会主義体制下の計画経済という存在があったからこそでした。もうひとつの体制が脅威となっていた時代もあったし、もはや脅威ではなくなった1970~80年代でさえも、その存在ゆえに資本主義はその優れた側面が前面に現れていたところがあると思います」
「しかし今、アメリカが中心を担っている資本主義のシステムは、仕組みそのものが疲弊し破綻しかけていることに、もっと多くの人が気づくべきです。アメリカだけでなく日本でも、年金基金などが多くの資金をヘッジファンドに投入しています。カネがカネを生む現象を美化し、夢の実現と錯覚させている」
「そこにあるのは、マーケットがすべてを決定し、マーケットにおける価値がすべてという、行きすぎた市場万能型資本主義に他なりません。カネをいくら膨らませたかによって価値を比較するスタイルの資本主義は、多くの問題点を解決できないまま、破綻に向かって突っ走っているのです」
ぼくはその通りだと思う。ケーガン氏は独裁体制をばい菌扱いする。しかし独裁体制は支配層が自らの利益を最大化しようとして作り出すものであり、それは形こそ違え、内実においてはアメリカのやろうとしていることと何ら変わるものではない。
原氏は世界を変えることができるのは、新しい技術なのだと主張する。人間が機械に合わせるのではなく、機械を人間に合わせようとしていくこと、その根幹には、コンピュータ上の情報をもっと人間のやり方にそった形で保存できるようにし、それを中央に一元的に集めるのではなく、個人個人が分散して持つことができるようにすること。そのような技術革新が新たな産業を生み出し、経済を活性化し、それによって新たな文化が生み出されていく。またその技術は人と人との結びつき方を変え、政治を変えていく。すごい展望である。
今こうして、一見先行きの見えなくなっている時代。しかし逆に言えば、千載一遇のチャンスが到来しているのである。
2008-05-11
今朝の読売新聞
民主党・小沢一郎党首の元秘書が、小沢党首の選挙区である岩手四区から出馬するということが書いてあった。新聞だけでは良く分からなかったのだが、何と自民党から出馬要請されたもので、「本日をもって、小沢一郎先生に挑戦することを宣言する。政策、政治手法、政治姿勢においても(小沢氏は)間違っている」と語っているとのこと。
高橋氏 衆院4区自民の出馬要請、受諾意向 : 岩手 : 地域 : YOMIURI ONLINE
小沢代表自身が立候補した場合、元秘書に負けるというのは有り得ないだろうが、雑誌などで見た所によると小沢代表は、岩手の自分の選挙区に自分以外の別の候補者を立て、自分は東京のどこかの選挙区から出馬するということを検討している節があるとの事である。元々の地盤だから岩手で勝てるのは当然として、東京でも勝てれば、小沢代表が一人で二議席を叩き出すことになる。それ自体が民主党の勝利に大きく貢献することはもちろん、さらに党首がそのような捨て身の戦法を取ってくれば、世の中に対してもアピールする力は大きく、民主党の大きな追い風にもなるだろうとの事だった。
確かにその通りだろう。小沢代表のことはぼくも昔から気になっていて、田中角栄の愛弟子として頭角を現し、若くして自民党の幹事長になったかと思ったら、東京都知事選にNHKの元アナウンサーを擁立して負けて、責任を取って幹事長を辞任、その後も自民党から政権を奪ったかと思ったら、福祉目的税を無理矢理押し通そうとして失敗、新進党は分裂、先日も福田首相と党首会談して、大連立というウルトラCを目指したが、党内の反対で頓挫、一度は党首を辞めると言ったが、結局踏み留まった。何となくいつもいい所まで行くのだが、尻すぼみで終わってしまうという印象がある。
小沢代表は昔から、「役所による規制を緩和・撤廃して、民間の力を活性化することが、これからの日本にとって必要」という持論を掲げてきていると思う。それはその通りだと思うし、先日の日銀総裁の件で、財務省出身者を二度に渡って拒否した事は、そういうこれまでの主張から考えると、筋が通っているようにも見える。それが山口の補欠選での勝利に結びついた所もあるだろう。その小沢代表が自分の政治生命を賭けて、最後の大勝負に出るとなれば、世の中は盛り上がるだろう。今回、反小沢を掲げる小沢党首の元秘書に自民党が出馬要請したというのは、そういう動きを牽制するという意味もあるのかも知れない。
今の日本の政治の状況というものは、自民党や民主党がどうした、というだけの問題ではなく、ぼくたち自身の状況のはっきりとした反映でもある。世代交代が必要であるというのは明らかだが、自民党にしても、若い安部さんが首相になったかと思ったら、あんな事になってしまったし、民主党でも前原・岡田という若い世代が党首になったが、結局続かず、上の世代に戻ってしまっている。これから自分たちが、日本が、世界が、どの様になって行かなければいけないのか、そしてそのためにはどの様にして行くのか、今問われているのはそこであり、これまでのやり方がうまく行かなくなっているのだとしたら、じゃあどうするのか、それをはっきり示す事が必要なのだろう。
「資本主義」「共産主義」というイデオロギーの対立の時代は、ソ連や東欧の共産主義国の独裁体制の崩壊で終わりを迎え、これからは自由な世界になるのかと思ったら、今度はただ経済第一主義、拝金主義になってしまっているかのようにも思える。さらに新たな独裁体制があちらこちらで生まれ育ち、中国や北朝鮮は言わずもがな、自由主義になったはずのロシアでも、またミャンマー軍事政権にしても、それはもう終わった筈じゃなかったのかと聞きたい所だが、そうではなかったらしい。結局物事を壊すだけで、新たな展望が示せない状況では、独裁体制が再生産されていくのだろう。
今日本で自民党が倒れ、民主党が政権を取ったとしても、根本的には何も変わらないだろう。同じことが違った人によって繰り返されるだけだ。一時政策新人類という人たちが一世を風靡して、互いが自分の政策を主張し、それを戦わせるという政治のあり方が標榜されたことがあったが、まぁそれが米欧のやり方であるとして、それをただ真似れば新しい時代に進めるのかと言うと、そんなに簡単なものではないだろう。今自分たちが置かれている状況を本当に受け止め、それを踏まえながら、新たに一歩踏み出していく、そういう道筋が見えていかないといけない。
大変困難な課題だが、それを見つける事が、ぼくたちの世代の責任であるのだと思う。
高橋氏 衆院4区自民の出馬要請、受諾意向 : 岩手 : 地域 : YOMIURI ONLINE
小沢代表自身が立候補した場合、元秘書に負けるというのは有り得ないだろうが、雑誌などで見た所によると小沢代表は、岩手の自分の選挙区に自分以外の別の候補者を立て、自分は東京のどこかの選挙区から出馬するということを検討している節があるとの事である。元々の地盤だから岩手で勝てるのは当然として、東京でも勝てれば、小沢代表が一人で二議席を叩き出すことになる。それ自体が民主党の勝利に大きく貢献することはもちろん、さらに党首がそのような捨て身の戦法を取ってくれば、世の中に対してもアピールする力は大きく、民主党の大きな追い風にもなるだろうとの事だった。
確かにその通りだろう。小沢代表のことはぼくも昔から気になっていて、田中角栄の愛弟子として頭角を現し、若くして自民党の幹事長になったかと思ったら、東京都知事選にNHKの元アナウンサーを擁立して負けて、責任を取って幹事長を辞任、その後も自民党から政権を奪ったかと思ったら、福祉目的税を無理矢理押し通そうとして失敗、新進党は分裂、先日も福田首相と党首会談して、大連立というウルトラCを目指したが、党内の反対で頓挫、一度は党首を辞めると言ったが、結局踏み留まった。何となくいつもいい所まで行くのだが、尻すぼみで終わってしまうという印象がある。
小沢代表は昔から、「役所による規制を緩和・撤廃して、民間の力を活性化することが、これからの日本にとって必要」という持論を掲げてきていると思う。それはその通りだと思うし、先日の日銀総裁の件で、財務省出身者を二度に渡って拒否した事は、そういうこれまでの主張から考えると、筋が通っているようにも見える。それが山口の補欠選での勝利に結びついた所もあるだろう。その小沢代表が自分の政治生命を賭けて、最後の大勝負に出るとなれば、世の中は盛り上がるだろう。今回、反小沢を掲げる小沢党首の元秘書に自民党が出馬要請したというのは、そういう動きを牽制するという意味もあるのかも知れない。
今の日本の政治の状況というものは、自民党や民主党がどうした、というだけの問題ではなく、ぼくたち自身の状況のはっきりとした反映でもある。世代交代が必要であるというのは明らかだが、自民党にしても、若い安部さんが首相になったかと思ったら、あんな事になってしまったし、民主党でも前原・岡田という若い世代が党首になったが、結局続かず、上の世代に戻ってしまっている。これから自分たちが、日本が、世界が、どの様になって行かなければいけないのか、そしてそのためにはどの様にして行くのか、今問われているのはそこであり、これまでのやり方がうまく行かなくなっているのだとしたら、じゃあどうするのか、それをはっきり示す事が必要なのだろう。
「資本主義」「共産主義」というイデオロギーの対立の時代は、ソ連や東欧の共産主義国の独裁体制の崩壊で終わりを迎え、これからは自由な世界になるのかと思ったら、今度はただ経済第一主義、拝金主義になってしまっているかのようにも思える。さらに新たな独裁体制があちらこちらで生まれ育ち、中国や北朝鮮は言わずもがな、自由主義になったはずのロシアでも、またミャンマー軍事政権にしても、それはもう終わった筈じゃなかったのかと聞きたい所だが、そうではなかったらしい。結局物事を壊すだけで、新たな展望が示せない状況では、独裁体制が再生産されていくのだろう。
今日本で自民党が倒れ、民主党が政権を取ったとしても、根本的には何も変わらないだろう。同じことが違った人によって繰り返されるだけだ。一時政策新人類という人たちが一世を風靡して、互いが自分の政策を主張し、それを戦わせるという政治のあり方が標榜されたことがあったが、まぁそれが米欧のやり方であるとして、それをただ真似れば新しい時代に進めるのかと言うと、そんなに簡単なものではないだろう。今自分たちが置かれている状況を本当に受け止め、それを踏まえながら、新たに一歩踏み出していく、そういう道筋が見えていかないといけない。
大変困難な課題だが、それを見つける事が、ぼくたちの世代の責任であるのだと思う。
2008-05-05
今朝のコボちゃん
今朝のコボちゃん、おかしくて大笑いしたので、ここに紹介したいと思うが、初め現物をそのままコピーして貼り付けようかとも思ったが、そのようなことは法律違反でもあるので、ぼくの拙い筆で再現したいと思う。
おかしさがちょっとでも伝わりましたらご喝采。
コボちゃんは友達二人と遊んでいて、そのうち一人の可愛いピンクのリボンをつけた女の子が、たぶんこの子はいいとこのお嬢さんで、コボちゃんもちょっと憧れていたりするわけなのだが、
「今日はしょうぶ湯に入るのよね」
と聞いたこともないような言葉を口にする。
もう一人の友達の男の子は、刈上げ頭にバーゲンで買った黄色いトレーナー、ねずみ色のズボンのコボちゃんとはえらい違いの、髪は茶色でふんわりウェーブ、洒落た赤いボーダーのTシャツにモスグリーンのズボン。この子もコボちゃん同様、しょうぶ湯については知らなかったが、子供らしい幼いコボちゃんに比べて、世渡りがうまい。コボちゃんが何と答えようか考えている間に
「なに?それ」
と会話を進める。
「知らないの?お風呂に香りのする細長い葉っぱ入れるでしょ」
「そうなの」
この男の子にとってはしょうぶ湯はそれでおしまい、女の子とちょっとしたやり取りを楽しむだけのことでたいして興味もないのだが、それを端で聞いていたコボちゃんは、しょうぶ湯に入りたくて仕方なくなる。
家に帰ってお母さんに尋ねると、
「今年は買い忘れたからなし!」
というあまりにも冷たい言葉。
「エー、つまんないー」
・・・・・
夜になり、コボちゃんはおじいちゃんとお風呂に入る。「今日はしょうぶ湯なんだよー」「そうかそうか、それは楽しみだな」などという話をしながら風呂場に入り、お風呂のふたを開けるとたしかに中に、輪ゴムでいわえた細長い葉っぱ。しかし立ち込める臭いはしょうぶ湯とは違うような・・・。
葉っぱを取り上げたおじいちゃん、何が起きたのかすべてを悟った。素知らぬ顔していい加減なことするお母さんに腹も立つし、これからこの臭いがする風呂に入るのかと思うと悲しくもなる。しかしコボちゃんの気持ちを思うと怒るに怒れない。おれも男だ、ここは堪えようと思いながらも、ひとこと、言葉が口をついて出た。
「ニラはやめろ、ニラは」
おかしさがちょっとでも伝わりましたらご喝采。
コボちゃんは友達二人と遊んでいて、そのうち一人の可愛いピンクのリボンをつけた女の子が、たぶんこの子はいいとこのお嬢さんで、コボちゃんもちょっと憧れていたりするわけなのだが、
「今日はしょうぶ湯に入るのよね」
と聞いたこともないような言葉を口にする。
もう一人の友達の男の子は、刈上げ頭にバーゲンで買った黄色いトレーナー、ねずみ色のズボンのコボちゃんとはえらい違いの、髪は茶色でふんわりウェーブ、洒落た赤いボーダーのTシャツにモスグリーンのズボン。この子もコボちゃん同様、しょうぶ湯については知らなかったが、子供らしい幼いコボちゃんに比べて、世渡りがうまい。コボちゃんが何と答えようか考えている間に
「なに?それ」
と会話を進める。
「知らないの?お風呂に香りのする細長い葉っぱ入れるでしょ」
「そうなの」
この男の子にとってはしょうぶ湯はそれでおしまい、女の子とちょっとしたやり取りを楽しむだけのことでたいして興味もないのだが、それを端で聞いていたコボちゃんは、しょうぶ湯に入りたくて仕方なくなる。
家に帰ってお母さんに尋ねると、
「今年は買い忘れたからなし!」
というあまりにも冷たい言葉。
「エー、つまんないー」
・・・・・
夜になり、コボちゃんはおじいちゃんとお風呂に入る。「今日はしょうぶ湯なんだよー」「そうかそうか、それは楽しみだな」などという話をしながら風呂場に入り、お風呂のふたを開けるとたしかに中に、輪ゴムでいわえた細長い葉っぱ。しかし立ち込める臭いはしょうぶ湯とは違うような・・・。
葉っぱを取り上げたおじいちゃん、何が起きたのかすべてを悟った。素知らぬ顔していい加減なことするお母さんに腹も立つし、これからこの臭いがする風呂に入るのかと思うと悲しくもなる。しかしコボちゃんの気持ちを思うと怒るに怒れない。おれも男だ、ここは堪えようと思いながらも、ひとこと、言葉が口をついて出た。
「ニラはやめろ、ニラは」
2008-05-02
知識人の不在
読売新聞で「日本の知力」という特集をやっていて、今日が第3部の最終回だったのだが、「社会を導く知識人が不在になっている」と書いている。
1968年に「5月革命」という騒乱がフランスで起きた。学生が大学に対して不満を訴える運動を起こし、それが労働者の運動にまで広がり、当時のドゴール政権は学生や労働者の要求を受け入れることで、騒ぎを鎮圧したという。その時には新聞や雑誌、大学の教壇から知識人たちが運動に共鳴し、異議を声高に唱えることで運動に思想的支えを提供したのだが、現在ではそのようなことは全く見られなくなってしまっているという。
その背景として、「東欧革命とソ連消滅により、マルクス主義に依拠してきた左翼知識人たちが沈黙してしまった」のだそうだ。また日本では丸山真男氏ら非マルクス主義の知識人たちが平和と民主主義のために戦った歴史があるそうだが、今では学者の発言が政治までを動かすということは、減ってしまっているという。
フランスの社会学者アラン・トゥーレーヌ氏は、「知識人たちの誤りは、20世紀後半に出てきた新しい思想や運動を、マルクス主義の古典的な言葉で解釈しようとしたことだ」と言う。「女性問題や文化の問題、若者たちの性といったことまで、『階級闘争』の文脈でとらえると、問題は単純になる。『革命が起こればすべてが可能だ』と思い込むか、『起こらなければ何もできない』とあきらめるかだ。91年にソ連が崩壊すると、『何もできない』派が圧倒的になり、左翼知識人は自滅した」のだそうだ。
「現代ヨーロッパにも、知識人がかかわるべき社会問題は山積している。イスラム教徒とどう融合していくかという問題は、一例だが、社会の将来像について、誰も提示できないでいる。今の若者は、行動する用意を十分持っているが、何ができるかについては全く確信が持てないままなのだ」
日本で発言が盛んな知識人といえば、例えば脳科学者が思い浮かぶ。もう捨ててしまった週刊文春に書いてあったことなので定かではないのだが、立花隆はある脳科学者の発言として、「生命科学はもうほとんど終わりであり、言語学も終わりの時が近い。これからは脳科学が、言語とは何か、人間とは何かということを見つける主戦場となるのだ」というようなことを書いていた。
ここまで傲慢な発言はひとつの極端な例としても、「脳が分かれば人間が分かる」と思っている人は多いだろう。しかしそうである限り、人間が何らかの意味で行動することによって、人間について新たな発見を得る見込みはないことになる。脳科学者が実験室で研究し、何かを見つけてくれるのを待つしかない。
しかし本当にそうなのか?脳が分かれば人間が分かるのか?
それは明らかにそうではないのである。人間が何かを「感じる」ということがあったとして、それは確かに脳科学によって、脳細胞の何かの電位の変化とか、分泌される物質の量の変化とか、そういうものとして記述されることはあるだろう。しかし「感じた」ということは、主観的にではあったとしても、あくまで「事実」である。それは脳の電位や物質がどうしたということとは次元の違う話であって、この主観的な事実を、事実としてまっすぐ受け止めることからしか、次の時代は見えてこないのだと思う。
科学は客観性が金科玉条である。確かにそれによって巨大な成果をあげてきた。それを全否定するものは、ただの気違いである。
しかし、問いが、物体がどう運動するのかや、電気がどう伝わるのか、などといったことだけでなく、「ことばとは何か」「人間とはどんなものなのか」ということに向けられたとき、ただ物事を外側から見るというだけの意味での客観性は、意味を持たない。なぜなら人間は実感する存在だからだ。人間は実感を出発点として、全ての行動を生み出していく。
これまでは主観的であると呼ばれてきた人間のこのような側面を、どのように中心に据えることができるのか。そのような思考の基盤を、これまでの科学をきちんと取り込みながら、どう新たに構築していけるのか。これは本来、知識人だけの課題ではない。全ての人間一人一人が持つべき火急の課題なのである。
1968年に「5月革命」という騒乱がフランスで起きた。学生が大学に対して不満を訴える運動を起こし、それが労働者の運動にまで広がり、当時のドゴール政権は学生や労働者の要求を受け入れることで、騒ぎを鎮圧したという。その時には新聞や雑誌、大学の教壇から知識人たちが運動に共鳴し、異議を声高に唱えることで運動に思想的支えを提供したのだが、現在ではそのようなことは全く見られなくなってしまっているという。
その背景として、「東欧革命とソ連消滅により、マルクス主義に依拠してきた左翼知識人たちが沈黙してしまった」のだそうだ。また日本では丸山真男氏ら非マルクス主義の知識人たちが平和と民主主義のために戦った歴史があるそうだが、今では学者の発言が政治までを動かすということは、減ってしまっているという。
フランスの社会学者アラン・トゥーレーヌ氏は、「知識人たちの誤りは、20世紀後半に出てきた新しい思想や運動を、マルクス主義の古典的な言葉で解釈しようとしたことだ」と言う。「女性問題や文化の問題、若者たちの性といったことまで、『階級闘争』の文脈でとらえると、問題は単純になる。『革命が起こればすべてが可能だ』と思い込むか、『起こらなければ何もできない』とあきらめるかだ。91年にソ連が崩壊すると、『何もできない』派が圧倒的になり、左翼知識人は自滅した」のだそうだ。
「現代ヨーロッパにも、知識人がかかわるべき社会問題は山積している。イスラム教徒とどう融合していくかという問題は、一例だが、社会の将来像について、誰も提示できないでいる。今の若者は、行動する用意を十分持っているが、何ができるかについては全く確信が持てないままなのだ」
日本で発言が盛んな知識人といえば、例えば脳科学者が思い浮かぶ。もう捨ててしまった週刊文春に書いてあったことなので定かではないのだが、立花隆はある脳科学者の発言として、「生命科学はもうほとんど終わりであり、言語学も終わりの時が近い。これからは脳科学が、言語とは何か、人間とは何かということを見つける主戦場となるのだ」というようなことを書いていた。
ここまで傲慢な発言はひとつの極端な例としても、「脳が分かれば人間が分かる」と思っている人は多いだろう。しかしそうである限り、人間が何らかの意味で行動することによって、人間について新たな発見を得る見込みはないことになる。脳科学者が実験室で研究し、何かを見つけてくれるのを待つしかない。
しかし本当にそうなのか?脳が分かれば人間が分かるのか?
それは明らかにそうではないのである。人間が何かを「感じる」ということがあったとして、それは確かに脳科学によって、脳細胞の何かの電位の変化とか、分泌される物質の量の変化とか、そういうものとして記述されることはあるだろう。しかし「感じた」ということは、主観的にではあったとしても、あくまで「事実」である。それは脳の電位や物質がどうしたということとは次元の違う話であって、この主観的な事実を、事実としてまっすぐ受け止めることからしか、次の時代は見えてこないのだと思う。
科学は客観性が金科玉条である。確かにそれによって巨大な成果をあげてきた。それを全否定するものは、ただの気違いである。
しかし、問いが、物体がどう運動するのかや、電気がどう伝わるのか、などといったことだけでなく、「ことばとは何か」「人間とはどんなものなのか」ということに向けられたとき、ただ物事を外側から見るというだけの意味での客観性は、意味を持たない。なぜなら人間は実感する存在だからだ。人間は実感を出発点として、全ての行動を生み出していく。
これまでは主観的であると呼ばれてきた人間のこのような側面を、どのように中心に据えることができるのか。そのような思考の基盤を、これまでの科学をきちんと取り込みながら、どう新たに構築していけるのか。これは本来、知識人だけの課題ではない。全ての人間一人一人が持つべき火急の課題なのである。
2008-04-29
今朝の読売新聞
福田首相が、道路財源の一般財源化を来年度から実施するということについて、与党である公明党太田代表と合意文書を交わし、閣議決定する方針を表明した。党内の改革派や国民に対してアピールするためで、道路族議員の親玉である青木氏や古賀氏も認めたらしい。
さすがに支持率が低迷し、選挙でも負けて、お尻に火がついて動き出したというところかと思うのだけれど、どうなんだろう?
福田さんって、首相になるに当たって、前回安部さんと競り合ったときは、自分を支持する動きが広がりきらなかったと判断して自ら戦いを放棄、それで安部さんがあんなことになって、福田支持の動きが党内の多勢を占めると判断すると、やっと重い腰を上げる、そんな感じで物を決めてきている。みんなが一つの意見にまとまるのを時間をかけて待ち、まとまったところでそれに乗っかる。そういうのって一つの立派なやり方だとは思うのだけれど、ちょっと古いんじゃないかっていう気もするんだよね。
今回もほんとに待ったなし、坂道をごろごろ転げ落ちて、もう崩壊寸前になっているから、さすがに青木氏も古賀氏も賛成せざるを得なかったという感じだと思うけれど、そこまで待って、反対派も賛成しないといけない状況になって、そこで一歩踏み出したのが今、って、もう時すでに遅しなんじゃないかと。
昔は日本も世界も、放っておいても物事が前に進むというか、拡大していくというか、そういう時代だったんじゃないかと思う。だけど、放っておくとみんなが勝手な方向に進んでしまって、無秩序になってしまうから、それじゃまずいと、もう一回きちんと方向を定めないとな、っていうことをみんなが思って、うんうん、こっちへ行こう、って合意して、それじゃそれで行きましょうとリーダーが最後に決断する、みたいなことで、昔は成り立っていた。
でも今はたぶんそういう時代ではなくて、放っておくと物事が縮小してしまうような、そういう方向なんじゃないかという気がする。今回も自民党が発展的に何か動いているというより、どんどん縮小してしまい、これ以上はもう危険だというところになって合意しているのじゃないか。それって決断が消極的というか、縮小的というか、そんな感じがするんだよね。
何かすごく考え違いしていると思うのだけれど、70歳過ぎた福田首相には、これ以上は無理なんだという気がする。これからどうなるんだろう、日本は?
---
東京・渋谷で夫を殺し、ばらばらに切り刻んで捨てた女に、懲役15年の判決が下った。精神鑑定では犯行時は精神障害状態で、責任能力がないということだったが、それは踏まえながらも、女が犯行時のことをきちんと覚えていたり、犯行を隠蔽しようとしていたりするので、必ずしも責任能力がなかったとは言えない、ということらしい。
まぁ判決自体は、これから専門家が色々議論しながら決めていくんだろうからそれでいいのだけれど、この「責任能力」って、何だろうなと思う。
責任というものは、物事に原因と結果という道筋をつけようとするときに、その原因を担う存在に対して自動的に発生するものだろう。人を殺せば殺した人に責任がある。それはその本人が好むと好まざるとに関わらず、客観的に与えられるものであって、それを拒否することは責任放棄と呼ばれ、本来は許されない。しかしそれにはいくつか例外があって、その一つが、本人が責任というものを認識できないような精神状態の場合、ということなのだろう。その場合、その人は責任を認識する「能力」がなかったと言われる。
しかし責任を認識することのできない人って、何も精神障害に限らず、世の中にはたくさんいるのではないだろうか。極端な話、北朝鮮の金正日氏。またビンラディン。この人たちは日本人を拉致したり、また貿易センタービルに飛行機を突っ込ませたりしても、自分が何らかの意味でそれに対して責任があるとは全く思っていない。本来ならこの人たちを有罪にしたいところだろうけれど、それもなかなか難しい、それではその人たちに「責任能力がない」として済ませられるのかといえば、そうでもない。何らかの意味で折り合いをつけていかなければいけないのだけれど、それをどうしていったらいいのか誰も分からないというのが、今の時代なんじゃないかという気がする。
金正日やビンラディンまでいかなくても、世の中には「責任能力がない」人はたくさんいると思う。その人たちとどう折り合いをつけ、一つの世界を見つけていく一員に一緒にどうなれるのかということが、今の時代の火急の課題なのではないかと思う。
さすがに支持率が低迷し、選挙でも負けて、お尻に火がついて動き出したというところかと思うのだけれど、どうなんだろう?
福田さんって、首相になるに当たって、前回安部さんと競り合ったときは、自分を支持する動きが広がりきらなかったと判断して自ら戦いを放棄、それで安部さんがあんなことになって、福田支持の動きが党内の多勢を占めると判断すると、やっと重い腰を上げる、そんな感じで物を決めてきている。みんなが一つの意見にまとまるのを時間をかけて待ち、まとまったところでそれに乗っかる。そういうのって一つの立派なやり方だとは思うのだけれど、ちょっと古いんじゃないかっていう気もするんだよね。
今回もほんとに待ったなし、坂道をごろごろ転げ落ちて、もう崩壊寸前になっているから、さすがに青木氏も古賀氏も賛成せざるを得なかったという感じだと思うけれど、そこまで待って、反対派も賛成しないといけない状況になって、そこで一歩踏み出したのが今、って、もう時すでに遅しなんじゃないかと。
昔は日本も世界も、放っておいても物事が前に進むというか、拡大していくというか、そういう時代だったんじゃないかと思う。だけど、放っておくとみんなが勝手な方向に進んでしまって、無秩序になってしまうから、それじゃまずいと、もう一回きちんと方向を定めないとな、っていうことをみんなが思って、うんうん、こっちへ行こう、って合意して、それじゃそれで行きましょうとリーダーが最後に決断する、みたいなことで、昔は成り立っていた。
でも今はたぶんそういう時代ではなくて、放っておくと物事が縮小してしまうような、そういう方向なんじゃないかという気がする。今回も自民党が発展的に何か動いているというより、どんどん縮小してしまい、これ以上はもう危険だというところになって合意しているのじゃないか。それって決断が消極的というか、縮小的というか、そんな感じがするんだよね。
何かすごく考え違いしていると思うのだけれど、70歳過ぎた福田首相には、これ以上は無理なんだという気がする。これからどうなるんだろう、日本は?
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東京・渋谷で夫を殺し、ばらばらに切り刻んで捨てた女に、懲役15年の判決が下った。精神鑑定では犯行時は精神障害状態で、責任能力がないということだったが、それは踏まえながらも、女が犯行時のことをきちんと覚えていたり、犯行を隠蔽しようとしていたりするので、必ずしも責任能力がなかったとは言えない、ということらしい。
まぁ判決自体は、これから専門家が色々議論しながら決めていくんだろうからそれでいいのだけれど、この「責任能力」って、何だろうなと思う。
責任というものは、物事に原因と結果という道筋をつけようとするときに、その原因を担う存在に対して自動的に発生するものだろう。人を殺せば殺した人に責任がある。それはその本人が好むと好まざるとに関わらず、客観的に与えられるものであって、それを拒否することは責任放棄と呼ばれ、本来は許されない。しかしそれにはいくつか例外があって、その一つが、本人が責任というものを認識できないような精神状態の場合、ということなのだろう。その場合、その人は責任を認識する「能力」がなかったと言われる。
しかし責任を認識することのできない人って、何も精神障害に限らず、世の中にはたくさんいるのではないだろうか。極端な話、北朝鮮の金正日氏。またビンラディン。この人たちは日本人を拉致したり、また貿易センタービルに飛行機を突っ込ませたりしても、自分が何らかの意味でそれに対して責任があるとは全く思っていない。本来ならこの人たちを有罪にしたいところだろうけれど、それもなかなか難しい、それではその人たちに「責任能力がない」として済ませられるのかといえば、そうでもない。何らかの意味で折り合いをつけていかなければいけないのだけれど、それをどうしていったらいいのか誰も分からないというのが、今の時代なんじゃないかという気がする。
金正日やビンラディンまでいかなくても、世の中には「責任能力がない」人はたくさんいると思う。その人たちとどう折り合いをつけ、一つの世界を見つけていく一員に一緒にどうなれるのかということが、今の時代の火急の課題なのではないかと思う。
2008-04-20
読売新聞
新聞は読売新聞を読んでいるのだが、四コマ漫画の『コボちゃん』に、三日に一度くらいの頻度でくすっと笑ってしまう。時々大笑いすることもある。コボちゃんは今日で9237回目、25年ほど続いている計算になる。連載初期ならいざ知らず、25年たった今でもここまで笑えるということに、正直驚く。
今日のコボちゃんも、それなりに面白かった。コボちゃんがお父さん、お母さんと歩いているところに、歩きタバコをしている男性が通りすがる。お母さんはお父さんに「注意しなさいよ」と促す。お父さんが「歩行禁煙ですよ」と意を決した顔つきで呼びかけると、お父さんに何やらヒソヒソと耳打ちする男性。立ち去る男性を背に「極秘の聖火リレーだって」と、嬉しそうなお父さん。「そんなわけないでしょ」と憮然とした顔でお母さん。
「歩行禁煙が極秘の聖火リレー」というアイディア自体もかなり面白いと思うが、さらにそれを四コマという流れの中にどう展開させていくかということが、漫画家の腕の見せ所だろう。コボちゃんのお父さんも、サザエさんのマスオさんと同じく、どうやら入り婿のようで、家庭内での立場は弱い。他人の歩行禁煙を、お母さんに言われて注意しに行くお父さん、というシチュエーションを背景にストーリーが進み、最後のお母さんの突っ込みで終わる。
この最後のお母さんの突っ込みだが、他の漫画で慣れたセンスからすると、ちょっと余分な感じもする。「極秘の聖火リレー」というアイディア自体が十分面白いのだから、それを出したらその後にはあまり続けず、せめて登場人物にずっこけさせるくらいにして、さくっと終わらせるというのが定石なのではないだろうか。でもここで敢えて憮然とした顔のお母さんに「そんなわけないでしょ」と突っ込ませることで、ただアイディアの提示に終わらない、コボちゃん家族の日常の風景が見えてくるのである。ここに、コボちゃんの面白さの秘密があると思う。
読売新聞は読み出して半年ほどになるのだが、その前は数年、日経新聞を読んでいた。その前はやはり数年、毎日新聞、そしてその前が朝日新聞。その前、結婚して自分で選んだ最初の新聞が、読売新聞だった。
読売新聞というと、どちらかというと「インテリじゃない人が読む新聞」に分類されるのではないかと思う。実際スポーツに興味のないぼくには、読売ジャイアンツについての大量の記事は全く意味がない。また家で主婦が読むことを考えてのことだろう、家庭欄も充実しており、だから読売新聞の紙面の半分は、ぼくはほとんど読まない。
さらに最近、読売新聞は「メガ文字」という、どの新聞よりも大きな活字を採用した。 これは高齢者を対象にした戦略だろうから、これもぼくにはあまり関係ない。要は読売新聞というのは、ジャイアンツ好きという、どちらかというと保守的な男性と、主婦と、そして高齢者を相手にしたものなのだ。
今ぼくの年齢くらい、四十代くらいの、仕事をバリバリやる人たちが中心的に読んでいる新聞と言えば、日経新聞だろう。駅の売店で買って、行きの電車で読むというのが定番だ。「株屋の新聞」と揶揄された時代もあったようだが、今は「世界経済と企業経営」を中心テーマに据え、将来は社長か重役に、と密かに思う、若いキャリア達の心をぐっとつかんでいると思う。そういう人たちの目から見えれば、電車で少年ジャンプを読む人間は、負け組みの典型だろう。そんな趣旨の広告も、たしか日経新聞は打っていたと思う。
ちょっと前ならたぶんそういう人たち、社会の中心的な担い手のうち、問題意識を持ち、何事にも前向きに取り組んでいくような人たちは、朝日新聞を読んでいたのではないだろうか。ぼくより一世代上の団塊の世代くらいの、大学生時代に学生運動に熱心に取り組んだような人たちは、たぶんみんな朝日新聞だったのではないかと想像する。しかしおそらく今、朝日新聞はその座を日経新聞に明け渡したのだ。それは冷戦下のイデオロギーの時代が終わり、グローバル社会の中での熾烈な競争の時代に突入したことの、一つの表れなのだと思う。
新聞の役割は、一つにはもちろん、様々な出来事を速報するというところにある。またその時、「中立である」という、出来事の当事者のどちらの側にも与することなく、客観的な記述をすること、が求められているだろう。
しかし新聞の役割はそれだけではない。個別の出来事の背後にある、「社会全体と」いうものについて論じ、それがこれからどのようになっていくと予想されるのか、また社会の構成員たる一人一人がそれに向けてどうしていくべきなのか、について、読者が考える機会を与えなければいけない。それは新聞というものの社会的な使命だろう。
ところがこれは、実は大変難しい問題である。社会の「全体」となった瞬間に、個別の「出来事」の時には可能であった、「当事者と報道する側の切り分け」ができなくなる。報道する側も、社会全体を構成する当事者の一員になってしまうからである。
朝日新聞はおそらく、それをあくまで認めず、社会は個別のみならず全体としても、客観的に分析し、論じることが可能であると信じた。それはまた共産主義の思想が信じたものでもある。社会を科学的に分析可能な対象物としてみなし、その分析結果に基づいて「共産主義社会」が理想のあり方であると提案する。しかし共産主義社会が見るも無残な独裁国家に成り果て、そして没落していった経緯が、それが幻想であったことをはっきり示している。朝日新聞の凋落は、それと軌を一つにしている。
それに対して日経新聞は、「社会全体を論じる」ということを巧妙に避けている。自分たちはあくまで「経済についての新聞」である、という理屈だろう。日経新聞は社会の全体的な問題についても、常に「経済」とか「経営」とかいう視点からのみ、物を言う。それが独自の歯切れよさを生んでいる。
しかし本当は、それは欺瞞である。社会が経済とそれ以外の世界にはっきりと分けられるわけではない。今の経済活動の大前提となっているグローバル社会の今後というものは、経済という視点だけからでは絶対に考えられない。そのような重要な問題を置き去りにしておきながら、あたかも自分がオピニオンリーダーであるかのような振る舞いをすることは、社会にとっては本来、百害あって一利なしである。
この問題について、読売新聞というのは、ひと言で言えば「ナベツネ」なのだ。読売新聞は社会全体について、一般誌として朝日新聞と同様、また日経新聞とは異なって、かなりはっきりとした主張をする。ところがその内容は詰まるところは、ナベツネ個人の主張なのである。
あのナベツネという人、好きかと言えば好きではない。自分が好き、という感じで、見るからに暑苦しい。以前、日経新聞の『私の履歴書』にナベツネが登場していたが、いかに自分が素晴らしいかを一ヶ月に渡って延々と書き続けており、正直げんなりした。しかし結局、全部読んでしまったが。
ナベツネは政治にも積極的に介入する。『私の履歴書』にも、これまで様々な政治的な局面において、政治家同士の会談を設定するなど、自分が一定の役割を果たしてきたことが自慢げに書かれている。全くもっていけ好かないおやじなのだが、でもありもしない幻想を抱いたり、本当はしないといけないことをしないで、さらにそのしていないことが、もともと存在すらしなかったというような顔をしたりするよりは、ましだと思うのだ。
まぁこういうことを書いたからって、ぼくが新聞にたいして取り立てて何かの期待をしているというわけではない。これから読売新聞を読み続けると、決意しているわけでもない。だいたいナベツネが死んだら、読売新聞はどうなるのだろうと思うし。ただこういうことって大事だよなと、書きながら自分に言い聞かせているのである。
ちなみに今日の読売新聞の書評欄に、面白い書評が載っていた。
小倉紀蔵評 『テロリズムを理解する』(F.M.モハダム、A.J.マーセラ編)
「テロとはらっきょうのようなもの」だそうだ。「外側からいくら皮をむいても、結局中身は逃げてしまうのだ。それは、学者たちが自分をテロの外側に置いているからだ。自分の内面とテロリズムが実はつながっている、という自己破壊的な自覚から出発していないからだ」という。誠に同感である。
またこれも面白かった。
米本昌平評 『精神疾患は脳の病気か』(エリオット・S・ヴァレンスタイン著)
多くの医学書に「精神疾患は脳内の神経伝達物質のバランスの欠如に因る」と書いてあるが、それが患者本人、家族、製薬会社、医師、保険会社など、関係者によって好都合であるために、実際より過大に喧伝されているということなのだそうだ。同じようなことに「胃潰瘍の原因はピロリ菌である」というのがあると思うのだが、こちらはどうなのだろう。
あとこれも。
土居丈朗評 『現代の金融政策-理論と実際』(白川方明著)
政治の駆け引きの中で、図らずも日銀総裁になってしまった白川氏だが、この自著ではバランスの取れた主張をしているそうである。今後白川総裁は、活躍できるのだろうか。
今日のコボちゃんも、それなりに面白かった。コボちゃんがお父さん、お母さんと歩いているところに、歩きタバコをしている男性が通りすがる。お母さんはお父さんに「注意しなさいよ」と促す。お父さんが「歩行禁煙ですよ」と意を決した顔つきで呼びかけると、お父さんに何やらヒソヒソと耳打ちする男性。立ち去る男性を背に「極秘の聖火リレーだって」と、嬉しそうなお父さん。「そんなわけないでしょ」と憮然とした顔でお母さん。
「歩行禁煙が極秘の聖火リレー」というアイディア自体もかなり面白いと思うが、さらにそれを四コマという流れの中にどう展開させていくかということが、漫画家の腕の見せ所だろう。コボちゃんのお父さんも、サザエさんのマスオさんと同じく、どうやら入り婿のようで、家庭内での立場は弱い。他人の歩行禁煙を、お母さんに言われて注意しに行くお父さん、というシチュエーションを背景にストーリーが進み、最後のお母さんの突っ込みで終わる。
この最後のお母さんの突っ込みだが、他の漫画で慣れたセンスからすると、ちょっと余分な感じもする。「極秘の聖火リレー」というアイディア自体が十分面白いのだから、それを出したらその後にはあまり続けず、せめて登場人物にずっこけさせるくらいにして、さくっと終わらせるというのが定石なのではないだろうか。でもここで敢えて憮然とした顔のお母さんに「そんなわけないでしょ」と突っ込ませることで、ただアイディアの提示に終わらない、コボちゃん家族の日常の風景が見えてくるのである。ここに、コボちゃんの面白さの秘密があると思う。
読売新聞は読み出して半年ほどになるのだが、その前は数年、日経新聞を読んでいた。その前はやはり数年、毎日新聞、そしてその前が朝日新聞。その前、結婚して自分で選んだ最初の新聞が、読売新聞だった。
読売新聞というと、どちらかというと「インテリじゃない人が読む新聞」に分類されるのではないかと思う。実際スポーツに興味のないぼくには、読売ジャイアンツについての大量の記事は全く意味がない。また家で主婦が読むことを考えてのことだろう、家庭欄も充実しており、だから読売新聞の紙面の半分は、ぼくはほとんど読まない。
さらに最近、読売新聞は「メガ文字」という、どの新聞よりも大きな活字を採用した。 これは高齢者を対象にした戦略だろうから、これもぼくにはあまり関係ない。要は読売新聞というのは、ジャイアンツ好きという、どちらかというと保守的な男性と、主婦と、そして高齢者を相手にしたものなのだ。
今ぼくの年齢くらい、四十代くらいの、仕事をバリバリやる人たちが中心的に読んでいる新聞と言えば、日経新聞だろう。駅の売店で買って、行きの電車で読むというのが定番だ。「株屋の新聞」と揶揄された時代もあったようだが、今は「世界経済と企業経営」を中心テーマに据え、将来は社長か重役に、と密かに思う、若いキャリア達の心をぐっとつかんでいると思う。そういう人たちの目から見えれば、電車で少年ジャンプを読む人間は、負け組みの典型だろう。そんな趣旨の広告も、たしか日経新聞は打っていたと思う。
ちょっと前ならたぶんそういう人たち、社会の中心的な担い手のうち、問題意識を持ち、何事にも前向きに取り組んでいくような人たちは、朝日新聞を読んでいたのではないだろうか。ぼくより一世代上の団塊の世代くらいの、大学生時代に学生運動に熱心に取り組んだような人たちは、たぶんみんな朝日新聞だったのではないかと想像する。しかしおそらく今、朝日新聞はその座を日経新聞に明け渡したのだ。それは冷戦下のイデオロギーの時代が終わり、グローバル社会の中での熾烈な競争の時代に突入したことの、一つの表れなのだと思う。
新聞の役割は、一つにはもちろん、様々な出来事を速報するというところにある。またその時、「中立である」という、出来事の当事者のどちらの側にも与することなく、客観的な記述をすること、が求められているだろう。
しかし新聞の役割はそれだけではない。個別の出来事の背後にある、「社会全体と」いうものについて論じ、それがこれからどのようになっていくと予想されるのか、また社会の構成員たる一人一人がそれに向けてどうしていくべきなのか、について、読者が考える機会を与えなければいけない。それは新聞というものの社会的な使命だろう。
ところがこれは、実は大変難しい問題である。社会の「全体」となった瞬間に、個別の「出来事」の時には可能であった、「当事者と報道する側の切り分け」ができなくなる。報道する側も、社会全体を構成する当事者の一員になってしまうからである。
朝日新聞はおそらく、それをあくまで認めず、社会は個別のみならず全体としても、客観的に分析し、論じることが可能であると信じた。それはまた共産主義の思想が信じたものでもある。社会を科学的に分析可能な対象物としてみなし、その分析結果に基づいて「共産主義社会」が理想のあり方であると提案する。しかし共産主義社会が見るも無残な独裁国家に成り果て、そして没落していった経緯が、それが幻想であったことをはっきり示している。朝日新聞の凋落は、それと軌を一つにしている。
それに対して日経新聞は、「社会全体を論じる」ということを巧妙に避けている。自分たちはあくまで「経済についての新聞」である、という理屈だろう。日経新聞は社会の全体的な問題についても、常に「経済」とか「経営」とかいう視点からのみ、物を言う。それが独自の歯切れよさを生んでいる。
しかし本当は、それは欺瞞である。社会が経済とそれ以外の世界にはっきりと分けられるわけではない。今の経済活動の大前提となっているグローバル社会の今後というものは、経済という視点だけからでは絶対に考えられない。そのような重要な問題を置き去りにしておきながら、あたかも自分がオピニオンリーダーであるかのような振る舞いをすることは、社会にとっては本来、百害あって一利なしである。
この問題について、読売新聞というのは、ひと言で言えば「ナベツネ」なのだ。読売新聞は社会全体について、一般誌として朝日新聞と同様、また日経新聞とは異なって、かなりはっきりとした主張をする。ところがその内容は詰まるところは、ナベツネ個人の主張なのである。
あのナベツネという人、好きかと言えば好きではない。自分が好き、という感じで、見るからに暑苦しい。以前、日経新聞の『私の履歴書』にナベツネが登場していたが、いかに自分が素晴らしいかを一ヶ月に渡って延々と書き続けており、正直げんなりした。しかし結局、全部読んでしまったが。
ナベツネは政治にも積極的に介入する。『私の履歴書』にも、これまで様々な政治的な局面において、政治家同士の会談を設定するなど、自分が一定の役割を果たしてきたことが自慢げに書かれている。全くもっていけ好かないおやじなのだが、でもありもしない幻想を抱いたり、本当はしないといけないことをしないで、さらにそのしていないことが、もともと存在すらしなかったというような顔をしたりするよりは、ましだと思うのだ。
まぁこういうことを書いたからって、ぼくが新聞にたいして取り立てて何かの期待をしているというわけではない。これから読売新聞を読み続けると、決意しているわけでもない。だいたいナベツネが死んだら、読売新聞はどうなるのだろうと思うし。ただこういうことって大事だよなと、書きながら自分に言い聞かせているのである。
ちなみに今日の読売新聞の書評欄に、面白い書評が載っていた。
小倉紀蔵評 『テロリズムを理解する』(F.M.モハダム、A.J.マーセラ編)
「テロとはらっきょうのようなもの」だそうだ。「外側からいくら皮をむいても、結局中身は逃げてしまうのだ。それは、学者たちが自分をテロの外側に置いているからだ。自分の内面とテロリズムが実はつながっている、という自己破壊的な自覚から出発していないからだ」という。誠に同感である。
またこれも面白かった。
米本昌平評 『精神疾患は脳の病気か』(エリオット・S・ヴァレンスタイン著)
多くの医学書に「精神疾患は脳内の神経伝達物質のバランスの欠如に因る」と書いてあるが、それが患者本人、家族、製薬会社、医師、保険会社など、関係者によって好都合であるために、実際より過大に喧伝されているということなのだそうだ。同じようなことに「胃潰瘍の原因はピロリ菌である」というのがあると思うのだが、こちらはどうなのだろう。
あとこれも。
土居丈朗評 『現代の金融政策-理論と実際』(白川方明著)
政治の駆け引きの中で、図らずも日銀総裁になってしまった白川氏だが、この自著ではバランスの取れた主張をしているそうである。今後白川総裁は、活躍できるのだろうか。
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