こんにちは。ご訪問いただきありがとうございます。
このブログは、50歳バツイチ独身ひとり暮らしのおっさん、高野が、日々の自作料理と日常の出来事を、あれこれ書き連ねているものです。
お酒と恋が中心の、自由気ままな生活ですが、参考にしていただけることがあるようでしたら幸いです。
さて昨日の晩酌は・・・。
BNT炒め・・・。
なにそれ。
豚コマ(B)、菜の花(N)、卵(T)で、BNT・・・。
なんじゃそりゃ。
ということで。
豚肉を青菜と炒めると相性抜群なのは、言うまでもないことですよね。
だから今出盛りの菜の花、これも言うまでもなく、豚肉と合う。
ここにさらに、ふんわり卵を加えてやれば、もう完璧だろうという話です。
味つけは、基本は塩コショウ。
それにオイスターソースだのなんだの、色々と隠し味を加えました。
まずは菜の花をサッと塩ゆで・・・。
10秒ほどでザルにあける・・・。
卵も、多めのサラダ油で半熟加減に炒めておく・・・。
あらためて強火にかけたフライパンにサラダ油を引き、豚のコマ肉を炒める・・・。
肉の色が変わったら、合わせ調味料を投入・・・。
合わせ調味料は、酒大さじ1、砂糖と酢、オイスターソースを小さじ1、塩少々。
サッと混ぜ、合わせ調味料を肉にからめたら、下ゆでした菜の花、炒めた卵をもどし入れる・・・。
全体を混ぜて水溶き片栗粉でトロミをつけ、味を見て塩加減し、コショウをふる・・・。
BNT炒めの出来あがりー。
これは言うまでもなくウマイっす。
しつこいし。
あとは生節とほうれん草のにゅうめん。
炭水化物を少しは取れば、酒の量が減るかなと、素麺を入れてみたという企画。
生節は、要はかつお節の前の段階のものだから、いいだしが出るんですよね。
素麺は少し固めにゆで、ザルにあけて水で洗っておく・・・。
2カップの水に、ほぐした生節1/2とだし昆布を入れて中火にかけ、煮立ったら弱火にして5分くらい煮る・・・。
5分たったら昆布はとり出し、酒大さじ2、うすくち醤油大さじ1、塩少々で味つけする・・・。
取り出した昆布は、料理中の酒の肴としてその場で食べてしまうようにすると、あとから処理する手間が省けます。
わさび醤油とかウマイっす。
あとは塩ゆでし、水にさらしてよく絞ったほうれん草、それに素麺を入れ、ひと煮立ちさせれば出来あがり・・・。
酒は、素麺のおかげで、いつもより1合減りました。
でも5合飲んでたのが4合になったというだけの話ですので、飲み過ぎに違いはないっす。
昨日本屋で、この本を見つけて買い、読みました。
「医者に殺されない47の心得」。
とても面白かったです。
「医者に殺されない」とか、ずいぶん過激なタイトルが付いているんですけど、著者の近藤誠さんも、慶応大学病院の先生、医者なんですね。
そのお医者の先生が、
「現代の医療はほとんどが不必要なもので、病気を治すどころか、むしろ命を縮めることにしかならない」
と言っているんです。
本に最もよく登場する病気はガンで、
「ガンは放置するのが一番いい」
のだそうです。
ガン検診なども意味がなく、しないほうがいいのだとか。
ガンは、もしそれが本物のガンだったら、ガン検診で見つかる1ミリとか、1センチの大きさになった時点で、もうすでに全身に転移しているから、治療しても治りようがない。
でもガン検診で「ガン」とされるものの中には、実はガンではなく、「ガンもどき」のようなものがあり、それは放っておいても悪さをせず、そのまま消えてしまうことも多い。
それを手術だの抗ガン剤だのをやってしまうと、かえってガンが暴れ出し、それで死に至ることがとても多いというんですね。
また手術をすると、例えば乳がんなら乳房を全摘するなどということになるわけだし、抗ガン剤も、体調が大きく悪化することになる。
それだけのことをしても、実は延命率はまったく変わらないか、むしろ治療をしたほうが、死亡する確率が増えるのだそうで、
「それなら何もしないほうがいいだろう」
という話です。
これを、著者は至極まじめに書いている。
きちんとした研究実績のある一流の先生だから、世界中で発表される論文に目を通し、具体的なデータを出して説明する。
また自分の臨床経験も多く出てくる。
変な暴露本などでは全くなく、すごく説得力があるんですよね。
著者の先生は慶応大学病院で、
「ガンを放置する」
という治療をしているんだそうです。
もう何百人というガン患者が、著者の先生のもとで、手術や抗ガン剤などの治療をせず、本当に痛みがでたり、日常生活に支障が出たときだけ、放射線などの治療をするということをしてきている。
それにより、何人もの人が、ガンが治ってしまっているというんです。
またもちろん、治らずに亡くなる方もいるそうですが、手術や抗ガン剤治療をしたときのように苦しむことはなく、まさに「枯れるように」、穏やかに亡くなっていくというんですね。
「ガンは痛むのでは」と思うところもありますよね。
でもそれは、手術をしたりしたときの場合であり、食道がんなど多くのガンは、痛みなどの自覚症状がないのだそうです。
また放射線治療をすることにより、症状を改善できる場合も多いし、さらにモルヒネをきちんと管理して使えば、中毒などになることなく、痛みを消すことができるのだとのこと。
それでこの本、また最後がいいんですよね。
まあ書かないようにしておきますが、かなりの感動があって涙が出ました。
ぼくなども、酒はガブ飲みするわ、タバコは吸うわですから、早めに何かの病気になる確率が高いのだと思っています。
でも病気になったら、延命治療などせず、そのままスッと逝きたいなと常々思っていたんですが、この本を読み、背中を強く、押されたような思いがしました。
「ポックリ死ぬならガンが一番」なのだそうです。
「ポックリ死にたい」と思っている人には、この本はぜひともオススメです。
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「そうやってまたお酒を飲むんでしょう。」
飲み過ぎないように気を付けるよ。
2013-04-01
2011-07-12
「復興の精神」おもしろい
今毎晩風呂に入りながら、「復興の精神」というのを読んでいて、けっこう面白い。
大震災と原発災害について、日々報道機関によりニュースが流され、各界の識者がさまざまな具体的提言を発表しているけれど、もう少しじっくりと、
「今何をなすべきなのか、何を考えるべきなのか」
を考えたい。
ということで、新潮新書編集部が人選した9人が寄稿したというもの。
たしかに震災と原発について、僕も特集した雑誌をいくつか読んだりして、非常に勉強にはなったのだが、ちょっともう食傷気味。
目の前にいまだ復興の進まぬ被災地と、極度の混迷におちいった政治の状況があり、そこから目を離してはいけないけれど、もう少し大きなスパンでものを考えたい。
そんな風に感じている今、この本はなかなか参考になる。
いくつか興味を惹くものがあるのだが、一つは禅僧 南 直哉が「祈り」について書いたもの。
被災地の人達の今もつづく過酷な現実にたいして、多くの国民は「無力」である。
もちろんボランティア活動をしたり、経済的な応援をしたりということはあるけれど、被災者の人達の苦しみを自分が代わってやることはできない。
そういう巨大な現実を目の前にしたとき、人間は「祈る」という言葉のほんとうの意味を知ると南は言う。
これまで日本は、また同様に世界は、現実にたいして、
「何でも思い通りにすることができる」
と考え、科学技術を発展させ、政治経済の枠組みを形作ってきた。
でも今回の震災と原発事故が示しているのは、
「思い通りにならない現実というものが、ある」
ということだ。
今回の震災を機に、現実をなんでも思い通りにしようとすることを一旦やめ、
「人間は無力なのだ」
ということを前提とした、新たな生き方を模索すべきではないのか、と南は言う。
僕も今回の震災をきっかけとして、「祈り」の意味を初めて知ったクチだ。
以前から宗教家の意見を聞いてみたいと思っていたのだが、この南の考えは、僕自身が今漠然と感じることと、ぴったりと重なる感じがした。
それからもう一つは、医師 大井 玄の文章。
今の日本の状況が示している際立った特徴は、一つには、被災地の人々が冷静・沈着で、災害時には横行するものである略奪などもいっさい起きず、他人にたいして思いやりを持った、秩序だったふるまいを維持していること。
そしてもう一つは、政治におけるリーダーシップの決定的な欠如である。
そう大井は言う。
しかし日本のこの特徴は、今に始まったことではなく、徳川時代からすでにそうだったというのである。
幕末に日本へやって来た欧米の使節団は、
「日本は文化的、経済的には程度が高いが、政治的には無能である」
という評価を下している。
そのことをこれまで多くの識者が嘆きつづけてきたけれど、それはいまだ全く変わっていないということが、今回の震災で証明されている。
しかし、と大井は言う。この民衆の秩序と政治の無能さとは、全く同じ、一つのことの二つの側面なのだと。
日本は狭い国土と、限られた資源の中、森林の管理や有機肥料の活用などを緻密におこない、リサイクル型の生活様式を編み出すことにより、多くの人口を養ってきた。
江戸時代後期には、アメリカの国土の30分の1で、しかもその8割が山岳地帯という狭い貧しい土地において、アメリカより1千万人も多い3300万人が平和に暮らしてきた。
そのために必要だったことが、
「分を超えた欲望の自制、勤勉、そして争いの回避と協調」
という倫理意識だったという。
この倫理意識が、「被災者の人たちの秩序だった行動」と、「政治の無能さ」との両方にあらわれている。
たしかに政治的な混乱は、嘆かわしいことではあるが、それでは政治家がリーダーシップを発揮すれば、それで問題は解決するのかといえば、「そうではない」と大井は言う。
たとえば、アメリカはサダム・フセインがアルカイダと結託し、大量破壊兵器を保持しているという全くの「妄想」のもとに、イラクを攻撃し、フセインを殺害した。
しかしこれは、当時のブッシュ大統領による、強力なリーダーシップによって行われたのではなかったか。
地球だって本当は、限られた資源しかない、狭い土地なのだ。
そういう場所で、アメリカのように武力で他国を脅迫するようなことをしていたら、人類は遠くない将来到底やっていけないことになる。
日本は政治的にいかに無能であろうとも、古来より幾多の災害に遭い、それを克服し、復興したきた。
今回の大震災と原発災害だって、多くの困難はあろうとも、日本人は克服していくだろう。
復興の原動力は、「勤勉と協調」という日本人の倫理意識に根ざすもので、それこそが、これからまさに、世界にとっても必要とされるものではないのかと、大井は言う。
かなり共感するものがありますね。
昨日の昼めしは、ハマチあら炊きの煮こごり。
煮こごりというのは、炊きたてとは全くべつの食い物になるのだよな。
これはいいですよね。
晩めしは、茄子と鶏のうま煮。
僕がいつも見ている「ねこおやじさん」という人のブログに、「茄子のうま煮」というのが載っていて、それを参考にした。
http://nekouresi.blog85.fc2.com/blog-entry-419.html
ねこおやじさんのレシピは、茄子を単品で煮込むものなのだけれど、一人暮らしで食事を作るとなると、単品の惣菜をいくつも作るのは手間がかかるから、いくつかの材料を一気に料理できるもののほうがいいというのが、僕の考え。
それで茄子を鶏肉といっしょに煮て、素麺を添えてみた。
茄子は皮を残すと煮汁が青く染まってしまうから、皮はすべて剥いて使った。
鶏肉と茄子とを多めの油で炒め、そこへたっぷりの酒と、水を入れ、砂糖、みりん、醤油でこってりめに味付けして、しばらく煮るという話。
簡単にできて大変うまいです。
昨日は大七からくち生もとを2合半で飲み切った。
大震災と原発災害について、日々報道機関によりニュースが流され、各界の識者がさまざまな具体的提言を発表しているけれど、もう少しじっくりと、
「今何をなすべきなのか、何を考えるべきなのか」
を考えたい。
ということで、新潮新書編集部が人選した9人が寄稿したというもの。
たしかに震災と原発について、僕も特集した雑誌をいくつか読んだりして、非常に勉強にはなったのだが、ちょっともう食傷気味。
目の前にいまだ復興の進まぬ被災地と、極度の混迷におちいった政治の状況があり、そこから目を離してはいけないけれど、もう少し大きなスパンでものを考えたい。
そんな風に感じている今、この本はなかなか参考になる。
いくつか興味を惹くものがあるのだが、一つは禅僧 南 直哉が「祈り」について書いたもの。
被災地の人達の今もつづく過酷な現実にたいして、多くの国民は「無力」である。
もちろんボランティア活動をしたり、経済的な応援をしたりということはあるけれど、被災者の人達の苦しみを自分が代わってやることはできない。
そういう巨大な現実を目の前にしたとき、人間は「祈る」という言葉のほんとうの意味を知ると南は言う。
これまで日本は、また同様に世界は、現実にたいして、
「何でも思い通りにすることができる」
と考え、科学技術を発展させ、政治経済の枠組みを形作ってきた。
でも今回の震災と原発事故が示しているのは、
「思い通りにならない現実というものが、ある」
ということだ。
今回の震災を機に、現実をなんでも思い通りにしようとすることを一旦やめ、
「人間は無力なのだ」
ということを前提とした、新たな生き方を模索すべきではないのか、と南は言う。
僕も今回の震災をきっかけとして、「祈り」の意味を初めて知ったクチだ。
以前から宗教家の意見を聞いてみたいと思っていたのだが、この南の考えは、僕自身が今漠然と感じることと、ぴったりと重なる感じがした。
それからもう一つは、医師 大井 玄の文章。
今の日本の状況が示している際立った特徴は、一つには、被災地の人々が冷静・沈着で、災害時には横行するものである略奪などもいっさい起きず、他人にたいして思いやりを持った、秩序だったふるまいを維持していること。
そしてもう一つは、政治におけるリーダーシップの決定的な欠如である。
そう大井は言う。
しかし日本のこの特徴は、今に始まったことではなく、徳川時代からすでにそうだったというのである。
幕末に日本へやって来た欧米の使節団は、
「日本は文化的、経済的には程度が高いが、政治的には無能である」
という評価を下している。
そのことをこれまで多くの識者が嘆きつづけてきたけれど、それはいまだ全く変わっていないということが、今回の震災で証明されている。
しかし、と大井は言う。この民衆の秩序と政治の無能さとは、全く同じ、一つのことの二つの側面なのだと。
日本は狭い国土と、限られた資源の中、森林の管理や有機肥料の活用などを緻密におこない、リサイクル型の生活様式を編み出すことにより、多くの人口を養ってきた。
江戸時代後期には、アメリカの国土の30分の1で、しかもその8割が山岳地帯という狭い貧しい土地において、アメリカより1千万人も多い3300万人が平和に暮らしてきた。
そのために必要だったことが、
「分を超えた欲望の自制、勤勉、そして争いの回避と協調」
という倫理意識だったという。
この倫理意識が、「被災者の人たちの秩序だった行動」と、「政治の無能さ」との両方にあらわれている。
たしかに政治的な混乱は、嘆かわしいことではあるが、それでは政治家がリーダーシップを発揮すれば、それで問題は解決するのかといえば、「そうではない」と大井は言う。
たとえば、アメリカはサダム・フセインがアルカイダと結託し、大量破壊兵器を保持しているという全くの「妄想」のもとに、イラクを攻撃し、フセインを殺害した。
しかしこれは、当時のブッシュ大統領による、強力なリーダーシップによって行われたのではなかったか。
地球だって本当は、限られた資源しかない、狭い土地なのだ。
そういう場所で、アメリカのように武力で他国を脅迫するようなことをしていたら、人類は遠くない将来到底やっていけないことになる。
日本は政治的にいかに無能であろうとも、古来より幾多の災害に遭い、それを克服し、復興したきた。
今回の大震災と原発災害だって、多くの困難はあろうとも、日本人は克服していくだろう。
復興の原動力は、「勤勉と協調」という日本人の倫理意識に根ざすもので、それこそが、これからまさに、世界にとっても必要とされるものではないのかと、大井は言う。
かなり共感するものがありますね。
昨日の昼めしは、ハマチあら炊きの煮こごり。
煮こごりというのは、炊きたてとは全くべつの食い物になるのだよな。
これはいいですよね。
晩めしは、茄子と鶏のうま煮。
僕がいつも見ている「ねこおやじさん」という人のブログに、「茄子のうま煮」というのが載っていて、それを参考にした。
http://nekouresi.blog85.fc2.com/blog-entry-419.html
ねこおやじさんのレシピは、茄子を単品で煮込むものなのだけれど、一人暮らしで食事を作るとなると、単品の惣菜をいくつも作るのは手間がかかるから、いくつかの材料を一気に料理できるもののほうがいいというのが、僕の考え。
それで茄子を鶏肉といっしょに煮て、素麺を添えてみた。
茄子は皮を残すと煮汁が青く染まってしまうから、皮はすべて剥いて使った。
鶏肉と茄子とを多めの油で炒め、そこへたっぷりの酒と、水を入れ、砂糖、みりん、醤油でこってりめに味付けして、しばらく煮るという話。
昨日は大七からくち生もとを2合半で飲み切った。
2011-06-05
大前研一 「日本復興計画」
震災前から、日本という国、日本の社会は、なにかおかしいのじゃないかと、思っていたひとも多いのじゃないかと思いますが、震災が起きてみて、それまではなんとなく、漠然と感じていたことが、目の前で実際に、はっきりとした姿であらわれてきて、日本というのはこうだったのかと、今さらながらはっきりと、実態を突き付けられるということが、あるわけですよね。原子力村と言われる、産官学の馴れ合いぶりもあきれるばかりだし、この事態に対して、ほんとうならば力を発揮してもらわなければいけないはずの、政府や政治家のひとたちの体たらくにも、もうあきれるということを通り越して、笑ってしまうというところすらある。
菅首相のリーダーシップが、ないのは確かなのだけれど、それじゃそれを攻撃する自民党や、小沢一郎に、それに代われるだけのものがあるのかといえば、そうとも見えない。菅首相がダメなのならば、それじゃどうしなくちゃいけないのかという対案もしめさず、ほとんどただ菅首相の人格や能力を攻撃するという姿はまったく不毛で、それじゃ、そのひとたちが政権を担当すれば、事態がよくなると思えるのかというと、まったくそんなことはない。民主党の若いひとたちには、ぜひがんばってもらいたいとは思うけれども、でもこうやって、自民党やら小沢一派やらが、ワケのわからない攻撃をしてくるという状況では、ちょっとしたひとが出てきたって、またすぐ潰されてしまうというのは、目に見えている。
このように、まったくお先まっ暗な政治の状況なのだけれど、でも僕たち国民が、それをどう受け止めなければいけないかというと、今の政治は、まさに日本国民の鏡であるということなんですよね。
すべての政治家は、国民によって選ばれているわけだし、政治家というのは国民の支持を得るために、選挙区の多くのひとが思っていることを代弁するということになるわけだから、そのひとたちが集まっている政府や国会というものは、まさに日本の縮図、日本がそこにあると言ってもいい。そういうひとたちに、国民自身が考えてもいなかった名案や、自分たちが持ってもいないようなリーダーシップを求めるというのは、まったくのまちがいなのであって、まあもちろん、政治制度のあり方みたいなものは、考えていかなくてはいけないことはあるのかもしれないけれど、国民が、ただ政治を非難するというのは、天に唾するというのとおなじようなもので、自分たちを棚にあげて、ただ物事をひとのせいにしていると、いうことだと言えるのでしょう。
そうであるとすれば、政治を変えていこうとしたら、けっきょくは国民のひとりひとりが変わっていくことが、まわり道のように見えても、いちばんの近道であるということになるのではないのか。国民が変わっていけば、それに合わせて政治家も、自動的に変わっていく。そうであるとしたならば、それでは自分は、これからどう変わっていったらいいのか、どのように生活し、どういう人生をおくっていったらいいのか、そういう問題があるわけですよね。僕はそれこそが、日本国民がこれから、考えていかなければいけない、もっとも重要な問題なのじゃないかという気がします。
それを考えようというとき、この大前研一「日本復興計画」は、出発点とするのになかなかいい本なのじゃないかと思えます。
大前研一はもともと、原子力工学の専門家で、MITで博士号をとり、日立製作所で原子炉プラントの設計をしていたというひとです。だから、原子炉の実際のことについて、異常にくわしい。今ほかにも、元東芝の技術者だったひととか、大学で原子力を研究しているひととか、いろいろなひとがテレビやネットなどで発言しているけれども、くわしさという意味でも、大前研一は抜きん出ているのじゃないかという感じがする。
それも、ただくわしいというだけでもなくて、それを論じるときの立場が、原発推進でもなく、反原発でもなく、わりとニュートラルな感じがするのが、この本をとても読みやすいものにしている。大前研一は、もともと原子力の推進派であったのだけれど、今回の事故で、東京電力のお粗末なバックアップ体制が白日のもとにさらされてしまったあとでは、東京電力がどんなにセールストークを弄したとしても、引き受けてくれる自治体があるわけがない。だから日本に新たな原子炉を建設することは未来永劫できず、日本の原子力産業はこれで終わったと、はっきりと言う。そういう冷静な事実認識が、この本に書かれている論の基盤になっている。
福島原発の処理や、計画停電についての考え方、東京電力やエネルギー政策の今後など、細かいところでもいろいろおもしろいところがあるのだけれど、この本がとくにおもしろいと僕が思うところは、この本のタイトルにもなっているのだけれど、これからの「日本復興」というものを、どのような考え方によって、進めていったらいいのか、という、いちばん後半に書かれている部分です。
日本というのはじつは、この20年にわたって、衰退してきていると、大前氏は言います。まあそれ自体は、誰でも、なんとなく実感しているものかとは思うのですが、この20年間の国民全体の「家計所得」というものが、ほかの先進国が2~2.5倍、新興国では10倍にもなっているというのに、日本だけが、12パーセントも目減りしているというのです。僕はそういう数値を知ったのははじめてだったので、かなり衝撃でした。世界の国の中で、日本だけが貧乏になっている。大前氏は、下手をするとこのまま、スペインやポルトガルのように、数百年にわたる停滞を、日本は経験することになるかもしれないと言います。
給料は増えず、住宅ローンと教育費は横ばい。しかもその住宅ローンも、お金を払いつづけているのに、住宅の値段が下がり、資産としての価値は目減りしてしまっている。この住宅価格が下がってしまっているということが、日本人の家計所得を押し下げることの、元凶のひとつだというのです。
それはひとつは、住宅の耐用年数が、日本の場合とても短いということがあって、アメリカが63年、イギリスが84年であるのにたいして、日本はたった27年。その理由は、税制の問題だとか、銀行の問題だとか、いろいろあるのだけれど、中でも大きいのは「街並み」の問題だという。アメリカやドイツでは、街並みを良くするために、地域がお金をかける。街並みがよければ、住宅価格は値上がりするから。それにたいして日本では、そういうところがひとつもない。それは日本の建築基準法に、街並みについての記述が、なにひとつないということが理由なのだそうなのです。
このことを例に引きながら、大前氏は、地域にまかせられることは、もっと大幅に地域にまかせるという、「道州制」を提唱します。道州制は、いま国が握っている権限を、もっと大幅に地域に移譲することで、地域が自分で、自分たちが豊かになれる方策を模索しようという考え方なのだそうですが、たとえば建築基準法についても、それを地域にまかせてしまえば、地域にとっては自分たちのことだから、資産価値があがるように、建築基準法を改正しようということになる。そのように、地域にできることは、地域がやるというようにすることが、日本を復興するうえで大事なことだと、大前氏は言います。
中国が今、あれだけ経済成長しているというのも、べつに北京の中国政府が、すべてを計画しているということではない。各地域に権限を大幅に移譲し、地域は補助金を目当てにするのでなく、自分たちの責任において、世界の投資マネーを呼びこみ、そこで経済をまわしていくというようにしている。中国国内で各地域が、競争するように、そうやって自分たちで豊かになろうとしていっていることが、今のあの中国の繁栄であるといいます。道州制も、すぐに国が制度を変更するということにはならないだろうけれど、大阪都とか、中京都とか、そういうふうに、橋下知事なり河村知事なり、志をもつ首長がいるところから、実験的に試みをはじめ、それが成功するというということが見えてきたら、それを全国に広げたらいいのではないかと言います。じっさい大前氏は、橋本氏その他のひとたちと、いろいろ話したりもしているみたいです。
それからひとりひとりの国民が、これからどのように、人生をおくっていったらいいのかということについて、それこそ重大な問題であって、夫婦で相談して「ライフプラン」を設計するということをしてみたらどうだと、大前氏は言います。そこで大切なのは、まず家は持たない、車も持たない、そして子供は私大にやらない。家にしても車にしても、それらが資産価値の目減りをまねき、家計所得を減少させる大きな理由となっている。また子供だって、私大を出したからといって、今、将来が約束されているというものでもない。それよりは、これらにかかるお金を、自分や奥さんに投資して、会社に頼らなくても暮らしていける自分、パートよりは、もっといい仕事をすることができる奥さん、そして子供には、自分で勉強を教える、そういう、家族のスキルがほんとうの意味であがるようなことにお金を使ったほうがいいのではないか。経済が右肩上がりだったころには、家や車、教育費などというものも、すこしのあいだ苦しいけれども、がんばれば未来は明るいと思えるものだったけれども、経済が縮小している今は、それらはただ足かせにしかならない。大前氏はそう言いいます。
これからは、以前のように、日本政府が先導して、国全体が繁栄していくということはない。日本がこれからも全体として成長していくというのは、過去の神話であって、それはもう幻想として、終止符を打たなければならない。これから日本人を待ち受けているのは、全体としては経済が縮小していくという「乱世」であって、そこで必要なのは、政府や政治家に何かしてもらおうと頼りにすることではなく、自分だけが頼みの綱であると覚悟を決め、自分の頭で考え、行動していくこと。それによって、結果として、日本も豊かになっていく。大前氏はそのように言います。
道州制などの細かいことについては、いろいろ異論もあるのかもしれませんが、基本的な考えかたとして、僕は大前氏にたいへん共鳴できるところがありました。
2011-05-16
高木仁三郎 「いま自然をどうみるか」
僕が「原発の問題にとりくんでみたい」と相談したら、お世話になっている先生が、「まずこれを読んでみなさい」と教えてくれた、2冊の本のうちの、もう一冊。
「これがほんとにいい本なのよ」
と、いかにも惚れぼれとした様子で、先生はこの本のことを褒めていた。
アマゾンで注文したら、しばらく絶版になっていたものが、震災を機に注目がたかまり、つい最近再版されたとのこと。僕は以前から、自分が読むべき本が、まさに読むべきときに、次々と出版されるという、強運のもとに生まれていると自負している。幸せなやっちゃ。
ということで読んだこの本、実際すごい本だった。自分にとって、巨大な出会いで、これを僕は、これから繰り返し読む座右の書としたい。僕がまさに今、これからやりたいとおもっていることが、ほぼそのとおり、しかもはるかに明確に書かれている。これを僕にすすめた先生は、
「あなたがいま見つけたとおもっていることでも、他のひとが、ずっと前から取り組んでいるということだってあるんだから」
といっていたのだが、いやまさにそのとおり。やはりひとには、何でもきいてみるもんだ。
僕にとって、今回の東日本大震災、そして福島の原発事故は、人生において、ほんとうに巨大な経験だった。
僕はまず、震災の直後、これからこれを復興することは、「日本をあらたにつくり直すことである」というビジョンをみた。ひとがただ、自分勝手に、自分の利益を追求していくばかりでなく、おたがいに助け合い、慈しみ合っていく場所としての「日本」。震災後の一瞬だけ、固い大地が裂けるかのようにして、それは垣間みられたのだったけれど、いまはふたたび、開いた大地は閉じてしまった。でもひとびとの心の奥底に、そういう気持ちがあるということは、たしかに確認できたのだから、それをどうしたら、ふだんの生活のなかで、取り出していくことができるようになるかというのは、考えてもバチは当たらないだろう。
それからもうひとつ、そういう日本をつくっていこうとするときに、最大の障害となるものが、原子力発電所、およびそれを取り巻く、産官学の日本の体制、さらには核をめぐる国際情勢、そういうものであることもはっきりわかった。
原子力の危うさは、ただ「放射能が危険だ」ということにはとどまらない。それをけっして、中和したり、自然に帰したりすることができない、「放射性物質」という存在そのものについての危うさなのだ。それは「科学」というもののなかで生み出され、ひたすら自然を破壊するというところ以外には向かわない。巨大なエネルギーを管理するために、巨大な権力が必要とされ、その権力は、今度は人間のこころを蝕んでいく。ひとびとを甘い言葉でねむらせて、その間にどんどん、自分は大きくなっていく。映画やおとぎ話かとおもうような世界が、まさに現実だったのだ。
これから、それに立ち向かっていくためには、ひとりでも多くのひとびとが、科学者やら、政府やらのいうことを、盲目的に信じてしまわず、ほんとうにそれでいいのかということを、生活実感のなかで理解しようとし続けていくこと、それに尽きるのだとおもう。ひとりひとりが目を覚まし、関心をもち続けることが、けっきょくは世界を変えていく。そのためには「運動」が必要だ。僕はこれから、その運動を組織するということを、やっていきたいとおもっている。
などということを、震災以来、ぼつぼつと考えていたところ、高木仁三郎というひとは、それを何十年も前から、やってきたひとだったのだ。この「いま自然をどうみるか」には、その基本的な考え方が、くわしく書かれている。高木氏にとって「反原発」ということは、ただ反対運動だったのではなく、科学を批判的にとらえることにより、それを乗り越え、あらたな世界に至るための、象徴的であり、かつ具体的な課題だったのだ。僕はあまりに共感するところが多く、後半はもう一気に読んでしまった。
ただ一点だけ、高木氏はそれを、
「オルタナティブな科学」
と呼んでいる。「あたらしい意味での科学」とでもいうようなことかとおもうが、それはあくまで科学なのだ。高木氏にとって、目指すところは、ひとりひとりが「オルタナティブな科学者」になることなのだろう。
しかし僕は、科学者ではないわけだから、それは目指せないし、また目指そうともおもわない。科学者でもない、一般の素人が、自分の生活実感の全体に、科学を批判的に位置付けていく運動。僕はそれを、
「科学批評運動」
と呼んでみたい気がしている。
今週じつは、生前高木氏が代表をつとめた、「原子力資料情報室」へおうかがいし、話をさせてもらうことになっているのだ。それを踏まえながら、またぼつぼつ、いろいろ考えてみたい。
2011-04-03
アサリと白菜の小鍋だて
先日受けた塾講師アルバイトの面接の不採用通知が昨日とどいて、まあだいたいこのご時世、仕事がそうそう簡単に見つかるというわけもなく、それに
「手取り月額20万円を希望いたしております」
とか履歴書に書いてしまったから、そりゃ敬遠されるよなともおもい、とくべつ落ち込んでいるというわけではないのだけれど、やはり生活費の全額を一か所で稼ぐというのはちょっと難しいかもしれないなと思い直して、今日は「ライター」の仕事というのをネットでいろいろ探して、10件ばかし応募してみた。
ブログやらサイトやらの、埋め草原稿を受託するものなのだが、これがまた安くて、400字で100円くらいというのが相場。
僕はむずかしい内容でなければ、1時間に4,000字程度は書けるのだけれど、そうすると時給1,000円という計算になる。
こちらは時間の制約もないし、通勤の必要もないから、うまくこの両方をあわせて、ぎりぎり生活していかれる程度の稼ぎになったらいいなと思っている。
僕は前の会社で、5年ほど役員もやっていて、というか正確には前の会社は非営利団体だったから「理事」なのだが、それで「会社の経営」というものも知らないわけではないのだけれど、どうも僕には経営はあまり向かない気がする。
僕はどうも、「お金」にたいして情熱がわかなくて、もちろん必要な、大事なものだということはわかっているのだけれど、それについて考える時間が「無駄」のようにおもえてしまう。
「お金について考えずに暮らしていけたらいいよね、そりゃ」
とか言われそうだが、もちろんそれは僕だって考えなければ暮らしていけないのだけれど、まったく興味がわかず、考えていてもワクワクしないので、できればそれを考える時間は最小限にしたい。
車や家、その他高度な電化製品もとくべつ欲しいとおもわないし、ギャンブルにもこれまでの人生で、関心をもったことがない。
最低限の生活が送れて、できるかぎりの時間を自分の興味のあることに当て、65歳でポックリ死ぬというのが、僕は自分の人生としては理想だな。
南木佳士という作家の「天地有情」というエッセイ集を、人にすすめられて読んだ。
いきなり話はそれるが、僕は「小説」というものが全然ダメで、だいたい興味がわかないし、いくつか読んでみようとしたものもあるが、最初の数ページ、または数十ページで挫折してしまう。
村上春樹も「海辺のカフカ」というのは上下巻とも文庫で買い、また「1Q84」は本屋で立ち読みしてみたのだが、どちらも3ページほどで「これはダメだ」とおもいやめてしまった。
どちらも冒頭で、「謎」をかけてくるのだな。
これは僕にいわせれば、読者を引き入れるための「テクニック」であって、もちろん小説家にとって、それが必要であるというのはわかるのだけれど、「そんなものには騙されないぞ」とつい身構えてしまって、ページを閉じてしまうのだ。
高村薫の、もうタイトルも忘れてしまったが、1年前くらいに出た最新刊、それも単行本の上下巻を買って読みはじめたのだが、50ページほどでやはり挫折してしまった。
この小説では冒頭から、刑事である主人公の精神状態がおかしくなり、西新宿のビルが夏の炎天下に溶けてしまうように感じられるというような場面がつづいたりするのだけれど、まあ病気の人は気の毒だとおもうけれど、僕はそれ以上には興味はもてないし、ましてや精神病患者の視点をとおして、「社会を批評する」というようなやり方には、なんの正当性も感じることができないのだ。
というわけで「天地有情」、作者は芥川賞を受賞した小説家だそうで、たぶん僕は、これが小説だったら、最後まで読めなかったのじゃないかという気がするのだが、これはエッセイ集だったので、わりかし楽しく、最後まで読みとおした。
作者は「医者」で、医者というのは年に何百枚も「死亡診断書」を書くような仕事だそうで、目の前のひとが次々と亡くなっていくという現実の過酷さに耐えかねて、はじめは酒をのむことによって気を紛らわしていたら、からだを壊し、それで小説を書くようになったのだという。
そうやって小説を書くことにより、自分の精神の平衡をたもっていたつもりだったのが、10年ほどたってそれにも破綻をきたし、「パニック障害」から「うつ病」になってしまい、家から一歩も出られなくなり、医者の仕事もしばらくは休んで、それでも小説は書いていたということらしい。
うつ病のころに書いた小説は、「自分を癒すため」だけに書いたもので、自分の身近で亡くなった人をよみがえらせ、その人たちと対話するというものだったそうなのだが、それが芥川賞をとり、映画化もされて、それ以来小説家として認められるようになったのだそうだ。
「天地有情」というのは哲学者の「大森荘蔵」のことばだそうで、
「世界は客観的に存在するものであると近代の思想は信じているけれど、じつはそうではなく、世界はあくまで個人の内側にあるものであり、一人ひとりの感情がそのまま反映されたものなのだ」
ということを意味している。
精神病である自分にとって、世界はいかにも恐ろしげに映るものなのであるが、それはなにも精神病患者が幻覚をみているということではなく、それはそれで、やはりひとつの「世界」なのだ、それを実際に、正当な世界であると認めるところから、自分は立ち直ることができたのだし、またもしかしたら人類の今後というものを考えたときにも、それは大事なことなのじゃないかということも、言外にいおうとしているかとおもう。
これはしかし非常に微妙なところで、ふつうならば「精神病患者がなんのたわごとをいっているのか」と一蹴されかねないことなのだとおもうのだけれど、それがそうされずに、この人が作家として認められ、成り立っているというのは、この人自身の「生き方」によるのだとおもう。
この人は芥川賞をとり、作家として認められたあとも、医者をやめず、あくまでそれを生業として、休日の空いた時間に作家としての活動をするということをつづけている。
自身の作品が映画化されたときも、現場へもいかず、原作者のあいさつなどもせず、いっさいのかかわりをもたない。
それは要は、
「自分は自分の作品を、自分を癒すためだけに書く」
という姿勢をつらぬくことであり、そういう生き方がきちんと背景にあることで、この人の作品の特殊な立場が世の中に認められているということなのだとおもう。
しかしそれって、「文学」にとっては、たしかに「いのち」ともいえることなのだよな。
僕は小林秀雄を読んだときにも、ものすごく強くそうおもったのだけれど、文学作品がつたえようとしている内容というものは、科学的なこととはちがい、いかなるかたちでも「証明された」といえるものではない。
あくまでその作者の「考え」であるわけだ。
だからそれを「信じるのか、信じないのか」ということは、なにかの実証によるのではなく、その人自身を信じるのかどうか、というところにかかってくるのだな。
そしてそれを保証するのは、
「その人の生き方」
そのものであるわけだ。
自分が作品のなかに込めている内容と、自分自身の生き方が矛盾しないこと、それのみによって、文学作品の「正しさ」というものは成り立っているのであって、この「南木佳士」という人は、それをよくわかっているということなのだとおもう。
おとといの晩は、このごろはアサリが旬で、安く出回るようになっているから、それと白菜の小鍋だて。
ポン酢に七味を振りこんで食べた。
昨日は天然のブリが、またこれが安かったので、やはり安かったほうれん草、しいたけと一緒に小鍋だてにした。
ほうれん草としいたけはこのごろ値が下がっていて、それぞれ水菜、しめじよりずいぶん安くなっているのだけれど、これはいまが旬だということなのか。
やはりこれも、ポン酢に七味。
酒は「大七からくち生もと」で、昨日とおとといでこれを2合ずつのんで、のみ切った。
今日の昼めしは、もうこれは毎度のことだが仕方ないのだ。
「新福菜館三条店」。
僕はこの店の中華そばのジャンキーだから、今日これがとても食べたかったというわけでもないが、食べておかないとかならず数日後に禁断症状が出て、食べないわけにはいかなくなるのだ。
今日はビール中瓶とキムチ、ギョウザ、それに中華そばと白めし小の、フルコースにしてみた。
中華そばにはチャーハンを合わせるという手もあるのだけれど、僕はこのこってりと甘辛いスープで白めしを食べるというのがうまいとおもう。
「手取り月額20万円を希望いたしております」
とか履歴書に書いてしまったから、そりゃ敬遠されるよなともおもい、とくべつ落ち込んでいるというわけではないのだけれど、やはり生活費の全額を一か所で稼ぐというのはちょっと難しいかもしれないなと思い直して、今日は「ライター」の仕事というのをネットでいろいろ探して、10件ばかし応募してみた。
ブログやらサイトやらの、埋め草原稿を受託するものなのだが、これがまた安くて、400字で100円くらいというのが相場。
僕はむずかしい内容でなければ、1時間に4,000字程度は書けるのだけれど、そうすると時給1,000円という計算になる。
こちらは時間の制約もないし、通勤の必要もないから、うまくこの両方をあわせて、ぎりぎり生活していかれる程度の稼ぎになったらいいなと思っている。
僕は前の会社で、5年ほど役員もやっていて、というか正確には前の会社は非営利団体だったから「理事」なのだが、それで「会社の経営」というものも知らないわけではないのだけれど、どうも僕には経営はあまり向かない気がする。
僕はどうも、「お金」にたいして情熱がわかなくて、もちろん必要な、大事なものだということはわかっているのだけれど、それについて考える時間が「無駄」のようにおもえてしまう。
「お金について考えずに暮らしていけたらいいよね、そりゃ」
とか言われそうだが、もちろんそれは僕だって考えなければ暮らしていけないのだけれど、まったく興味がわかず、考えていてもワクワクしないので、できればそれを考える時間は最小限にしたい。
車や家、その他高度な電化製品もとくべつ欲しいとおもわないし、ギャンブルにもこれまでの人生で、関心をもったことがない。
最低限の生活が送れて、できるかぎりの時間を自分の興味のあることに当て、65歳でポックリ死ぬというのが、僕は自分の人生としては理想だな。
南木佳士という作家の「天地有情」というエッセイ集を、人にすすめられて読んだ。
いきなり話はそれるが、僕は「小説」というものが全然ダメで、だいたい興味がわかないし、いくつか読んでみようとしたものもあるが、最初の数ページ、または数十ページで挫折してしまう。
村上春樹も「海辺のカフカ」というのは上下巻とも文庫で買い、また「1Q84」は本屋で立ち読みしてみたのだが、どちらも3ページほどで「これはダメだ」とおもいやめてしまった。
どちらも冒頭で、「謎」をかけてくるのだな。
これは僕にいわせれば、読者を引き入れるための「テクニック」であって、もちろん小説家にとって、それが必要であるというのはわかるのだけれど、「そんなものには騙されないぞ」とつい身構えてしまって、ページを閉じてしまうのだ。
高村薫の、もうタイトルも忘れてしまったが、1年前くらいに出た最新刊、それも単行本の上下巻を買って読みはじめたのだが、50ページほどでやはり挫折してしまった。
この小説では冒頭から、刑事である主人公の精神状態がおかしくなり、西新宿のビルが夏の炎天下に溶けてしまうように感じられるというような場面がつづいたりするのだけれど、まあ病気の人は気の毒だとおもうけれど、僕はそれ以上には興味はもてないし、ましてや精神病患者の視点をとおして、「社会を批評する」というようなやり方には、なんの正当性も感じることができないのだ。
というわけで「天地有情」、作者は芥川賞を受賞した小説家だそうで、たぶん僕は、これが小説だったら、最後まで読めなかったのじゃないかという気がするのだが、これはエッセイ集だったので、わりかし楽しく、最後まで読みとおした。
作者は「医者」で、医者というのは年に何百枚も「死亡診断書」を書くような仕事だそうで、目の前のひとが次々と亡くなっていくという現実の過酷さに耐えかねて、はじめは酒をのむことによって気を紛らわしていたら、からだを壊し、それで小説を書くようになったのだという。
そうやって小説を書くことにより、自分の精神の平衡をたもっていたつもりだったのが、10年ほどたってそれにも破綻をきたし、「パニック障害」から「うつ病」になってしまい、家から一歩も出られなくなり、医者の仕事もしばらくは休んで、それでも小説は書いていたということらしい。
うつ病のころに書いた小説は、「自分を癒すため」だけに書いたもので、自分の身近で亡くなった人をよみがえらせ、その人たちと対話するというものだったそうなのだが、それが芥川賞をとり、映画化もされて、それ以来小説家として認められるようになったのだそうだ。
「天地有情」というのは哲学者の「大森荘蔵」のことばだそうで、
「世界は客観的に存在するものであると近代の思想は信じているけれど、じつはそうではなく、世界はあくまで個人の内側にあるものであり、一人ひとりの感情がそのまま反映されたものなのだ」
ということを意味している。
精神病である自分にとって、世界はいかにも恐ろしげに映るものなのであるが、それはなにも精神病患者が幻覚をみているということではなく、それはそれで、やはりひとつの「世界」なのだ、それを実際に、正当な世界であると認めるところから、自分は立ち直ることができたのだし、またもしかしたら人類の今後というものを考えたときにも、それは大事なことなのじゃないかということも、言外にいおうとしているかとおもう。
これはしかし非常に微妙なところで、ふつうならば「精神病患者がなんのたわごとをいっているのか」と一蹴されかねないことなのだとおもうのだけれど、それがそうされずに、この人が作家として認められ、成り立っているというのは、この人自身の「生き方」によるのだとおもう。
この人は芥川賞をとり、作家として認められたあとも、医者をやめず、あくまでそれを生業として、休日の空いた時間に作家としての活動をするということをつづけている。
自身の作品が映画化されたときも、現場へもいかず、原作者のあいさつなどもせず、いっさいのかかわりをもたない。
それは要は、
「自分は自分の作品を、自分を癒すためだけに書く」
という姿勢をつらぬくことであり、そういう生き方がきちんと背景にあることで、この人の作品の特殊な立場が世の中に認められているということなのだとおもう。
しかしそれって、「文学」にとっては、たしかに「いのち」ともいえることなのだよな。
僕は小林秀雄を読んだときにも、ものすごく強くそうおもったのだけれど、文学作品がつたえようとしている内容というものは、科学的なこととはちがい、いかなるかたちでも「証明された」といえるものではない。
あくまでその作者の「考え」であるわけだ。
だからそれを「信じるのか、信じないのか」ということは、なにかの実証によるのではなく、その人自身を信じるのかどうか、というところにかかってくるのだな。
そしてそれを保証するのは、
「その人の生き方」
そのものであるわけだ。
自分が作品のなかに込めている内容と、自分自身の生き方が矛盾しないこと、それのみによって、文学作品の「正しさ」というものは成り立っているのであって、この「南木佳士」という人は、それをよくわかっているということなのだとおもう。
おとといの晩は、このごろはアサリが旬で、安く出回るようになっているから、それと白菜の小鍋だて。
ポン酢に七味を振りこんで食べた。
昨日は天然のブリが、またこれが安かったので、やはり安かったほうれん草、しいたけと一緒に小鍋だてにした。
ほうれん草としいたけはこのごろ値が下がっていて、それぞれ水菜、しめじよりずいぶん安くなっているのだけれど、これはいまが旬だということなのか。
やはりこれも、ポン酢に七味。
酒は「大七からくち生もと」で、昨日とおとといでこれを2合ずつのんで、のみ切った。
今日の昼めしは、もうこれは毎度のことだが仕方ないのだ。
「新福菜館三条店」。
僕はこの店の中華そばのジャンキーだから、今日これがとても食べたかったというわけでもないが、食べておかないとかならず数日後に禁断症状が出て、食べないわけにはいかなくなるのだ。
今日はビール中瓶とキムチ、ギョウザ、それに中華そばと白めし小の、フルコースにしてみた。
中華そばにはチャーハンを合わせるという手もあるのだけれど、僕はこのこってりと甘辛いスープで白めしを食べるというのがうまいとおもう。
2011-01-28
生命本紹介 「生物記号論」 (川出由己)
「生きているとはどういうことか」に興味があるという場合、科学において、「生きている」ものをあつかう分野、生物学をひもといてみるというのが、当然王道にはなるはずなのだが、現在、生物学の主流となっている分子生物学について、いろいろ触れてみても、どうも今ひとつしっくりこない。
分子生物学は、生き物を「分子でできた機械」と考えるもので、生き物の最小単位である、目にも見えぬほど小さな細胞というものが、DNAやら、タンパク質やらといった様々な分子が、いかに巧妙に組み合わさることにより、全体として「生きる」ということを実現しているのかということについて、驚くほどたくさんのことを明らかにしていて、細胞というものが、なんともうまく出来ているものだと感心するとともに、それを次々と明らかにしていく生物学者の力量にも、舌を巻く。
しかしそれに触れれば触れるほど、わき起こってくる疑問があり、それについて納得のいく説明が、どこにもされていないということに、気づくことになるわけなのだが、それは「そんなにすぐれた機械を、誰が何のために、どのようにつくったのか」ということだ。
たとえばここに時計があり、時計というものを知らない人が、それを理解しようとする場合、もちろんその時計のフタをあけて、一つひとつの歯車がどうなっていて、それが他の歯車とどのように組み合わさって、全体としてどのような働きをするのもなのかをくわしく調べるということは、当然やってみるべきことなのであるが、それだけでは時計というものを理解したことにはならない。
時計というものが、「時刻をしめす」という目的のためにつくられたものだということがわからなければ、時計の仕組みについて、どんなにくわしく知ったとしても、何もわかったことにはならないし、さらには、もともと時計というものが、こういう形で発明され、それがどのように発展して、今の形になったのかということも、知るべき大事なことだろう。
生き物というものは、これは当然、人間がつくったものではないわけだが、神様がつくったということも、今は信じる人は少ないだろう。
自然によって生み出され、何十億年という長い期間をかけて、育てられてきたものなわけなのだが、それでは自然は、これだけ様々な種類の生き物を、何のために、どのようにつくってきたのかということについて、現在の科学はどのように答えるのかといえば、自然や生き物に目的などはなく、原始の地球にたまたまあった、いろいろな種類の分子が、ただ偶然、よせあつまり、ランダムに変化しながら、まわりの環境にうまく適合し、たくさん増えることができたものは生き残り、そうでないものは死滅するということの繰り返しで、今のような複雑精妙な生き物までが、生み出されたきたのだという。
それは例えてみれば、サルにタイプライターを打たせていれば、いつかシェイクスピアのような、立派な文学作品ができるだろうと期待するようなものであって、常識的にはまったく信じることができない。
シェイクスピアが時代をこえて、あれだけ人を感動させる作品を残せたということは、それなりの想いがあり、それを実現する才能があって、さらにそれをじっさいに努力して書き上げるということがあって、初めて可能だということは、誰もが認めるところなわけだが、現在の主流の科学は、それはあくまで人間についての話であって、自然はそういうものではないという。
自然には目的や思い、意思や努力などというものは、いっさい存在することはなく、ただ偶然生みだされた原因が、環境の作用を受けながら、ある結果を導きだすだけであると、言うわけなのである。
科学はもともと、キリスト教に対抗し、キリスト教が、すべては神が造りたもうたと言うのにたいして、そうではなく、神ということばを抜きにして、真実を明らかにしようというところから生まれたものだから、目的とか意思とか、そういうものについて、過敏に反応するというのは、わからないこともないのだが、しかしそういうものをまったく抜かして、これほど複雑精妙な分子の機械が、どんなに長い期間があったとしても、ただの偶然の結果として出来上がってくるというのは、素朴な常識的な感覚からすれば、ちょっと理解するのは難しい。
しかし科学者のなかにも、じつはそのように考えている人もいるのであって、この本の著者である川出由己もその一人。
川出は63歳の定年まで、京都大学で免疫について研究していたが、そのあいだずっと、生き物をただ物理的な機械が、偶然の産物として生み出されてきたと考えることになじめず、大学を退官後、それでは生き物を、どのように理解したらいいのかということについて、自分の頭で考え始めた。
いろいろな本や論文を読み、人の話を聴くうちに、ある日出会ったのが「生物記号論」。
記号論というのは、人間のことばのふるまいをもとに、それを抽象し、一般化したもので、生物記号論は、生き物もただ物理的な側面ばかりでなく、記号的な側面をもつと主張する。
目的や意思をもち、主体的なふるまいをするものであると考えるものなのだ。
もちろんこれは、主流の生物学とは、真っ向から対立するものであって、生物記号論を真剣に研究する人は、ほんとに少数派であるわけなのだけれど、川出は十数年にわたって、自分の頭で考え続け、その末にまとめられたのが、この「生物記号論」。
これはまったくよくできた本で、まず書かれている日本語が、とても平明でわかりやすい。
学者の書いたものというと、どうしても難しく、わかりにくくなってしまいがちだが、この本には微塵もそういうところがない。
もちろんマンガや雑誌を読むのにくらべれば、たしょうの骨は折れるが、「生きているとは何か」を真剣に考えたいと思っている人であれば、専門知識のまったくない、ずぶの素人であったとしても、最後まで読み通すことができるようになっている。
内容については、まったく納得ができる。
生き物が記号という側面をもつということについて、これだけの根拠をしめしながら論じられれば、ふつうなら誰でも、まったくその通りであると、思わざるを得ないだけのものとなっている。
議論に飛躍したところもない。
一歩一歩ていねいに、踏み外さぬようゆっくりと進んでいく。
著者の結論は、「生き物はすべて、心の次元をもつ」ということだ。
それは現在の一般常識からすれば、ちょっと奇妙な感じはするのだが、一般常識から反することが、なにもまちがいであるとはかぎらない。
相対性理論や量子力学が、どれほど一般常識と反する理論を打ち立てたのか、思い出してみるがよい。
この本は、現在の主流の生物学がまったく無視する、しかしなくてはならぬ重要な側面について、現時点で望みうるかぎり、もっともわかりやすく、そしてバランスよく、書かれたものである。
「生きているとは何か」を知りたいと思う人には、専門家であるとないとにかかわらず、必読の書であることは疑いがない。
2011-01-18
読書感想 「美味しい名古屋を食べに行こまい」
名古屋というのは、不思議なパワーに満ちあふれた場所なのだ。
パワーといっても、東京や大阪のように、いわゆる都会の猥雑なエネルギーが発散しているというのとは、ちょっとちがう。
名古屋は実際、道は広く、繁華街でもあまりごちゃごちゃした感じがなく、端正な街づくりがされていて、都会というものを、個人が自由に自分の利益を追求し、それが折り重なることによって、あの看板やらネオンやらが無秩序に密集する、雑然とした雰囲気だと考えるとすると、名古屋は都会ではない。
キャバクラは名古屋発祥と言われているが、名古屋のキャバクラへ行ってみてちょっと驚いたのは、少なくとも東京ではふつう、そういう場所で働くオネエちゃんというものは、だいたい一人暮らしをしているもので、親兄弟といっしょに住んでいながら水商売の仕事をするというのは、あまり聞いたことがないわけだが、名古屋のキャバクラでは、働くオネエちゃんたちの発する雰囲気が、いかにも親といっしょに住んでいます、という感じなのだ。
若い女の子が親と住んでいるか、一人暮らしをしているかというのは、やはり見た感じがちがうもので、一人暮らしの子はどうしても、生活の疲れが見えてくるものなのにたいして、親と住んでいる子は、瑞々しい感じがする。
温かい人間関係というものに、囲まれているかいないかが、そういう見た目のちがいになるものだと思うが、名古屋では道を歩いたり、電車に乗っている女の子を見ると、圧倒的に家族と住んでいる感じがする。
瑞々しい、明るい色気を発散していて、それがキャバクラのオネエちゃんまでがそうなのだ。
実際あとで聞いたら、名古屋では、キャバクラに実家から通うというのは珍しくないのだそうだ。
キャバクラが名古屋発祥というが、だいたい名古屋という街自体が、全体としてキャバクラみたいなのだ。
居酒屋へ行ったとする。
4人くらいで行って、そこへ二十歳くらいのバイトのオネエちゃんが注文を聞きにきて、こちらはオヤジ4人組だものだから、オネエちゃんに何かとちょっかいを出したりするわけだ。
そうすると、東京のオネエちゃんの場合だったら、いちおうそれを笑顔で受け流すものの、ほんとはこのオネエちゃん、心の底では、「このバカオヤジどもが」と思っているのだろうな、というのが伝わってくるわけなのだが、名古屋はちがう。
オネエちゃんがこちらに、一歩踏み込んでくるのだ。
オネエちゃんのほうから、何か質問してきたり、同じ目線でこちらがウケるようなことを言ってきたり、かならずする。
これはほとんど例外がなく、どの居酒屋のどのオネエちゃんも同じで、居酒屋はおろか昼間の喫茶店でも、ファミレスでも、若いオネエちゃんがいれば、かならず同じ反応をしてくる。
東京のキャバクラの、かわいいばかりで話ができず、こちらがチヤホヤしてやらないと場がもたないオネエちゃんとはエライちがいで、これはキャバクラというものが、名古屋の土着の文化に深く根ざしたものであるということを意味しているのだと思う。名古屋の人がいいのは、とにかくストレートなのだ。
いいも悪いも、まっすぐぶつけてくる。
ふつう体面だとか、これを言ったら相手にどう思われるのかとか、人間はものをしゃべるとき、あれこれ考えるものだと思うのだが、そういうくびきが、名古屋の人は、おどろくほど少ないように見える。
だから人と人との距離が近く、濃密な人間関係というものをつくり上げる。
よく名古屋は閉鎖的で、商売にしても県外の企業が入り込むのはなかなか難しいといわれるが、たしかに入り込むまでは時間がかかるかもしれないが、一度入り込んでいしまうと、すべては人間の関係性のなかで決まっていくので、これほど居心地がよく、やりやすいところはないともいえるのだと思う。
数年前、名古屋の地下鉄工事で談合をしたということで話題になったが、だいたい名古屋駅桜通口の、駅前のビルの高さが、ピタリとそろって、なんともきれいなのは、戦後ビルを建てるとき、地権者が談合して、そのように取り決めしたからなのだそうだ。
たがいに土地をやり取りして、区画整理のようなことまで、その談合でやってしまったらしい。
今の日本では、談合は悪であるということになっているが、それは法律によってすべてを決めるという、西洋流のやり方が、明治以降になって入ってきたからであって、もともと日本は、そうやって談合によって、すべてを解決していたのじゃないのか。
名古屋へ来ると、そんな風な気にさせられる。
というか名古屋は、ひとことで言うと、いまだに江戸時代なのだ。
信長、秀吉、家康の天下人3人ともが、名古屋近くの出身であって、名古屋は尾張徳川家の本拠地でもあるわけだから、江戸幕府を倒したクーデターである明治維新を、名古屋の人はよく思っていない。
だからいまだに、名古屋の象徴というものは、名古屋城の天守閣に飾られている、家康から下賜された金のしゃちほこなのだ。
そういう場所だから、名古屋の人は、明治以降、日本に入ってきた「近代」というものにたいして、つねに疑いの目をもって見ている。
トヨタが社内でものを決めるのに、ただトップが決め、社員はそれに従うということではなく、あらゆる部や課、またそれをこえた、入社年度や出身地別のサークルなどによって、徹底的に話し合い、それこそ談合していくことによって、全体の意思決定をしていくというやり方は、近代以前の日本の風土を色濃く反映したものなのではないかという気がする。
いまトヨタが揺れているのは、そうやって徹底的に話し合うということが、トヨタが大きくなりすぎて、できにくくなってきたからではないかと、名古屋の人は言う。
そうやって考えると、名古屋が独特のバワーに満ちあふれているというのは、たんに一地方として、独特であるということではなく、ある意味京都とならんで、古来からの日本の精神というものを、保ち続けているということなのではないかという気がするのだ。
それを名古屋の人は、確信犯的にやっている。
名古屋の人は、規模としてみればじゅうぶん都会であるはずの名古屋のことを、あえて「偉大なる田舎」であると言う。
これは近代というものが凝縮した場所である、都会というものにはならないぞ、という、決意表明であるともみえる。
名古屋にはついこのあいだまで、高層ビルというものがまったくなかった。
東京では40年くらい前に建てられ始めたわけで、大阪だって他の都市だって、名古屋より早いところはいくらでもあるだろう。
これはもちろん、高層ビルが建てられなかったわけではなく、あえて建てなかったとしか考えられない。
名古屋駅前にミッドランドスクエアという、トヨタの高層ビルができるというちょっと前、近くの床屋へ行ったら、そこのおやじは、ふつうなら高層ビルに何千人という人が来ることによって、お客が増えることを期待し、喜ぶのだろうというところ、そんなに人が来たら、電車や道が混雑するのじゃないかということのほうを心配していた。
発展を無条件に喜ぶのではなく、それを仕方ないと受け止め、それによって今まであった良いものが、失われないことに気をつかう、そういう精神が名古屋にはあると思う。
目の前の横断歩道の手間で、青信号が点滅するとする。
ふつうならそこで小走りになって、横断歩道を渡ってしまおうとするものだと思うが、名古屋の人は、信号が点滅する前にすでに、反対側の信号を見て、目の前の信号が青であっても、渡りきれないと思ったら、歩みをゆるめて、次の青信号まで待つことに備えている。
エレベーターでは、扉わきのボタンの前に立った人は、例外なく、「開」ボタンを押して、他の人が全員降りるのを待ってから、最後に自分が降りる。
飲食店の、どんなに若い店員でも、お勘定がすんだら、かならずお客の目を正面から見て、「ありがとうございました」と言う。
そんなことを身についた習慣としている人たちが住んでいる街など、日本全国、他のどこにあるだろうか。
そういう場所だから、名古屋の食べ物というものも、また独特だ。
スガキヤのラーメン、味噌カツ、モーニング、ひつまぶし、台湾ラーメン、きしめん、手羽先、味噌煮込みうどん、あんかけスパ、等々。
他のどこにもない食べ物が目白押し。
しかもそれらは、観光客目当てということではまったくなく、名古屋の人たちが、自分たちが好んで食べるものなのだ。
この「美味しい名古屋を食べに行こまい」では、それらを一つずつ、他県の人にわかるようにという趣旨で、ていねいに紹介している。
ところがこの本、いわゆる名古屋めしについてのグルメ本であるはずなのだが、グルメ本には欠かせないはずの、詳しい店の情報というものが、一切のっていない。
漫画仕立ての本なのだが、それぞれの食べ物を紹介しているベージの半分以上は、著者がそれらを、どの具をどういう順番で、いかに夢中になって食べ、食べ終わってどれだけ満足したかということを、こと細かく描写することに費やされている。
これはほんとうに、名古屋らしいと思う。
ふつうなら、何かの物事を説明したいと思ったら、少なくともこうやって本にして出そうとするなら、何がしかの客観的な説明に意味があると思うもので、情報の記載などということには、かなりの努力が払われるものであると思うが、そういう客観性などという考え方こそが、近代というものに特有な、必要でないとは言わないが、べつにそれほど大事なものでもないということを、この名古屋人である著者は、無意識に思っているのだろう。
この本の、徹底的なまでに主観的な説明の仕方そのものが、名古屋というものを色濃くあらわしていて、この本は、名古屋の食べ物について知るというだけではなく、名古屋というものそのものを知るためにも、計らずして、とてもよく出来たものとなっている。名古屋というのは、観光名所もあまりないし、他県の人間にとってどうもとっつきにくく、東京と京都・大阪のあいだで、ただ通るだけの場所になってしまいがちなのだが、この本は、名古屋の食べ物、および名古屋について、まず触れてみたいと思うとき、なかなかいいものであると思う。
2011-01-12
【読書感想】 「春宵十話」 (岡 潔)
1901年、明治34年生まれ、1978年に亡くなった数学者、岡 潔のエッセイ集。
この人、小林秀雄と対談していて、それを僕は小林秀雄の全集で読んだのだけれど、小林秀雄は毎日新聞に連載された、この「春宵十話」を読み、おもしろくて、切り抜いて保存しておいたほどで、対談でも息があって、当時小林秀雄は「感想」を未完で中断したばかりのころで、そのあたりの自分の気持のこととか、ずいぶん素直に話している。
小林秀雄はずいぶんいろいろな人と対談したのが全集に入っているが、そのなかではこの岡潔と、あと坂口安吾とのものが断然おもしろく、それでこの「春宵十話」は、ずいぶん前に読もうと思って買ってあったのだ。
ちなみに小林秀雄と岡潔の対談は、「人間の建設」というタイトルで文庫本にもなっている。
明治生まれの人というのは、もう生きているとしたら100歳を超えることになるから、存命の人は少ないと思うけれど、やはり明治というのは、今の時代とはずいぶんちがって、小林秀雄にしてもそうなのだが、考え方がシンプルというのか、気骨があるというのか、そういう人たちのことばに触れると、懐かしいというのか、今の時代ではほとんど忘れ去られているようなことを、思い出すという気にさせられる。
岡氏は40代で敗戦を経験し、その後の日本が大きく変わってしまって、このままでは日本、そしてそれだけじゃなく世界は、滅びてしまうのではないかと本気で心配している。
何でも「自分が自分が」と言うようになり、昔はまず人のことを先に心配して、自分のことはあとにまわすというのが、日本人の美徳だったはずなのに、それがすっかりなくなり、とくに女性の顔が、戦前とは大きく変わり、「動物的」になったという。
女性の初潮も、戦後になって2歳以上早くなり、これは戦後の教育が、何でも自分のやりたいことをやらせるという、人間の動物性を刺激するようなことばかりをやっているのが理由であるにちがいなく、このエッセイを書こうと思ったのも、それがまちがっているということを、世の中の人になんとか伝えたいということが動機であると書いている。
教育に必要なのは、知識ではなく、まずは「情緒」であると、岡氏は言う。
きれいな日本語で書かれた歴史や文学を子供に読ませたりして、物事を受け取るための基盤となる、人間の情緒というものを、子供たちにしっかりと植えつければ、あとは子供たちは、様々な知識を、自分の力で吸収できるようになっていく。
それがなく、ただ知識ばかりを与えるようになっているから、いびつな人間ばかりが育つということになっているのじゃないか。
だから教育のやり方としては、戦前のやり方から、軍国主義だけを抜いたものが、いちばんいいと言う。
僕は東京に40年以上住み、それから名古屋、広島、そしていまは京都に住むという経験をしているのだが、地方に住んで初めて、東京というのがいかに非人間的な場所かということを痛感することとなった。
だいたいすし詰めの満員電車で1時間も2時間もかけて通勤するのが、当たり前な、ふつうのことであるとされている場所だ。
目の前に、美女でもいればいいが、だいたいはおやじのハゲた頭が並んでいたりして、それを1時間も2時間も眺めつづけるというのは、明らかに人間の限界を超えている。
だから東京では、他人に関心をもたなくなり、街を歩いていても、人と目が合うなどということは、ほとんどない。
もし目が合うとしたら、それはセールスや呼び込みなのだ。
現代日本の最先端から、ちょっと離れるだけでも、それだけのものが見えてくるのだから、これが100年ちがったら、世界はどれほど人間味にあふれていたのだろうと思ってしまう。
現代はすでに、岡氏が危惧したよりも、さらに事態は悪化していて、僕も人類は滅亡するのではないかという岡氏の意見には、うなずかざるを得ない。
岡氏はそれを食い止めるためには、あまり効き目がないように見えても、けっきょくは教育というものがいちばん大切なのであって、それを変えるために、自分ができる限りのことをやってみるということをした。
時代を100年前にもどすなどということは、もちろんできないことなのだけれど、人間とは本来、どんなものであるのかということについて、微力ではあっても、一人ひとりができるだけのことをしようとしていくことが、けっきょくは最終的に世の中を変えることにつながっていくと、信じてやっていくしかないのだと思う。
岡氏は自分の数学上の発見についてもいろいろ書いていて、それもおもしろい。
発見というものは、知識を積み重ねていった結果起こるものだろうという気がするが、実際にはそういうものではないそうだ。
もちろん自分で、詰められるだけ詰めて考え続けるということは大事なのだが、それをただそれだけでは、発見は起こらない。
そうではなく、ぜんぜん関係ない、きれいな景色を見たり、芸術にふれたりしたときに、その考え続けていたことの答えが見つかるのだそうだ。
知識というものは、ただ組み立てるものではなく、それがすべて、いちど自分のなかに入って、無意識のうちに発酵して、それがそのうち湧き上がり、形をあらわすようになる。
それが発見なのであり、それはあくまで、知識ではなく、情緒の目でしか見えないものなのだ。
2010-11-25
「新興衰退国ニッポン」 (金子 勝・児玉龍彦)
この春で勤めを辞めた僕なのだが、世の中の様々なことについて、勤めている時には、どうしても勤め先に関係あることを取捨選択して見るようになっていたのが、辞めてみると、等身大の自分自身で受け止めないといけないことになる。自分の所属先が、以前は「会社」だったものが、今は「日本」ということになっていて、そうなるとどうしたって、日本の行く末というものについて、色々と考えてしまうのだ。
おとといも北朝鮮と韓国の砲撃戦があり、すわ戦争勃発かと一瞬思ったけれど、まあ戦争というものは、そう簡単には起こらないわけで、とりあえず今は収束しているけれども、あれが例えば韓国ではなく、日本の陸地を砲撃してきたら、どうするだろうと考えてしまう。韓国の大統領は、即座に「何倍にもしてやり返せ」と言ったそうだが、日本の首相は果たしてそんなことが言えるのか。また万が一戦争にでもなった場合、自衛隊に任せておいていいものなのか。ケンカもしたことがない自分は、その日のために、空手くらい習っておいた方がいいのじゃないか。そんなことかよ。
戦争とまでは行かないにしても、このところ沖縄の問題をはじめとして、中国やロシアとの領土問題とか、世界における日本の位置を改めて問われる問題が頻発しているのにも関わらず、民主党政権はどうも頼りなく、頼りないのは新米だから当然であるとしても、やりたい事自体がまったく見えず、皆やりたかったのはただ総理大臣になることだけだったのかと疑いを持ってしまう。そういう中、政府に不満を持った海上保安官が機密のビデオを流出させたりもして、公務員の規律も地に落ち、日本がどんどん壊れ、メチャクチャになっていくことが、実感として感じられる。
なぜ、そして、どう、日本は壊れているのか、知りたいと思って、ネットやら本やら、チラチラと眺めているのだが、そういう中で金子勝というのは、経済学者、慶応の教授で、もう60歳近くの人なのだが、以前からツイッター(http://twitter.com/masaru_kaneko)で積極的に発言しているのを見て、その内容がわりと僕の心情に近く、また個別の物事にたいして、かなり徹底した、辛口の批判をするのだが、それがよくありがちな、自分の立場や利益を守るためのものではなく、今自分がきちんと発言して、なんとか少しでも世の中を変え、若い世代にちょっとはましな日本を引き継いでいかなければいけないという使命感でやっているということが感じられ、それってかなり疲れる、報われることの少ない仕事だと思うから、ほんとに頑張ってくれていると思い、陰ながら応援していて、この「新興衰退国ニッポン」は、金子氏がつい最近書いた本で、本人もまずこの本を読んでみて欲しいと書いていたから、今回読んでみたというわけなのだ。長すぎだ、一文。
それで読んでみて、大変おもしろかった。おもしろいというか、正確にいうと、自分たちの国がここまでメチャクチャになっているということを、豊富な知識、とくに海外の動向についての驚くほど豊富な事例をひきながら、克明に、赤裸々に書いているから、読んでいてちょっと辛い。でも著者も書いているとおり、現状についてきちんと認識しない限り、先に進むことができないというのは、言うまでもないことなのだし、ましてや著者は、今の日本の最大の問題点は、政権担当者や、それに近い官僚、財界、医師会、などの人たちが、自分たちが犯した誤りをみとめず、戦争中の大本営発表にも匹敵するような、嘘の上塗りをしていることであると、それを変えない限り、日本はどうにもなっていかないと書いているのだから、これは辛くても、向き合わなければいけないことなのだ。
最大の失敗は、小泉「構造改革」にあったと著者は言う。小泉元首相は、その前の中曽根元首相からの路線を引き継ぎ、アメリカ発の「新自由主義」という、「官から民へ」「効率第一」「すべては市場に任せればうまくいく」という考えに乗ってしまったことで、医療から福祉、教育、雇用、産業、などをことごとく破壊した。財界の言うことを聞いて、派遣など有期雇用を解禁したことで、貧困者が急増し、医療改革や保険制度改革と相まって、満足に医療を受けられない人の数が数百万人にのぼり、4分の1の子供は給食費も払えず、出生率も激減している。大学制度改革によって、きちんとした職のない研究者が増え、企業も巨額の内部留保を貯めこみながら、研究者の雇用を控えてしまったために、今や医薬品や環境エネルギーなど先端技術開発について、深刻な遅れをきたし、アメリカはもちろん、ドイツや中国、韓国台湾などにも抜かれてしまっている。読んでいくと、ここまでひどいのかと唖然とさせられる。
そういう状況を食い止め、新自由主義から決別し、日本を新たな理念のもと、つくり替えるという期待を担って、政権交代を果たした民主党だったが、マニュフェストには見るべき政策が書かれていたものの、今や官僚や財界など、自分たちの間違えを認めたくない、旧守派勢力に妥協してしまい、政策を次々と後退させている。理念の転換こそが必要とされるときに、民主党の議員は誰もそれをきちんと説明することができず、子ども手当の財源をどうするかなどという矮小化された問題に終始してしまっている。
今や政権も、企業の経営者も、自分たちの立場を守るということしか考えない団塊の世代によって占められており、彼らはそのために、若い技術者や労働者を切り捨てている。そのために日本の体力は急激に落ち、彼ら団塊の世代の老後すら、危ういものにさせているのに、それをきちんと見ようとせず、場当たり的な対応で済ませている。今の日本は、まさに破滅への道を一直線に進んでいるのである。
著者は巻末に、日本再生のための処方箋を提示し、またそれを、政策担当者は、人が嘘をつくからといって、自分も嘘をつくということではない、少しでも本当の議論を積み重ねていくことで実現していかなければならないと書いている。それはまさに正論なのだが、そんなことが実現する日がやってくるのか。そもそも小泉「構造改革」というものが、日本の抵抗勢力というものを一掃し、新たな日本をつくり上げるための処方箋なのではなかったか。しかし小泉「構造改革」において、真の抵抗勢力は、姿をくらまし、巧みに立ちまわって政権の内部に入り込み、自分たちの利益になるように政策を誘導したのだ。今の民主党政権においても、変わらぬことが起こっているのだろう。
日本が新たに成長し、世界の一翼で役割を担う、きちんとした国になるということについて、その方向は見えているのに、今やそれも風前の灯、実際にそこへ向かっていくという機運も感じられないし、道筋も見えない。まさに絶望的な状況なのだが、しかし僕は、少なくとも間違いないのは、革命では物事は変わらないということだと思う。小泉「構造改革」にしても、今回の政権交代にしても、それまでの方向を大きく転換させる、革命的な事件だったと思うのだが、それによって何も変わっていない。いやそれどころか、以前より悪くなっている。それではまた新たに政権交代をと言ったって、その時は開放感があるかもしれないが、けっきょくはまた同じことを繰り返すだけなのだ。
そうではなく、著者が言いたいのは、著者がツイッターで報われない批判を続けるように、日本国民の一人ひとりが、日本の現状についてきちんと向き合い、それを変えていくということについて、小さくてもいいから、自分ができることを続けていくと、それに尽きるということなのだろう。絶望的な状況だが、前へ進むしかないのだし、けっきょくはそういう小さな活動の総体が、日本をつくり上げているのだから。
アマゾン:新興衰退国ニッポン (現代プレミアブック)
2010-11-17
「不均衡進化論」 (古澤 滿)
この本は中村桂子さんに薦めてもらったものなのだが、死ぬかと思うくらい面白かった。僕の長年の興味とドンピシャで重なるものだったということはあるのだけれど、べつに生命科学について特別な興味を持っているわけではない、普通の人が読んだとしても、基本的にこの本は、一般の、何の予備知識も持っていない人に向けて、噛み砕くようにやさしく書かれているので、内容としてはまさに最先端の生命科学についての話なのだが、十分おもしろく読めるのじゃないかと思う。
「最先端」と書いたが、この本に書かれている「不均衡進化論」という理論は、まだ完全に確立し、認められたものではない。著者はこのテーマについて20年以上取り組んできているのだが、現在もその理論を証明すべく、実験が重ねられていて、また学会でも、支持者は増えているとはいうものの、全体として認められているという状況からは程遠い。この本自体が、生物学者、およびそれ以外の人たちにたいして、この理論への支持を広く求めるために書かれたものであって、論文や雑誌への投稿以外の、まとまった形で公開されるのは、日本ではこれが初めてという、まさにホカホカ、湯気が出そうなものなのだ。
「不」均衡進化論というくらいだから、この理論は「均衡進化論」にたいして異を唱えている。均衡進化論とは、進化論における現在の主流派、「総合進化説」のことである。ダーウィンの進化論と、メンデルの遺伝学とが統合されたものであるこの理論は、すべての生き物は、遺伝子がランダムに変異することにより生まれる、様々にちがった姿形をもつ生き物の中から、環境に適合したものが生き残り、そうでないものは死に絶えるということによって、40億年前に初めて、細胞という形が生み出されて以来、進化してきたものであるという考えだ。
総合進化説では、遺伝子におこる変異は完全にランダムなものであると考えられていて、それが「均衡」という意味なのだが、それ以外の可能性は厳密に排除されている。しかし素人が素朴に考えたとしても、ただランダムな変化の積み重ねだけで、例えば眼やら脳やらのような、精妙に調節された、極度に複雑な器官ができ上がってくるとは、いくら40億年という、想像を絶する長い時間があったにしても、到底思えないわけで、実際これまでも、変異がランダムではないと考える理論は数多く提出されてきた。しかしそれらの全ては、実験によって決着が付けられるというよりも、主流派による徹底的な弾圧により、葬り去られてきた。進化というものは、膨大な時間がかかるという性質上、実験によって確かめるということがきわめて難しい。なのでその正否についての争いは、政治的、またはイデオロギー的な色合いを帯びてしまいがちなのだ。
しかし著者は、自身の不均衡進化論を、まさに実験によって証明しようとしている。それが可能になったのは、進化を「加速する」ことができるようになったからだ。
細胞が分裂する際、細胞の中にある遺伝物質であるDNAも複製され、分裂したそれぞれの細胞に分けて収められていく。大腸菌など単細胞生物について言えば、このDNAの複製の際に、忠実な複製が行われず、元のDNAの並びとは違った並びに変異してしまうことが、進化につながっていくということになる。
DNAは二重のらせん構造になっていて、複製の際にはそれがチャックを開くようにほどけ、チャックの左右それぞれが複製されて、都合二組のDNAができるということになる。このとき起こる変異は、これまでは左右のチャックに均衡して、同じ割合で起こると考えられていたのだが、著者はそうではなく、左右に起こる変異は不均衡であり、変異は片方のチャックにだけ集中的に起こるということを見つけたのだ。
DNAが変異するということは、生き物にとって必ずしもいい結果だけをもたらすとは限らず、それまできちんと機能していたDNAを変異が打ち消し、機能しないDNAとしてしまうという、有害なものである場合があるし、またそうでなく、DNAの変異によって新たな機能が付け加えられたとしても、それが環境にうまく適合しないこともあり得る。左右が均衡に変異するという場合、分裂した二つの細胞の、どちらにも変異が入ってしまうわけだから、その変異が有害だったり、環境に適合しないものだったりした時、分裂した両方が死んでしまう可能性があり、なので変異の割合をあまり高くすることができず、そうなると、進化はゆっくりとしか進まないということにならざるを得なかった。
ところが左右のチャックにたいして、変異が不均衡に入り、一方は正確に複製され、変異はもう片方だけに入るということになると、分裂した二つの細胞の、一方は以前のまま、そしてもう一方にだけ、新しい性質が付け加えられるということになる。もし付け加えられた新しい性質が、有害なものであったとしても、死ぬのは一方だけで、以前のままのもう一方の細胞は、とりあえず生き残り、絶滅は免れることになる。いわば一方で保守的に、現状維持を担保しながら、もう一方で革新的な実験を行うことができるようになるわけで、そのようなやり方だと、これまで考えられていた、均衡な進化より、はるかに早く、進化が進むと考えられることになったのだ。
著者はさらに、この片方のチャックにだけ起こる変異を、実験室において人工的に、さらに増やすことにも成功した。それにより、抗生物質にたいする耐性を、考えられないほど早く獲得してしまう大腸菌というものをつくり出すことができた。抗生物質という困難な環境を、克服できる新たな手段を身に付けるというわけだから、これは立派に進化を加速したと言えるのである。
さらに面白いことに、この実験において、大腸菌のDNAのどの部分に変異が入ったのかを調べてみると、耐性を獲得した大腸菌のDNAは、何回かの試行錯誤の末、必要な変異を得たのではなく、必要な変異は一発で、獲得されていたのである。これが意味するのは、変異は左右のチャックで、不均衡に偏って起こるだけではなく、変異が入る一方のチャックの中でも、変異が起こりやすい場所と、そうでない場所とに分けられている、不均衡な状態となっているということなのだ。
DNAは、ただ情報が記録された、磁気テープのようなものではない。あくまで一つの立体構造をもった分子であり、凹凸をもった形をしていて、その凹凸によって、他の分子とくっついたり離れたり、相互作用をするようになっている。ある特定の情報の並びは、それに応じて特定な凹凸をつくり出し、それによって、ある特定の分子と相互作用しやすい場所というものをつくり出し得る。そういうことによって、変異が集中的に起こる、特定の場所が選ばれるということがあるのだろうというのである。
総合進化説が、あくまで変異をランダムなものであると、頑ななまでに考えようとするのは、そうでないと数学的に記述することが難しくなるからだろうと著者は書いているが、今この不均衡進化論によって見え始めている世界は、これまでの物理学の延長に、DNAやタンパク質を、単に情報や機能を担った、抽象的な存在と見るのではない、それぞれが個性的な、独特な形をもち、それによってお互いが作用しあう、分子の場なのである。それぞれが独特な、非対称な形をもつがゆえに、不均衡が生み出され、それが進化へとつながっていく。そういうまったく新しい世界への扉を、この本は開こうとしているのである。
Amazon:不均衡進化論 (筑摩選書)
2010-10-20
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」(再々)
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」、また読んだ。何度も言うんだが、ほんとに面白い。科学者が一般向けに、ここまで本気で書いた本というのは、なかなかないのじゃないかな。内容はそれなりに難しいのだが、それは当然のことで、ひとりの科学者が本気で考え、実践している研究について、その内容そのものを伝えようとしているのだ。ふつうは科学者は、自分の研究内容はとりあえず置いておいて、それとはべつに、一般の人向けの、一般的な内容を書いたりするものだが、この本は違う。まさに湯気が出そうな、郡司さんの最新の、全力の研究内容が網羅されている。それが素人がすぐ解るような、簡単なものであるわけがないのだ。
しかし郡司さんは、これを読めば読むほど、その難しい内容を、一般の人にも何とか解るようにと、細心の注意を払い、できる限りの努力をしていることが、ひしひしと伝わってくる。基本的にこの本は、予備知識なしで読むことができるようになっている。集合論などの、複雑な数学も、とくに後半になると駆使されるのだが、それについてもひとつひとつ、ていねいに説明されている。本の冒頭には、全体の流れが説明されていて、各章、各節の初めには、その章や節の概要が、最後にはまとめが、かならず入っている。重要なことは、同じと思えることでも何度でも繰り返し説明される。この本に対する郡司さんの思い入れの深さが、よく伝わってくる。
この本を読んで、僕がいちばん面白いと思うこと、僕を魅了して離さない理由、それは郡司さんが、「全体とは何か」ということを、徹底して追求し続けているというところにある。この問いは僕自身も、これまで考え続けてきたことだからだ。
どんなものにも、部分と全体と、両方の側面が存在する。人間の組織というものを考えた場合も、それはひとりひとりの人間によって構成されているのと同時に、それは全体として、何らかの目的なり目標なりを持ち、存続するということのために、様々な活動を行う。その全体というものは、どのようなものであるのか。独裁者が運営する組織の場合、それはとても解りやすく、全体はあくまで、独裁者の心の中だけにある。独裁者の意思が、全体の意思だ。組織の、独裁者以外の人たちは、独裁者が想定する全体の範囲の中だけで動く。それを外れることは許されない。
しかし一方、人間のからだという、複雑極まりない、これもやはりひとつの組織であるというものを考えた場合、人間の細胞の中で、独裁者に相当する、すべての意思決定を行ない、すべてを指示するものは存在しない。脳がそういうものであるかという気がするが、実は脳だって、からだの他の部分と同様、もとはひとつの受精卵から始まっているのであって、受精卵が分裂し、何十兆個という数の細胞からでき上がる、ひとつのからだになっていく過程では、どの細胞が指示をするということもなく、お互いが相互にやり取りをしながら、徐々に役割分担がされていく。脳というものも、そういう役割のうちのひとつなのであって、もちろんある中枢であるには違いないが、すべてを指示する絶対的な存在ではない。
全体というものが、独裁者という、独裁者以外のすべての国民や構成員から見れば、外部の者によって規定されるのではなく、全体が部分から切り離れず、その時々のすべての部分のあり方に応じて、つねに生み出し続けられていくようなあり方、それこそが生命の組織論であり、それはまさに僕の最大の興味であると同時に、人類全体にとって今、最も必要とされているものであると僕は信じる。この「生命壱号」を読んでいると、それを同じように郡司さんも思っていると、ことばの端々から感じるのである。
郡司さんはそれを、「砂山のパラドックス」というものとして表現する。ここにひとつの砂山がある。それは無数の砂粒からできたものであるのと同時に、ただ砂粒であるというだけではない、「ひとつの砂山」という全体でもある。砂山は生き物ではないのだが、ここでも部分と全体の問題は、同じように存在する。砂山というものは、無数ともいえる砂粒からできているから、そのうちひとつの砂粒を取り除いたとしても、それは依然として砂山のままだ。であるとすれば、その砂粒を取り除くということを、無数に繰り返せば、最後には、ひとつの砂粒だけが残り、しかしそれは依然として砂山であるという、まったくナンセンスなことになる。
これまでの科学では、そのようなナンセンスが起こるのは、もともと「砂山」などという、実際に存在しもしない、人間の認識の中だけにあるものを、あたかもそこにあるかのごとく考えたことに原因があるのであって、そんな面倒くさいものは考えないようにしようと、そういうことにしてきた。実際砂山とは、どのくらい大きければ砂山と呼べるのか、どんな形をしたものなのか、などということについて、甚だあいまいで、はっきりしないものだ。だから最後には、砂粒がすなわち砂山であるなどと、訳の解らないことになる。
しかし郡司さんは、全体というものが、そのようにあいまいで、場合によっては部分と切り分けられなくなるような、はっきりとしないものであるからこそ、生き物がこれだけ多様なあり方を獲得できたのであると考える。全体を、そのような、はっきりしないものとして、部分と対置させること、それは具体的な操作として言えば、全体は部分とは異なった、独立したものであるようでありながら、同時に部分と切り分けができない、全体なのか部分なのかわからない領域を作るということ、そこにこそ、生命の生命たる本質があるのだと考えた。
生命壱号というのは、とても簡単なコンピュータ上のシミュレーションだ。オセロのようなもので、黒石と白石があって、初めの状態は、白石に囲まれて、黒石が固まって置かれている、そういうところからスタートする。黒石の集合体としての全体は、白石に囲まれているということによって、規定されている。
ここで、黒石ひとつひとつという部分を、確認していく操作が導入される。黒石の集合体という全体が、そのまわりを囲んでいる白石に対するものとして規定されたように、黒石のひとつひとつは、白石のひとつひとつに対するものとして規定され、具体的には、黒石集合体を囲む白石のうち、ランダムな順番で、黒石と接している白石が、黒石と位置を交換し、さらに黒石集合体の中に入った白石は、そのまままわりの黒石と、ランダムに位置を交換していくことにする。このようにして白石が、黒石集合体の黒石と、位置を交換していくことによって、黒石ひとつひとつという部分が確認されるというような、そういう操作を、コンピュータ上で実行する。
ただしこれだけだと、黒石集合体は白石に侵食されて、徐々に分断され、ばらばらになり、全体は崩壊してしまう。ところが白石が、黒石集合体の中を進んでいくとき、どの黒石と位置を交換したかということを記憶して、一度位置を交換した黒石とは、以降は位置を交換しないということにすると、話はまったく変わってくる。白石が集合体の中を進んでいっても、集合体はすんでのところで崩壊をまぬがれ、形は様々に変化し、まとまって固まっていたり、一本の紐のようになったり、ブロッコリーのような枝状になったりするのだが、ばらばらになることを踏みとどって、ひとつの全体のままでい続ける。それは実際に、粘菌のような生き物のふるまいと、見た目にもそっくりだし、さらにそこから、いくつかの統計的な性質を導きだしてみると、それは実際に粘菌から同じように導きだした数値と、まったく同じ傾向を持つ。
それはこのコンピュータ上の操作において、白石が黒石と位置を交換する際に、どの黒石と位置を交換したかということを、記憶するという一点によるのだ。そのことによって、位置を交換するという、部分を確認する操作の中に、「これまでに位置を交換した黒石の全体」という、全体が紛れ込んでしまうことになる。全体と部分とがはっきりと切り分けられず、部分だったはずのもののなかに、全体が存在してしまうということになるのだ。そんな簡単なことで、コンピュータ上に、実際に統計的な数値で比較しても、生き物と同じ性質を持ったものを作り出すことができる。なんと面白いことではないか。
アマゾン「生命壱号」へのリンク
2010-10-12
「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子)
この本は帯に「小林秀雄賞受賞」とでかでかと書いてあったので、ちょうど太平洋戦争のことを知りたいと思っていたこともあり、買ってみたわけなのだが、この「小林秀雄賞」というのは、どうなんだ。
小林秀雄というのは、「在野の文学者」という立場を生涯貫いた人で、「インテリゲンチャ」を何より嫌い、小林自身明治大学の教員をした時も、自分の専門分野であるはずの文学などは教えず、「自分が勉強したいから」という理由で歴史を教えたというような人だったのだが、どうもこの賞の過去の受賞者を見ると、学者が多いのだよな。
学者がいけないというわけではないのだが、専門分野からだけ物を見ようとするのではなく、先入観なくある対象に向かい、そこから自分が感じたことを根本に据えながら、資料を読み込んだりはもちろんしながらも、最終的に文学作品として完成させようとしていった、小林秀雄の基本的な特質を、もう少し生かしたものにしてほしいと思うのだがな。
それはいいんだが。
でこの本の著者、加藤陽子も、東大で教える歴史学の先生で、やはり例に漏れず学者なわけだ。
僕の個人的な趣味として、上から目線で、理詰めで攻めてくる、しかも女、というのが、大の苦手で、そうやって詰め寄られると逃げ出したくなるのだ。
たぶん僕自身が、上から目線で理詰めな性格なもので、同じ性格同士が衝突するということなのだろうと思うが、この本の書き方がまさにそういう調子で、おかげで読みながらいちいちイライラし、まあしかし内容的にはけっこう面白いので、最後まで読み通したが、えらい疲れた。
著者自身、大学で学生に教えるように書いたのでは、一般の人に訴えかける力が弱いと思ったところもあるのだろう、これはどこかの高校で、歴史クラブの高校生相手に講義した模様を、文字に起こしたという形式になっていて、高校生の質問などが随所に出てきて、著者がそれに答えていたりするのだが、これはその方が一般の人に解りやすいと思ったのだろうが、僕などはそのたびにイライラする。
だいたいまず質問が、歴史クラブの生徒だから、僕なんかよりも歴史について、よっぽど詳しかったりするわけで、だから生徒の質問自体に、自分の疑問と重ねあわせることができず、共感できない。
それからそれに答える著者が、生徒たちとほんとに一緒に考えようという姿勢ではなく、あらかじめ想定した答えがあって、それに合ったものをすくい上げていくというものに、けっきょくなっているものだから、その上から目線な感じも気分が悪い。
こんな中途半端な質問コーナーを設けるよりも、そのままストレートに、ふつうに書いてくれたほうが、よっぽど解りやすかったのじゃないかと思う。
また学者だからどうしても、自分の研究分野や、研究成果を誇りたいという気持ちが前面に出てしまって、それが説明の流れをかえって複雑にしてしまっている。
僕がこの本を買ったのは、歴史を知りたいからであって、歴史学を知りたいからではないわけで、誰がどういう研究をしたとか、歴史のこの現象と、時代を下ったこの現象とは、一見違うように見えるけれども、歴史学的に見ると、重なるところがあるのだとか、どうでもいい、枝葉末節のことであるわけなのだが、それが強調されることによって、肝心の歴史の流れの方は、かえって見にくくなってしまっている。
さらにこの本を読んでいると、著者が、戦争で莫大な数の人が死ぬということを、そのこと自体によって社会が大きく変革されるという、歴史学的な観点などから見て、楽しんでいるという気持ちが伝わってきてしまう。
それは研究は楽しいに決まっているのだから、研究者同士で、その楽しさを共有する分には、何も問題ないのだが、日本の歴史を知り、それを今の日本を考える手がかりにしたいと思っている、僕のような人間からすると、まず不謹慎な感じがしてしまうし、それにイライラすることによって、歴史の内容を理解する妨げになってしまう。
というように、僕に言わせると、この本は一般の読者が読むためには、かなり欠点の多い本であるのだが、その内容自体は、僕が日本の近代史について、あまりに無知だったということもあり、興味深いものだった。
日本が、どう考えても無謀なアメリカとの戦争に突入してしまい、それに反対する大きな勢力もなく、国民も圧倒的に支持したという、そのあたりの事情が、著者やほかの歴史学者が資料を丹念に読み込んでいった結果、見事に明らかにされていく。
その資料というのが、各国の公的文書だけでなく、当時の役所の課長の業務日誌や、一般市民の私的な日記というものにまで及んでいて、これだけの労苦をかけて研究をする歴史学者という人たちは、たしかに大したものだと思う。けっきょくひとことで言えば、「陸軍の暴走」ということになるのだが、それは第一次世界大戦で、ヨーロッパでの総力戦によって、とてつもない数の人が死に、国土は焦土と化したということを、目の当たりにした陸軍が、来るべきアメリカ、ロシアとの最終戦争で、日本が同じことに巻き込まれるということを予感し、第一次大戦が終わった早々、次の戦争へ向けて準備を始める、ということからスタートする。
資源のない日本では、総力戦は戦えないということで、その調達先として中国に目をつけ、それを支配下に置くために、満州事変が起こされ、日中戦争へと拡大していく。
膨大な回数の講演会を全国各地で行ない、そこで世界情勢の中で日本が不利益を被っていることを過度に強調し、日本国民の陸軍に対する支持を取り付けていく。
政治はそれに対して、党利党略が優先し、日本の進むべき方向を指し示すこともできず、陸軍の独走にたいして歯止めをかけることもできず、陸軍の強引な中国侵攻によって、国際世論の支持を完全に失い、すべての国を敵にまわすことになったにもかかわらず、陸軍のプロパガンダによって、国民はそれを知らず、陸軍を支持し、そのまま様々な計算違いが重なりながら、太平洋戦争へと突入してしまう。
太平洋戦争末期に、もう敗色が濃厚で、勝ち目がなくなったにもかかわらず、情報を統制し、異論を排したために、日本兵士の莫大な死者数を積み上げることになってしまう。
このような悪夢のような筋書きが、関係者の証言を丹念に発掘することによって、個人個人の動きが目に見えるというほど、明らかに再現されていく。膨大な回数の講演会を全国各地で行ない、そこで世界情勢の中で日本が不利益を被っていることを過度に強調し、日本国民の陸軍に対する支持を取り付けていく。
兵士をスムーズに徴用するために、農村からの支持を得ようと、農村を振興するための政策をすら、陸軍が打ち出していく。
折からの世界大恐慌で、国民の不満は高まり、それがますます、陸軍のたいする支持を固めるということになっていく。
政治はそれに対して、党利党略が優先し、日本の進むべき方向を指し示すこともできず、陸軍の独走にたいして歯止めをかけることもできず、陸軍の強引な中国侵攻によって、国際世論の支持を完全に失い、すべての国を敵にまわすことになったにもかかわらず、陸軍のプロパガンダによって、国民はそれを知らず、陸軍を支持し、そのまま様々な計算違いが重なりながら、太平洋戦争へと突入してしまう。
太平洋戦争末期に、もう敗色が濃厚で、勝ち目がなくなったにもかかわらず、情報を統制し、異論を排したために、日本兵士の莫大な死者数を積み上げることになってしまう。
著者は現在の日本の、政治の機能不全と、それにたいする日本国民の閉塞感が、満州事変開戦前夜の日本の状況と、共通するものがあるという。
そういう中、もし当時の陸軍のように、国民に対して実現できるわけもない夢を見させてしまうような存在が現われるとすると、これは脅威であると。
たしかに今、愛国的な言論が力を増しているように見え、自衛隊の高級幹部が政府を公然と批判し、政府は政権交代をしたはいいけれど、けっきょくは以前と変わらないような政策に戻ろうとしつつあり、経済は再生せず、中国やロシアとは領土問題が再燃している。
この全く先の見えない世の中、危ないところに来ているのは、間違いないのだろう。
そういうとき一番大切なのは、国民が感情ではなく、理性によって物事を判断することだと、歴史は教えるわけだが、人間それが、一番むずかしいのだよな。
Amazon: それでも、日本人は「戦争」を選んだ
2010-10-08
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」(再)
郡司ペギオ幸夫さんの「生命壱号」、つくづく面白くて、3回目を読んだ。
今回僕は、郡司さんの考え方の内容について、ちょっと書いてみたいと思ってるんだが、書けるかどうか自信がない。
郡司さんは哲学についての素養がものすごく深くて、もうほとんど哲学者と言ってもいいくらいなものなのだが、僕はそういうの、全然ないからな。
でもあえてひとことで言ってしまえば、物事にはつねに、どんなものにも、「全体」と「部分」という二つの側面があり、人間を初め生命はすべて、この二つの側面から世界を認識しているのだ、ということなのだ。
郡司さんはもちろん、このことを、こうやってただざっくりと文章で表現するということではなく、哲学的に明確な形にし、さらにそれを数学で表現し、コンピュータでシミュレーションすることによって、現実の粘菌だとか、鳥の群れだとか、人間の認識についてのある心理実験だとか、そういうものと比較するということをしているということなのだな。
その前提として、こういうことがあって、これは郡司さんも「生命壱号」の中で書いているのだが、地球の深海の奥底の方に、もしかしてまだ人間が存在を認識していない、未知の生物がいるとして、って実際、こないだもそういうものが大量に見つかったと新聞に書いてあったから、そういうものはいるはずだと思うのだけど、それは人間にとって、存在すると言えるのか、という問題がある。
でもそれとはべつに、世界というものは人間が認識しようがしまいが、あくまで存在し、人間がそれを認識できるということは、世界の側に、それを可能にするような何かの働きがあるからだ、という考え方もある。
このあたりのこと、下手に踏み込むと大変なことになるので、このくらいにしておくが、この、世界というものを形作っている基本となるものが、認識なのか、それとも存在なのか、ということは、これまで長らく議論の中心となっていたものであって、決着がついていないものだ、というのだな。
何がそんなに面白いのかというと、この人、僕と、物事を考えるクセみたいなものが、そっくりなのじゃないかと思うのだよな。
ってべつに、これは自分との共通点を自慢したいとかいうことじゃなく、郡司さんがそれだけ、たくさんの人に支持されうる広さ持っているということなのじゃないかと言いたいのだが。
最近では僕は、マイケル・ポランニー、小林秀雄、そしてこの郡司さんだな、強烈に面白いと思った人は。
ビッグスリー。
今回僕は、郡司さんの考え方の内容について、ちょっと書いてみたいと思ってるんだが、書けるかどうか自信がない。
郡司さんは哲学についての素養がものすごく深くて、もうほとんど哲学者と言ってもいいくらいなものなのだが、僕はそういうの、全然ないからな。
でもあえてひとことで言ってしまえば、物事にはつねに、どんなものにも、「全体」と「部分」という二つの側面があり、人間を初め生命はすべて、この二つの側面から世界を認識しているのだ、ということなのだ。
郡司さんはもちろん、このことを、こうやってただざっくりと文章で表現するということではなく、哲学的に明確な形にし、さらにそれを数学で表現し、コンピュータでシミュレーションすることによって、現実の粘菌だとか、鳥の群れだとか、人間の認識についてのある心理実験だとか、そういうものと比較するということをしているということなのだな。
その前提として、こういうことがあって、これは郡司さんも「生命壱号」の中で書いているのだが、地球の深海の奥底の方に、もしかしてまだ人間が存在を認識していない、未知の生物がいるとして、って実際、こないだもそういうものが大量に見つかったと新聞に書いてあったから、そういうものはいるはずだと思うのだけど、それは人間にとって、存在すると言えるのか、という問題がある。
人間にとって存在する世界というものは、人間が現に認識しているものだけである、という言い方も、たしかにできないことはないわけだ。
だって人間は、自分が認識できない世界を、知りようがないとは言えるわけだから。でもそれとはべつに、世界というものは人間が認識しようがしまいが、あくまで存在し、人間がそれを認識できるということは、世界の側に、それを可能にするような何かの働きがあるからだ、という考え方もある。
このあたりのこと、下手に踏み込むと大変なことになるので、このくらいにしておくが、この、世界というものを形作っている基本となるものが、認識なのか、それとも存在なのか、ということは、これまで長らく議論の中心となっていたものであって、決着がついていないものだ、というのだな。
同じような問題として、「生きもの」というものを考えるとき、それが「機械」と同じようなものなのか、それともそうではなく、機械の働きには還元できないような、「生気」とでもいう、生きものに独特なあるものが存在するのか、という問題もある。
これは現在の科学では、生気は存在しない、生きものはあくまで、機械の一種であって、生きもののふるまいはすべて、分子一つ一つのふるまいからさかのぼって、説明することができるのだ、ということになっているが、しかし例えば、人間が誰でもあきらかに持っていると知っている、人間の「意識」などというものについて、分子の働きから説明するということについて、いまだその手がかりすら見つかっていないということはある。
いや手がかりくらいは、見つかっているのかもしれないが。
しかしこの全体と部分というもの、そうやって簡単に口で言ってしまえるようなものではない、なかなか奥深い事情があるのだ。
「部分」というのは、そのあたりにある石ころでもいいし、分子のひとつひとつでもいいし、そういうものを示すものだから、誰もが知っているようなものであるのだが、「全体」ということが難しい。
言語学では、「一語文」と呼ばれたりはしているが、単語が組み合わされて、文ができるという考え方からは、本来、このひとつの単語が、同時に文でもあるということは、導き出せないものだ。
郡司さんが言うのは、そういう問題について、その「どちらなのか」を問うてしまうことが、そもそも間違いなのであって、認識と存在、生気と機械、それら全体性をもつものと、個別性をもつものとをあわせることによって、それをひとつのものとして説明していくということを考えなければいけないのだ、ということなのだ。
しかしこの全体と部分というもの、そうやって簡単に口で言ってしまえるようなものではない、なかなか奥深い事情があるのだ。
「部分」というのは、そのあたりにある石ころでもいいし、分子のひとつひとつでもいいし、そういうものを示すものだから、誰もが知っているようなものであるのだが、「全体」ということが難しい。
「ことば」についての例で考えてみると、これまでの言語学では、「文」というものは、まず「単語と」いう部分があって、それがいくつか、文法という規則でつなぎ合わされて、できていると考える。
文という全体は、単語という部分の組み合わされたものだ、というわけだ。
それはもちろん、正しいには違いないだろうが、それではそこで、小さな子どもが、って、大きなオヤジもそう言うときがあるが、お母さんや奥さんに対して、「牛乳」と言ったとする。
大きなオヤジは「めし」とかだろうけど。
牛乳や、めしは、言語学的に言えば単語であり、部分であるはずのものなのだが、実際にはそれらは、「牛乳をくれ」とか、「めしをくれ」とか、完結した意味を運ぶものになっているのであって、すでに全体をもっている。言語学では、「一語文」と呼ばれたりはしているが、単語が組み合わされて、文ができるという考え方からは、本来、このひとつの単語が、同時に文でもあるということは、導き出せないものだ。
同じようなことを、郡司さんは「生命壱号」の中で、「砂山のパラドックス」というものとして説明している。
ここに砂の山があると。
砂の山というものは、砂粒がたくさん集まってできたものである。
であるから、砂の山から、砂粒をひとつ取り出してみても、それが山であることには変わりがない。
ということで、砂山から、砂粒を取り出すという作業を、何遍もくりかえしていくと、山はどんどん小さくなり、終いには砂粒ひとつが残ることになる。
しかし、初めに、砂山から砂粒をひとつ取り出しても、それは砂山のままであると定義した以上、残った一粒の砂粒も、山であると考えなければならない。
これは矛盾、パラドックスであると。
これまで、この砂山のパラドックスは、全体と部分とが、うまく折り合いをつけることの難しさを表すものとして、例に出されてきたものだそうなのだが、それを郡司さんは、考え方を180度、変えてしまうわけなのだな。
砂粒が砂山、上等じゃないか、それでいいのだ、というわけだ。
べつに「山」というものが、砂粒がいくつ以上あったら、それは山ということにしましょうと、あらかじめ決められたことではない。
というより、山という全体は、もともとそのように、砂粒が何粒以上なら山で、それ以下なら山ではない、などというように、はっきり決められないものなのだ。
全体と部分とは、正反対のものでありながら、その境目をはっきりと決めることができない、決めることができないというところに本質があるのであって、それならば、そういう、決められないモデルを作ってみようじゃないかということで、郡司さんはコンピュータのシミュレーションに取り掛かるというわけなのだな。
それが「生命壱号」というものなのだ。
たぶん。
2010-09-28
「日本的想像力の未来」(東 浩紀編)
東浩紀というのはれっきとした大学教授なのだが、「オタク文化」についての批評家で、この本は、「クール・ジャパノロジーの可能性」と題するシンポジウムの講演と討論を、文字に起こしたもの。
日本および海外の、現代日本文化についての研究者、芸術家、映画監督などが、アニメを中心とした現代日本文化の分析および、いま海外で日本のアニメが大流行しているという現象についての分析を語り合う。
僕は文化論などにはまったく疎いので、この本に書いてあることの受け売りをすれば、日本文化論はもともと、「西洋は罪の文化で、日本は恥の文化だ」みたいな、西洋を比較対象とした文脈のなかで論じられてきたものが、浅田彰らのポストモダン的批評、ってどんなものだかよく解らないが、を経ながら、2000年以降、東浩紀や宮台真司などの、「オタク文化」や「女子高生文化」など、具体的なフィールドワークを踏まえた、新しい批評が登場してきている。
様々な立場の人たちが話しあうことによって、この新たな批評の可能性について探る、ということが、このシンポジウムの目的だったらしい。
現代日本文化の特徴として、「かわいい」ということばに代表される、「未熟さ」を前面に押し出すということがあり、これが既存社会からの「大人になれ」という要請にたいする、防波堤のような役割を果たし、若者が自分の居場所を見つけるための、重要な役割を果たしている。
これはしかし、ただ日本でだけ求められるものではなく、世界中で、若者は、日本と同じような状況にいるわけだから、日本のオタク文化は、海外においても必要とされるものになりつつあるのであり、延長線上に、世界中のオタクが、トランスナショナルな連帯をし、ひとつの運動を形成するというようなこともあり得るのではないかという、かなり威勢のよい、オタク批評家の立場から見て、明るい未来を思い描いていたりする。
まあこれは、売り出し中の東浩紀が、大風呂敷を広げている、というものであると思うけれど、世の中には、どんなものでも、それを研究する人がいて、またそれが学問として成立したりするのだということに、けっこう驚く。
というか、オタク批評を学問として成立させようと、一生懸命がんばって、難しいことばを使い、批判を退け、偉そうにふるまうところが、批評というものが本来、一般人に開かれたものであるはずであるということを考えると、なんともイタイ。
★★☆☆☆ 2.0
日本的想像力の未来~クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)
2010-09-14
「ひきこもりから見た未来」(斎藤環)
以前まで本は、ほとんどアマゾンで買っていたのだけれど、それは新聞などの書評で見たりして、もうこれを買うんだと決めている場合には、家まで送ってもくれるし、とても便利なのだが、何を買うかということそれ自体を、ランキングを見たりして決めようとすると、ほとんどタイトルと表紙、それに帯の文句くらいしか見られなくて、中身を読んでみることができないので、自分の予想とはかなり違った、見当はずれな本を買ってしまうことがわかり、このごろは、せっかく近くにブックファーストがあるから、できるだけそこで買うようにしようと思っているのだ。
この本は、いちおうブックファーストでパラパラと中身も見て、きちんと選んだつもりだったのだが、この「ひきこもりから見た未来」というタイトルから、僕が、精神科の医師であり、「ひきこもり」の専門家でもある著者が、ひきこもりという具体的な事例から、日本の未来について、一冊をとおして論をなしたものかと、イメージしたのとはだいぶ違って、ひとことで言うと、著者がいろんな雑誌や新聞などに書いた、わりと短い雑文を、寄せ集めたもの、という感じだった。
ひきこもりそのものについての話も、もちろん多いのだが、内容に重複も多いし、またひきこもりとはあまり関係ない、政治や、その他時事、についての内容も多く、著者はあとがきで、この題名について、「診療室にひきこもりがちな精神科医の管見、という含意」もあると書いているが、最近こういう、本の題名と、その内容が、一致しないものが多いと思うんだよな、それについては、ちょっとがっかりだった。
ということが、読み始めにいきなりあったのだが、内容については、とくに著者の専門である、ひきこもりの話題についてが、やはり具体的な経験からくる、実感がこもった議論が展開されていて、それなりにはおもしろく、また実際、日本人として、この問題について、無関心でいてはいけないなということを、考えさせられるものではあった。
ひきこもりということについて、これまであまり実態を知る機会がなかったのだが、現在日本には、控えめに見積もっても、41万人のひきこもりがいて、この数にもびっくりだが、さらにその平均年齢が、30歳を超えているのだそうだ。
もう20年以上引きこもって、年齢が40代半ばになっている人たちというのが、なんと10万人もいるのだそうで、彼らはこれからも、引き続き、ひきこもり続けるわけなので、20年後、10万人の人たちが、それまでの人生の全てをひきこもり続けて、年金をもらうにいたる、ということになるというのだ。
それを著者は、「2,030年問題」と称していて、ただでさえも、若い世代が年金をもらうということについて、厳しくなっているこのご時世、一生のうち、一度も働かなかった人が、年金をもらうということについて、社会が寛容でいられるはずはなく、かならずや、大きな問題になるだろうと言う。
またひきこもりは、ひきこもりが長期化するにつれて、親の負担もただならぬものになり、社会的な援助も乏しく、かなり追い詰められた状態にあって、遠からず何らかの形で、それが爆発するということが起きるのではないかとも、著者は言う。
たしかにそれは、深刻な事態で、著者はヨーロッパ各国が採用しているような、「青少年省」のような、独立した専門の役所の部門が、きちんと作られるというようなことでないと、解決されないことだと著者は言うが、そのためには、専門家だけでなく、一般の人が、もっとひきこもりについて、きちんと考えるということが、ないといけないのかもしれないな。
ひきこもりというものが、なぜ一見、あまり大きな問題として、世の中で捉えられていないかということについて、それは日本が独特の側面があるのであって、外国では、社会にうまく入ることができなかった若者は、家にずっと居続けるのではなく、ホームレスになるか、犯罪組織に加入するか、ということが多く、そうなると、社会の人は、それを街角のそこここで、目のあたりにすることになるから、問題として認識されやすいのにたいして、日本では、親が頑張って、家で面倒をみるということになっていて、そうなると、社会の人たちの目からは、一見、問題として見えにくくなっているからだと、著者は言う。
しかしその親たちも、高齢化し、すでに限界に来ているケースも多く、またもしこれから、ひきこもりの親が死んだりした場合、「在宅ホームレス」と著者が称するような、生活能力のない人が、家で一人で取り残されるということにもなりかねない。
まことに暗澹たる未来が、目の前に迫っている、それが「ひきこもりから見た未来」である、というわけなのだ。
という、日本における、解決されなければならない多くの問題のうちの一つでも、これだけ深刻であるのに、政治はそれをきちんと解決するということについて、党内抗争を繰り返すばかりで、その気配も見えないという状況なわけだ。
どうしていいんやら、わからんな。
★★★☆☆ 3.0
ひきこもりから見た未来
2010-09-10
「生命と偶有性」(茂木健一郎)
茂木健一郎氏、8月の末に出たばかりの、渾身の最新刊。
おちゃらけたノウハウ本ではなく、「脳科学者が“本気の思索”で掴んだ、新しい生命哲学」とのことなので、期待して買ってみた。
この人、学者にしては、文章がほんとにうまいと思うんだよな。
「まえがき」では、今の日本は漠然たる不安にかられて、皆元気がないと、しかし不安だからといって、怖気付いていては、何の未来もない、不安をのりこえ、相手を見すえて、思い切って飛び込んでみてこそ、道が開かれることもある。
「偶有性の海に飛び込め! そうして、力の限り、泳いでみよ!」
と、ビックリマークまで付けて、なかなか煽ってくれるのだ。
というわけで、楽しみに読み始めたのだが、残念ながら、50ページほど行ったあたりで、力尽きて、あとは最後まで、飛ばし読みをしてしまった。
ひとつには、この本の書かれ方が、論理的になっておらず、情緒や印象に訴えるようになっている。
科学にかんする事柄も、いろいろ登場するのだが、それらがきちんと掘り下げられることはなく、ある風景のひとつとして、コラージュを構成するひとつのパーツのように、散りばめられている。
僕のような素人の一般人が、それらを見た場合、なんとなくアカデミックな、すごそうなことが書いてあると思わせる効果はあるが、実際そこで何が言われているのかを、注意深く読み取ろうとすると、実質的にはなにも言われておらず、ただそれらしい単語が並べられているだけであることがわかる、ということが何度もある。
自分が子供のころ、規則的に飛ばない蝶を、なんとか取ろうとして、それに成功するという体験談があったりするのだが、「そこには良質な偶有性があった」と引き取られ、偶有性に良質なものと、そうでないものがあるということはわかったのだが、それ以上、その体験談が、偶有性にどう関わりがあるのかが、解釈されるということもない。
全10章のうち、2章までを読んでみて、一から十までがその調子で、まじめに読もうとすると、こちらが疲れるということに気付き、もうあとはあきらめてしまったのだ。
茂木氏は「偶有性」ということばを、「クオリア」につづく新たなキーワードとして、前面にもってこようとしているのだが、その偶有性とは何なのか、それはこれまで生物学で提出されてきた様々なキーワードと、どう違って、どう新しいものなのか、ということは、論理的には説明されない。
あくまで印象や情緒に訴える書き方が、一貫してされているのだ。
もちろんそれはべつに、悪いことではないし、論理よりも、情緒や印象に訴える書き方のほうが、一般の人には受けがいいだろうと思うのだが、しかしそれが、「脳科学者が本気の思索で掴んだ、新しい生命哲学」であるとするならば、なんとも情けない。
よしんば一歩ゆずって、「新しい生命哲学」というのは、ただ出版社がつけたキャッチコピーであって、自分のこれは、まだ途中の段階なのであり、自分はこの本に、考えているプロセスそのものを書いているのだ、ということであったとしても、この論理性の欠如は、あんまりだと僕は思う。
それからもうひとつは、この本で茂木氏は、「組織とか、肩書きとか、学歴とか、そういうものに頼るのではなく、身ひとつで、流れに飛び込んでみよ」ということを言っているのだが、それでは茂木氏自身は、流れに身ひとつで飛び込んでいるのか、ということについて、疑問に思ってしまうのだ。
茂木氏はソニーコンピュータサイエンス研究所の研究員という、立派な組織の一員であるわけだが、この本に、茂木氏自身の科学的な研究成果というものの、一片の理論や、一片のモデルも、登場しないところを見ると、茂木氏はこの肩書というものを、自分の安全地帯として利用しているのであって、自分は安全地帯にいながら、人には飛び込めと言っていると、そういうことなのじゃないかと、これはまさに下衆の勘ぐりだが、思ってしまうのだ。
茂木氏にはぜひ、科学的な成果を、きちんとあげてもらいたいと僕は思う。
そしてそのことを、一般人である僕たちに、わかることばで伝えてほしい。
★★☆☆☆ 2.0
生命と偶有性
もちろん茂木氏が挑んでいる、「クオリア」とか、「偶有性」とかいうものは、茂木氏の言うとおり、究極の問いなのであり、そう簡単に成果があがることではないのだろうと思うが、茂木氏が科学者として、大成することをこそ、僕もふくめ、多くの茂木ファンが、心から望み、待ち焦がれているものなのであると思う。
★★☆☆☆ 2.0
生命と偶有性
2010-09-09
「日本辺境論」(内田樹)
この本、読んでいてほんとにイライラするのだ。
まず冒頭の「はじめに」で、著者は自論にたいして、想定される批判をあげ、それが見当違いなのだということを論ずるところから、話しをスタートする。
内容をまだ論じてもいないうちから、いきなり防御を固められても、読む方としては読む気が失せるだけなのだが、著者にとっては、読者よりも、まだ受けてもいない批判で、自分が傷つくことを防ぐことの方が、大事だということなのだよな。
なるほどそれは、自分自身や、今の社会状況、自分がもといた会社の体質、などなどを考え合わせるに、納得できるものもあるのだが、同時にこの本を読みながら、著者にたいして、じゃあお前はどうなんだよと、自分も辺境人なのじゃないかと、ツッコミを入れたくなるのだ。
これはおそらく、著者の文体や、論の運び方などの、「語り口」が、そう感じさせるものと思う。
世の中には、数え切れないほどたくさんの本があり、その一冊一冊で、その本の著者は、何かを論じているわけだが、科学的にたしかに証明されているというようなものは別として、僕のような一般人が、その著者の論ずる内容を信じるか信じないかということは、大げさな言い方をすれば、著者がその内容を、自分の人生のなかに、きちんと位置付けているのかどうか、ということによって、決まってくるものと思う。
内容については、それなりに興味深くはあり、日本人のもつ、外国の文化をとにかく良いものだとみなし、それに追いつくために、それらを貪欲に我が物にしようとするときには、限りない才能を発揮するのに、それに追い付いてしまって、今度は自らがビジョンを語り、他をリードしなければならないという立場になると、からきし情けないことになるという、そういう体質について、日本がもともと、中国という文化の中心地にたいして、自分たちを「辺境人」であると規定し、そうやって中心から外れていることによって得られる、とやかくうるさいことを言われずにすむという自由を、存分に享受しながら、文化を形成してきたことにより、育まれたものだということを言う。
なるほどそれは、自分自身や、今の社会状況、自分がもといた会社の体質、などなどを考え合わせるに、納得できるものもあるのだが、同時にこの本を読みながら、著者にたいして、じゃあお前はどうなんだよと、自分も辺境人なのじゃないかと、ツッコミを入れたくなるのだ。
もちろん著者も、「自分も辺境人であると実感する」などのことを、何箇所かで書いているのだが、どうもそれが、口だけで言っている感じがする。
「日本人」について語っているのに、著者は自分を、その外側に置いているという感じがしてしまう。
これはおそらく、著者の文体や、論の運び方などの、「語り口」が、そう感じさせるものと思う。
世の中には、数え切れないほどたくさんの本があり、その一冊一冊で、その本の著者は、何かを論じているわけだが、科学的にたしかに証明されているというようなものは別として、僕のような一般人が、その著者の論ずる内容を信じるか信じないかということは、大げさな言い方をすれば、著者がその内容を、自分の人生のなかに、きちんと位置付けているのかどうか、ということによって、決まってくるものと思う。
それは論そのものよりも、その語り口によって感じられてくるもので、著者がその論を、自分の人生の問題であるとまっすぐ受け止め、苦しい試行錯誤をしていると思えば、それを信用するし、そうでなければ信用しない。
そういうものなのじゃないかと思う。
この本のなかで、著者が論じている内容は、日本人についてかなり否定的な見解をふくむのだが、それを著者自身がどのように受け止めるのかということについて、ほとんど書かれておらず、あくまで著者は、豊富な知識を駆使して、それをただ論ずる人という、特権的な立場を放さない。
それが読んでいる者をして、とにかくイライラさせるのだ。
そのことについて、著者もわかってはいるのかもしれない。
最後の章で、自分の文体について触れていて、ほんとはもっと、読者の共感を誘い、読者とともに歩むような書き方をしたかったが、この本の内容は、まだ自分もたしかにわかっていないことをふくんでいて、えいやと勢いで乗り越えてしまわなければいけないところが、たくさんあったので、それはあきらめた、というようなことが書いてあった。
しかしそれで、読者の共感というものを捨ててしまえるということが、学者の限界というものなのだろうな。
学者は論を立て、それを学生に教えるということが仕事であって、一般人の共感などというものは、おまけみたいなものなのだろう。
下手な批判を受けるくらいなら、そんなことは、しない方がいい、ということなのじゃないかと思う。
★★★★☆ 4.0
日本辺境論 (新潮新書)
2010-09-06
「小惑星探査機はやぶさの大冒険」(山根一眞)
ノンフィクション作家山根一眞が、小惑星探査機「はやぶさ」の、打ち上げ前から、7年にわたる飛行の末、今年6月に「カプセル」が着地・回収されるまでを取材し、多数の研究者にインタビューしたのをまとめたもの。
直径500メートルほどの小惑星「イトカワ」へ、岩石を採取するために打ち上げられたはやぶさ。
はやぶさはイトカワ着陸にあたって、3つあり、最低でも2つがないとうまく動かないはずの、姿勢制御のための装置、「リアクションホイール」が、2つまで故障し、残りの一つに、本来はべつの目的で使う「化学エンジン」を併用し、なんとか姿勢を制御する。
この本では、その研究者たちの、立ちはだかる壁をひとつひとつクリアしていく、ほとんど鬼気迫るともいえる様子を、本人たちのインタビューも交えながら、克明に描いていく。
7年間にわたり密着取材した著者だからこそ、書き得たことなのだろう。
はやぶさに思いをよせる研究者たちのセンチメンタリズムに、著者が肩入れしすぎ、後半ちょっと、ベタベタした湿っぽい感じになるのが、僕としては鼻に付くところもないではなかったが、日本が誇る、宇宙開発の大きな一歩である、はやぶさプロジェクトについて、全貌を知るには、おすすめの一冊だと思う。
★★★★☆ 4.0
小惑星探査機 はやぶさの大冒険
直径500メートルほどの小惑星「イトカワ」へ、岩石を採取するために打ち上げられたはやぶさ。
ソーラーパネルをふくめても、3メートル四方ほどの小さな探査機が、無限の宇宙をひとり飛び続け、世界初の挑戦をくりかえすという、けなげとも思える姿がまず、胸をうつのだが、さらにすごいのは、はやぶさが無事地球にたどり着くまでの、壮絶ともいえる研究者たちの悪戦苦闘の様子だ。
はやぶさはイトカワ着陸にあたって、3つあり、最低でも2つがないとうまく動かないはずの、姿勢制御のための装置、「リアクションホイール」が、2つまで故障し、残りの一つに、本来はべつの目的で使う「化学エンジン」を併用し、なんとか姿勢を制御する。
ところがその化学エンジンの燃料が漏れ出し、空になってしまい、さらに電池の充電も切れてしまったため、方向を制御できず、通信も不能になったはやぶさは、46日間にわたって行方不明になる。
やっと見つかったものの、姿勢制御ができないはやぶさを、主エンジンである「イオンエンジン」の燃料である「キセノンガス」を、直接機外へ噴射させて姿勢を制御するという、まったくの想定外の奇策でなんとか姿勢を立て直すが、4つあったイオンエンジンの、3つが壊れて、残った1つのイオンエンジンの、今度は「中和器」という装置が故障。
今度こそ絶望的かと思われたが、それも別のエンジンの、壊れていなかった中和器を使うという奇策でふたたび乗り切り、はやぶさは無事、地球に帰還するにいたる。
この本では、その研究者たちの、立ちはだかる壁をひとつひとつクリアしていく、ほとんど鬼気迫るともいえる様子を、本人たちのインタビューも交えながら、克明に描いていく。
7年間にわたり密着取材した著者だからこそ、書き得たことなのだろう。
はやぶさに思いをよせる研究者たちのセンチメンタリズムに、著者が肩入れしすぎ、後半ちょっと、ベタベタした湿っぽい感じになるのが、僕としては鼻に付くところもないではなかったが、日本が誇る、宇宙開発の大きな一歩である、はやぶさプロジェクトについて、全貌を知るには、おすすめの一冊だと思う。
★★★★☆ 4.0
小惑星探査機 はやぶさの大冒険
2010-09-04
「女医が教える本当に気持ちのいいセックス」
Amazonで見て、ランキングのかなり上位に入っていたので、完全に興味本位で買った本。
表紙からしてエロ本チック、冒頭数ページにも、同様の萌え系オネエちゃんのイラストに、エロいメッセージが書き込まれており、おじさんとしてはウハウハしながらも、どうせろくな本じゃないんだろうと思って読みはじめたのだが、最後まで読んでみて、内容はいたって真面目、けっこうな良書だということがわかった。
著者は産婦人科の医師であり、女性むけの本を、これまで何冊か出しているようだが、患者の女性からセックスのやり方についての相談を受けるうち、医学部では習わない実際のセックスというものについて、きちんと勉強したいと考えるようになり、医者や教育関係者が参加する、「日本性科学会」に入会。
国際学会などにも出席している。
患者の女性と話をすると、セックスが楽しくなく、あまり好きではないという女性が非常に多いそうなのだが、その理由が、男性がアダルトビデオで知識を仕入れ、それを実践するところにあると、著者は見抜く。
荒唐無稽な、男性のためのファンタジーであるアダルトビデオのセックスは、女性にとっては苦痛以外の何物でもない場合が多く、それが女性をセックス嫌いにさせているのだと。
セックスのやり方など、教えられなくても、自然におぼえるものだ、ということは、僕もふくめて、男性の多くはそう思うことであり、そのノウハウ本を買うなどというのは、男にとってはどちらかといえば恥ずかしい、しかもそれを女に教えられるなどというのは、ちょっと馬鹿にされているとも思えることじゃないかと思う。
それは本当に、世の中に何の知識もない場合には、その通りかもしれないが、アダルトビデオがこれだけ出まわり、それを誰でもが見れる、今の世の中においては、男性にたいして、そのやり方がまちがったものだということを、きちんと伝えないかぎり、女性がセックスを楽しいと思えることはないと、著者は考える。
それでそういう本を、男性むけに出版するにあたって、それを男性に抵抗なく読ませるための高等戦術が、表紙や冒頭の、萌え系のイラストだったりするのだな。
たしかに男性が、エロ本やアダルトビデオを手にするのと同じ感覚で、この本を手にとり、読みはじめられるようにできている。
たいしたもんだ。
語り口も押しつけがましいところがなく、素直に読み進むことができる。
まあこの本を読んで、僕が何を学んだかについては、あえて語らないが、たしかに目からウロコ、学ぶべきことがたくさんあるのはまちがいない。
女医が教える 本当に気持ちのいいセックス
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