昨日は晩酌前にスピナーズへ行き、バーテンのコウイチ君と、あれこれ話をした。
政治の話にもなり、ぼくも改めて、色々考えさせられたのである。
いつも行く四条大宮のバー「スピナーズ」へは、開店直後へ行ったため、
お客はまだぼく一人だった。
日曜はマスターのキム君はお休みで、バーテンのコウイチ君が店を開けている。
コウイチ君は8月一杯でスピナーズを辞め、
次なる人生のステージへステップアップしようとしている。
「コウイチ君とゆっくり話せるのも今日が最後かもしれない・・・」
そう思ったぼくは、他には誰もいなかったけれど、腰を落ち着けることにした。
コウイチ君は、スマホを機種変したと言って、嬉しげに触っている。
「前のスマホはもう使えなくなってしまったの?」
ぼくが聞くと、
「普通に使えはするんですが、電源のコネクタがおかしくなってしまって、
修理するより買ったほうが安いと言われたんですよ・・・」
とのこと。
修理するより買うほうが安いとは、おかしな時代になったものだ。
コウイチ君はまだ20代だから、あれこれ前向きに吸収しようと頑張っている。
「高野さんは、ニュースとか、どうやって見ているんですか。」
コウイチ君は、以前までは政治にはまったく関心がなく、
選挙へも行ったことがなかったのだけれど、
スピナーズで年上のお客さんと話すうち、「それではいけない」と思うようになり、
前回の参院選では、初めて投票に行ったのだそうだ。
自分でもニュースなどを見て勉強しなければならないと思うけれど、
例えば福島の状況などにしてみても、「どうも今一つ、よく分からない」と言う。
ぼくはコウイチ君に、自分が見ているニュースサイトをいくつか教えたのだけれど、
ニュースで事実だけを見ていても、その事実が何を意味するのかは、
素人にはなかなか分からない。
といってテレビや新聞の解説は、多くは事実を直視せず、
政府の意向に沿ったものに、今やなってしまっている。
「誰か『この人は信用できる』という専門家を見つけ、
その人の解説を、同時に見るようにするといいんだけどね・・・」
ぼくは、「コウイチ君には少し難しいかな」とは思いながらも、
ツイッターで「金子勝」をフォローするように勧めた。
「この人は、ぼくがもう何年も発言を見ていて、専門家の中では唯一ともいえる程、
信用している人だから・・・」
難しくても、見ないよりは見た方がいいに決っているのである。
コウイチ君は、福島の状況についても心配しているのだけれど、それはもっともだ。
福島の原発事故は、原因の究明も、責任の追求もされず、
きちんとした対策も取られぬまま、原発の再稼働、さらには輸出まで
されようとしている。
そのおかげで第一原発からは汚染水が大量に漏れだし、
また福島では、子供の甲状腺がんが増えている。
政財官学の中枢が、「自分たちの利益を守る」ことのみを考え、
「本来されなければならないこと」は抹殺される。
やられ放題になっている国民は、ところが多くはそれに気づかず、
自民党は選挙で大勝、憲法を改正して軍事大国を目指そうとまでしている。
これから先、日本は下がる一方だとしか、ぼくには到底思えない・・・。
「それを防ぐためには、どうしたらいいんでしょうね?」
老い先がそう長くはないぼくは、「下がる一方」で片付けられても、
これから人生を歩まなければいけないコウイチ君にとっては、
日本の行く末は切実な問題だ。
「関心をもつこと・・・、それから選挙へ行くことかな・・・」
今は野党が分裂し、民主党の政権交代の時のように対案がないから、
「どうしたらよいか」が分かりにくい。
しかも民主党もあのような形で崩壊してしまったから、
若い人が政治に関心がなくなる気持ちも分かる。
日本の未来にはっきりとした希望が持てない今、
そこに関心を持つことには、かなりの努力が必要だ。
でもそれを今、放棄してしまったら、日本には本当に未来がなくなる。
「ぼくは頑張って、関心を持ち続けますよ。」
コウイチ君は、真顔で言った。
「それでぼくの友達にも、きちんと選挙へ行くように勧めます。
そうやって30人でも50人でも、選挙へ行く人が増えてくれれば、
日本は変わるかもしれないですよね・・・」
たしかにそうだ。
そういう小さな所からしか、日本を変えていくことは出来ないのかもしれない。
「おっさんも、頑張らなくちゃ。」
そうだよな、あきらめちゃいけないな。
金子勝ツイッターアカウント ⇒ @masaru_kaneko
2013-08-26
2012-12-17
ほうれん草と卵と豚肉は黄金のとり合わせ。
「ポパイ炒め」
ポパイ炒め。旬のほうれん草は、何といっても卵、豚肉と炒め合わせるのが黄金のとり合わせ。オリーブオイルとオイスターソースでバターじょうゆ的な味付けにする。
ほうれん草はやはりサッと下ゆでし、水にとって絞ったほうが、アクも抜けるし色もあせない。
卵3個は割りほぐし、大さじ2ほどのオリーブオイルであらかじめ炒めておく。
豚コマ肉200グラムを大さじ2ほどのオリーブオイルで強火で炒め、色が変わったら合わせ調味料を入れてひと混ぜする。
合わせ調味料は、酒大さじ1、オイスターソース大さじ1.5、しょうゆ小さじ1。
卵とほうれん草を加え、全体を混ぜて味をなじませたら、片栗粉大さじ0.5、水大さじ1の水溶き片栗粉をまわし入れてトロミをつける。
味を見て塩加減をし、コショウをふる。
オリーブオイルにオイスターソースのコクが利き、大変うまい。
汁は、以前八百屋のご主人にもらった天然鯛のあらでだしをとり、湯豆腐にした。
選挙の結果は、予想されていたこととはいえ、
いざ現実にそうなってしまうと落胆する気持ちが強い。
と同時に、これから日本はどうなってしまうのだろうと考えると、
ザワザワと胸騒ぎがする。
投票率が戦後最低だったというから、
「どうせ変わらない」とあきらめてしまった人が多かったのだろう。
小泉改革があり、民主党の政権交代があり、さらに大震災や原発事故があっても、
日本は何も変わらなかったのだから、あきらめる気持ちはぼくにもわかる。
まあしかし、あきらめてしまったおかげで、
一番なってはいけない人たちが政権についてしまった。
ぼくには日本がこれから、奈落の底へ落ちていくようにしか思えない。
日本は一回、徹底的にぶっ壊れないかぎり、変わらないのかとも思うけれど、
しかしそれではもちろん、若い人たちが悲惨な想いをすることになる。
最終的な破局を回避するための努力を、自分のできる範囲で、
何かしていきたいと思う。
「政治的な運動を何かするの?」
いや、そういうことではない何かだな。
2012-08-19
ナスチャンプルーⅡ
昨日の晩酌は・・・。
おとといナスチャンプルーをやってみて、イマイチ感動がなかったのは、豚肉を入れたせいではなかったかと考えた。
ナスチャンプルーを作ったのは、その前の日に豆腐とナスの取り合わせがやわらかいもの同士ですごくいいと思ったからなのだけれど、豚肉を入れてしまうと豚肉が主役になってしまい、どうしても豆腐が脇役になってしまう。
そこで昨日は豚肉を入れずに、高菜とちりめんじゃこで味出しをしてみたというわけ。
あとは鷹の爪を入れ、ピリ辛味もつけることにした。
まずはサラダ油で、水抜きをして手でちぎった豆腐を、ちょっと焦げ目がつく程度まで炒める。
次にナスを、縦半分に切って3~5ミリ程度の幅に切り、塩ほんのひとつまみをふってゴマ油でしんなりするまで炒める。
火加減はぜんぶ強火。
ゴマ油でちりめんじゃこと鷹の爪、高菜を炒めたら、豆腐とナスをもどし入れ、しょうゆをまわし入れて全体にからめ付け、すりごまをふる。
ナスチャンプルーⅡ。
これはうまい。
やはり肉が入っていないほうが、豆腐とナスの味が引き立つ。
チェブラーシカ、うまいだろう。
「そんな聞き方されたらまずいって言えないじゃないか」
ソフトニシンのかば焼きも作った。
ソフトニシンをフライパンでこんがり焼き、酒と砂糖大さじ1、みりんとしょうゆ大さじ2のタレをまわし入れて煮詰めてからめ付ける。
みょうがは八百屋のおじいさんに食べ方を聞いたら、タテにうすく切って二杯酢に鷹の爪をちょっと入れたらうまいとのことだった。
ただ鷹の爪はナスチャンプルーに使ったから、こちらは削り節。
タテに切ると、液体をかけてもみょうがのシャキシャキ感が最後まで残ることを、昨日はじめて発見。
日本の政治についての話は、偉い人たちが自分の利益のことしか考えず、身勝手なことばかりをしているということしかもう聞かなくなっているけれど、国民が実効的に権力を行使できるのは選挙しかないのだから、まずはきちんと投票するのが、国民として最低限しなくちゃいけないことなのだとは思う。
原子力発電所の即時停止に同意しない国会議員を落選させるための市民運動も、始まっていると聞く。
ただもちろん、それは悪くないことだと思うけれど、国会議員を落選させて、それでは誰を当選させたらいいのかということについて、良さそうな人が見当たらないというのが、今の日本の最大の問題なのではないかと僕は思う。
色々な思惑がうごめいているようだけれども、その人たちもまた自分の利益しか考えず、これまでの人たちとそう大してちがわないように僕には見える。
今の人たちに良さそうな人が見当たらないのならどうしたらいいのかといえば、次の世代に期待するしかない。
日本はだから、これからますます悪くなっていくと僕は思うけれども、今僕たちが、次の世代に何を伝えていけるかで、将来の日本がどうなるかが決まるのだと思う。
それでは自分なら、次の世代に何を伝えたいのかといえば、これはちょっと、手前味噌な話になりはするのだけれど、「男性も料理をしよう」ということなのだな。
僕は今の日本の根本的な問題は、男性が料理に興味を持たないということに象徴的に現れているのだと思える。
僕の前の世代は完全にそうだったし、僕の世代でも多くの人が、男性は外で仕事をし、女性は家で仕事をするのが当たり前な役割分担だと思っていると思う。
女性が続々と社会進出を果たし、女性もかならずしも家で仕事していなければいけないというものではなくなりつつあるけれど、それでは対する男性が、家の仕事に目を向けているかといえば、まだ全体として見れば、そうとは言えないのだと思う。
男性が、自分の役割分担が外で仕事することだと認識すると、仕事が生活のすべてだと思うことにつながっていく。
そこに今の日本のまちがいの根源があるように思える。
生活とは、やはり誰にとっても、自分が心地よく過ごすことが目的になると思う。
あまり堅いことを言わず、お互いケンカせず仲良くやることが、心地よく生活していくためには大切だ。
しかし本来、仕事はそうであってはいけない。
仕事は「やらなければいけないこと」を果たす場であり、それが曖昧になってしまうと仕事は成り立たない。
他人とケンカしてでも、守らなければいけないことが、仕事にはあると思う。
今の政治家や官僚、財界の人たちが、自分の利益を守るために、本来そうであるべきことを片っ端からねじ曲げて、曖昧にしてしまっている姿を見ると、僕は「あの人たちは仕事が生活のすべてになってしまっている」と思える。
仕事が役割を果たすことでなく、自分が心地よく過ごすことが目的になってしまっているから、あのようなことになってしまっているのだと思う。
もし日本を変えるのなら、そこが変わらなければいけないと、僕は思う。
「仕事があくまで生活の一部だ」と、男性が思えるようにならなければ、僕は日本はこれから先も永久に、仕事に居心地のよさを求める人に支配され続けることになるのだと思う。
生活の中心は、食べることだ。
だから生活に関心をもつことは、食べることに関心を持つことだ。
そして食べることの中心に、料理がある。
だから男性が料理に関心をもつことは、日本を変えていくことになると僕は思っている。
といってもちろん、「そうでなければならない」と言われて、人間は何かにそうそう関心を持てるものではないと思う。
何かに関心を持つのは、それが「おもしろい」と思えるからだ。
しかし食べることは、人間の欲望の中心にあることだから、料理は人類が100万年にわたり、数えきれないほどたくさんの人の手によって、膨大な知識が蓄積され、そして現在も、その知識は新たに積み重ねられていっている。
料理こそが、人類にとって最大の文化であるといってもいいのではないかと僕は思う。
だから僕がこうして自分の作ったヘボい料理を公開しながら、自分がおもしろいと思ったことを書きつづっていくことは、もしそれによって次の世代の男性が少しでも、文化としての料理の幅広さや奥深さに気付いてくれることがあったとすれば、微力ながらも日本を変えていくことにつながるのかなと思う。
まあもちろん、僕は日本を変えるためにこのブログをやっているわけではないけれど。
おとといナスチャンプルーをやってみて、イマイチ感動がなかったのは、豚肉を入れたせいではなかったかと考えた。
ナスチャンプルーを作ったのは、その前の日に豆腐とナスの取り合わせがやわらかいもの同士ですごくいいと思ったからなのだけれど、豚肉を入れてしまうと豚肉が主役になってしまい、どうしても豆腐が脇役になってしまう。
そこで昨日は豚肉を入れずに、高菜とちりめんじゃこで味出しをしてみたというわけ。
あとは鷹の爪を入れ、ピリ辛味もつけることにした。
まずはサラダ油で、水抜きをして手でちぎった豆腐を、ちょっと焦げ目がつく程度まで炒める。
次にナスを、縦半分に切って3~5ミリ程度の幅に切り、塩ほんのひとつまみをふってゴマ油でしんなりするまで炒める。
火加減はぜんぶ強火。
ゴマ油でちりめんじゃこと鷹の爪、高菜を炒めたら、豆腐とナスをもどし入れ、しょうゆをまわし入れて全体にからめ付け、すりごまをふる。
ナスチャンプルーⅡ。
これはうまい。
やはり肉が入っていないほうが、豆腐とナスの味が引き立つ。
チェブラーシカ、うまいだろう。
「そんな聞き方されたらまずいって言えないじゃないか」
ソフトニシンのかば焼きも作った。
ソフトニシンをフライパンでこんがり焼き、酒と砂糖大さじ1、みりんとしょうゆ大さじ2のタレをまわし入れて煮詰めてからめ付ける。
みょうがは八百屋のおじいさんに食べ方を聞いたら、タテにうすく切って二杯酢に鷹の爪をちょっと入れたらうまいとのことだった。
ただ鷹の爪はナスチャンプルーに使ったから、こちらは削り節。
タテに切ると、液体をかけてもみょうがのシャキシャキ感が最後まで残ることを、昨日はじめて発見。
日本の政治についての話は、偉い人たちが自分の利益のことしか考えず、身勝手なことばかりをしているということしかもう聞かなくなっているけれど、国民が実効的に権力を行使できるのは選挙しかないのだから、まずはきちんと投票するのが、国民として最低限しなくちゃいけないことなのだとは思う。
原子力発電所の即時停止に同意しない国会議員を落選させるための市民運動も、始まっていると聞く。
ただもちろん、それは悪くないことだと思うけれど、国会議員を落選させて、それでは誰を当選させたらいいのかということについて、良さそうな人が見当たらないというのが、今の日本の最大の問題なのではないかと僕は思う。
色々な思惑がうごめいているようだけれども、その人たちもまた自分の利益しか考えず、これまでの人たちとそう大してちがわないように僕には見える。
今の人たちに良さそうな人が見当たらないのならどうしたらいいのかといえば、次の世代に期待するしかない。
日本はだから、これからますます悪くなっていくと僕は思うけれども、今僕たちが、次の世代に何を伝えていけるかで、将来の日本がどうなるかが決まるのだと思う。
それでは自分なら、次の世代に何を伝えたいのかといえば、これはちょっと、手前味噌な話になりはするのだけれど、「男性も料理をしよう」ということなのだな。
僕は今の日本の根本的な問題は、男性が料理に興味を持たないということに象徴的に現れているのだと思える。
僕の前の世代は完全にそうだったし、僕の世代でも多くの人が、男性は外で仕事をし、女性は家で仕事をするのが当たり前な役割分担だと思っていると思う。
女性が続々と社会進出を果たし、女性もかならずしも家で仕事していなければいけないというものではなくなりつつあるけれど、それでは対する男性が、家の仕事に目を向けているかといえば、まだ全体として見れば、そうとは言えないのだと思う。
男性が、自分の役割分担が外で仕事することだと認識すると、仕事が生活のすべてだと思うことにつながっていく。
そこに今の日本のまちがいの根源があるように思える。
生活とは、やはり誰にとっても、自分が心地よく過ごすことが目的になると思う。
あまり堅いことを言わず、お互いケンカせず仲良くやることが、心地よく生活していくためには大切だ。
しかし本来、仕事はそうであってはいけない。
仕事は「やらなければいけないこと」を果たす場であり、それが曖昧になってしまうと仕事は成り立たない。
他人とケンカしてでも、守らなければいけないことが、仕事にはあると思う。
今の政治家や官僚、財界の人たちが、自分の利益を守るために、本来そうであるべきことを片っ端からねじ曲げて、曖昧にしてしまっている姿を見ると、僕は「あの人たちは仕事が生活のすべてになってしまっている」と思える。
仕事が役割を果たすことでなく、自分が心地よく過ごすことが目的になってしまっているから、あのようなことになってしまっているのだと思う。
もし日本を変えるのなら、そこが変わらなければいけないと、僕は思う。
「仕事があくまで生活の一部だ」と、男性が思えるようにならなければ、僕は日本はこれから先も永久に、仕事に居心地のよさを求める人に支配され続けることになるのだと思う。
生活の中心は、食べることだ。
だから生活に関心をもつことは、食べることに関心を持つことだ。
そして食べることの中心に、料理がある。
だから男性が料理に関心をもつことは、日本を変えていくことになると僕は思っている。
といってもちろん、「そうでなければならない」と言われて、人間は何かにそうそう関心を持てるものではないと思う。
何かに関心を持つのは、それが「おもしろい」と思えるからだ。
しかし食べることは、人間の欲望の中心にあることだから、料理は人類が100万年にわたり、数えきれないほどたくさんの人の手によって、膨大な知識が蓄積され、そして現在も、その知識は新たに積み重ねられていっている。
料理こそが、人類にとって最大の文化であるといってもいいのではないかと僕は思う。
だから僕がこうして自分の作ったヘボい料理を公開しながら、自分がおもしろいと思ったことを書きつづっていくことは、もしそれによって次の世代の男性が少しでも、文化としての料理の幅広さや奥深さに気付いてくれることがあったとすれば、微力ながらも日本を変えていくことにつながるのかなと思う。
まあもちろん、僕は日本を変えるためにこのブログをやっているわけではないけれど。
2012-02-15
クリーミーなだしを吸い込んだ白菜が絶品。
「塩鮭のミルク鍋」
「組織は変えられるのか」という問いの、最もよくある答えとして、
「トップが変われば組織は変わる」
というものがあるだろう。
トップは組織についての全ての権限をもっているのだから、トップがその気になれば、組織はいくらでも変えられる・・・。
もちろんそれは、その通りなのだが、日本人の多くは、このことばに無力感を感じているのではないだろうか。
だいたい日本が、もし一つの組織であるとしたならば、この10年ほどのあいだに、日本人は選挙によって、トップを何度も替えてきた。
小泉政権は、国政選挙ではなかったけれど、自民党員をふくめた総裁選挙で成立した。
「自民党をぶっ壊す」と大見得をきり、郵政選挙では抵抗勢力の議員に刺客をたて、大幅な議席増をしたけれど、それでけっきょく、日本はよくなったのか。
ただ大企業の立場と利益をまもり、弱者が切り捨てられ、格差が拡大しただけだったのではないか。
つづいて日本国民は、自民党から民主党への政権交代をもはたした。
民主党は、長年の自民党支配を転換し、自民党にはできなかった数多くの政策を実行してくれるはずだった。
しかし結果は、この体たらくである。
民主党は今では、かつての自民党と何も変わらないことになってしまっている。
自民党も、民主党もダメだった。
それでは政界再編をし、第3極をつくるしかないとのことで、現在さまざまな思惑がうごめいているようだけれど、しかしもう、ただトップの首をすげ替えたからといって、日本が変わるものではないということは、多くの日本人が感じはじめているだろう。
何かもっと、根本的なところで、日本は変わらなければならない。
それが何なのかは、私自身もよくわからないけれど、先週発売された「週刊文春」に、参考になると思えることが書かれていた。
京セラとKDDIを創業し、現在はJALの会長をつとめている、稲盛和夫氏のインタビューだ。
民主党の応援者だった稲森氏は、鳩山元首相の要請をうけ、2年前、倒産したJALの会長に就任した。
「誰がやっても火中の栗を拾うようなものだ」といわれたJAL再建だが、なんと1年後の昨年には、もう黒字化を果たしていたのだという。
現在はJAL生え抜きの社員が社長となり、1年後には稲森氏が会長を退任すべく、準備が進められている。
絵に描いたような、見事な「V字回復」というわけだ。
稲森氏は、まずJALの体質を変えることに専念した。
長年国の政策に依存することでつちかわれた官僚体質が、JALには抜きがたく残っており、稲森氏は幹部からキャビンアテンダントまで、さまざまな社員たちと膝詰めで話をした。
幹部には、
「皆さんのような考え方では、町の八百屋も経営できない」
と言ったのだそうだ。
稲森氏が強調したのは、
「これからJALは、株主のためでもない、政府のためでもない、社員の幸せを目的として経営していく」
ということだ。
それまでは、政府やお役所の横槍がずいぶんあり、それがJALの経営方針を左右することも少なくなかった。
稲森氏は、
「役所の干渉は、一切心配しなくていい。私が全部、正面から受けるから」
と幹部たちに言った。
そうして、社員たちがJALを「自分の会社だ」と思うようになると、骨身を惜しまず努力するようになったのだという。
稲森氏は、
「ふつうの経営者は、経営を『損得』で考えるけれど、そうではなく、経営は本来、『善悪』で考えなければならない」
と言う。
ものごとを善悪で考えるためには、立派な人間性をもっていなくてはならない。
だから経営者はまず、「自分が人間としてどうあるべきか」を考えることが必要となる。
JALはアメリカン航空をリーダーとした「ワンワールド」という航空連合に加盟していたが、ある時ライバルの「スカイチーム」が鞍替えをもちかけてきた。
日本のお役所も、それとはなしに、圧力をかけてきた。
スカイチームはすでに強力な太平洋路線をもっていたから、JALが加盟すれば、さらに大きな勢力となる。
しかしJALが抜けることにより、アメリカン航空は一気に劣勢に追い込まれることとなる。
長年いっしょにやってきたアメリカン航空にたいし、そのような仕打ちをすることは「人間としてそれでいいのか」と、社内で検討させた結果、やはりこれは善悪で判断し、ワンワールドのままで行こうということとなったという。
「社員の幸せ」とか、「人間としての善悪」とか、言われてみれば当たり前のことだ。
しかし組織のトップが、そのことに対し、まっすぐに筋を通そうとすれば、組織から大きな力が生み出されていく。
「会長である自分が、一人でしゃちほこばってやろうとしても、JALのような大きな会社が動くものではない。社員の一人一人が、自分の会社を変えようとしなければ、会社など変わっていかない」
稲森氏のことばは、「これからの日本」を考える上でも、示唆に富むといえるだろう。
「トップが変われば、組織は変わる」
それはたしかに、その通りなのだろう。
JALの再建が、鮮やかにそれを示している。
ただ会社と日本とをくらべて考えてみたとき、異なることは、会社のトップは社員が選ぶわけではないけれど、日本のトップは、国民が選んでいるということだ。
もちろん国民は、首相を個人指名しているわけではないけれど、それなりの選択はしてきている。
もし日本がどうにも立ち行かないのが、トップが悪いためだとしたら、それはそのトップを選んだ、日本国民の責任だ。
日本は、日本国民が悪いから、うまくいかないということなのだろう。
それでは私たち日本国民は、どうしたら「良いトップ」を選ぶことができるのか。
おそらく、それを考えるためには、稲森氏に学ぶことがあるだろう。
「人間としてどうなのか・・・」
「幸せ・・・」
「善悪・・・」
日本人がとうに忘れ去ってしまったような、「古びた」とも思えるこのような考え方が、現代における超巨大企業の再生にすら有効であることを、稲森氏はしめしている。
「人間としてどう生きるべきなのか」
現代ほど、この問いの答えが、見えにくくなってしまっている時代はないのかもしれない。
しかしそれを、日本人の一人一人が、自分の問題として見つけていこうとすることからしか、日本が再生していく道は拓けていかないのではないだろうか。
肉ばかり食べていると、やはり魚が食べたくなる。
魚は健康にいいといわれるが、どう健康にいいのか、詳しいことは知らない。
しかし身体が「食べたい」というものを食べていれば、健康にいいのだろうと、勝手に思っている。
ただこれも、注意が必要だ。
身体は往々にして、すぐに甘えたことを言ってくる。
食べ過ぎた翌日は、すぐにお腹が空く。
身体がどういうつもりで言っているのかについては、耳を澄ませるようにしないといけないだろう。
スーパーに塩鮭が安く売っていたから、これで「ミルク鍋」をすることにした。
ミルク鍋は和風だしを使うが、クリームソースとほぼおなじ味がする。
「鮭のクリームソース」は定番だから、鮭はミルク鍋にも合う道理だ。
入れる野菜は、すこし洋風っぽくジャガイモに玉ねぎ。
あとは白菜、油揚げ、小松菜にシメジ。
昆布と削りぶしでだしを取り、そこにだしと同量の牛乳を注ぎこむ。
みりん、それに少なめのうすくち醤油で味をつけ、塩を足す。
うすくち醤油だけで味付けしてしまってもかまわないが、醤油は少なめにしておいたほうが色がきれいだ。
さらにバターを1かけ落とす。
好みでニンニクのうす切りを入れてもいい。
あとは、鮭、ジャガイモ、玉ねぎ、白菜・・・と、煮えにくいものから鍋に入れていくだけ。
粗びきの黒コショウをかけて食べる。
クリーミーなだしをたっぷりと吸い込んだ、白菜が絶品。
うどんはグラタンのような味で、これがまたいい。
2012-01-14
水でさっと煮て、ポン酢で食べる。
「菜の花の常夜鍋」
スーパーへ行ったら、なんともう、菜の花が売られている。
今まさに、寒さ真っ盛りに突入しているわけだけれども、やはりこういう、春のしるしを食べながら、暖かくなるのを待ち望むというのが、日本人というものなのでしょう。
ある国や地域の物の考え方は、そこに住む人たちが食べる食べ物に、はっきりと表れるのではないかという気がします。
例えば肉をおもに食べる人たちと、魚を食べる人たちとでは、考え方は大きく違うのではないかと思わざるを得ない。
肉はまず、獲物を仕留めるところから始めなくてはいけない。
逃げまわる獲物を、追いかけたり、待ち伏せしたりして仕留めることは、かなりの労力が必要でしょう。
捕まえた獲物を、家畜にして飼うということも、行われていくわけだけれど、それにだって、膨大な労力がかかる。
家畜小屋を作り、餌をやり、病気になったら治療もしたりして、家畜が死んでしまわないよう、年単位の時間をかけ、育てていかなければならない。
その努力たるや、大変なものだと思うんですよね。
それに対して、魚を食べる場合には、育てる手間は、基本的にかからない。
養殖も行われたりもしているけれど、それは最近のことでしょう。
基本的に海という大自然が育ててくれたものを、こちらはいただくという話になる。
肉を食べることに比べたら、かける手間が、はるかに少ないのじゃないかと思うんですよね。
肉の場合には、料理するにも時間がかかる。
牛肉などは、4~5時間はかけないと、柔らかくならないし、肉の部位によっては、8~10時間、煮たりすることだってあるわけです。
だから料理が、1日では終わらないことになってしまう。
それに対して魚は、10分も煮れば十分で、場合によっては生だって食べられる。
そうやって、食べ物を食べるために、長時間にわたり、計画的、継続的な努力をしなければならない人たちと、その努力の大半を、「自然」にまかせ、自然の恵みに感謝して生きる人たちとは、当然基本的な考え方というものも、大きく違うことになったとしても、おかしくないといえるでしょう。
今回、東日本大震災をきっかけとして、福島での原発事故が起こり、日本の政治や官僚、財界の中枢が、ひたすら責任逃れをし、あくまで自分たちの権限を守ることしか考えない、完全に腐った状態にあることが、白日のもとに晒されたといえると思うんですが、日本国内で、政府にたいする反対運動が盛り上がるという兆しはない。
ちょうど似たような時期に、アラブで若者を中心とした大規模なデモが起こり、独裁政権がバタバタと倒れていったことと、対照的である気がするんですよね。
自分を振り返ってみても、デモそのものを否定するつもりは毛頭ないけれど、どうも自分がやる気はしない。
「やってもどうせ、変わらないだろうな」と思ってしまう。
独裁政権をぶっ潰すための革命で、革命側が政権を取ってみたら、また独裁政権となってしまい、それまでと変わらないようなことになってしまったというのは、ロシアを見ても、中国を見ても、枚挙にいとまがない。
だいたい日本だって、小泉政権は、自民党をぶっ潰すはずだった。
さらに民主党により、政権交代もおこなわれた。
それでも何も変わらないというのだから、「どうせ変わらない」というのは、そう根拠がないことではない。
しかし僕は、「あきらめている」ということとも、違うんですよね。
何かもっと、「生き生きとしたこと」を、自分のまわりに、つくり出していきたいという気がする。
この「生き生きとしたこと」とは、はなはだ抽象的なのだけれど、日本でわりと昔からよく使われる、「自然」ということばが意味することと、近いのじゃないかと思う。
人間が、ある計画をもち、それを意思と努力によって成し遂げることにより、何かを作り上げるというよりも、人間の生活や、人間どうしの関係が、自然な、生き生きとしたものになっていけば、自ずと全体が変わっていくのじゃないか。
曖昧で、他力本願的ではあるのだけれど、何かそういうように、思えてしまうところが、自分はやはり、根っからの日本人なのかなと、つくづく思うところでもあるんです。
だいたい今の政治家の姿は、日本人の鏡なんですよね。
ただそれを貶していても、天に唾するようなもので、すべて自分に返ってくる。
それならば、自分と、そのまわりとが変わることにより、その延長に、日本人が変わることが、もしあれば、政治家も変わるのだろうと思うんです。
というわけで、昨日はスーパーで、菜の花を買うことにしたわけですが、問題は、これをどうやって食べるかということだ。
菜の花は、おしたしが定番かと思うんですが、僕はもう、鍋を食べる以外のことは、この寒さでは考えられない。
そこで、「常夜鍋」のほうれん草の代わりに、菜の花を使ってみることにしました。
ほろ苦い菜の花を、豚肉といっしょに水でさっと煮て、ポン酢で食べる。
なんともウマそうではないですか。
材料は、菜の花と豚肉、それに油揚げとしめじ。
これを昆布を敷いて水を張り、たっぷりの酒を入れた鍋で、さっと煮る。
つけダレは、ポン酢に七味を振っただけで、あっさりと。
菜の花は、あっという間に火が通るので、食べる分だけ鍋に入れ、あくまでさっと煮るのがポイントです。
ぜひ試してみてください。
2011-09-30
あっという間に出来上がり 牛肉とゴボウのしぐれ煮
家の近くにあるグルメシティは、毎週木曜日は「モクモクモッくん」という特売日なんですよね。
そこでいつも、オーストラリア産の牛コマ肉が、100グラム98円とかで出されるのを買うことにしてるんですが、それで何を作ろうか、けっこう考えてしまったりする。
肉じゃがはもう飽きるほど作ったし、韓国風焼肉プルコギも、2回ほど作ったから、違うものが作りたいなと思い、毎週木曜にランチに行くことにしている「ikoi cafe」のママに、
「牛コマ肉があったら何を作る」
と聞いてみたら、
「ゴボウと炊くとか。生姜をきかせて」
とのこと。
「しぐれ煮」ですね。
というわけで、昨日は早速、しぐれ煮を作ってみることにしたのでした。
しぐれ煮とは、生姜を入れた佃煮のこと。元々は桑名で、名産のハマグリをたまり醤油で炒りつけたのが始まりだそうです。
「しぐれ煮」という名前は、江戸時代の俳人各務支考が付けたと言われているそうですが、その由来は諸説があるとか…。
- 様々な味が、口の中を通り過ぎるところが、時雨(しぐれ)が通りすぎるのと似ているところから。
- ハマグリの旬が、ちょうど時雨がよく降る時期だから(2月~4月ですね)。
- 時雨のように、短時間でおこなう調理法だから
以上、Wikipediaより。
いちおうレシピを色々見てみたんですが、炒める方法と炒めない方法があるんですよね。
皆さんどうされるんでしょうか。
炒める意義って、どこにあるんでしょう。
肉じゃがにしても、炒めずに作っても、まったく問題ないですよね。
その辺がよく分からないということで、昨日は炒めない方法を採用。
カップ1の水で、まずは水にさらしたゴボウ、それに千切りの生姜を先に煮ておく。
牛肉って、あまり煮てしまうと固くなりますもんね。
そこに酒、みりん、砂糖を入れ、牛肉を入れて、煮ながら味を見て、醤油を足していく。
強火でガンガン炊いて、煮汁がほとんどなくなり、焦げ付く寸前までいったら出来上がり。
これほんとに、あっという間にできちゃいますね。
調味料の量をどうしたらいいかと思う人もあるかもしれませんよね。
僕のやり方は、まず酒はドバドバとたっぷり入れる。
酒の量は、肉や魚を炊く時には、多ければ多いほどおいしいですよね。
ただ塩分の入った料理酒じゃなく、アルコール100%の料理用の清酒か、安い日本酒を使わないといけません。
それからみりんと砂糖を、適当な分量、ジャバジャバ、バサバサ入れる。
そこに醤油を、味を見ながらちょうどいいと思える量まで加えていく。
みりんと砂糖が少なければ、あっさりした味付けになるし、多ければコッテリするという話で、どちらでもお好みしだい、ってことですよね。
昨日はあとは、ナスの塩もみ。
冷奴。
白菜の一夜漬け。
それらの肴をつまみながら、冷や酒を2合。
おいしい晩酌になりましたわ。
ちなみに昼は、「ikoi cafe」のランチ。
鶏唐揚げのタルタルソースがけ。
ikoi cafeには、店に備え付けの週刊文春を読みに行くというのも、目的の一つなんですが、昨日そのトップ記事が、
「日本は遅くとも5年以内に経済破綻する」
というものでした。
日本の国債とか、地方債を合計すると、それが、すべての日本人が持っている資産の合計と、ほぼ同じ額まで来てしまっているそうなんですね。
今のところ、日本の国債は、出すものは全部売り切れているそうですが、遠からず売れ残る日が来る。
まあそれで、大変なことになり、企業がバタバタと潰れ、失業者が街にあふれ、ということになるだろうと。
必ずしも日本が無策だからというだけでなく、世界経済全体が、戦前の大恐慌のような状態に、急速に近付いているのだそうです。
今ニュースを見ていても、いいことは一つもないですよね。
僕も感覚として、日本はこのまま、行くとこまで行っちゃうんじゃないか、って気がします。
経済の詳しいことは、分からないんですけどね。
そういう話をしたら、ikoi cafeのママ、
「いいんだよ、そしたら日本人は全員、農業をやるんだ」
だって。
まあそう簡単にいけば、いいんですけどね。
2011-09-23
サンマの三枚おろしに再び挑戦。まあまあうまくいったかな。
離婚したのは昨年だが、十数年前から別居していた。「釣った魚に餌はやらない」という言葉があるが、僕の場合それを極端にしたようなもので、毎晩仕事先の仲間と飲みに行き、仕事が大詰めになると1ヶ月ほども職場に泊まりこんだりしていて、家庭を省みることが全くなかった。愛想を尽かした元妻が、子供を連れて実家に帰ってしまったわけだが、あまりに当然というべきだ。
それまで家事は全くやらなかったが、一人になり仕方なく、料理なども始めてみたところ、面白くなり一気にハマった。それまで料理をレシピを見ながらしか作れなかったのが、だしを自分で取ってみたのをきっかけに、自分なりに何を作ろうか考え、料理を作れるようになったのだ。まあしかし、料理にハマったというのは、ただ面白いだけのことじゃなく、一人になった寂しさを、埋め合わせる何かが欲しかったのかもしれないと、今になってみると思う。
一人暮らしも長いから、今では家事全般をこなすようになっているが、あの時この半分でも、もし家事をしていたら、離婚するような事にはならなかったのじゃないかと思わなくもない。
「釣った魚に餌はやらない」に代表される、世の中を「仕事」と「家庭」に分け、男は仕事は頑張るが、家庭はひたすら安らぎを得る場だとする考え方は、僕くらいの年から上の世代のものなのじゃないかという気がするんだが、どうなのだろう。もちろんこういうものは個人により大きく違うもので、一括りに「世代」と言ってしまうのは乱暴だが、若い世代は料理する男性も多くなっていると聞く。
今は女性だって仕事をする時代なのだから、「仕事は男の担当で、家庭は女の担当」とする考え方は、全く意味がない。「仕事と家庭」を「経済と生活」と言い換えてもいいと思うが、あくまで経済が優先であり、経済のために生活が犠牲になっても仕方がないとする考え方が、日本ではまだまだ支配的だろう。それは今回の原発問題を見ても、よく分かる。経済的合理性のために、原発をあくまで推進し、放射能汚染の基準を変えて、賠償金をケチろうとする。
日本が抱える問題の根幹は、この経済と生活を「分ける」ところにあると思うが、それが変わるのは、そう簡単じゃないと思うんだよな。自分がそうだったから言うわけじゃないが、人間、よっぽど痛い目を見なければ、考え方の根本を変えることにはならないんじゃないか。
これから日本が、もっと低迷していき、このままじゃ本当にダメだとみんなが気付くようになるのと同時に、料理する男性が優勢であるような世代が育っていく。そうなって初めて、日本は大きく変わることができるんじゃないかと思うんだよな。
エネルギーや金融、安全保障の問題は、もちろん大事なことだが、「今日何を食うか」ということも、それに劣らず大事なことだ。そこに優劣を付けないことが、今何より必要とされているのじゃないのかな。
一昨日の秋鮭アラの味噌漬けを、少し残してあったのを、昨日ふたたび焼いて食った。やはり一日置いたほうが、味がしっかりしみるようだ。でも昨日のがまずいことはなかったから、わざわざ一日置かなきゃいけないものでもないだろう。
魚を漬けて焼くというのは、今回初めてやってみたが、いいものだ。べつに難しいことは何もなかった。漬けダレの調整が、唯一とも言えるポイントかと思うが、これは要は味を見ながら、自分がおいしいと思えるように、調味料を加えていけばいいだけだ。豚肉の味噌漬けとかも、やってみたらウマそうだよな。
昨日はこれだけだと、なんだかつまみが足りない気がしたから、サンマの刺身を再びやってみることにした。こないだは皮を剥ぐのと、小骨を削ぎとるのを忘れたので、ちょっとイマイチだったのだ。
青光りするウマそうなサンマ。特売で98円。グルメシティの兄ちゃんに聞いたが、その日に市場から仕入れたものだから、十分刺身にできるとのことだった。
昨日は3枚に下ろすところで、ちょっと失敗して、包丁が骨を切り下へ出てしまった。まあしかし、大勢には影響がない。
皮を剥ぎ、小骨の部分は肉ごと包丁でそぎ落とす。魚の肉は、思ったより柔らかく、気を付けないとミンチのようにグチャグチャにしそうになるんだよな。しかしなんとか、そこそこ形にはなった。
これは脂がのってトロトロで、非常にうまかったが、まだちょっと失敗したことがあった。少し臭みが残ってしまったのだ。これは包丁やまな板の扱いに、問題があったのかもしれない。三枚に下ろしたあと、汚れたまな板の上に、また魚を置いてしまった。そのため臭みが付いてしまったのじゃないかと踏んでいるのだがどうだろう。
ナスの塩もみもつくづくうまい。甘くてプリプリしていてたまらん。
味噌漬けだけだと足りないと思ったが、サンマを加えたら逆に多すぎて、昨日は酒を1合飲んだら腹一杯になってしまった。焼酎やウィスキーだと、中途半端に飲んでしまうと、興奮して逆に寝れなくなるが、日本酒は1合なりに、ちゃんと眠くなるのがエライところだ。
それまで家事は全くやらなかったが、一人になり仕方なく、料理なども始めてみたところ、面白くなり一気にハマった。それまで料理をレシピを見ながらしか作れなかったのが、だしを自分で取ってみたのをきっかけに、自分なりに何を作ろうか考え、料理を作れるようになったのだ。まあしかし、料理にハマったというのは、ただ面白いだけのことじゃなく、一人になった寂しさを、埋め合わせる何かが欲しかったのかもしれないと、今になってみると思う。
一人暮らしも長いから、今では家事全般をこなすようになっているが、あの時この半分でも、もし家事をしていたら、離婚するような事にはならなかったのじゃないかと思わなくもない。
「釣った魚に餌はやらない」に代表される、世の中を「仕事」と「家庭」に分け、男は仕事は頑張るが、家庭はひたすら安らぎを得る場だとする考え方は、僕くらいの年から上の世代のものなのじゃないかという気がするんだが、どうなのだろう。もちろんこういうものは個人により大きく違うもので、一括りに「世代」と言ってしまうのは乱暴だが、若い世代は料理する男性も多くなっていると聞く。
今は女性だって仕事をする時代なのだから、「仕事は男の担当で、家庭は女の担当」とする考え方は、全く意味がない。「仕事と家庭」を「経済と生活」と言い換えてもいいと思うが、あくまで経済が優先であり、経済のために生活が犠牲になっても仕方がないとする考え方が、日本ではまだまだ支配的だろう。それは今回の原発問題を見ても、よく分かる。経済的合理性のために、原発をあくまで推進し、放射能汚染の基準を変えて、賠償金をケチろうとする。
日本が抱える問題の根幹は、この経済と生活を「分ける」ところにあると思うが、それが変わるのは、そう簡単じゃないと思うんだよな。自分がそうだったから言うわけじゃないが、人間、よっぽど痛い目を見なければ、考え方の根本を変えることにはならないんじゃないか。
これから日本が、もっと低迷していき、このままじゃ本当にダメだとみんなが気付くようになるのと同時に、料理する男性が優勢であるような世代が育っていく。そうなって初めて、日本は大きく変わることができるんじゃないかと思うんだよな。
エネルギーや金融、安全保障の問題は、もちろん大事なことだが、「今日何を食うか」ということも、それに劣らず大事なことだ。そこに優劣を付けないことが、今何より必要とされているのじゃないのかな。
一昨日の秋鮭アラの味噌漬けを、少し残してあったのを、昨日ふたたび焼いて食った。やはり一日置いたほうが、味がしっかりしみるようだ。でも昨日のがまずいことはなかったから、わざわざ一日置かなきゃいけないものでもないだろう。
魚を漬けて焼くというのは、今回初めてやってみたが、いいものだ。べつに難しいことは何もなかった。漬けダレの調整が、唯一とも言えるポイントかと思うが、これは要は味を見ながら、自分がおいしいと思えるように、調味料を加えていけばいいだけだ。豚肉の味噌漬けとかも、やってみたらウマそうだよな。
昨日はこれだけだと、なんだかつまみが足りない気がしたから、サンマの刺身を再びやってみることにした。こないだは皮を剥ぐのと、小骨を削ぎとるのを忘れたので、ちょっとイマイチだったのだ。
青光りするウマそうなサンマ。特売で98円。グルメシティの兄ちゃんに聞いたが、その日に市場から仕入れたものだから、十分刺身にできるとのことだった。
昨日は3枚に下ろすところで、ちょっと失敗して、包丁が骨を切り下へ出てしまった。まあしかし、大勢には影響がない。
皮を剥ぎ、小骨の部分は肉ごと包丁でそぎ落とす。魚の肉は、思ったより柔らかく、気を付けないとミンチのようにグチャグチャにしそうになるんだよな。しかしなんとか、そこそこ形にはなった。
これは脂がのってトロトロで、非常にうまかったが、まだちょっと失敗したことがあった。少し臭みが残ってしまったのだ。これは包丁やまな板の扱いに、問題があったのかもしれない。三枚に下ろしたあと、汚れたまな板の上に、また魚を置いてしまった。そのため臭みが付いてしまったのじゃないかと踏んでいるのだがどうだろう。
ナスの塩もみもつくづくうまい。甘くてプリプリしていてたまらん。
味噌漬けだけだと足りないと思ったが、サンマを加えたら逆に多すぎて、昨日は酒を1合飲んだら腹一杯になってしまった。焼酎やウィスキーだと、中途半端に飲んでしまうと、興奮して逆に寝れなくなるが、日本酒は1合なりに、ちゃんと眠くなるのがエライところだ。
2011-09-10
「内なる自然」が科学の最大のフロンティアであるという件
僕は最近、このブログのタイトルを、「高野俊一の日記」というのから、「高野俊一のおっさんひとり飯」というのに変えたわけで、だいたい「高野俊一の日記」というのはひどいタイトルで、普通の人は「高野俊一」が誰だか知らないし、「日記」というのも「雑文」というのと一緒で、イメージとして何も伝えるものがないわけだから、この「高野俊一の日記」というのは、アピール力としてゼロだった。それよりは「高野俊一のおっさんひとり飯」というのは、「高野俊一」というのは相変わらず誰にも解らないだろうが、「日記」というよりはだいぶイメージが湧くものがあるから、この頃は料理のことばかり書いていたし、もし他に書きたいことができれば、別にブログを立ち上げたっていいわけだからということで、タイトルを変更したということなのだ。
タイトルを変更したことで、書くべき内容がより限定され、明確になって、料理のことについて、もっと気楽にサクサク書けるようになりそうなもんだが、実際には逆で、タイトルを変えてから、書く前に非常に長い時間考え込むようになった。これが何故なんだか、自分でもよく解らないのだが、以前の「日記」というタイトルだったら、何を書いても、まあ日記だからいいやと自分に言い訳するものがあったところが、タイトルがそれなりの体裁をもったものになったから、そのタイトルにふさわしい内容というものを、無意識に考えてしまうということなんだと思う。それで、ただあるトピックについてメモ書き的に書くということが、自分として許されないような感じがして、「自分自身」をそれなりにそこに投入したいと思い、そうすると最低でも1時間以上は、あれこれ思いを巡らせることになっている。
「考える」というのは面白いものだと、最近になって思うようになったのだが、今日も例えばこのブログを書くにあたって、材料としては、昨日飲みに行ったこととか、昨日の昼食った焼きそばのこととかがあるのだけれど、それがどうも今ひとつ、自分の書きたいことと繋がらないような気がして、ソファに寝そべって、考える体勢に入ることになる。ところがこれが、しばらくの間は何も浮かばない。あまりに浮かばなくて、笑ってしまう、というくらい浮かばないわけだ。僕はもう、ブログはやめたほうがいいんじゃないかとすら思ってしまう。ところがそのまま、半ばぼうっとしながら、考える体勢を続けていると、あるテーマが突如心に浮かび、それを色々ながめていると、今度はそれと関連する別のテーマが浮かび、それでそのまま、一つの結論に至ることもあるのだが、今日は頭の中がどんどんとっ散らかってしまい、収拾がつかない状態のまま、文章を書き始めるということに至っている。
しかしこうやって、自分の心の中に、何かが浮かび、それがふくらんだり、何かと関連していったりするというのは、僕などは、草木の芽が生え、生い茂っていくという、生き物の振る舞いと、まったく同じものであると思えるのだよな。人間だって生き物で、数十億年という生物の進化の歴史のなかで、あるとき自然によって生み出されたものなのだから、人間の心が、草木と同じような生き物の自然な振る舞いをするというのは、当然のことだろう。人間は誰でも、自分の中に大自然を飼っているのであり、よく「自然を大事にしよう」とか言うが、それは実は「自分を大事にしよう」ということと、イコールだったりするのじゃないかと思うのだよな。
僕は大震災の後、近所の神社などへちょくちょくお参りに行くようになった。この頃も朝の散歩のコースに、公園での体操と、神社でのお参りを取り込むようにしている。大震災で、あまりにもたくさんの人が亡くなって、多くの日本人もそうだったと思うが、僕もそれに対して、自分がどう折り合いを付けたらいいか、考え始めた。幾ばくかの募金はしたが、それだけでは足りないような感じがする。ボランティアも、まだ僕の出番じゃないような感じがしたし、どうしたらいいのか考えた時、「祈る」という所に行き当たった。奈良で寺を見物に行った時、大震災の募金の箱と、お賽銭箱とが並べて置かれており、自分の持った100円玉をどちらに入れたらいいかを考えた時、お賽銭のほうが、なんだか効果があるような感じがしたのだな。100円くらいを募金しても、何の足しにもならないと思ったということもあるが、祈るということが、あの悲惨な災害から立ち直るに際して、なんだか役に立ちそうな気がしたのだ。
それはただ、自分の心の問題だけの話で、実際のところ復興には何の役にも立たないと言われれば、たしかにその通りではあり、祈りなど所詮自己満足にすぎないと言えば、そうなのかも知れないけれど、少なくとも自分が、大震災でなくなった人達と、何らかの人間的な交信をしていることは確かなのだ。
僕は天国ということの意味も、今回初めて解った。亡くなった人に対しても、自分がその人達に人間的に接しようと思ったら、その人達のことを思い浮かべ、亡くなった人達が幸せになってくれるよう、願うしかない。人間というのは他人に対して、そのようにしか接せられないものなのだろう。それが人間の内にある大自然の仕組みであるようだ。もちろん亡くなった人は、物体としてはもう幸せになどなりようはないのだけれど、その人達を思い浮かべようとするこちらにとっては、亡くなった人達が幸せに暮らしてくれる場所がどうしたって必要で、それが天国であるということになるわけだ。
復興のための具体的な作業という意味では、祈るというのはたしかに何の役にも立たないが、しかし亡くなった人と人間的なつながりを持とうとすることが、悪いことであるわけはない。お金が必要なら、税金だって払うし、自分が必要とされるのならば、いつだって駆けつけるが、とりあえず今はなにもしていないけれど、祈ることだけ続けている人というのは、日本人のなかで意外に多いのじゃないかという気も僕はしている。
現代人が直面する問題というものは、まあ上げればいくらだってあるものだと思うけれども、そのひとつの大きなものが、「科学技術の進歩に人間が追いついていない」ということがあるんじゃないか。例えば原子力発電所のシステムにしたって、それを素人が、すぐに理解し、判断できるものじゃないことは言うまでもないが、それを設計したり、また操作したりする専門家の人達だって、もう解らないものになってしまっているのじゃないか。実際あれが津波でやられてしまったこと自体が、例えば非常用の発電機が簡単に水をかぶってしまうような場所にあったり、非常用の電源が一系統しかなく、また電源車のプラグと発電所のソケットが合わないものだったり、設計者が、発電所が津波をかぶってしまったらどうなるかということについて、よく把握できていなかったということを示している。
こないだ起こった、サブプライムローンの問題も同じだ。金融工学で、ローンを切り刻んで、それを他の金融商品に入れ込んで販売することが、計算上は問題なかったはずなのに、いざバブルが崩壊するということになると、どれほどの悪影響を与えることになるのか、誰にも解らないということになってしまう。専門家の手にすら負えないことになってしまうほど、原子力発電所にしても、金融工学にしても、巨大で複雑なものになってしまっているわけだ。
以前は自動車なども、ちょっと好きな人なら、多くが自分で整備して、プラグを磨いたり、取り替えたり、くらいのことは、自分でやってたものだろう。今でもプラグくらいは取り替えるのかどうか、僕は今車を持っていないから解らないが、最近の車はコンピュータで制御されるようになってしまっているから、何がどうなっているのか、素人には解りにくいものになってしまっているのは確かだろう。車が故障しても、それを自分で直そうとすることなど考えられず、整備工場へ持っていくしかない。整備工場でも、車を修理しようとすると、多くの場合コンピュータのチップをまるごと取り替えるとか、そういう形で対処することになる。
それと同じことで、社会の様々な場所にブラックボックスができてしまい、素人はもちろんだが専門家すら、その中身がよく解らないものとなってしまっている。中身など解っていなくても、大丈夫だとタカを括っていたところが、いざ大きな問題が起こってみると、それではどうにもならないということが明らかになる。
そういう問題に対処しようと思う時、それならいっそ、そんな危険なブラックボックスなど、全部なくしてしまえという考えもあるだろう。現代人の文明は、限界を超えて進みすぎてしまったのであり、一回立ち止まって、すこし引き返すくらいのことをしたほうがいいのじゃないか。
まあ確かにそれは一理あり、僕などもそうやってエアコンをできるだけ使わないようにしてみたら、夏でも扇風機で意外に暮らせることが、生まれて初めて解ったということはあった。過剰なまでに明るいネオンや照明も、なくたっていいものも多いだろう。考え直せるところは多いに違いない。
しかし時々、現代文明の根幹である「科学技術」の発展そのものを、否定しようとする論調に出会うこともある。文学者の人とかが、わりとそういうことを言いやすい傾向にあるようだ。その象徴として、原子力発電所を、今すぐすべて止めろ、みたいなことになったりする。
でも進みすぎた科学技術を、押しとどめ、例えばコンピュータが出現する以前のところへ引き戻す、なんてことができるんだろうか。例えばの話、みんなでコンピュータを使うのをやめようと、みなで提携したとすると、それに違反して、コンピュータを使った人が、一人勝ちすることになるだろう。進んでしまった技術を、以前の状態に戻すなどということがあるとは、根本的にはどうも思えないところがある。
たしかに今、科学技術と、人間の内なる自然とが、乖離してしまい、バランスを崩してしまった状態にあるのは、確かなことなのだろう。人間の理解を超えたブラックボックスが、社会のあちこちにできてしまい、それが制御できないことになっている。でもそのブラックボックスを全部なくしてしまうことなど、到底できる話でなく、さらに発展を推し進める形で、それに対処しなくてはいけないのじゃないかと思うのだな。
科学はこれまで、人間の外側の自然については、多くのことを明らかにしてきたけれど、人間の内なる自然については、まだほとんど何も解っていない。それは例えば「意識」とはなにかであり、もっと言えば「生命とは何か」について、科学は何の答えも見つけていない。まだ解っていないということなのだよな。
「人間の内なる自然」は、科学にとっての最大のフロンティアであることに間違いなく、まだそれをどのように理解したら良いのか、手がかりすらつかめていないのであったとしても、それを推し進めることが必要なのだよな。もしかしたらそのためには、科学そのもののあり方も、変わらなければいけないのかも知れないけれど、いずれにせよ、引き返そうとするのじゃなく、そうやって前に進もうとすることが、問題を根本的に解決することになるんじゃないだろうか。
と不思議なもんで、この文章を書き始める前に、とっ散らかった頭の中に、脈絡もなく浮かんでいたいくつかのことが、実際に文章を書き始めてみると、それなりの順序にならんで、ひとつながりになったりする。料理も同じなんだが、こういうことが、内なる自然のダイナミズムであり、それを料理を作ったり、ブログを書いたりしながら体験するというところに、21世紀の最大の知的楽しみが、あると言えるんじゃないかと思うがな。
昨日の昼飯は、ビールに焼きそば。昼にビールと焼きそばを食うというのは、ほんとにたまらん。しかも30分くらい昼寝をすれば、頭はしゃっきりと回復するから、問題は何もないのだ。
タイトルを変更したことで、書くべき内容がより限定され、明確になって、料理のことについて、もっと気楽にサクサク書けるようになりそうなもんだが、実際には逆で、タイトルを変えてから、書く前に非常に長い時間考え込むようになった。これが何故なんだか、自分でもよく解らないのだが、以前の「日記」というタイトルだったら、何を書いても、まあ日記だからいいやと自分に言い訳するものがあったところが、タイトルがそれなりの体裁をもったものになったから、そのタイトルにふさわしい内容というものを、無意識に考えてしまうということなんだと思う。それで、ただあるトピックについてメモ書き的に書くということが、自分として許されないような感じがして、「自分自身」をそれなりにそこに投入したいと思い、そうすると最低でも1時間以上は、あれこれ思いを巡らせることになっている。
「考える」というのは面白いものだと、最近になって思うようになったのだが、今日も例えばこのブログを書くにあたって、材料としては、昨日飲みに行ったこととか、昨日の昼食った焼きそばのこととかがあるのだけれど、それがどうも今ひとつ、自分の書きたいことと繋がらないような気がして、ソファに寝そべって、考える体勢に入ることになる。ところがこれが、しばらくの間は何も浮かばない。あまりに浮かばなくて、笑ってしまう、というくらい浮かばないわけだ。僕はもう、ブログはやめたほうがいいんじゃないかとすら思ってしまう。ところがそのまま、半ばぼうっとしながら、考える体勢を続けていると、あるテーマが突如心に浮かび、それを色々ながめていると、今度はそれと関連する別のテーマが浮かび、それでそのまま、一つの結論に至ることもあるのだが、今日は頭の中がどんどんとっ散らかってしまい、収拾がつかない状態のまま、文章を書き始めるということに至っている。
しかしこうやって、自分の心の中に、何かが浮かび、それがふくらんだり、何かと関連していったりするというのは、僕などは、草木の芽が生え、生い茂っていくという、生き物の振る舞いと、まったく同じものであると思えるのだよな。人間だって生き物で、数十億年という生物の進化の歴史のなかで、あるとき自然によって生み出されたものなのだから、人間の心が、草木と同じような生き物の自然な振る舞いをするというのは、当然のことだろう。人間は誰でも、自分の中に大自然を飼っているのであり、よく「自然を大事にしよう」とか言うが、それは実は「自分を大事にしよう」ということと、イコールだったりするのじゃないかと思うのだよな。
僕は大震災の後、近所の神社などへちょくちょくお参りに行くようになった。この頃も朝の散歩のコースに、公園での体操と、神社でのお参りを取り込むようにしている。大震災で、あまりにもたくさんの人が亡くなって、多くの日本人もそうだったと思うが、僕もそれに対して、自分がどう折り合いを付けたらいいか、考え始めた。幾ばくかの募金はしたが、それだけでは足りないような感じがする。ボランティアも、まだ僕の出番じゃないような感じがしたし、どうしたらいいのか考えた時、「祈る」という所に行き当たった。奈良で寺を見物に行った時、大震災の募金の箱と、お賽銭箱とが並べて置かれており、自分の持った100円玉をどちらに入れたらいいかを考えた時、お賽銭のほうが、なんだか効果があるような感じがしたのだな。100円くらいを募金しても、何の足しにもならないと思ったということもあるが、祈るということが、あの悲惨な災害から立ち直るに際して、なんだか役に立ちそうな気がしたのだ。
それはただ、自分の心の問題だけの話で、実際のところ復興には何の役にも立たないと言われれば、たしかにその通りではあり、祈りなど所詮自己満足にすぎないと言えば、そうなのかも知れないけれど、少なくとも自分が、大震災でなくなった人達と、何らかの人間的な交信をしていることは確かなのだ。
僕は天国ということの意味も、今回初めて解った。亡くなった人に対しても、自分がその人達に人間的に接しようと思ったら、その人達のことを思い浮かべ、亡くなった人達が幸せになってくれるよう、願うしかない。人間というのは他人に対して、そのようにしか接せられないものなのだろう。それが人間の内にある大自然の仕組みであるようだ。もちろん亡くなった人は、物体としてはもう幸せになどなりようはないのだけれど、その人達を思い浮かべようとするこちらにとっては、亡くなった人達が幸せに暮らしてくれる場所がどうしたって必要で、それが天国であるということになるわけだ。
復興のための具体的な作業という意味では、祈るというのはたしかに何の役にも立たないが、しかし亡くなった人と人間的なつながりを持とうとすることが、悪いことであるわけはない。お金が必要なら、税金だって払うし、自分が必要とされるのならば、いつだって駆けつけるが、とりあえず今はなにもしていないけれど、祈ることだけ続けている人というのは、日本人のなかで意外に多いのじゃないかという気も僕はしている。
現代人が直面する問題というものは、まあ上げればいくらだってあるものだと思うけれども、そのひとつの大きなものが、「科学技術の進歩に人間が追いついていない」ということがあるんじゃないか。例えば原子力発電所のシステムにしたって、それを素人が、すぐに理解し、判断できるものじゃないことは言うまでもないが、それを設計したり、また操作したりする専門家の人達だって、もう解らないものになってしまっているのじゃないか。実際あれが津波でやられてしまったこと自体が、例えば非常用の発電機が簡単に水をかぶってしまうような場所にあったり、非常用の電源が一系統しかなく、また電源車のプラグと発電所のソケットが合わないものだったり、設計者が、発電所が津波をかぶってしまったらどうなるかということについて、よく把握できていなかったということを示している。
こないだ起こった、サブプライムローンの問題も同じだ。金融工学で、ローンを切り刻んで、それを他の金融商品に入れ込んで販売することが、計算上は問題なかったはずなのに、いざバブルが崩壊するということになると、どれほどの悪影響を与えることになるのか、誰にも解らないということになってしまう。専門家の手にすら負えないことになってしまうほど、原子力発電所にしても、金融工学にしても、巨大で複雑なものになってしまっているわけだ。
以前は自動車なども、ちょっと好きな人なら、多くが自分で整備して、プラグを磨いたり、取り替えたり、くらいのことは、自分でやってたものだろう。今でもプラグくらいは取り替えるのかどうか、僕は今車を持っていないから解らないが、最近の車はコンピュータで制御されるようになってしまっているから、何がどうなっているのか、素人には解りにくいものになってしまっているのは確かだろう。車が故障しても、それを自分で直そうとすることなど考えられず、整備工場へ持っていくしかない。整備工場でも、車を修理しようとすると、多くの場合コンピュータのチップをまるごと取り替えるとか、そういう形で対処することになる。
それと同じことで、社会の様々な場所にブラックボックスができてしまい、素人はもちろんだが専門家すら、その中身がよく解らないものとなってしまっている。中身など解っていなくても、大丈夫だとタカを括っていたところが、いざ大きな問題が起こってみると、それではどうにもならないということが明らかになる。
そういう問題に対処しようと思う時、それならいっそ、そんな危険なブラックボックスなど、全部なくしてしまえという考えもあるだろう。現代人の文明は、限界を超えて進みすぎてしまったのであり、一回立ち止まって、すこし引き返すくらいのことをしたほうがいいのじゃないか。
まあ確かにそれは一理あり、僕などもそうやってエアコンをできるだけ使わないようにしてみたら、夏でも扇風機で意外に暮らせることが、生まれて初めて解ったということはあった。過剰なまでに明るいネオンや照明も、なくたっていいものも多いだろう。考え直せるところは多いに違いない。
しかし時々、現代文明の根幹である「科学技術」の発展そのものを、否定しようとする論調に出会うこともある。文学者の人とかが、わりとそういうことを言いやすい傾向にあるようだ。その象徴として、原子力発電所を、今すぐすべて止めろ、みたいなことになったりする。
でも進みすぎた科学技術を、押しとどめ、例えばコンピュータが出現する以前のところへ引き戻す、なんてことができるんだろうか。例えばの話、みんなでコンピュータを使うのをやめようと、みなで提携したとすると、それに違反して、コンピュータを使った人が、一人勝ちすることになるだろう。進んでしまった技術を、以前の状態に戻すなどということがあるとは、根本的にはどうも思えないところがある。
たしかに今、科学技術と、人間の内なる自然とが、乖離してしまい、バランスを崩してしまった状態にあるのは、確かなことなのだろう。人間の理解を超えたブラックボックスが、社会のあちこちにできてしまい、それが制御できないことになっている。でもそのブラックボックスを全部なくしてしまうことなど、到底できる話でなく、さらに発展を推し進める形で、それに対処しなくてはいけないのじゃないかと思うのだな。
科学はこれまで、人間の外側の自然については、多くのことを明らかにしてきたけれど、人間の内なる自然については、まだほとんど何も解っていない。それは例えば「意識」とはなにかであり、もっと言えば「生命とは何か」について、科学は何の答えも見つけていない。まだ解っていないということなのだよな。
「人間の内なる自然」は、科学にとっての最大のフロンティアであることに間違いなく、まだそれをどのように理解したら良いのか、手がかりすらつかめていないのであったとしても、それを推し進めることが必要なのだよな。もしかしたらそのためには、科学そのもののあり方も、変わらなければいけないのかも知れないけれど、いずれにせよ、引き返そうとするのじゃなく、そうやって前に進もうとすることが、問題を根本的に解決することになるんじゃないだろうか。
と不思議なもんで、この文章を書き始める前に、とっ散らかった頭の中に、脈絡もなく浮かんでいたいくつかのことが、実際に文章を書き始めてみると、それなりの順序にならんで、ひとつながりになったりする。料理も同じなんだが、こういうことが、内なる自然のダイナミズムであり、それを料理を作ったり、ブログを書いたりしながら体験するというところに、21世紀の最大の知的楽しみが、あると言えるんじゃないかと思うがな。
昨日の昼飯は、ビールに焼きそば。昼にビールと焼きそばを食うというのは、ほんとにたまらん。しかも30分くらい昼寝をすれば、頭はしゃっきりと回復するから、問題は何もないのだ。
2011-09-08
幸せが何なのかをあらためて問い直す時代
昨日といい、今日といい、まさに絵に描いたような秋晴れ、空気はからっとさわやかで、日中はそこそこ気温も上がるが、暑くて不快ということもない。食い物はうまいし、これから秋が深まれば木々は紅葉で色付くし、1年の中でも最高とも言える季節に突入したというわけだ。
日々移り変わる季節を全身で感じながら生きるというのは、気候に恵まれた土地日本で暮らす人々が、大昔から持っていた習性なわけだが、これを今、どのくらいの日本人が感じられているのか。もちろん多くの人が、変わらずそれを感じているのは間違いのないことだろうが、空も大地も見えない、コンクリートで囲まれた場所で暮らす人の中には、ただ暑いとか、寒いとかいうこと以外に、季節を感じることなどなくなっている人も増えているんじゃないのか。
ひと昔前のテレビのコマーシャルで、明石家さんまが「幸せって、何だっけ、何だっけ」と歌うのがあり、僕は今でも、それが時々頭に浮かんでくるんだが、幸せって何だっけとあらためて言われると、ちょっと考えてしまうところがある。幸せが何かなんてこと、ここ何十年か、考えなくても済んできたところがあったんじゃないか。
昔は、幸せは誰もが知っている、解りやすいものだったろう。加山雄三が「僕あ、幸せだなあ」とひとりごちたみたいに、お気に入りの奥さんがいて、かわいい子供たちがいて、自分は会社で一生懸命働き、マイホームを建て、奥さんはそこで子供たちを育てる。それが幸せというものであると、誰もが疑わない時代があった。
でも今や、巨額の住宅ローンを抱え、ご主人は片道2時間かけて通勤し、奥さんは家で寂しい思いをしながら子供を育てるという生活を、いいと思う人は少なくなってきているだろうし、実際それすらも、したくてもできないという経済的な苦境にいる人も増えている。すでにゴールインし、無事逃げ切った人達にとっては、幸せは相も変わらず、マイホームなのかもしれないが、それより下の世代の人達の多くは、もうそれを幸せとは思えないということになっている。
だから今、幸せって何だっけ、とあらためて聞かれると、「よくわからない」ということになる。以前の幸せが、今はもう幸せとは言えないことになってはいるが、かといって新たな幸せが何なのかも、どうもはっきり見えてこない。幸せが何なのか見えてこなければ、自分がどちらへ向かって進んだらいいのかも、よく解らないことになってくるわけだ。
そういうところで、あの悲惨な東日本大震災が起こったわけだが、震災直後の一瞬の間、日本はそれまでとは全く違った状態にならなかったか。震災の映像を見ては涙し、被災した人たちをなんとか助けたいと思い、世界の人達が援助してくれたり、メッセージを送ってくれたりすることに感謝する。そういう気持ちで、日本人が一丸となったことが、ほんの一瞬の期間だけあった。
もちろんそれは、大災害が起こるとよく起こる、精神的な作用の一つだと言われ、その通りなのだとも思うが、日本から余分なものを全部取り外してみれば、日本人の精神の奥底には、まだそうやって、他人を思いやる気持ちが残っていたということを、示しているとも言えるんじゃないか。もうすでに、それは再び見えにくくなってしまったけれど、他人を思いやり、その人のために何かできることをするという当たり前のことが、幸せなんだということを、日本人はあらためて確認したとも言えるのじゃないかと思うのだよな。
政治家や、官僚や、東京電力を初めとする財界のお偉いさんたちは、相も変わらず自分のことしか考えていないように見受けられるが、時間が経つにつれ、そういう人達はいなくなるのだ。世代は確実に入れ替わっていく。必要なことは、いざ自分たちが日本を担っていくということになった時、日本人の幸せが何なのかということについて、はっきりと知っているということなのだと思うのだよな。
それは本来、難しいことでもなんでもない。人間は誰でも、幸せになることができるはずなんだから。
昨日の昼飯は、焼きそばにビール。焼きそばは2玉の大盛り。色々やることはあるんだが、あえてビール。さらに昼寝。僕はぞは簡単に、こういうことに幸せを感じてしまうんだがな。
晩飯は鶏の塩焼き。
それに茄子の塩もみ。
茄子の塩もみは、おかかだのゴマだの、醤油だの、かける必要がまったくない。これだけで十分うまい。これはいつもってわけじゃないんだよな。茄子が旬になり、ほんとにおいしくなってくると、こういう贅沢なことになるというわけだ。
あとは冷奴にセロリの漬物で、酒を2合。
登録:
投稿 (Atom)