2011-10-12
家庭で手軽にできる、本格ラーメンの作り方
「ラーメン」というと、ちゃんとしたものは外で食べるしかなくて、家ではインスタントか、せめて生ラーメンでお茶を濁すという人、多いだろう。ラーメンを作るのに、鶏がらや豚骨で何時間もかけてスープを取ることなど、よっぽど好きで、時間がある人じゃないとなかなかできない。
ところが本格的な味がする、きちんとしたラーメンが、ものの10分ほどで出来てしまうのだ。
もちろんちゃんとしたラーメン屋の味には敵わないが、下手なラーメン屋よりはよっぽどうまい。ラーメンが好きな人は、ぜひ試してみてほしいところだ。
スープを取るには、豚コマ肉を使う。これが非常にいい出汁がでる。もちろん出汁をとっても捨てないで、そのまま具として食べるわけだ。
これを昆布と一緒に水から入れ、火にかける。
豚肉と昆布を、アクを取りながら、中火でグツグツ5分ほど煮る。これで出汁とりは完了。
ここで味付けをしていく。
まず多めの酒。「ジャバジャバジャバ」というくらい入れる。酒は多いほうがうまいのは言うまでもない。
それからおろしたニンニクとショウガ。これはチューブので十分。量は完全にお好み次第。僕はブリブリとしぼり込むが、風味づけ程度にしておいても悪くないかも。
みりんを隠し味程度にさじ1杯くらい。甘みを入れすぎると、ラーメンではなくうどん出汁になってしまうので、注意が必要だが、やはり甘みもちょっと入れたほうがうまい。
あとは醤油を、塩からさがちょうど良くなるまで、味を見ながら入れていく。
味を付けたら、さらに2~3分煮る。
この出汁で、斜め切りにでもした長ネギをひと煮すれば、スープは出来上がり。
麺なのだが、これはもちろん、ちゃんとした生の麺を買ってきて、それを別鍋でゆで、ざるで湯切りしてどんぶりに入れ、上のスープを注ぎ込むようにしたほうが、間違いなくうまい。うまいのだが、昼飯にさくっと食うには、手間はかかるし、値段も高いということで、僕は袋麺。
これはまずいのでオススメしないが、手間がまったくかからないのがいい。
この袋麺を、そのままスープにぶち込み、ひと煮すれば、自家製ラーメンの完成だ。
ラーメンというと、色々複雑なものが入っているのだろうと思うところだ。もちろんラーメン屋は、それなりに工夫して、独自の味を仕立て上げているに違いないが、基本はそれほど難しいものではないことが、このラーメンを食べてみるとわかる。
実際このラーメン、ラーメンとして過不足ない。きちんと「ラーメン」と呼べるものになる。豚コマ肉に昆布と長ネギの出汁も十分なうまみがあり、食べ終わって、「あー、うまかった」と思うことは請け合いだ。
昨日の晩酌。肴は、まずスルメイカの塩焼き。青ネギとレモン汁を振り、生姜醤油で食べる。
昨日は魚屋に、まっ茶っ茶でいかにも活きのよさそうなイカ君が大量入荷していたから、これは食べないわけにはイカないのだ。
イカは塩を振り、表裏を「ぷっくりとふくらむ程度」に焼く。中は半生だが、お造りにもできるイカだから、それでいいのだ。これは魚屋のおばちゃんに教えてもらった焼き方。
ちなみにイカ君のワタは、ゲソと一緒に、現在塩辛の仕込み中。3日後に食べる予定。
カブの中抜き菜とお揚げの炊いたん。
「中抜き菜」とは、間引いた野菜のことで、青菜が高騰する今にありながら、大量なのが、一把120円という破格の値段。スーパーには決して置いておらず、農家に直接仕入れに行く八百屋だからこそ、できることだ。
出汁に酒、みりん、醤油、塩で薄めに味付けし、ふっくらと炊き上げる。小さくてもきちんとカブの味がして、大変うまい。
ナスの塩もみ。しかし旬のナスは、塩もみで食べるのが一番だな。甘くて、瑞々しくて、味付けを何もしないでも十分うまい。
八百屋のおいちゃんによれば、露地物のナスはそろそろ終わりだそうだ。
昨日は、これら諸々の肴をつまみながら、日本酒を飲んでいたら、ふたたび「しみじみとした幸せ感」に包まれた。
この幸せ感、そうしょっちゅう、包まれているわけではない。「うまい」とか、「たまらん」とかいうのはよくあるが、それが「幸せ」にまで昇華するのは稀なことだ。
前回、やはりイカの塩焼きを、生姜醤油で食べてる時、非常に幸せ感に包まれた。どうやらこの「イカの塩焼き生姜醤油」が、僕の幸せ感のポイントとなっているようなのだが、理由はよく分からない。
2011-08-18
ラーメンになりきれなかったラーメンと、焼きそばになりきれなかった焼きそば
僕は一時毎日ラーメンを食っていた時期があって、有機野菜農家の嫁をしている妹に、「お兄ちゃんのブログは体に悪すぎてうちのホームページからはリンクできない」と言われたこともある。なぜそれだけラーメンにハマったかといえば、ラーメンほど多様性に満ちた食い物は、他にないからだ。
いやもちろんそもそも食い物自体が多様性に満ちたものであり、世界中に料理の数がどれほどあるのか、数えきれないほどだろう。日夜新たな料理が生み出され、作る人によったって、味はまったく違う。それはそうなのだ。
しかし「ラーメン」という同じ名前で括られるものが、これほどの種類があるというような食い物が他にあるのか。ラーメンは北海道から九州まで、ものすごく大雑把に系統を分けたとしても、まあ僕は数えたことはないんだが、100は超えるんじゃないか。京都にもはっきりと系統の違う、完全に独自と思われるラーメンが6種類はある。
他のどんな食い物を考えても、同じ一つの名前で呼ばれるものがそれだけの種類があることはないだろう。カレーでもハンバーグでも、どんなに多めに考えたって、10種類もあったらいいんじゃないか。あとの店による違いは、だいたい「うまいかまずいか」ということになってくるのであって、普通は「うまいもの」は、少数の味に収斂していくものだ。
ところがラーメンは、味がどこかに収斂してしまうことなく、発散しまくっている。京都には、「最高にうまいラーメン」が6種類あるということなのだ。6種類のラーメンに順位は付けられない。どれもうまいのだ。
だからラーメンを食べ歩きすると、おもしろくて仕方ない。地方地方で独自の考え方に基いたラーメンがあり、「なるほどこんな考え方があったのか」と膝を打つことも一度や二度じゃない。場末の小汚い店でおばちゃんが作るラーメンが、信じられないほどおいしかったりする。新しいラーメンは日夜開発され、おそらくまた今日も、どこかで新しいラーメンが誕生しようとしているかもしれない。こんなに可能性に満ちた食い物は、他にないと思うのだよな。
そうなってくると考えたくなるのは、なぜラーメンだけが、それほど可能性に満ちているのかということだ。ラーメンは他の食い物とどこが違うのか。それを何としても知りたい。そういう気持ちになってしまっても、無理はないというものだろう。
僕が今考えているのは、ラーメンがこれだけ新たな可能性を秘めているのは、
「ラーメンには正解がないからだ」
というものだ。ラーメンがその定義上、「正解が存在しない」ように規定されてしまっているため、いくらでも新しいものを生み出す力を得てしまったのじゃないかということだ。
何をもってラーメンと呼ぶかということは、すべてのラーメンに共通する性質を考えればわかってくると言えるだろう。まず中華麺が使われていること。これは原料は小麦で、それにかん水を使うということだよな。それから肉のだしであること。それからたぶんニンニクを使うこと。
そしてもう一つ、これが決定的だと僕は思うんだが、「甘くない」というのがあるんじゃないかということだ。
ラーメンの成立を歴史的に考えると、元々は戦前、「夜鳴きそば」のような形で屋台でほそぼそと営業していたラーメン屋が、戦後になり大きく発展していくことになる。それには中国から引き揚げてきた人たちがたくさんいたとか、日本人の嗜好の変化とか、色んな要因があるとは思うが、間違いのないことは、「日本そば・うどんとの熾烈な戦いに勝利した」ということだろう。
「汁に麺を入れて食う」というのは、元々日本そば・うどんが中心であったところ、ラーメンがそこに割り込み、強力な攻勢をかけていったということだ。今では主役の座はラーメンであり、日本そば・うどんは脇によった形になっている。
ラーメンが日本そば・うどんに打ち勝つためには、間違いなく、「日本そば・うどんと同じであってはいけない」ということが、絶対条件だっただろう。ラーメンが日本そば・うどんと同じだったら勝ち目がない。決定的に違わなければいけなかったはずだ。
それが「甘くない」ということだと思うのだよな。
日本のだしの特徴というのは、甘みを入れることだ。特に肉のだしが強く出てくる場合には、鴨南蛮を思い出せばわかるが、甘みを強くしてこってりさせる。これが日本人の味覚にとっての「正解」なのだと思うのだ。
ところがラーメンは、ある時点でこれを捨てたということだ。日本人にとっての大正解を捨てることにより、捨て身の勝負に出た。これがラーメンの今の地位を築くことになったのじゃないか。
そして同時に、大正解を捨てることにより、ラーメンは大きな可能性を得ることとなった。
正解があれば、皆いずれはその正解に収束していくことになるだろう。しかしラーメンは正解を捨ててしまったのだから、一点に収束しようがない。あらゆる味が、「おいしければアリ」ということになった。
とここまで異常に長い前置きをだらだらと書いてきたのだったが、昨日はまた家でラーメンを作ってみたということなのだ。
前日の鶏のうどんすきの残り汁があったから、要はそれにニンニクとショウガを足して、中華麺を入れてみた。
しかしこれが、やはり微妙にラーメンにはならなかったのだ。
うどんすきのだしには、当然みりんをけっこうたっぷり入れるわけで、甘いのだよな。それにいくらニンニクとショウガを入れても、やはりラーメンにはならないということがわかり、僕の「ラーメン甘み理論」は証明されたというわけだったのでした。ちゃんちゃん。
昨日は晩めしも、変なものを作ってしまった。
スーパーを歩いていたら、トマトを入れた焼きそばを作ってみたくなってしまったのだ。それで「ナスと豚のトマトソース焼きそば」を作ることにした。
オリーブオイルで豚コマ肉と細切りの玉ねぎ、そしてナスを鷹の爪といっしょに炒め、そこに焼きそば麺を入れてちょっと炒めて、缶詰のカットトマトを投入。チューブニンニクと塩コショウで味付けし、ちょっと炒めて出来上がり。
粉チーズと青ネギをふって食べてみたが、これは大変うまかったのだが、焼きそばでは全くなく、普通にパスタ。オリーブオイルを使った時点で、焼きそばとしては敗北してしまったということだ。
ちなみに焼きそば麺は2玉。やっぱ1玉じゃ足りんわ。
いやもちろんそもそも食い物自体が多様性に満ちたものであり、世界中に料理の数がどれほどあるのか、数えきれないほどだろう。日夜新たな料理が生み出され、作る人によったって、味はまったく違う。それはそうなのだ。
しかし「ラーメン」という同じ名前で括られるものが、これほどの種類があるというような食い物が他にあるのか。ラーメンは北海道から九州まで、ものすごく大雑把に系統を分けたとしても、まあ僕は数えたことはないんだが、100は超えるんじゃないか。京都にもはっきりと系統の違う、完全に独自と思われるラーメンが6種類はある。
他のどんな食い物を考えても、同じ一つの名前で呼ばれるものがそれだけの種類があることはないだろう。カレーでもハンバーグでも、どんなに多めに考えたって、10種類もあったらいいんじゃないか。あとの店による違いは、だいたい「うまいかまずいか」ということになってくるのであって、普通は「うまいもの」は、少数の味に収斂していくものだ。
ところがラーメンは、味がどこかに収斂してしまうことなく、発散しまくっている。京都には、「最高にうまいラーメン」が6種類あるということなのだ。6種類のラーメンに順位は付けられない。どれもうまいのだ。
だからラーメンを食べ歩きすると、おもしろくて仕方ない。地方地方で独自の考え方に基いたラーメンがあり、「なるほどこんな考え方があったのか」と膝を打つことも一度や二度じゃない。場末の小汚い店でおばちゃんが作るラーメンが、信じられないほどおいしかったりする。新しいラーメンは日夜開発され、おそらくまた今日も、どこかで新しいラーメンが誕生しようとしているかもしれない。こんなに可能性に満ちた食い物は、他にないと思うのだよな。
そうなってくると考えたくなるのは、なぜラーメンだけが、それほど可能性に満ちているのかということだ。ラーメンは他の食い物とどこが違うのか。それを何としても知りたい。そういう気持ちになってしまっても、無理はないというものだろう。
僕が今考えているのは、ラーメンがこれだけ新たな可能性を秘めているのは、
「ラーメンには正解がないからだ」
というものだ。ラーメンがその定義上、「正解が存在しない」ように規定されてしまっているため、いくらでも新しいものを生み出す力を得てしまったのじゃないかということだ。
何をもってラーメンと呼ぶかということは、すべてのラーメンに共通する性質を考えればわかってくると言えるだろう。まず中華麺が使われていること。これは原料は小麦で、それにかん水を使うということだよな。それから肉のだしであること。それからたぶんニンニクを使うこと。
そしてもう一つ、これが決定的だと僕は思うんだが、「甘くない」というのがあるんじゃないかということだ。
ラーメンの成立を歴史的に考えると、元々は戦前、「夜鳴きそば」のような形で屋台でほそぼそと営業していたラーメン屋が、戦後になり大きく発展していくことになる。それには中国から引き揚げてきた人たちがたくさんいたとか、日本人の嗜好の変化とか、色んな要因があるとは思うが、間違いのないことは、「日本そば・うどんとの熾烈な戦いに勝利した」ということだろう。
「汁に麺を入れて食う」というのは、元々日本そば・うどんが中心であったところ、ラーメンがそこに割り込み、強力な攻勢をかけていったということだ。今では主役の座はラーメンであり、日本そば・うどんは脇によった形になっている。
ラーメンが日本そば・うどんに打ち勝つためには、間違いなく、「日本そば・うどんと同じであってはいけない」ということが、絶対条件だっただろう。ラーメンが日本そば・うどんと同じだったら勝ち目がない。決定的に違わなければいけなかったはずだ。
それが「甘くない」ということだと思うのだよな。
日本のだしの特徴というのは、甘みを入れることだ。特に肉のだしが強く出てくる場合には、鴨南蛮を思い出せばわかるが、甘みを強くしてこってりさせる。これが日本人の味覚にとっての「正解」なのだと思うのだ。
ところがラーメンは、ある時点でこれを捨てたということだ。日本人にとっての大正解を捨てることにより、捨て身の勝負に出た。これがラーメンの今の地位を築くことになったのじゃないか。
そして同時に、大正解を捨てることにより、ラーメンは大きな可能性を得ることとなった。
正解があれば、皆いずれはその正解に収束していくことになるだろう。しかしラーメンは正解を捨ててしまったのだから、一点に収束しようがない。あらゆる味が、「おいしければアリ」ということになった。
とここまで異常に長い前置きをだらだらと書いてきたのだったが、昨日はまた家でラーメンを作ってみたということなのだ。
前日の鶏のうどんすきの残り汁があったから、要はそれにニンニクとショウガを足して、中華麺を入れてみた。
しかしこれが、やはり微妙にラーメンにはならなかったのだ。
うどんすきのだしには、当然みりんをけっこうたっぷり入れるわけで、甘いのだよな。それにいくらニンニクとショウガを入れても、やはりラーメンにはならないということがわかり、僕の「ラーメン甘み理論」は証明されたというわけだったのでした。ちゃんちゃん。
昨日は晩めしも、変なものを作ってしまった。
スーパーを歩いていたら、トマトを入れた焼きそばを作ってみたくなってしまったのだ。それで「ナスと豚のトマトソース焼きそば」を作ることにした。
オリーブオイルで豚コマ肉と細切りの玉ねぎ、そしてナスを鷹の爪といっしょに炒め、そこに焼きそば麺を入れてちょっと炒めて、缶詰のカットトマトを投入。チューブニンニクと塩コショウで味付けし、ちょっと炒めて出来上がり。
粉チーズと青ネギをふって食べてみたが、これは大変うまかったのだが、焼きそばでは全くなく、普通にパスタ。オリーブオイルを使った時点で、焼きそばとしては敗北してしまったということだ。
ちなみに焼きそば麺は2玉。やっぱ1玉じゃ足りんわ。
2011-05-29
名古屋ナイト
べつに僕は地域に優劣をつけるつもりはないし、どこへ行ってもその土地ならではの良さがあり、僕は日本の何カ所かに住んでみて、そういうことを発見することが、とても楽しいことだということを知ったのだけれども、僕が今まで住んだ場所のなかでも、名古屋はとてもいいな、好きだなと思う場所のひとつだ。いやもちろん、広島へ行けば、広島がいいと思うのであって、いま名古屋にいるから、そう思うということなのだけれど。
名古屋に行って、いつもまず思うことは、新幹線なり高速バスなりで名古屋駅の太閤口の側に着いて、それから駅構内のコンコースを歩いて桜通口まで行って、地下鉄なりなんなりに乗るということになるのだけれど、その時に、すれ違うたくさんの名古屋人たちの顔が、つくづく自分勝手な顔をしているのだ。
東京などではこれはまったく違って、東京のひとはみな同じ顔をしているし、それが下を向いて足早にすたすた歩いて、かっこよかったり、きれいだったりはしたとしても、あまり楽しそうだったりするという感じはしない。ほかの地域へ行っても、その地域独特の顔があるなとは思ったりするのだけれど、名古屋の場合、ほんとに「自分」をいうものを丸出しにして、ひとが街を歩いている、という感じがするのだ。
こちらは男だから、女の子のファッションに目が行ったりすることが多いのだけれど、名古屋のファッションというのは、たとえば東京なら、いま流行りのスタイルというものがあって、そこに自分を合わせるというのが、着飾るという意味だったりするのだと思うのだけれど、名古屋の場合、もちろんそういうことも色々考えはするとは思うけれど、より自分の好きなものを着る、という感覚が強いのじゃないかという感じがする。
だからひとによって、けっこういろいろ、違う格好をしているし、また逆に、ルイ・ビトンとか、ブーツとか、これがいいとなると、他人にかまわず、みなおなじ格好になってしまったりもする。いずれにしても、他人がどうであるということをあまり気にしている気配がなく、あくまで自分だという感じなのだよな。
僕は以前、これはこのブログにも書いたことがあるのだけれど、名古屋に住んでいたときにドライブに行って、名古屋からほど近いサービスエリアに入って、そこでそばを注文した時、ならんで待っていた時に聞こえた、店長らしきひとの店員にたいする指示が、ほんとに笑えたことがある。
その日は連休だったから、サービスエリアはものすごく混んで、麺コーナーのおばちゃんたちはてんてこ舞いしていて、だから店長が直々に、麺コーナーの前に立って、お客をさばいていたというわけなのだけれど、
「○○さん、そうやって自分の作りたいものから作らないで」
という指示を発していたのだ。名古屋のおばちゃんは、そうやって注意しないと、食券が出される順ではなく、自分が作りたいものの順に、うどんなりそばなりを作ってしまうということなのだろう。
僕はこの出来事に、ある意味、名古屋が象徴されるような気がしているのだが、そうやって皆が、まず第一に自分のことを考えるということが、僕などが名古屋にいて、とても居心地がよい理由であるという気がする。
そういう自分第一とも見える名古屋人なのだが、ひとのつながりは滅法強い。僕は前の職場で、全国のいろいろな場所を見たけれど、ひとのネットワークの濃さというのは、名古屋が随一であった気がする。僕が名古屋にいたころに、毎日のように通ったフランス風居酒屋「ブラッサリー・アブサン」の、常連仲間というのが10人近くいて、それが僕の送別会をその店でやってもらったことをきっかけに、定期的に集まり始めて、僕が名古屋を離れて、もう3年がたつというのに、いまだに僕に誘いをかけてくれる。そのひとたちに聞いたら、そこに集まるひとたちは、名古屋の中でもとくべつ濃いひとたちばかりが集まっているとのことだったけれど、その仲間のひとりの家に集まって、会費制で、彼女が作ってくれる料理に舌鼓を打ち、みなで勝手なことをしゃべる、という会だ。
きのうも夜の8時からスタートして、気付いたら3時近くまで、他愛もない話に花が咲いた。みんなとにかくよくしゃべるひとたちで、僕もどちらかといえば、かなりしゃべるほうで、酔っ払ったりすると、気付くと延々と、ひとりで語りまくっていたりするタイプなのだが、そこでは聞き役にまわることも多い。でもそうやって、ひとの話を聞いていると、「今日は静かだけれど、どうしたのか」とみなが心配してくれたりするのが、また笑えるところだ。きのうは洋食で、シャンパンやワインを飲みながら、自家製のピザだの牛肉の煮込みだのをぱくついて、またほんとに楽しいひと時を過ごした。
それが引けたあと、ラーメンを食べようという話になって、そこからすぐ近くの、「牛すじラーメン」の店へ行った。ほんとの牛すじラーメンは、もうスープが終わってしまって、ふつうの醤油ラーメンとのことだったのだけれど、これはハーフサイズだが、牛すじの煮込んだものが乗っていて、スープは醤油だというのだけれど、八丁味噌が加えられているようだった。僕はこないだ、牛肉を八丁味噌で煮て、すごくおいしかったわけなのだが、やはりこのやり方は、名古屋でもやるんだな。
名古屋に行って、いつもまず思うことは、新幹線なり高速バスなりで名古屋駅の太閤口の側に着いて、それから駅構内のコンコースを歩いて桜通口まで行って、地下鉄なりなんなりに乗るということになるのだけれど、その時に、すれ違うたくさんの名古屋人たちの顔が、つくづく自分勝手な顔をしているのだ。
東京などではこれはまったく違って、東京のひとはみな同じ顔をしているし、それが下を向いて足早にすたすた歩いて、かっこよかったり、きれいだったりはしたとしても、あまり楽しそうだったりするという感じはしない。ほかの地域へ行っても、その地域独特の顔があるなとは思ったりするのだけれど、名古屋の場合、ほんとに「自分」をいうものを丸出しにして、ひとが街を歩いている、という感じがするのだ。
こちらは男だから、女の子のファッションに目が行ったりすることが多いのだけれど、名古屋のファッションというのは、たとえば東京なら、いま流行りのスタイルというものがあって、そこに自分を合わせるというのが、着飾るという意味だったりするのだと思うのだけれど、名古屋の場合、もちろんそういうことも色々考えはするとは思うけれど、より自分の好きなものを着る、という感覚が強いのじゃないかという感じがする。
だからひとによって、けっこういろいろ、違う格好をしているし、また逆に、ルイ・ビトンとか、ブーツとか、これがいいとなると、他人にかまわず、みなおなじ格好になってしまったりもする。いずれにしても、他人がどうであるということをあまり気にしている気配がなく、あくまで自分だという感じなのだよな。
僕は以前、これはこのブログにも書いたことがあるのだけれど、名古屋に住んでいたときにドライブに行って、名古屋からほど近いサービスエリアに入って、そこでそばを注文した時、ならんで待っていた時に聞こえた、店長らしきひとの店員にたいする指示が、ほんとに笑えたことがある。
その日は連休だったから、サービスエリアはものすごく混んで、麺コーナーのおばちゃんたちはてんてこ舞いしていて、だから店長が直々に、麺コーナーの前に立って、お客をさばいていたというわけなのだけれど、
「○○さん、そうやって自分の作りたいものから作らないで」
という指示を発していたのだ。名古屋のおばちゃんは、そうやって注意しないと、食券が出される順ではなく、自分が作りたいものの順に、うどんなりそばなりを作ってしまうということなのだろう。
僕はこの出来事に、ある意味、名古屋が象徴されるような気がしているのだが、そうやって皆が、まず第一に自分のことを考えるということが、僕などが名古屋にいて、とても居心地がよい理由であるという気がする。
そういう自分第一とも見える名古屋人なのだが、ひとのつながりは滅法強い。僕は前の職場で、全国のいろいろな場所を見たけれど、ひとのネットワークの濃さというのは、名古屋が随一であった気がする。僕が名古屋にいたころに、毎日のように通ったフランス風居酒屋「ブラッサリー・アブサン」の、常連仲間というのが10人近くいて、それが僕の送別会をその店でやってもらったことをきっかけに、定期的に集まり始めて、僕が名古屋を離れて、もう3年がたつというのに、いまだに僕に誘いをかけてくれる。そのひとたちに聞いたら、そこに集まるひとたちは、名古屋の中でもとくべつ濃いひとたちばかりが集まっているとのことだったけれど、その仲間のひとりの家に集まって、会費制で、彼女が作ってくれる料理に舌鼓を打ち、みなで勝手なことをしゃべる、という会だ。
きのうも夜の8時からスタートして、気付いたら3時近くまで、他愛もない話に花が咲いた。みんなとにかくよくしゃべるひとたちで、僕もどちらかといえば、かなりしゃべるほうで、酔っ払ったりすると、気付くと延々と、ひとりで語りまくっていたりするタイプなのだが、そこでは聞き役にまわることも多い。でもそうやって、ひとの話を聞いていると、「今日は静かだけれど、どうしたのか」とみなが心配してくれたりするのが、また笑えるところだ。きのうは洋食で、シャンパンやワインを飲みながら、自家製のピザだの牛肉の煮込みだのをぱくついて、またほんとに楽しいひと時を過ごした。
それが引けたあと、ラーメンを食べようという話になって、そこからすぐ近くの、「牛すじラーメン」の店へ行った。ほんとの牛すじラーメンは、もうスープが終わってしまって、ふつうの醤油ラーメンとのことだったのだけれど、これはハーフサイズだが、牛すじの煮込んだものが乗っていて、スープは醤油だというのだけれど、八丁味噌が加えられているようだった。僕はこないだ、牛肉を八丁味噌で煮て、すごくおいしかったわけなのだが、やはりこのやり方は、名古屋でもやるんだな。
2011-05-17
名古屋めし
名古屋へきた。僕が名古屋にいたのは、1年8ヶ月ほどなのだけれども、そのころは名古屋は最も景気がいいときで、トヨタの高層ビルも建ち、街中が活気にあふれ、また僕自身の仕事についても、脂が乗り切って、頂点をむかえたという頃で、まさによく仕事をし、よく遊び、いい思い出がなにかと多い。
名古屋で食べるべきものは数多く、限られた時間で何を食べるかはおおいに迷うところだが、とりあえず、名古屋駅太閤口側の地下街エスカにある「山本屋本店」で味噌煮込みうどん。
八丁味噌の濃厚だしで、コシの強いうどんが煮込まれている。
同行した知人とビールで乾杯。
漬物も付いてくる。おかわり自由。
つづいては、これを食わねばならぬのだ。
シロノワール。
コメダ珈琲店の名物メニューで、温かいクロワッサンのようなパンの上に、冷たいソフトクリームがぐるりととぐろを巻いている。ホットケーキくらいの、かなりの大きさで、ひとりではとても食べられない。「ミニ」もあったが、やはり初めてのシロノワールは、普通サイズでなければならないだろう。
アイスクリームとケーキをあわせた「ケーキアラモード」は聞いたことがあるけれど、温かいパンの上に冷たいアイスとは、こたつでビール、冷房のキンキンに効いた部屋で鍋、ひとつのぜいたくのスタイルなのだな。しかもこのアイスが、スプーンでふつうによそったカップのアイスではなく、とぐろを巻いたソフトクリームだというところが、念が入っている。さらにこれに、メープルシロップをかけるという、甘さのダメ押しをしてくるところは、さすが名古屋、脱帽するしかない。
知人がそれほど甘いものが好きじゃないからと、6切れ中4切れを僕が食べたら、さすがにすこし気持ち悪くなった。
晩には「尾張ラーメン第一旭」。
第一旭はいわずと知れた、京都の代表的なラーメンだが、暖簾分けなのかなんなのか、むかし京都の店で働いていたひとが、40年前、こちらで店を開いたらしい。
生ビールとおつまみ。おつまみは380円だが、キムチとチャーシューが、けっこうたっぷり入っていた。
ラーメン。
これはなんと、京都の第一旭とおなじ味がした。第一旭という名前はダテじゃないのだな。第一旭のラーメンには、独特の酸っぱいうまみがあるということに、こちらのラーメンを食べて初めて気付いたのだけれど、これは何なのかな。ニンニクと、それに何か。秘密の隠し味があるのだろうな。
おまけ。
ななちゃん人形。
名古屋で食べるべきものは数多く、限られた時間で何を食べるかはおおいに迷うところだが、とりあえず、名古屋駅太閤口側の地下街エスカにある「山本屋本店」で味噌煮込みうどん。
八丁味噌の濃厚だしで、コシの強いうどんが煮込まれている。
同行した知人とビールで乾杯。
漬物も付いてくる。おかわり自由。
つづいては、これを食わねばならぬのだ。
シロノワール。
コメダ珈琲店の名物メニューで、温かいクロワッサンのようなパンの上に、冷たいソフトクリームがぐるりととぐろを巻いている。ホットケーキくらいの、かなりの大きさで、ひとりではとても食べられない。「ミニ」もあったが、やはり初めてのシロノワールは、普通サイズでなければならないだろう。
アイスクリームとケーキをあわせた「ケーキアラモード」は聞いたことがあるけれど、温かいパンの上に冷たいアイスとは、こたつでビール、冷房のキンキンに効いた部屋で鍋、ひとつのぜいたくのスタイルなのだな。しかもこのアイスが、スプーンでふつうによそったカップのアイスではなく、とぐろを巻いたソフトクリームだというところが、念が入っている。さらにこれに、メープルシロップをかけるという、甘さのダメ押しをしてくるところは、さすが名古屋、脱帽するしかない。
知人がそれほど甘いものが好きじゃないからと、6切れ中4切れを僕が食べたら、さすがにすこし気持ち悪くなった。
晩には「尾張ラーメン第一旭」。
第一旭はいわずと知れた、京都の代表的なラーメンだが、暖簾分けなのかなんなのか、むかし京都の店で働いていたひとが、40年前、こちらで店を開いたらしい。
生ビールとおつまみ。おつまみは380円だが、キムチとチャーシューが、けっこうたっぷり入っていた。
ラーメン。
これはなんと、京都の第一旭とおなじ味がした。第一旭という名前はダテじゃないのだな。第一旭のラーメンには、独特の酸っぱいうまみがあるということに、こちらのラーメンを食べて初めて気付いたのだけれど、これは何なのかな。ニンニクと、それに何か。秘密の隠し味があるのだろうな。
おまけ。
ななちゃん人形。
2011-03-04
高槻「希望軒」、牛コマ肉の韓国風汁
昨日は生命誌研究館へ行ったら、中村桂子さんがご不在だったので、お借りしていた本だけ返して、高槻で食事をすることにした。
高槻では、飲食店クチコミサイト「食べログ」を参考に、目ぼしいところへはそこそこ行っていて、リピートしたくなるような店は思い浮かばないし、どうしようかと思いながら、ノートパソコンをとりだして、「高槻名物」と検索してみた。
そしたら出てきたのが、「うどんギョーザ」。
ギョーザのネタを、皮に包まずに、短く切ったうどんを混ぜ込んで、鉄板で焼いたものらしい。以前から高槻の家庭料理として知られているものなのだそうだ。
食べてみたいと思って、それを食べさせるたこ焼き屋が、阪急高槻駅近くにあるとネットに書いてあったから、探してみたのだが、けっきょく見当たらなかった。
うどんギョーザとは、なんとも変わった食べ物だから、町おこしとして大々的に宣伝すれば、けっこう評判になったりしそうな気もするのだが、高槻全体としても、食べさせる店は2軒ほどしかないみたいだ。遠慮深いのかな、高槻。
仕方がないから、阪急高槻駅南口にある、以前からちょっと気になっていたラーメン屋に入ることにした。
「希望軒」という名前で、神戸に本店があるチェーン店みたいだが、店がまえが、ちょっとレトロな雰囲気をただよわせ、「昔風のラーメン」が食べられそうな感じもする。
僕は数年前から、東京をはなれ、名古屋へいったり広島へいったり、そして今は京都にいて、さらに去年会社をやめ、一人で自分をみつめる時間もふえて、そうすると、新しいもの好きだと思っていた自分が、そうではなく、とても保守的な人間であるということを自覚するようになった。
ラーメンでも、新しいものにはあまり興味がわかず、昔ながらのものをいいと思うのだ。
かといって、ラーメンより古い、うどんやそばには、やはりあまり興味がわかないから、時代に無関心であれということでもない。時代を見据えながらも、伝統をきちんとふまえ、一見古くみえるもののなかに、新しさをみつける目というものが、僕は好きみたいなのだ。
この店は、何種類かのラーメンがあったが、メニュー筆頭の「希望軒ラーメン」というのを頼んでみた。
しょうゆ豚骨に、細めのちょっと縮れた麺、具はあっさりとしたチャーシューに細もやし、青ネギ。典型的な西日本のラーメン。
豚骨スープはかなりこってりと煮出されているが、臭みはまったくない。麺もすこしカタめにゆであげてくる。
好みはあるが、僕はなかなか悪くないと思った。
でもこの店、午後1時前の、お昼どきと思われる時間だったが、あまりお客が入っていなかった。
高槻にはラーメン屋がたくさんあって、そのほとんどが、塩ラーメンか、または博多ラーメン。しょうゆラーメンの店は、数えるほどしかない。また創作ラーメンの店も多い。そういう文化のなかにあり、こういう昔ながらの伝統的なしょうゆラーメンは、あまり流行らないということなのかもしれないな。
ラーメンの友には、もちろん生ビール。はじめは取り放題の切り海苔をつまみながらのみ、ラーメンが来たら、それを食べながらのむ。
ミニチャーハンも、卵にチャーシュー、青ネギの、いわゆるプレーンな味付けだった。
木曜日はグルメシティの特売日で、オーストラリア産の牛コマ肉を、毎回かならず安売りする。晩めしは、これを使って、汁物をつくりたいと思ったのだが、牛肉を和風の汁物にしようと思うと、肉じゃがにしろ、すき焼きにしろ、砂糖をたっぷり入れて甘くしたものしか思い付かない。昨日は甘くないものが食べたかったので、ニンニクをたっぷり入れて、韓国風の味付けにすることにした。
たっぷりの酒と、やはりたっぷりのチューブのニンニクを入れた水で、まずことことと煮る。これは5時間でも6時間でも煮て、溶けるほどにしてしまうのがうまいと思うのだが、昨日は時間がなかったので2時間。
このスープを、夜は塩で味を付けてあっさりと、そして翌日昼めしには辛くして、味を変えて2回に分けて使うことにした。
具は夜昼共通、大根と油揚げ、それに玉ネギ、もやし、ニラ。ただ塩だけで味を付けたものに、コショウをふって食べる。
これは悪くはなかったのだが、塩味の場合、具をあまりいろいろ入れてしまうと、味が散漫になってしまうのだな。大根と油揚げくらいにしておいたほうがよかった。
酒は佐々木酒造「古都」のグリーンラベル。昨日はなぜか、3合のんでしまった。
高槻では、飲食店クチコミサイト「食べログ」を参考に、目ぼしいところへはそこそこ行っていて、リピートしたくなるような店は思い浮かばないし、どうしようかと思いながら、ノートパソコンをとりだして、「高槻名物」と検索してみた。
そしたら出てきたのが、「うどんギョーザ」。
ギョーザのネタを、皮に包まずに、短く切ったうどんを混ぜ込んで、鉄板で焼いたものらしい。以前から高槻の家庭料理として知られているものなのだそうだ。
食べてみたいと思って、それを食べさせるたこ焼き屋が、阪急高槻駅近くにあるとネットに書いてあったから、探してみたのだが、けっきょく見当たらなかった。
うどんギョーザとは、なんとも変わった食べ物だから、町おこしとして大々的に宣伝すれば、けっこう評判になったりしそうな気もするのだが、高槻全体としても、食べさせる店は2軒ほどしかないみたいだ。遠慮深いのかな、高槻。
◇ ◇ ◇
仕方がないから、阪急高槻駅南口にある、以前からちょっと気になっていたラーメン屋に入ることにした。
「希望軒」という名前で、神戸に本店があるチェーン店みたいだが、店がまえが、ちょっとレトロな雰囲気をただよわせ、「昔風のラーメン」が食べられそうな感じもする。
僕は数年前から、東京をはなれ、名古屋へいったり広島へいったり、そして今は京都にいて、さらに去年会社をやめ、一人で自分をみつめる時間もふえて、そうすると、新しいもの好きだと思っていた自分が、そうではなく、とても保守的な人間であるということを自覚するようになった。
ラーメンでも、新しいものにはあまり興味がわかず、昔ながらのものをいいと思うのだ。
かといって、ラーメンより古い、うどんやそばには、やはりあまり興味がわかないから、時代に無関心であれということでもない。時代を見据えながらも、伝統をきちんとふまえ、一見古くみえるもののなかに、新しさをみつける目というものが、僕は好きみたいなのだ。
この店は、何種類かのラーメンがあったが、メニュー筆頭の「希望軒ラーメン」というのを頼んでみた。
しょうゆ豚骨に、細めのちょっと縮れた麺、具はあっさりとしたチャーシューに細もやし、青ネギ。典型的な西日本のラーメン。
豚骨スープはかなりこってりと煮出されているが、臭みはまったくない。麺もすこしカタめにゆであげてくる。
好みはあるが、僕はなかなか悪くないと思った。
でもこの店、午後1時前の、お昼どきと思われる時間だったが、あまりお客が入っていなかった。
高槻にはラーメン屋がたくさんあって、そのほとんどが、塩ラーメンか、または博多ラーメン。しょうゆラーメンの店は、数えるほどしかない。また創作ラーメンの店も多い。そういう文化のなかにあり、こういう昔ながらの伝統的なしょうゆラーメンは、あまり流行らないということなのかもしれないな。
ラーメンの友には、もちろん生ビール。はじめは取り放題の切り海苔をつまみながらのみ、ラーメンが来たら、それを食べながらのむ。
ミニチャーハンも、卵にチャーシュー、青ネギの、いわゆるプレーンな味付けだった。
◇ ◇ ◇
木曜日はグルメシティの特売日で、オーストラリア産の牛コマ肉を、毎回かならず安売りする。晩めしは、これを使って、汁物をつくりたいと思ったのだが、牛肉を和風の汁物にしようと思うと、肉じゃがにしろ、すき焼きにしろ、砂糖をたっぷり入れて甘くしたものしか思い付かない。昨日は甘くないものが食べたかったので、ニンニクをたっぷり入れて、韓国風の味付けにすることにした。
たっぷりの酒と、やはりたっぷりのチューブのニンニクを入れた水で、まずことことと煮る。これは5時間でも6時間でも煮て、溶けるほどにしてしまうのがうまいと思うのだが、昨日は時間がなかったので2時間。
このスープを、夜は塩で味を付けてあっさりと、そして翌日昼めしには辛くして、味を変えて2回に分けて使うことにした。
具は夜昼共通、大根と油揚げ、それに玉ネギ、もやし、ニラ。ただ塩だけで味を付けたものに、コショウをふって食べる。
これは悪くはなかったのだが、塩味の場合、具をあまりいろいろ入れてしまうと、味が散漫になってしまうのだな。大根と油揚げくらいにしておいたほうがよかった。
酒は佐々木酒造「古都」のグリーンラベル。昨日はなぜか、3合のんでしまった。
2010-11-26
ラーメン虎と龍 高槻店
関西圏を中心にけっこう支店があるみたいで、でもスープとか、セントラルキッチンから運ばれてくるのじゃなく、自分で時間かけて取っていると言っていたから、暖簾分けみたいな形なのかな。
このギョウザ、焼き目を下にして出してくるというのが珍しいが、要はこの皮がウリということなのだと思う。実際厚みがあってもちもちして、なかなかうまかった。
このラーメン、けっこううまかった。ポイントはこのスープなのだが、かなり濃厚。といって臭みは全くない。聞いたらある時点で博多の虎のスープを取り分けて、さらに煮出すから、かなり時間がかかるのだそうだ。僕は年齢的に、濃厚スープは全部飲み切れないが、って飲み切らなくていいが、これだけ端正な濃厚スープ、どこにでもあるものじゃないと思う。
虎と龍 高槻店 (ラーメン / 高槻市駅、高槻駅)
昼総合点★★★★☆ 4.0
2010-10-14
ラーメン
これもこれまで何回も書いているが、また書くのだ。
京都にも数百軒のラーメン屋があると思うが、ってまずそれだけの軒数の、同じ食べ物を出す店が、それほど広くもない街に存在しているということ自体がすごいと思うが、戦前の創業である新福菜館を元祖とした黒ラーメンから、第一旭を元祖とする澄んだ醤油豚骨、ますたにを元祖とする背脂醤油、天下一品を代表とするこってり、また東京から入ってきたものと思うが煮干系、などなどのいくつもの系統があり、さらにはそれら同じ系統でも、一店一店が、異なった考え方に基づき、異なったラーメンを出している。ふつうの食べ物なら、系統はせいぜい数種類で、あとはおいしいかまずいかの違いがあるくらいのところ、京都だけで考えても、同じくらいおいしい、まったく異なるラーメンというものが、いくつもある。
ハンバーグについても、ひき肉を使って作った、あの平べったい物体を指しているだろう。他のいろいろな食物を思い出して考えてみても、だいたいは、何か具体的な、調味料なり、材料なり、料理法なり、というものを指していると考えられる。
ラーメンはもともと「中華そば」と呼ばれたわけだが、誰もそれが実際に中国風なのかをたしかめるということはないし、だいたい中国には日本のラーメンと同じような食べ物はないとも聞く。またトマトラーメンとか、さらにはイタリアンラーメンとかいうものは、中国風ではまったくないのであって、ここで使われる「中華」ということばは、実際に中国風であるということではなく、「これまでのうどんやそばなど、和風の麺類とは違う」ということを指し示しているのではないかと考えられるのだ。つまり、ラーメンというものは、その定義が、具体的な何かによって示されているのではなく、「~とは違う」という、否定形で示されているという、ほかにはあまり例を見ない形になっているということなのだ。ラーメンがそういう定義のされ方をしているから、うどんやそば以外の広大な麺類の領域を、全てカバーし、イタリア料理の領域にまで侵食しながらも、それをラーメンであると強弁することが許される、大きな自由度を持ったということじゃないか、ということだ。
どうだろう、この考え方、かなりよくないか。
僕はラーメンが好きで、方々食べ歩くわけだが、ラーメンの味そのものが好きだということももちろんあるけれど、それだけじゃなく、ラーメンという食べ物にたいする興味が、いくら食べても尽きないということも大きいのだ。
全国には、だしや味付けの違いによって、たくさんの種類のラーメンがあって、また同じ種類のラーメンに見えても、その背後にある考え方がまったく違うというものがあり、さらに歴史的に見ても次から次へと新しいラーメンが開発され、それがさらに少しずつ異なった亜流を産み出していくという具合に、大きく変化している。このようにバラエティーに富み、また変化し続ける食べ物って、ほかにあまりないと思うのだよな。
京都にも数百軒のラーメン屋があると思うが、ってまずそれだけの軒数の、同じ食べ物を出す店が、それほど広くもない街に存在しているということ自体がすごいと思うが、戦前の創業である新福菜館を元祖とした黒ラーメンから、第一旭を元祖とする澄んだ醤油豚骨、ますたにを元祖とする背脂醤油、天下一品を代表とするこってり、また東京から入ってきたものと思うが煮干系、などなどのいくつもの系統があり、さらにはそれら同じ系統でも、一店一店が、異なった考え方に基づき、異なったラーメンを出している。ふつうの食べ物なら、系統はせいぜい数種類で、あとはおいしいかまずいかの違いがあるくらいのところ、京都だけで考えても、同じくらいおいしい、まったく異なるラーメンというものが、いくつもある。
ラーメンの食べ歩きというものは、だからほかの食べ物とはかなり違って、ただうまいかまずいかを判定するということではなく、このラーメンの様々な違いを愛で、まだ自分が出会ったことのない、新たなラーメンの出現を期待する、ということなのだ。たぶん昆虫学者が昆虫を採集して分類し、新種の昆虫を発見する、などということと、似たような楽しみ方の側面があるのじゃないかと想像する。実際ラーメンだけは、ラーメン評論家という人が何人もいて、ラーメンを食べ記事を書くということを職業として成り立たせたりもしている。こんな食べ物は、ほかにそうそうはあるまい。
それではなぜラーメンというものが、ほかの食べ物とは違って、このような、種類の豊かさというものを獲得したのか。これはとても興味ある疑問であって、僕もこれについては、ずっと考え続け、その時々でそれなりの考えを持ってきているのだが、最近それで間違いないのじゃないかと思える考えを持つに至った。それはたぶん、「定義」にかかわることなのだ。
たとえばカレーならカレーというものが、それがカレーであるということについて、どのように決められているかを考えると、たぶん「カレー粉を使っている」ということだろう。料理法としては色々あり、インド式と欧風式、煮物と炒め物、さらには鍋物、などもあるわけだが、それらが共通して「カレー」として括られるのは、カレー粉を使っているからだ。
ハンバーグについても、ひき肉を使って作った、あの平べったい物体を指しているだろう。他のいろいろな食物を思い出して考えてみても、だいたいは、何か具体的な、調味料なり、材料なり、料理法なり、というものを指していると考えられる。
ところがラーメンについては、その事情がかなり異なるのではないかと思うのだ。もちろんまず「麺類である」ということは、共通した性質としてたしかにあると思うのだが、その他の性質をいろいろ考えてみても、だしの材料にしても調味料にしても、麺の製法にしても、かなりのバラエティーがあって、それをひとことで括るのは、難しいのではないかと思ってしまう。
例えばだしに関して、「動物性の材料を使う」ということなのかと思ってみても、今は魚介だしを使ったラーメンが全盛であって、必ずしもそれに当てはまらないものも多いし、調味料にしたって、「トマトラーメン」などというものすら存在する。麺も小麦粉を使うということは共通していても、うどんやスパゲティだって小麦粉で作られるのであって、それらとの違いを具体的な何かというもので言い表すことは、難しい感じがする。実際スパゲティかと思うようなラーメンの麺だってあるし、もし麺にそば粉を使っていても、それをラーメンと呼ぶことが、将来にわたってあり得ないのかといえば、もしかしたらそういうものだって、 これから出てきてもおかしくないような気すらする。
ラーメンというものは、そうやって考えると、果てしない自由さを持っているように見えるわけだが、しかしそれらのすべてが、「ラーメン」として括られ、他の食べ物と区別されていることも事実なのだ。それではラーメンというものは、どのように定義されているものなのか。
僕が今、これじゃないかと思う答えは、「和風でない麺類」というものだ。
ラーメンはもともと「中華そば」と呼ばれたわけだが、誰もそれが実際に中国風なのかをたしかめるということはないし、だいたい中国には日本のラーメンと同じような食べ物はないとも聞く。またトマトラーメンとか、さらにはイタリアンラーメンとかいうものは、中国風ではまったくないのであって、ここで使われる「中華」ということばは、実際に中国風であるということではなく、「これまでのうどんやそばなど、和風の麺類とは違う」ということを指し示しているのではないかと考えられるのだ。つまり、ラーメンというものは、その定義が、具体的な何かによって示されているのではなく、「~とは違う」という、否定形で示されているという、ほかにはあまり例を見ない形になっているということなのだ。ラーメンがそういう定義のされ方をしているから、うどんやそば以外の広大な麺類の領域を、全てカバーし、イタリア料理の領域にまで侵食しながらも、それをラーメンであると強弁することが許される、大きな自由度を持ったということじゃないか、ということだ。
どうだろう、この考え方、かなりよくないか。
さらにこの定義からもたらされる帰結というものがあって、それがラーメンがこれだけ大きく、実際に繁栄するということに対して、大きな影響を及ぼしていると思うのだが、「和風ではない」と定義されたことによって、ラーメンのスープは、和風だしではいけないことになった。この和風だしというもの、日本人にとっては黄金で、毎日食べても飽きない、特別な性質をもったものなのだと思うのだが、ラーメンが、この和風だしを禁じ手にされたことで、「正解がない世界」が生み出されたのじゃないかと思うのだ。
物事、たとえば水はかならず低いところへ流れていくように、「これが正解だ、これが一番うまい」というものがあれば、初めはいろんな種類があったとしても、最終的にはそこに集まり、収束していくだろう。そうなるとあとは、うまいかまずいか、という違いだけが残ることになる。ところがラーメンの場合、「これが正解」である和風だしを禁じられているから、極端にいえば「何でもあり」ということになっている。ただ自由度が大きいというだけじゃなく、この正解が存在しないことによる何でもあり状態が、ラーメンのこれだけたくさんの種類を生み出し、それがそれぞれ支持されているということを、大きく後押ししているのじゃないかと思うのだな。
こんな食べ物、ほかにあるのかな。「無国籍料理」というのも、やはり否定形で定義される料理で、30年前ほどちょっと流行ったと思うが、けっきょくはタイなりインドネシアなり、その国々の料理がやはりうまいということで、エスニック料理に吸収されてしまったと思うし。「創作料理」というのも、やはり「これまでの和食ではなく」という意味で、否定形に近いと思うが、これもやはり、創作料理を作るためには、けっきょく和食の心得がきちんとないと、うまいものはできないということになっていると思う。否定形による自由度と、その帰結としての正解のない世界というものの、両方を獲得したものは、ラーメンくらいのものじゃないかと思うのだよな。
2010-09-24
東京でよくあるラーメン。「麺屋武蔵二天」
麺が無料で大盛りにできるようになっている。
こってりとした肉のだしに、かなり強い魚介だし、それに魚粉。
トッピングは、まずチャーシュではなく、角煮。
スープに合わせて、しっかり味がつけられている。
それにメンマ、白ネギ、焼き海苔。
全体としてバランスもよく、うまいかまずいかと言えば、うまいのだが、この手のラーメン、東京ではほんとに多いよな。
各部がいちいちと強調され、元々のラーメンをデフォルメした、マンガのような感じがして、解りやすいというのは認めるのだが、どうも僕には、陰影がなさすぎて、おもしろさを感じないのだよな。
しかし刺激に麻痺した東京人、ラーメンも、もうこういうものでないと、認識できないということなのか。
ようわからん。
2010-09-23
仙台 「中華そば 富士屋」
看板にいきなり、「麺の固めの注文は、お断りします」みたいなことが書いてあって、どういうことだろうかと、ちょっと思いながら入店。
カウンターと、テーブル3卓くらいの、ラーメン屋としては標準的な広さの店。
平日の7時すぎ、並ぶのかと思ったら、意外にまったく、それほど混んでいなかった。
ラーメンにはビールはつきもので、ビールあってこそのラーメンだとすら、僕は思ったりするのだが、ここは基本的にラーメン系のみのメニューで、つまみなどは一切置いていない。
ラーメンは、中華そば、ワンタンメン、それにチャーシューと麺が大盛りになるというのと、あとは冷やし中華。
ちょっと迷ったが、クチコミで評判の良さそうだった、ワンタンメンを注文。
うす味のスープ。
仙台ではラーメンはやはり、スープはうす味というのが定番なのかな。
僕がこれまで食べた、「味よし」、「北○」は、魚介のだしが入っていたが、ここは豚骨と鶏がらのみ。
うす味だが、コクはしっかりあって、かなりうまい。
これは、スパゲティーでいうならアルデンテ、生煮えにならず、火が通ったギリギリのところで、湯からあげているのだ。
これ以上固くするということは、火が通っていないまま、湯からあげるということになってしまい、まったくあり得ないということなのだな。
実際マスター、この店の店主は、大将よりは、マスターと呼びたくなるような感じの人で、接客については、やわらかすぎるのじゃないかと思うくらい、愛想のいい人なのだが、麺をゆでているときには、一転して真剣な顔つきになり、鍋を何度もかきまぜたり、手でかたさを調べたりして、細心の注意を払っているということが、ひしひしと伝わってくる。
感性の、かなり鋭いタイプの人なのだな。
ねっとりとした、味の濃いワンタン。
ワンタンメンは初めて食べたが、このワンタンは、たしかにうまいな。
もっそりした、スープに合わせてうすく味がつけられたチャーシュー、やわらかく、やはりうす味のメンマ、ゆで卵、白ネギ、それにナルト。
全体として、完成度が高く、とてもおいしいのだが、僕はまだ、仙台のラーメンというものについて、どうもイマイチ、しっくりと把握できていないのだな。
なぜこうやって、うす味なのか、東北は料理は一般に、醤油味が濃いと聞くわけだが、なぜラーメンはそうではないのか、その心が読みとれないところがある。
京都は、一般にはうす味文化と思われていたりするのに、逆に老舗のラーメンは、しっかりと醤油の味が付けられていたりして、それが京都の料理というものの、奥深さを感じさせるものだったりするわけだしな。
ほんとはまだ何軒か、仙台でラーメン、食べてみたいところだけれど、今回はこれで、仙台を離れることとなった。
中華そば 富士屋 (ラーメン / 広瀬通駅、勾当台公園駅、あおば通駅)
夜総合点★★★★☆ 4.0
2010-09-21
仙台 「北○(きたまる)ラーメン」
日曜はいつも、中休みなしで営業するから、そのくらいの時間には終わってしまうのだそうだ。
人気のほどがわかるな。
というわけで、二度目の訪問。
もちろん今日は、ちゃんと開いていた。
6時半ごろ来たのだが、同じころに50代という感じのサラリーマンが何人か入ってきて、メニューには書いていない焼酎をたのみ、そのうち何も言わないのに、鯖の味噌煮が出てきたりしていた。
常連さん向けには、居酒屋的な裏メニューがあるのだな。
たしかに店は、たぶんもともと居酒屋だった場所に、居抜きで入ったのだろうという雰囲気、一杯飲んでラーメンを食べるというのには、うってつけだ。
このメンマ、うす味でやわらかく炊き上げられていて、なかなかうまい。
メニューには「中華そば」と書いてあったな。
650円。
なるほど、あっさりしたうす味だが、かなり強く、魚介だしの風味がする。
肉よりも、あくまで魚介がメイン、肉のだしは、それを支えるような位置づけになっている。
深みのある味がする。
それにうす味でやわらかめに炊かれたチャーシュー、左に同じくのメンマ、ゆで卵、白ネギ、それと海苔のトッピング。
おととい食べた、「味よし」のラーメンも、これと似たような感じだったから、これが仙台のラーメンの、ひとつの型なのだろうな。
肉と魚介のだしを合わせる、ダブルスープのラーメンもいろいろあるが、あっさりしていて、しかもここまで、魚介が前面に出ているというのは、僕はほかには、鳥取で食べたことがあるだけだな。
やはり魚がうまいところは、ラーメンもこういう風になる、ということなのだろうな。
北○ (ラーメン / 勾当台公園駅、広瀬通駅、あおば通駅)
夜総合点★★★★☆ 4.0
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