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2008-06-30

お好み村2F 八昌



八昌は言わずと知れた広島の最強店。それでここは、その支店の一つである。

お好み村は、ビルの2階から4階までが全部お好み焼き屋になっていて、27店舗入っている。観光客もよく訪れる広島の名所の一つだが、どうなのだろう、これまで3店に行ってみたのだが、どこもイマイチあまりおいしくなかった。もしかしたら観光客が多いので、味が進化しないのかも、という疑いを持っているのだが、もう何軒かは行ってみたいと思っている。

八昌は二階のいちばん手前、わりといい所に入っている。目に物見せてもらいたいと思って行ったのだが、期待が裏切られることはなかった。



肉玉そば、735円。薬研堀の本店はたしか780円くらいだったから、お好み村の相場に合わせて、ちょっと安くしているのだろう。
お好み焼きは、作り方はみな一緒みたいなもので、何が違うとも思えないのだが、うまい所はうまい。まずい所はまずい。差がわりとはっきり出るのである。
八昌は一つには、材料の一つひとつが違うのかな、と思う。
店の壁には、「キャベツは自然栽培をした、特別なものを使っています」というポスターが貼ってある。何かの雑誌で見たら、生地の小麦粉も違うらしい。またこちらはそうではなかったが、薬研堀の本店では、卵が必ず黄身が二つ入っているものを使っていた。
入っている材料の種類が少なくて、しかも皆同じものを使うのだから、男性の背広姿が、ズボンにきちんと折り目が入っているかとか、ワイシャツがパリッと白いかとか、ネクタイの柄とか、小さな違いが、全体としてかっこいい、かっこ悪いを大きく左右するように、素材のちょっとした違いが、味を大きく左右するのかもしれない。

また何と言っても八昌は、作るのに時間をかける。今回も焼き始めてから出てくるまで、20分近くかかっていた。
何にそんなに時間がかかるのかと言えば、キャベツともやしをゆっくり蒸し焼きにするためである。
また本店はそうでなかったが、こちらは焼きそばも、かなり長く焼いていた。
そうすることで、キャベツともやしは甘く柔らかくなり、焼きそばはパリッとし、何とも幸せを感じるコントラストが生まれるのである。

時間をかけるというのは、誰でもできる簡単そうなことだが、商売でやろうとすると、お客の回転率は下がるし、お客を待たせるということそのものが、どちらかと言えばマイナスなことだし、度胸の問題として、なかなかできることではない。
しかしそれを曲げない頑固さが、最強店の評価の理由なのだと思う。

八昌 (はちあきら)
082-247-4820
広島県広島市中区新天地5-13

追記:

お好み焼き食べ歩きの先輩、広島在住のブロガー、ハルさんから、この記事について下のメールをもらいました。
なんとお好み村の八昌と、薬研堀の八昌は、何の関係もないとのこと。
のれん分けしたのでもないらしい。たらー。
まぁでも、お好み村も、おいしかったのは間違いありません。
でももちろん、薬研堀の方が、数段おいしいですけど。あせあせ。
ハルさんのブログも覗いてみてくださいね。

ハルさんからのメール:ここから----------

こんちわ、はじめまして。
「広島じゃけぇ」というお好み焼きブログ(http://okonomiyaki.blog.drecom.jp/)を書いている、ハルと申します。
高野さんのブログ、いつも楽しく拝見させていただいております。


で、今回「八昌」の記事を読ませていただき、余計なお世話かとも思いましたがメールさせていただきました。

実は、薬研掘の八昌とお好み村の八昌、何の関係も無いのだそうです。(笑
薬研掘の八昌の直接の関係店は、「薬研掘 八昌」と「五日市 八昌」だけとのこと。
お好み村の八昌は薬研掘八昌の大将がお好み村を出た後、次に入った方がそのまま名前を勝手に引き継いだんだとか。
ひどい話ですよねぇ。
まぁ、美味いお好みを食えるなら、名前なんか関係ないのですがね。(^^
八昌の関係図的な話は、詳しくは↓に書いてあります。
http://hamanet.jp/kaishoku/detail.aspx?txtKshopcd=743
参考までに。

お気を悪くしないでくださいね。
お好み焼き好き同士、仲間という感じでお願いします。(笑

これからも参考にさせていただきますので、ばんばんお好み焼きを食べ続けてくださいね。(^^

ここまで----------

『「近代の超克」とは何か』 子安宣邦著  

近代とは、現代の社会や知識のあり方を基礎づけている、基本的な型のようなものに対する呼び名である。
ヨーロッパにおいて、それまではカトリック教会が社会および知識の中心だったものが、16世紀以降、軍隊により確保される国境の中で、ローマ教会とは切り離れて、それぞれが独自の統治を行う近代国家が形成されていく。
また知識の面では、真理はキリストの教えの中にあったものが、ニュートンの万有引力の法則の発見を出発点とし、ダーウィンの進化論を経ながら、科学の成立をもって完成を見る、キリスト教とは切り離れた真理探究のあり方が見出されていく。

日本に近代がもたらされたのは、アメリカからペリーが来航し、圧倒的な武力を背景に開国を迫ったところから始まる。日本は植民地化の恐怖におびえ、明治維新を行い、そこから猛烈な勢いで、近代化を達成していく。
日清、日露、第一次世界大戦を経、日本は列強の仲間入りをする。朝鮮半島、中国大陸への侵略を開始し、日中戦争を経て、太平洋戦争へと突入していく。
「近代の超克」とは、太平洋戦争の開戦にあたり、知識人たちより発せられ、そして日本人の大多数が感動をもって受け入れた、思想的な表現であった。

近代が21世紀の今、大きな壁に突き当たっているということは、たぶん多くの人が感じているだろう。
とくに冷戦後、資本主義は暴走し、拝金主義が蔓延し、格差は広がり、環境は破壊されていく。
このままではいけない、何とかしなければいけないと思っても、どちらにどのように進んでいったらよいのか、定かではない。座して待てば破滅すると予感しても、それを誰も止められない。
しかし止めなければいけないのだ。近代を含みこみながら、さらに大きな展望を見渡せるような、新たな土台を見つけ出さなければいけない。

しかし日本人がそのように考えたのは、今が初めてではなかったのだ。
大正から昭和にかけての時代、日本は列強の仲間入りをしたはずなのに、英米中心の世界は依然として変わらない。
政治は堕落し、社会は退廃していく。
その状況を変革しようと、青年将校が革命行動を起こし、また軍は暴走して、中国への侵略を勝手に開始する。
政府も国民もそれを止めることができない。重苦しい空気が社会を覆っていた。

そして昭和16年、日中戦争はついに英米との戦争へと発展し、太平洋戦争が開戦する。
そのとき言われたことが、これは近代を超克するための戦争なのだ、英米中心の世界秩序から脱し、東アジアを中心とした新しい秩序を打ち立てるための聖戦なのだ、ということだったのだ。
それに対して多くの知識人も国民も、それまで覆っていた霧がすっと晴れ、喝采をし、自分たち日本人こそが、世界の歴史を大きく変える主役なのだと本気で信じ、戦争に向かっていったのである。

著者はこの太平洋戦争開戦前後、そして終戦後の知識人たちの発言を、様々な資料に当たりながら丹念に掘り起こしていく。
近代の超克という思想は、単なる戦時の逸脱なのか、それとも今につながる何らかの真実を含んだものなのか。
敗戦によってこの時代の思想の流れは途切れてしまっている。しかしそこに見るべきものはなかったのか。

そして明らかにされ、主張されていくことは、近代というものをただ輸入した借り物としてではなく、それをどう私たち日本人が租借し、その結果として新たな世界観を見つけるのかということ、その必要性は今も変わらず、いやむしろ今はあの時以上に強まっているということ。
それではあの時、何が間違いだったのか。
それは、自分たち日本もすでに近代の中にいるにもかかわらず、それをぽっかりと忘れ、近代を自分たちの外側、英米にあるとし、それと戦うことによって、近代を超克できると思ったことであった。
また同時に、東アジアの新秩序、東亜共栄圏と言いながら、朝鮮半島や中国大陸に対して武力による侵略という、近代の帝国主義のやり方そのままのことを行い、しかもそれにまったく無自覚であった。
近代を超克するという、その志や良し、しかしそのやり方は相も変わらず、近代そのものだったということなのである。

これはまったく難しい課題である。
変革しようとする、そのものの中に、自分自身が含まれていなければならない。
また目的と手段を分離し、目的のためには手段を選ばず、ということこそ、今の悲劇の大半を生み出している、近代の考え方の象徴であり、そうではなく、手段そのもの、どのようにそれが達成していくのかという過程そのものが重視されていくことが必要である。

しかしそれは、本当にその通りなのだと思う。
この本の最終章、思わず嗚咽し、涙が止まらなくなってしまった。
それはぼく自身が課題であると思っていること、それを同じように課題と捉える人生の先輩が、ここにいた、ということを見つけた喜びだったと思う。

退治しようとしている相手は、自分も含めた世の中のすべてを構築しているもの、その根底に位置するものなのだ。
どれだけのことができるかは分からないが、避けて通ることはできないのだと思う。



2008-06-29

上海亭 己斐店



一人暮らしをしていると、おいしくて安い中華料理屋は、必須である。
蒲田にいるときは、ほとんど中国人街みたいなものだったので、中国人の経営するおいしい店が山ほどあった。
名古屋のときは、近くにいいのがなくて、ちょっと苦労した。

食べるのは、ほとんどレバニラ炒め。
名古屋にいるとき、どうにもこうにも疲れが取れなくなり、ジムに行って運動しても、サウナに入っても、マッサージしても、たっぷり寝ても、一向に効かなかった。ところが何かの拍子でどっさりニラの入ったキムチチゲを作って食べたら、一晩で嘘のように疲れが取れた。それ以来名古屋では自炊するようになった。

広島に来ても、ちょこっと自炊はする。でも要はニラを食べればよいので、凝ったものは作らない。ニラ入りのインスタントラーメンか、焼きそば。週に一把は、必ず食べるようにしている。

しかしまぁ、自炊するとは言っても、近くに栄養補給の基地があるのはありがたい。幸い今住んでいる場所には、家からチャリで二分くらいの所にこの店がある。



ニラレバ定食。735円。
なぜかメニューには、ニラレバ炒めがない。ほうれん草とレバーの炒めになっている。まぁそれでも悪くはないのだが、言うとほうれん草をニラに替えてくれる。

中国人の夫婦でやっているようだ。やはり中国料理は、中国人の作るものがおいしいと思う。本当はぼくは、カキとかの魚介系や、内臓系のものが好きなのだが、そこまではここでやっていないみたいだ。奥さんは明るく、ご主人は真面目そう。セットメニューも色々あって、いい店だと思う。

上海亭 己斐店
広島市西区己斐本町1丁目20-10
082-272-5919

広島ブログ

2008-06-28

西広島 ごはんや ももの木



西広島駅ロータリーを出て、橋のちょっと手前。パチンコ屋のサービスとして、パチンコ屋の一角を使って営業しているらしいが、まったく関係なく表から入ることもできる。
とんかつ、ハンバーグ、焼き魚、フライなどの定食、カレー、うどん、などなど、おうちでたべる普通のごはんを、ていねいに作って出してくれる。
上のトントロ豚キムチ定食は800円。日替わりサービスに当たっていたので、コーヒーつき。
ライスは一杯までお代わりできる。
デザートにメロンまでついているところが、泣かせる。
生ビールセットというのもあって、生ビール二杯と、おつまみ二品で1,200円。

店内は上品でラブリー。女性二人でやっているが、たぶん母娘だろう。二人ともたいそうなべっぴんさん。
カウンターが6席くらいと、テーブル席が2つ、という感じだが、カウンターの丈がけっこう高くて、その上にいろいろ物が載っていて、二人ともさらにその奥にいるので、気軽に話しかけるという雰囲気ではない。
小さな張り紙がいろいろしてあって、灰皿ご自由にどうぞ、ご飯は一杯までお代わりできます、昼食時の長居はご遠慮ください、などなど、それを読むとひと通り用も足りるようになっている。
このあたりは普通の住宅街だから、ああいう普通のご飯を食べるのは、単身赴任のお父さんなど一人寂しい男性だろう。家に遅く帰り、愛する奥さんと娘は二人でテレビでも見ているところ、離れた食卓で一人黙々と食事をするという自分の家庭の状況を、単身赴任先で懐かしみながら味わうことができるという、なかなかおつな店であると言えるだろう。

ごはんや ももの木

広島ブログ

西広島 てっぱん家



JR西広島駅からすぐの好立地。チェーン店の二店目らしい。お好み焼きだけでなく、鉄板料理全般を食べさせる店。夜だけの営業だが、給料後の金曜日、サラリーマンなどで満員だった。

肉玉そばを注文。



調味料は一切使わない。生地を丸くのばした後にふりかけるかつお節の粉と、最後にふりかける青のりだけ。
調味料を使わないということは、キャベツともやしの味をどれだけ引き出せるかが勝負になる。八昌胡桃屋では、ひたすら時間をかけるという作戦なのだが、食べ歩くうちに流派がもう一つあることが分かってきた。ふたを載せる、と、押しつぶす、だ。時間を節約しながら味を引き出すやり方だろう。てっぱん家ではこちらを採用していた。

味はそれなりにおいしかった。

ただ値段が高い。780円。この地域なら650円が限度だろう。

それから鉄板が汚い。焦げの跡が残っていたり、使っていない部分がきれいにされていなかったりする。

あと店長とおぼしき人が、若い店員にぶちぶち説教しているのが、こちらまで聞こえてくる。そのわりには店長は仕事をせずに、水をくれと言ったら、目の前にいて何もしていないのに、お好み焼きを焼いている最中の忙しそうにしている店員に、わざわざやらせていた。

考えたほうがいいかもねー。

てっぱん家 西広島店

広島ブログ

2008-06-27

お好み焼きは愛情

と、下で書いたのだが、広島風お好み焼きの味を決める決定的な要因は、味の素を使うか、使わないか、だと思う。

味の素は、味が足りないから入れるわけだが、なぜ味が足りないかといえば、時間をかけないからだ。キャベツともやし、この二つのうまみを引き出せるか出せないか、ということだ。

カレーを作るとき、たまねぎは弱火でじっくり炒める。飴色にするためには、驚くほど時間がかかる。しかし丁寧に時間をかけさえすれば、誰でも同じ結果を得ることができる。
もやしとキャベツも同じなのだ。時間をかければおいしくなる。

しかしお好み焼き屋も商売でやっている以上、お客の回転率を上げなければならない。そこで葛藤が生まれる。

味の素を使うということは、本当の意味でのおいしさを諦めているということだ。
味の素を使わないということは、難しいながらも、本当のおいしさを追求するということの決意表明である。

中華料理屋も、味の素をよく使う。しかしこれは、中国人の堕落した姿だ。
もやしはあまり強くない火で10分くらい炒めると、本当においしくなる。しかしそれでは商売にならない。だから強火で炒める代わりに味の素を入れることで、2分で済ますのだ。

今日行ったお好み村の店でも、味の素を、ざー、というほどかけていた。
何も知らない観光客が、食い物にされているのだ。

2008-06-26

お好み焼きの不思議

広島風お好み焼き。ほんとに不思議な食べ物だ。
簡単そうで、難しい。難しそうで、簡単。
都市部のお好み焼きは、おいしいものとそうでないものが、はっきり分かれる。
あんな簡単そうなものなのに、はっきり違うのだ。
しかし焼き物、炒め物は、スープものにくらべて、微妙な火加減や味付けの加減が、水がない分、味を大きく左右するだろう。また商売のために個数を作らなければいけないということと、おいしく作るためには時間がかかるということの間のバランスも難しい。

地域のお好み焼きも、おいしい所とまずい所が分かれるが、都市部の基準とはまた全く違う。
値段をいくらに設定するのか。都市部は700円から800円。地域は550円から650円。安い所は頑張ってくれてるな、と思う。
しかしもちろん値段だけではない。
ネギをどさっと載せてくれるとか、ご飯と味噌汁をつけてくれるとか、唐辛子やこしょうなど、調味料を並べてくれるとか、それだけで嬉しさが違う。また来ようと思う。そういうとき、実際おいしく感じる。

ミスター・チルドレンの歌で、ほんとに好きな一節があって、
愛情っていう形のないもの、伝えるのはいつも困難だね・・・。
広島風お好み焼きのうまさ、まずさというものは、極言すれば、まさにそれに尽きるのだと思う。

今日のお好み焼き

新天地のお好み村に、三度目の挑戦。
前回二回は、どちらもイマイチだった。
お好み村はお客が入っている店と入っていない店と、極端に分かれる。当然入っている店を選んで行くのだが、前回はそのときたまたま団体客が入っていただけで、それが出たらあとはガラガラ。
初回は味というより、客引きのうまさで店を埋めているような所だった。
お好み村の二階には八昌も入っていて、そこに行こうと思っていたのだけれど、午後二時の段階でやっていなかった。本店も四時からの営業なので、こちらもそうなのかどうか。
そこで四階から二階までひと通りまわり、慎重に品定めをして、二階のいちばん奥の店に入った。

しかし、今日も敗退。
入っていた客は、一組は四人組の台湾からの観光客。もう一組も四人組だったが、こちらも初めて来たみたいだった。
じいさんが作り、お手伝いにおばさん。わりと丁寧に丸く作っていたので、いいかなと思ったのだが、麺が生ゆで。まぁでも麺は硬めが好きなのでそれはいいかなと思ったが、もやしが生くさい味がする。味の素も大量。
ごめんなさい、という感じでした。

お好み村というのは、観光客がたくさん来るのだと思う。一つのビルにお好み焼き屋ばかりがひしめき合っている様子は、なかなか見ものだから。
だから味が進化しないのだろう。
それにもともと、新天地で屋台を営業していたお好み焼き屋の中で、独立できなかった店だけがお好み村に入ったとも聞く。
まぁそんなものなのかもしれない。

『鄧小平秘録 上・下』 伊藤正著

中国といえば聞こえてくるのは、毒入りギョウザやら、野菜の農薬やら、うなぎも危ないらしいとか、四川の地震は本当の被害の様子が海外に伝わらないようにしているとか、環境汚染がひどいらしいとか、政治的に自由がなく、Webの検索エンジンでも都合の悪いことは検索されないようにしているとか、拝金主義が蔓延して、官僚の腐敗もすごいらしいとか、耳を疑うようなことばかりである。経済は急速に成長し、今年はオリンピックも開催されるが、実態はひどいらしい。共産主義と社会主義の違いもよく分からないぼくなのだが、中国が実際どうなっているのか、勉強してみたいと思い、週刊文春で立花隆も推薦していたこの本を買ってみた。

著者は元共同通信北京支局長、長く中国にいて、論説委員長などを歴任、産経新聞にうつり、現在は中国総局長兼論説委員。中国についてのエキスパートだろう。
この本は2007年の2月から7月まで、産経新聞に連載された記事をまとめたもの。単行本だけで800冊と書いてあったが、膨大な資料、しかもほとんどはもちろん中国語、を読み込みまとめた労作だ。
中国というと好きと嫌いにはっきり分かれるところがあるような気がするが、この本はわりと中立的な立場で書かれているのではないかと思う。

下巻の最後に、これはアメリカに住む中国人の何清漣という人が中国の今を書いているのだが、これがほんとにすごい。中国政府はすでに徹底した「盗賊型政権」になってしまっているという。
儲けの大きな業種、たとえば鉱産物の採掘などの許可証は、たちまち役人が私利をはかる手段となる。そのために鉱山の事故によって死傷する労働者の数は世界最悪、たとえば中国は石炭の生産量は世界の35%だが、炭鉱事故の死亡者数は世界の80%、毎日15人が死に、これは南アフリカの30倍、アメリカの100倍。

土地の取引においての不正もはげしく、政府は権力を盾に低価格で庶民から土地を譲渡させ、高価格で不動産デベロッパーに売り、暴利を得ている。この10年で6千万人の農民が土地を失い、400万人の都市住民が自宅を追われた。
住民を立ち退きさせるため、地方政府がマフィアを雇い、立ち退きに反対する者にたいして暴力を加えている。

国有企業の私有化においても、改革の機を借りて国有資産を横領、着服、私物化しており、1万407名が処罰された。90年代以降、国有資産は一日平均1億3000万元以上、じつに20億円が流出している。

このように特権階級が私腹を肥やすことに熱中したことで、貧富の格差ははげしく広がり、中国では総世帯数の0.4%が総資産の70%を保有している。先進国では5%が50~60%を保有するのが標準。
2億人の農民は、仕事も農地もなく、行くあてもない。

医療保険に加入しているのは、都市では人口の20%未満、農村だと10%未満。医療費総額にたいする政府の支出は、17.5%。これは先進国では普通、73%くらい、発展途上国でも57~59.5%。

高等教育にかかるお金は、国際的な基準では一人あたり平均GDPの20%のところ、中国では70~100%。

大気と水の汚染による損失額は、GDPの8%、環境汚染と生態系破壊による損失額は、GDPの15%に達し、1億8000万人が環境破壊難民となっている。
長江保護5千キロ調査活動で、長江水系はかなりの危機に陥っており、早急に対策を講じなければ、10年位以内に生態系は崩壊の危機に瀕するだろうと指摘。

いやいやいや、なんともすごい。完全にめちゃくちゃである。これが、鄧小平が経済改革を行ったこの20年のあいだに起こっていることなのである。

鄧小平は三回失脚して、三回とも復活した。中国には選挙がない。共産主義とはそういうことなのだろう。もともとは毛沢東が革命を主導し、農民や労働者を蜂起させ、政権をにぎった。中国共産党は独裁政治をおこない、毛沢東の権威は絶対となった。
プロレタリア独裁というそうだが、労働者階級の代表である共産党が独裁政治を行うのだから、形式的に選挙はあるが、けっきょくは資本家によって支配される民主主義より、よほど民主的だ、ということだそうだ。
選挙がないから、すべての人事は、毛沢東の意向にそって決められる。周りの人間は、毛の意向を左右しようと、壮絶な権力闘争を展開する。この本にはその様子が詳しく書いてある。読んでいて正直気持ち悪くなる。

鄧小平が三度目に復活したとき、毛沢東は亡くなっていた。当時の火急の課題は、経済の建て直しだった。三度目に失脚して鄧が飛ばされた先の村には、家にラジオすらなかったそうだ。
共産主義は、資本家が悪の根源だと考えるわけなので、資本の個人所有を認めない。しかし働いてもそれが自分の稼ぎにならないとなると、労働者や農民はやる気が出ない。そこで初めは経済特区という場所を決め、そこでは資本の個人所有を認め、自由に経済活動をさせるというようにした。そしてそれを徐々に広げて、今は中国全体でそうなっているのだと思う。
また海外からの資本を積極的に受け入れ、技術を導入し、経済成長を加速させるようにした。
鄧はそうしてまず一部の人たちが豊かになり、そのあと、その人たちの主導によって全体が豊かになっていく、そういう道筋を思い描いた。しかし実際はそうはならなかった。経済格差はほとんど極限にまで達してしまっている。

その理由ははっきりしている。鄧は経済改革はおこなったが、政治を改革し、中国を民主化することは頑として拒み、共産党の独裁政治を堅持したからだ。

民主化の契機はあった。それが天安門事件だった。学生を中心として労働者や知識階級まで加わって、中国の民主化を求めた。当時の総書記であった趙紫陽もその動きに理解をしめした。しかし鄧小平はそれを、戦車によって弾圧した。趙紫陽は失脚した。数百人が死亡した。

歴史にもしはない、というが、もしあのとき、鄧小平が民主化にむけ一歩を踏み出すことができたら、事態は違ったのだろう。実際台湾では、もともと蒋介石の国民党が一党独裁をしていたが、李登輝が政党の結成を自由化し、民進党ができ、総裁も選挙で選ぶように改革した。おかげで台湾は経済成長が進むとともに、国民の生活も豊かになってきている。

天安門事件の当時、ちょうどソ連の崩壊があった。東欧の自由化もあった。共産党はなくなり、独裁者が死刑になったりもした。失脚のつらさを骨身にしみて知っている鄧小平は、恐ろしくて、どうしても一歩を踏み出せなかったのだろう。

独裁政治とは何かといえば、自分はソファにどっかりと腰をおろし、その自分が常に安定した状態になるように、まわりを動かすことなのだと思う。自分自身の内側にのみ世界が存在すると仮定し、その内側の世界がつねに心地よい状態に保たれるよう、調整する。
鄧小平が最後までその心地よさを手放さなかったため、中国の役人はみな、同じように、国のためではなく、自分のために行動するようになってしまったのだろう。

中国はこれからどうなるのだろう。国民の不満は、頂点に達しようとしているのだろう。オリンピックはそれを少しでも収めることができるのだろうか。
万一中国が破綻するようなことがあれば、日本や世界にたいする影響は計り知れない。恐ろしい時代になったものだ。

 

2008-06-25

呉行 こぼれ話

潜水艦の食事。



飛行機の機内食を想像するところだけれど、全然いい。
そういえば調理室、どうなっているのか確認してこなかった。
でもまさか、潜水艦の調理場でとんかつ揚げないでしょうね。冷凍したやつを、艦内でチンするんでしょう。

大和ミュージアムには戦艦の主砲とか、スクリューとか、



あと錨とか、



そういうものが屋外の正面、いちばん目立つところに展示してあるのだけれど、戦艦大和のものではなくて、ぜんぶ戦艦陸奥のものなのです。



戦艦大和の錨も、海底から引き揚げられたのでしょうか、残っているのですが、



中央公園という場所にあるのです。
大和ミュージアムとしては、のどから手が出るほど欲しかったでしょうね。でも中央公園のOKが出なかったのでしょう。
残念。

呉お好み焼き事情。



ぼてじゅ。



お好み焼きだけでなく、鉄板焼きに、とんかつまで。

あと他にほんとに小さなぼろい店を2、3軒見かけました。
今日行ったお好み焼き屋で聞いたら、広島風のお好み焼き屋は福山にもあるし、呉にもあるはずだ、と言っていましたが、広島の気合はまったく感じられません。
ラーメン屋は大量に見かけたので、呉は広島とは別の食文化圏なのだと思います。

洋食屋。



建物はわりに新しい感じだけれど、じつは歴史があるのかも。



カツ丼を食べた店にかかっていた写真。
明治45年、ビアガーデンもあったとのこと。
海軍の兵隊相手の店が、たくさんあっただろう。華やかな街だったのだろうなと想像する。

呉の駅ビル。



CREST、呉のステーション、という意味だと思うが、どうでしょう、洒落てる?それともベタすぎ?
ぼくはぎりぎり微妙なところで、微笑ましいなと思いました。

西広島 いもやいも吉



家からいちばん近くにあるお好み焼き屋なのだが、店構えがうす汚いし、中も見えないから、怖くて入ったことがなかったのだ。検索したらブログが出てきて、悪くなさそうだったから行ってみた。
入ってみたら、古い店だがきちんと片付き、掃除も行き届いている。おやじさんが一人でやっているが、無愛想ではなく、うるさくもない。

お好み焼き定食600円を注文してみた(そばは途中で追加した。50円)。



ご飯と味噌汁がついてくる。味の目先も変わるし、お腹もふくれるし、いい考えだと思った。
でも今まで見たことがないし、聞くと他ではやっていないだろうとのこと。やればいいのに、不思議だな。
ソースをブレンドして使っているのだが、オタフクソースは高いし、味がちょっときついから、とのこと。実際おいしかった。

ちょっと見っけもんをした感じ。また行こう。近いし。

いもやいも吉
広島県広島市西区己斐本町2丁目13-28
082-271-0303

広島風お好み焼きについて

広島風のお好み焼きが、なぜああいう形なのか?
鉄板に生地を丸く敷いて、その上にかつお節やら桜えびやらネギやらをぱらぱらと降りかけるものだった一銭洋食から、キャベツや肉や卵や、さらにはそばまでが加わっていく過程で、関西風お好み焼きが生地に具を混ぜ込んで焼くという、韓国などでも見かける、わりとよくあるやり方で対処したのにたいして、なぜ広島では上へ上へと積み上げる、あまりほかでは見たことのないやり方を選んだのか。その発想はどこからきたものなのか。なぜそれを広島の人たちが支持したのか。
前にそれは、かつての敵国アメリカと、今度は仲良くやらなければいけないという状況の中で、アメリカの食べ物であるハンバーガーやサンドイッチを無意識に真似たものではないかと書いた
しかし昨日呉に行って、考えが変わった。

江田島の海軍兵学校の案内をしてくれた元自衛官のおじさんが、ちょっとした冗談を言っていたのだが、ここにある松の木は、松というのは普通くねくね曲がっているものだが、まっすぐに立っている。毎日毎日教官が生徒たちに、気をつけ、と号令をかけるものだから、松までまっすぐになってしまったのだ、ということだった。
日本の軍隊では、まっすぐなことが大事なのだろう。日本に限らず軍隊というものは、そういうことを求められるのかもしれない。特攻服を着た暴走族が信号を無視して交差点を走り抜けていくのも、そういうまっすぐな感じを曲解した結果だと思えなくもない。

広島は軍都であった。終戦後、平和都市としての歩みを始めてからも、そのDNAは変わらずに人々の間に息づいていたに違いない。
広島風お好み焼きにも、そのことが反映しているのかもしれない、と思ったのである。

お好み焼きの具を増やしていくというとき、それまでの一銭洋食には存在しなかった課題が生まれただろう。ひっくり返さないといけないのだ。色々な具が入って分厚くなるわけだから、そうでないと火が通らない。
そう考えると、生地に具を混ぜ込む関西風のほうが、圧倒的にやりやすいだろう。上に積み上げていってしまうと、ひっくり返すとき、ばらばらとこぼれてしまう。しかしたぶん、広島の人は、混ぜ込むということを良しとしなかったのだ。

お好み焼きというのは、あくまで鉄板に丸く敷いた生地の上に具を載せるものであって、それを生地に混ぜ込んでしまうなどというのは、お好み焼きじゃないんじゃないのか。
そうじゃなく、作るのがどんなに大変になっても、お好み焼きである以上、あくまで上に載せていく、それが日本人の生き方というものなんじゃないのか。
そんな風に考えたのじゃないかという気がする。

昭和20年に終戦、終戦後10年くらいは、お好み焼きは空腹をおさえる手頃な食べ物という域を出なかったらしい。それが昭和30年代に入って、大きく発展していったそうだ(参考)。
戦後の復興がとりあえずひと段落し、日米安保条約が締結され、自衛隊として軍も復活し、これからの日本の未来に、また希望が見え始めた時代だろう。
そういう時、無理を承知で日本人の生き方をまっすぐに貫いた広島風のお好み焼きが、軍都広島の人たちの心をとらえた、ということではなかったのかと思うのである。

2008-06-24

海軍の街 呉

広島は終戦まで軍事都市だったが、今はその痕跡は、あまり残っていない。戦後、平和都市へと大きく舵を切ったので、そちらは忘れたい過去なのかもしれない。でも広島には軍都のDNAを感じるな、どうにかしてそれをもっと知ることはできないものかと思っていたところに、隣のはあの戦艦大和はじめ多数の軍艦が建造され、軍港として栄えた帝国海軍の拠点で、今も戦艦大和の博物館があり、また呉から船でちょっと行った江田島には、旧海軍兵学校があって、中を案内してくれると聞いた。これは行かねばと、梅雨の合間、晴れの日を待って、出かけてきたのだった。

まずはウォーミングアップがてら、海上自衛隊呉史料館へ。呉の軍港だったところは、今は海上自衛隊の基地になっている。自衛隊の意義を一般に理解してもらうということが目的なのだろう、史料館が去年の4月にオープンし、本物の巨大な潜水艦が正面に展示されている。




かなり巨大で、近くから見るとけっこう迫力だ。
中の展示は、一つは潜水艦の説明だが、もう一つは機雷の除去という任務に焦点をしぼって、色々説明してある。



そのトーンが、なんというか、プロジェクトX風というか、劇画調というか、なのである。



沈黙を守り、深く静かに日本の海を守り続ける潜水艦。長い間、秘密とされてきた潜水艦の姿が今、少しずつ浮かび上がろうとしている・・・。
この類のディープなコピーが、延々と続く。
そこに、機雷の実物やら、各種兵器やら、潜水艦の模型やらが配置され、また実際に潜水艦の中も見られるようになっている。



一言でいえば、軍事オタクが喜びそうな感じなのだ。
展示の企画制作は民間の業者がやっているのだと思うが、それがちょっと悪乗りした提案をしたら、自衛隊がそれをそのまま受けてしまった、というところなのではないかと感じさせる。
すぐ隣に戦艦大和の博物館ができて人気を博したので、それに触発されたということもあるだろう。

たしかに軍事というのは、敵と見方、目的と手段、がはっきりとし、しかもその目的が人を殺すことだから、独特の陰をおびている。ゴルゴ13の世界は、まさにうってつけである。
しかしそれにしても、もう少し普通の説明ができなかったのかと思う。自衛隊って何か、感覚がずれているところがあると前々から思っているのだが、それがこういうところにも表れているのだなと思った。

さて昼食。
観光案内所で聞いたら、呉阪急ホテルの海軍カレーがおいしいと評判だとのこと。海軍の歴史を探訪する今回の目的にぴったりなので、食べてみることにした。



旧海軍のレシピをもとにシェフがアレンジした、そうなのだが、普通のおいしいカレーで、変わってるなと思ったのがポテトフライが入っていることなのだが、聞いたらこれはシェフのアレンジとのこと、海軍カレーの特徴が何なのかはよく分からなかった。

ということで、次はいよいよ本日のメインイベント、江田島の旧海軍兵学校へ。
呉からフェリーで20分、バスで5分。




広大な敷地にいくつもの洋館が立ち並ぶ。新しいものもあるが、上の白いのは大正、レンガのは明治に造られたものという。ものすごくきれいで、到底そんな昔にできたとは思えない。よほどきちんと手入れしているのだろう。

特殊潜航艇が置いてあったり、



ほかにも戦艦陸奥の主砲やら戦艦大和の砲弾やらが飾られている。
今は海上自衛隊の第一術科学校と幹部候補生学校として使われていて、教室に使われている建物からは、講義の声がした。

ひと通りを一時間ちょいくらいで案内してくれるツアーが、平日は1日3回、土日祝日は4回、組まれている。昨日も20人くらいの人がいっしょだった。
案内人は元自衛官で、退官して8年になるというおじさん。潜水艦に乗っていたそうだが、いつもにこにこしているのだが、目は笑っていない、そういう感じの人だった。

初めの説明でも、冗談を言っては笑いを取りながらも、ここは単独行動は禁止だから、一人で勝手にどこかに行こうなど、変な気を起こさないように、という言い方をする。自分が上から、見学者をまとめていない、とクレームを入れられるから、だそうだ。
一人で勝手にどこかに行かないでください、と言えば済むところを、こういう言い方になるところに、ああ、これが自衛隊なんだなと思う。

また歩きながらの雑談で、こんなことも言っていた。
海軍のころは、教室を出て3歩歩いたら、教官に殴られた。歩くのではなく、走らなければいけない。昔はそうやって教育した。今の教育は、頑張ってはいけないとか、言えば分かるとか言っているが、それはおかしい。言っても分からないやつはいるのであって、そういうやつは一発殴れば、自分がおかしいということに気づくものだ・・・。

自衛隊というのは本当は軍隊なのだけれど、日本は軍隊を持ってはいけないという建前になっているから、この間まで防衛省ではなく防衛庁だったりとかして、自衛隊の人たちから見ると、世間から不当に低い扱いを受けているという思いや、それに反発する気持ちがあるだろう。たぶんそういう屈折が澱のようにたまっていて、それが昔の日本軍や日本の軍国主義をことさらに美化してしまうということがあるのだと思う。
上の発言もその表れということも言えると思うが、もう一方で、ある真実を含んでいるようにも思い、大変考えさせられた。

軍隊とは暴力をより効果的に行使するための組織である。普通の生活では、それは戦前も同じだったと思うが、人は殺してはいけないわけだが、お国のためには、敵を殺さなければいけないのである。
実際、近代国家というものは、軍隊の存在を前提としている。100年前は、軍力により他国を侵略し、領土を広げることが国力であった。日本にしても、ペリーが来航し、開国を迫られ、そのままでいたら一方的に侵略され、独立国家ではなくなっていただろう。富国強兵に邁進し、軍備を増強したからこそ、日本という国はたもたれた。
今でもそれは変わらない。安全保障同盟とは、軍事同盟である。アメリカとの関係において必要な軍力を維持することで、日本の国家としての立場はたもたれている。

そう考えると、戦後アメリカが憲法を設定し、そこにこれからは戦争はせず、軍隊はもたない、としたことは、もう日本を国家として認めない、と言ったことと等しい。しかしそれはやはり現実離れしていたのであって、終戦から10年で自衛隊が結成され、今に至るまでその軍力は大きくなり続けている。

いま日本人は、たぶんほかの国に比べて、日本というものについてあまり考えないのではないだろうか。会社のため、とか、家族のため、とは思う。でも日本のため、という考えをする人はとても少ないのではないかと思う。いいか悪いかは別として、それは日本が軍隊と呼べるものをもっていないということと無関係ではないような気がする。

そういう現実は踏まえたうえで、でも考えたいと思うのだ。言っても分からないやつは、殴れば分かるのだろうか。

言っても分からないやつがいるということは、ぼくも知っている。ほんとに、いくら言っても分からない。身近に何人もいる。またぼく自身も、いくら言われてもとうとう分からなかった、という体験が何度もある。
人間の言語がもたらす作用は、いま一般に信じられているよりはるかに限られていて、一回言って分かるやつは分かるし、分からないやつは、何回言っても分からない。たしかにそういうものだと思う。
民主主義というのは、人間、話せば分かる、ということを前提としていると思うが、それは幻想に過ぎない。結局は多数決で、数の多いほうの意見が通るだけである。

ぼくはじつはある時期、言って分からないやつを、物理的にではないが、言葉のうえで、または組織的な賞罰をとおして、痛い目を見させることで分からせようとしたことがあった。しかしそれでは本当には分からせることはできない、というのが結論だ。その場では服従しても、心の底からは分かっていない。だから、分かりました、と言っても、また同じことを繰り返す。
教室から出たら走る、というくらい簡単なことなら、それでも効果があるかもしれない。しかしちょっと複雑なこと、たとえば相手の立場を考えろ、などというともう、痛い目を見させるだけで分からせることはできないと思う。

それではどうしたら良いのか。ぼくにも分からない。しかし、人に何かを伝えるということはそう簡単ではなく、おそらく持てるあらゆる手段をすべて動員して初めて可能なことなのであり、殴れば分かるという単純なことではないということだ。もし元自衛隊員の美化した見方としてではなく、当時の日本軍が本当にそう思っていたのだとしたら、それが戦争に負けた理由だと思う。

と色々考えることもありながら、江田島を後にし、次は大和ミュージアム



ここには戦艦大和の十分の一の模型があるということだったが、けっこうすごかった。




聞くともともとある戦艦模型の達人がいて、大和ミュージアムを作ろうという話が盛り上がってだろう、実物の十分の一という巨大模型を作りはじめたのだが、途中で死んでしまった。そこであとはミュージアムの学芸員の人たちが完成させたそうだ。けっこう細かいところまで再現されていて、今でも新しいことが分かると、作り変えるのだそうだ。この模型は最近作られた戦艦大和の映画のCGを作るための原型にも使われたそうだ。
ここにはほかにも多数の戦艦、戦闘機の模型があり、マニアにはたまらないだろう。

実物の展示も色々あって、いま世界に22機しか残っていないというゼロ戦や、



それに人間魚雷回天もあった。



人間魚雷とは本当にひどいことを考えたものだと思うが、これはもともと若い将校が考え、完成すると自らが真っ先に乗り込んで特攻していったのだという。
人間魚雷で特攻した隊員が、自分の遺書を録音したものがあって、それが実際に聞けるようになっているのだが、本当に悲しい。


(クリックすると拡大されます)

家族との楽しい思い出を懐かしんだあと、
「然し僕はこんなにも幸運な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはいけないと思うんだ」
という。
「怨敵撃つべしという至尊の詔が下され」、「我々青年は、余生の全てを捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ」
「永遠に栄あれ祖国日本」

日本のために自らの死を決意する気持ちは本当に尊いが、それを煽り立てた軍の上層部に、勝算はなかっただろう。勝てない戦ならやらないほうが良いのだが、そんなことを言おうものなら、卑怯者、非国民と、まさに殴られただろう。
しかしいくら頑張ったって、だめなものは、だめなのだ。
みなが目標にむけ、心を一つにしていく。それは集団が力を発揮するための、一つの大事なことだろう。しかしそれは一つであって、すべてではない。

日本人は、何故なのだろうか、単純なものを好む傾向があると思う。包丁一本さらしに巻いて、が、何となく格好いい気がする。
しかし知り合いの料理人が、包丁は一本だけではどうしようもない、あれはおとぎ話だ、と言っていた。
現実はおそろしく複雑であり、しかしそこに一つの単純な切り口から切り込んでいくことは、問題解決の一つの重要なやり方だと思うが、それがあくまで一つの切り口なのであり、現実は依然、化け物のように複雑なのだ、ということを忘れてしまうと、悲劇が起こるのだと思う。

大和ミュージアムには、呉の歴史を戦争の歴史と重ねながら丹念にたどっていくコーナーや、戦後の呉の産業を紹介するコーナーなど、呉の全貌が見渡せるよう配慮されているのと、子供たちが色々な科学実験を楽しめるようなコーナー、松本零士の宇宙戦艦ヤマトも登場する未来のコーナーなどもあり、全体としてマニア向けではない、バランスのとれた構成になっている。

また学芸員の人たちがとても親切で、主に若い女の子なのだが、平日であまり客もおらず暇だということもあるのだろう、話しかけてきて色々ていねいに説明してくれたり、質問したのだが、それがすぐ答えられないと、ほかの学芸員に聞いてくれたり、そのための資料を持ってきてくれたりする。大変楽しめた。

いま大和ミュージアムがある呉駅の海側は、以前は何もなかったそうだ。それを再開発しようという話になったとき、市の誰かが、戦艦大和を中心にすえた博物館を作ろうと言い出して、それを実現させたのだろう。
もともと呉は工業都市で、これといった観光資源もなかったそうだが、大和ミュージアムはかなりの人を動員し、観光の目玉になっているという。
事業として学ぶべき、一つの成功例なのだと思う。

さて最後は、やはり繁華街。



規模はそう大きくないが、歩いてみると入ってみたいなと思うような、風情のある飲食店がいくつもあった。
お好み焼き屋はとても少ない。関西風お好み焼き屋のぼてじゅがあったりしたくらいなので、もうここは広島風お好み焼き文化圏からは外れているのだろう。
広島風お好み焼きは、広島市内だけなのだろうか。

呉は映画の「仁義なき戦い」の舞台になった場所なのだが、不良もあまり見かけず、その辺の痕跡を感じることはできなかった。

夕食には、有名店の一つだという洋食屋



で、カツ丼を食べた。



ビーフカツにドミグラスソースがかかっていて、まさに洋食だ。創業者は戦艦で料理人をつとめた人だそうだ。
海軍風の肉じゃがというのがあったので、頼んでみた。



これはまったく、普通の、どこにでもある肉じゃが。
肉じゃがは海軍で、船で出す料理として考え出されたそうだが、要は海軍の肉じゃがが、そのまま日本中に広まったということなのだろう。

2008-06-23

いやいやいや



今日は呉市と江田島に行ってきた。
呉は終戦まで、帝国海軍の日本最大の拠点だったのだ。軍港であるだけでなく戦艦の造船所もあり、戦艦大和もここで造られた。
広島を知るには、日本軍を知らなければいけない、ということで、梅雨の合間、今日はお日さまが顔を出すというので、朝から出かけたのだった。
色々感じることが多かったので、また改めて、報告したいと思っている。

いま夜の十一時半。ウィスキーの水割りを五杯くらい飲んで、いい気持ちなのだ。
だいたい毎日九時になるとお酒を飲み始めて、前は飲み屋へ行くことも多かったのだが、最近はネットにつながっている。
ブログの作成画面を開き、ぽつりぽつりと文字を入力しながら、あたりめをつまみに水割りを飲む。これが思いのほか、充実した時間になるのである。

入力し終わってからが、また長い。何度も何度も読み返すのだ。読んで、ちょこっと直して、また読む。十回くらい読み返すのに、一時間くらいはかかる。自分の書いた文章なのだが、何度読んでも飽きることがない。
たぶんぼくは、自分が好きなのだろう。

でも今夜は、いまちょっと別件で中断したりもして、ほんとはもっとゆっくりやりたかったのだが、これでおしまい。

2008-06-22

別府

昨日は別府。
せっかく新しい土地へ来たのだから、時間があるときはできるだけ色々な場所へ行くようにしている。
ひなびた温泉地をイメージしていたのだが、いやいやどうして、かなり大規模に開発されている。わりと新しい水族館もあったりして、力を入れているのだろう。
名物という地鶏を食べ、どしゃ降りの雨だったので水族館へ行き、温泉につかり、温泉の熱湯が噴き出す場所を見学し、関あじ、豊後さばを食べ、そこそこひと通り満喫して帰ってきた。


地鶏の炭焼き定食


せいうちのショー


山地獄


竹瓦温泉


関あじの造り

宮島や山口に行ったときも思ったが、この別府も前は海、後ろは山、そこにちょうど良いサイズの街があり、なんとも風情がある。
瀬戸内はいい土地だなと思う。

NTTドコモ

このところ会社とけんかする機会が多い。
今日はNTTドコモ。
住所変更しようと思ったら、ホームページからだと、通話の明細を送っているからという理由で手続きできないという。
そこで151に電話したら、そこでもできなくて、免許証など本人確認できる書類をもって、ドコモショップへ行ってくれとのこと。
そこで近所のドコモショップへ行ってみたら、免許証の住所変更がされていないと、こちらでも変更できないというから、ふざけるな、と。
もちろん無理やり手続きさせた。

こないだのDELLとのやり取りもあったし、ちょっと前にはNHKとか、そのほか細かいのも色々。
引越しも続いているから、しないといけない手続きとかが多いということもあるだろうが、いよいよぼくも年を重ねて、うるさいオヤジの域に達してきたのかもしれない。

今日やりあったのは案内係の若い女の子だったが、こういう客も多いのだろう、動揺した様子もなく上司に聞きに行き、それでは今回だけは、とくべつに、と恩を着せてきた。
むかっときたが、何も言わないでやった。

2008-06-20

今朝の読売新聞

第二の秋葉原事件阻止、祇園祭に「車両阻止部隊」
先日の秋葉原での無差別殺傷事件をうけて、7月に行われる祇園祭で警備を強化するという話。

日本というのは、お祭りとか、大晦日の初詣とか、人が大勢集まる場所について、警備が厳重なほうなのじゃないかと思う。先日の広島でのお祭り、とうかさんでも、かなりの数の警官、警備員が巡回、見張りをしていた。



初詣などでは、ロープで区切ってコースを作り、そこをいつも一定の人数だけが通るように調整をしたりする。将棋倒しを防ぐためだろう。

じつは本当にびっくりした経験があって、台湾でホームステイしたときのことだったのだが、大晦日に台北にある101ビルという、当時は世界一高かった高い高層ビルで花火があるというので、家族で見物に出かけた。高層ビルの花火というのがどういうものだかいまいちイメージできず、展望台か何かから地上の花火が見れるということなのかと思ったら、ビル自体に花火が仕込まれていて、それが次々点火されてビル全体が花火につつまれる様を、地上から眺めるというものだった。



たしかに物凄くきれいなのだが、これは日本ではできないだろうなと思った。消防法とか、何とか法とか、たぶん法律や条令が無数にあって、役所がぜったいにOKを出さないだろうなと思うのだ。

でもさらにびっくりしたことがあって、そこに50万人の人が集まるのだが、警官が一人もいないのだ。交通規制もされていない。花火が3分ほどで終わると、50万人の人がいっせいに、まわりにあふれ出す。
最寄の地下鉄の駅の入り口は人でつかえて入れないし、交差点の信号は普通に点灯していて、車もバイクもエンジンをかけて前に進もうとしているのだが、そこに50万人の人間が歩道も車道も所かまわず押し寄せていく。エンジンをかけた車と車の間の細い空間を、信号を無視して通っていくのだが、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まるわけにいかない。将棋倒しになるのじゃないか、車に押しつぶされるのじゃないか、と思うとさすがに怖くなり、死ぬんじゃないかとすら思った。
しかし台湾のホストの家族やまわりの人たちは、それをとくべつどうとも思っていない。普通のことなのだ。翌日新聞を見て、今年は何人が集まったが、死者は出なかったみたいだね、と話している。国によって文化がこれだけ違うものなのかと、あらためて思い知ることとなった。

日本人というのは、自分というものが、あまり無いのだと思う。他人に合わせ、波風が立たないようにする。だから規制とか法律とか、そういう上から来るものについても、わりに素直に従う。それが日本の経済成長を支えても来たのだろうが、ところが一旦、そういうきまりが無い世界に行ってしまうと、めちゃくちゃになってしまうところがあるのだろう。
戦争中、中国で民間人を大量虐殺してしまったことや、最近では東南アジアで節操のない買春をくりかえすことなど、みんなもやるから自分もやる、ということで、何でもしてしまう。それをすることが自分にとってどうなのか、と考えることがない。今のいじめとかそういう問題も、根本は同じなのだろう。
自殺者が3万人をこえたそうだが、皆に合わせているうちにどうにもならなくなると、自分の正当性を主張するのではなく、逆に自分を抹殺してしまう、そういうところがあるのだと思う。

でもそうやって規制をしていくことにより、社会を動かしていくことは、もう限界なのだろう。
「食ショック」という特集で、膨大な食品が廃棄処分になっているという。コンビニで時間をすぎた弁当を捨てるというのは有名だが、野菜ジュースにほんのわずかの土が混じっていたとか、肉マンの重さが数グラム軽かったとか、そういう理由でどんどん回収し、捨ててしまうのだという。
きまりに反し、それについて問題になると困る、ということなのだろうが、そのとき、本当は食べられるのに、とか、ただでさえも食料自給率が低いのだから、できるだけ捨てないようにしたほうがいいんじゃないか、とかいうことが省みられることがない。
セブン&アイHDが農業参入、生産法人を8月に設立だそうだが、農業関係者以外の団体が農業に参入するためには、制限が多くなかなか難しいとのこと。農業関係者を保護するためだろう。しかし食料自給率を上げることが重要であるとしたら、考えなければいけないことがあるだろう。

しかしただ規制を取り払うだけでは、たぶんただめちゃくちゃになってしまい、新しい規制ができるだけだろう。それでは日本人の物の考え方を変えなければ、と考えたとしても、到底そんなことはできっこない。
どうしたら良いのかは分からないが、何かはしないといけないのだと思う。

2008-06-19

今日のお好み焼き

広島風お好み焼き、なんとも不思議な食べ物ではないか。
ああいう風に重ねながら焼いていくというもの、ほかに似たものを思いつかないのである。

もともとは戦前、一銭洋食といって、鉄板に小麦粉の生地を丸くのばし、上に天かすやネギ、かつお節や桜えびなんかをふりかけて、それにウスターソースを塗ったものが原型らしい。東京で生まれて、関西から広島へと伝わったとのこと。
それならピザでもクレープでも、似たものはいくらでもある。

それが戦後、食糧難の時代、焼け跡の鉄板で焼かれはじめ、時間が経つうちに色々な材料が加わり、進化していったわけだが、関西風ならまだ分かる。キャベツやほかの材料を生地のなかに一緒に混ぜ込み、それを焼く。韓国のチジミがそうだ。

ところが広島風、ああやって次から次へと、上へ上へと重ねていく。そういう発想が生まれ、支持される基盤はどこにあるのだろう、どういうところから思いつき、なぜそれを皆がいいと思ったのかと、とずっと不思議だったのだが、今日、分かったような気がしたのだ。
ハンバーガー。
そして、サンドイッチ。

前の日記にちょっと書いたのだが、たぶん広島は日本のどこよりも、敗戦の衝撃が大きく、そこから立ち直るのに大きな努力を必要としただろう。家族や仲間を一瞬のうちに大虐殺した、憎き敵国アメリカ。しかし今度は彼らと歩調をあわせ、一緒にやっていかなければならない。
そういうとき、たぶん無意識に、アメリカを好きになろうとする気持ちが働くのではないだろうか。

アメリカの料理といえば、ハンバーガーとサンドイッチ。戦後日本でも、アメリカ人がハンバーガーやサンドイッチをほうばる姿を、実際に、または映画などで、見る機会があっただろう。広島風お好み焼きとは、それを広島の人たちが自分たちなりになぞらえていこうとする、なんとも切ない、気持ちの表れだったのではないだろうか。

というわけで、今日のお好み焼き。



家の近所にある、おやじの店。
目がぐりっとした、オールバックにヒゲのおやじさんと、テキヤのおかみ、といった風情のおかみさんがやっている。
地域密着型の店らしく、お好み焼きはサービス満点。



中心部の店だと750円くらいするところ、ここは650円。しかし焼きそばにはひき肉が混ぜ込まれ、大量の青ネギのトッピング。
化学調味料を一切使っていないので、作り方は普通だが、おいしくいただいた。

夜は晩酌セットが、1050円で生ビールにつまみが三品。熱心に営業してもらったので、今度行ってみなければいけないだろう。

パソコン

パソコンが調子が悪くて参っている。
DELLのパソコンを買ったのだが、買ってほどなくして普通に使っていただけなのに固まってしまい、どうしようもなくなって電源を切って、立ち上げたらチェックプログラムだの修復プログラムだのが動き出し、それもしばらく動かなくなり、電源を切って、また立ち上げたらしばらくは動いていたが、そのままイカレてしまった。

サポートに電話したら、それはハードディスクが壊れているから、交換になると言われて、修理に出して、買ってほどないとはいっても、それなりにソフトやデータが入っていたのに、すべてお釈迦になり、戻ってきて使い始めたら、今度はカメラがうまく映らない。
またサポートに電話して、色々見てもらったら、今度はカメラが壊れているということで、また修理に出せという。

さすがに腹が立って、こっちも必要があったからお金を払って買ったものを、修理に出せというなら、自動車なら代車を出すとか、携帯なら新品に取り替えるとか、そういうことを普通考えるだろう、一回目ならともかく、二回目なのだから、そのくらいの便宜は図れないのかと聞いたら、パソコンオタクに毛の生えたようなサポートの男は、それは当社ではできません、と事務的な返事をするから、上司を出せ、と。

出てきた上司は、謝るのはうまいのだが、けっきょく何をしてくれるのでもなし、昨日引取りに来ると言っていたのが、行った先が引っ越し前の住所。こっちも切れて、また電話。上司に代わらせ、さんざん文句、普通そういう時はすみませんでしたと菓子折りの一つでも持って詫びに来るだろう、と言っても、それもなし、ふたこと目には当社は全世界で同一の、ユニバーサルなポリシーでサポートを行っておりますと。
そんなことを言っているから、お宅は最近落ち目なんだよと言っても、どうなるものでもなし、結局明日、また引き取りに来る。

これが世の中の現実かとも思いつつ、それでいいのか、君たちは、と訴えたい。しかし訴え続けて三百年、世の中は変わるどころか、ますますひどくなっている。
これはどうしたものなのか。世の中とはそういうものなのか。
そういうものだと分かってはいるが、何ができることがあるのではないかと思う。
死ぬまでに一つでも、二つでも、そういうことがしたい。

2008-06-17

八丁堀 胡桃屋

今日のお好み焼きは、感動があった。

口コミサイトの広島市お好み焼きランキングで第三位、第一位はもう食べたし、第二位はちょっと遠いので、これは行ってみないと、と思って出かけてみた。
入り口はほんと、喫茶店みたい。



よくあるのれんもないし、のぼりも立っていない。
一時半近かったので、ランチタイムのピークは過ぎていたと思うが、それでもけっこう混んでいて、運よく鉄板前に座れたが、またすぐ人が来て満席になっていた。
中もちょっと喫茶店風の感じもあって、もともと喫茶店だった店をちょっとだけ改造してお好み焼き屋にしたのかもしれない。

マスターと、たぶん奥さん、それに娘さん、三人でやっていて、マスターはたぶん、脱サラしたのだろう。何となく内気な感じの人だったので、組織が性に合わなかったのかもしれない。
物件を選んだり内装を考えたりするのも、奥さんと娘さんの意見がかなり取り入れられているのかも、と思わせるような、そういう雰囲気の家族だった。

広島風のお好み焼きは、もともとみっちゃんという店の創業者が始めたやり方が他に広まっていったものらしく(参考)、基本的なパターンは共通している。そこでどう独自性を出しながら、客に支持され、商売として成り立つものにしていくかというのは、そう簡単なことではないだろう。

八昌はおそらく一つの方向として、じっくり時間をかけ、ていねいに作る、ということを選んだのだろう。時間をかけて蒸し焼きすることで、キャベツの甘みが引き出され、おいしくなる。
おいしくはなるのだが、席に座った客を30分待たせるわけだから、回転率は悪くなるって儲けは減るし、30分待っただけの価値を、客が感じなければいけない。
八昌はそれを、実際に本当においしいと感じさせるお好み焼きを作り続けることにより、ずらりと行列を作り出すことで克服している。
まぁほんとに腹のすわった勝負の仕方と言えると思う。
口コミ一位も、もっともな話である。

胡桃屋の場合、勝負のポイントは、調味料を使わない、というところにあると思う。
まず鉄板に生地を丸く伸ばし、かつお節の粉を振り掛ける。上にキャベツともやしをのせ、だいたいその時点でほとんどの店は、塩と、こしょうと、味の素と、さらに店によってはガーリックパウダーなどで味をつける。
しかし胡桃屋は何も入れない。
揚げ玉をのせ、三枚肉をのせ、ラードのかけらをのせて、ひっくり返して十分蒸し焼きにする。
同時にゆでたそば麺を鉄板に広げ、普通はこれにも、塩コショウ、味の素、場合によってはお好みソース、などで味をつける。
しかし胡桃屋はそれもしない。
そのまま蒸し焼きにした本体を上にのせ、さらに割り広げた卵の上に全体をのせ、ひっくり返し、お好みソース、こしょう、かつお節の粉、青のり、以上。
味の素は使わない。
好みで万能ねぎをのせられるよう、器ごと出してくれる。



キャベツに味をつけていないので、キャベツの滋味が口に広がり、ちょうどホクホクのふろふき大根を食べるような、そんな感じの味わいなのだ。ソースはきちんとかかっているから、全体の味は足りなくない。表面の濃い味と、中身の素材そのものの味と、両方をうまいこと楽しめるようになっている。

色々なお好み焼きを食べながら、正直ちょっと味が濃すぎるなと思うことも少なくなかった。また下手な店は、化学調味料を大量に使うので、舌がしびれて、あとあとまで嫌な後味が残るということもあった。
しかしこの店は、そういうことに対して一つのはっきりとした答えを打ち出している。お好み焼きというものについて、一つの新しい考え方を示しているのである。

食べながらマスターに、キャベツのうまみがほんとに出ていて、おいしいですね、と言ったら、そう言ってもらえると、自分の狙い通りです、と少し嬉しそうにしていた。
勘定を払いながら娘さんに、化学調味料はぜんぜん使ってないんでしょ、と聞いたら、そうなんです、うちはまったく使ってないんですよ、とちょっと力説していた。

胡桃屋のやり方、お好み焼きの正道からは多少外れるものなのだろう。しかしそれが評価されての口コミ堂々第三位、立派なものである。

胡桃屋 (くるみや)
広島県広島市中区八丁堀9-5 山本ビル2F
082-228-5915