広島は終戦まで軍事都市だったが、今はその痕跡は、あまり残っていない。戦後、平和都市へと大きく舵を切ったので、そちらは忘れたい過去なのかもしれない。でも広島には軍都のDNAを感じるな、どうにかしてそれをもっと知ることはできないものかと思っていたところに、隣の呉はあの戦艦大和はじめ多数の軍艦が建造され、軍港として栄えた帝国海軍の拠点で、今も戦艦大和の博物館があり、また呉から船でちょっと行った江田島には、旧海軍兵学校があって、中を案内してくれると聞いた。これは行かねばと、梅雨の合間、晴れの日を待って、出かけてきたのだった。
まずはウォーミングアップがてら、海上自衛隊呉史料館へ。呉の軍港だったところは、今は海上自衛隊の基地になっている。自衛隊の意義を一般に理解してもらうということが目的なのだろう、史料館が去年の4月にオープンし、本物の巨大な潜水艦が正面に展示されている。
かなり巨大で、近くから見るとけっこう迫力だ。
中の展示は、一つは潜水艦の説明だが、もう一つは機雷の除去という任務に焦点をしぼって、色々説明してある。
そのトーンが、なんというか、プロジェクトX風というか、劇画調というか、なのである。
沈黙を守り、深く静かに日本の海を守り続ける潜水艦。長い間、秘密とされてきた潜水艦の姿が今、少しずつ浮かび上がろうとしている・・・。
この類のディープなコピーが、延々と続く。
そこに、機雷の実物やら、各種兵器やら、潜水艦の模型やらが配置され、また実際に潜水艦の中も見られるようになっている。
一言でいえば、軍事オタクが喜びそうな感じなのだ。
展示の企画制作は民間の業者がやっているのだと思うが、それがちょっと悪乗りした提案をしたら、自衛隊がそれをそのまま受けてしまった、というところなのではないかと感じさせる。
すぐ隣に戦艦大和の博物館ができて人気を博したので、それに触発されたということもあるだろう。
たしかに軍事というのは、敵と見方、目的と手段、がはっきりとし、しかもその目的が人を殺すことだから、独特の陰をおびている。ゴルゴ13の世界は、まさにうってつけである。
しかしそれにしても、もう少し普通の説明ができなかったのかと思う。自衛隊って何か、感覚がずれているところがあると前々から思っているのだが、それがこういうところにも表れているのだなと思った。
さて昼食。
観光案内所で聞いたら、呉阪急ホテルの海軍カレーがおいしいと評判だとのこと。海軍の歴史を探訪する今回の目的にぴったりなので、食べてみることにした。
旧海軍のレシピをもとにシェフがアレンジした、そうなのだが、普通のおいしいカレーで、変わってるなと思ったのがポテトフライが入っていることなのだが、聞いたらこれはシェフのアレンジとのこと、海軍カレーの特徴が何なのかはよく分からなかった。
ということで、次はいよいよ本日のメインイベント、江田島の旧海軍兵学校へ。
呉からフェリーで20分、バスで5分。
広大な敷地にいくつもの洋館が立ち並ぶ。新しいものもあるが、上の白いのは大正、レンガのは明治に造られたものという。ものすごくきれいで、到底そんな昔にできたとは思えない。よほどきちんと手入れしているのだろう。
特殊潜航艇が置いてあったり、
ほかにも戦艦陸奥の主砲やら戦艦大和の砲弾やらが飾られている。
今は海上自衛隊の第一術科学校と幹部候補生学校として使われていて、教室に使われている建物からは、講義の声がした。
ひと通りを一時間ちょいくらいで案内してくれるツアーが、平日は1日3回、土日祝日は4回、組まれている。昨日も20人くらいの人がいっしょだった。
案内人は元自衛官で、退官して8年になるというおじさん。潜水艦に乗っていたそうだが、いつもにこにこしているのだが、目は笑っていない、そういう感じの人だった。
初めの説明でも、冗談を言っては笑いを取りながらも、ここは単独行動は禁止だから、一人で勝手にどこかに行こうなど、変な気を起こさないように、という言い方をする。自分が上から、見学者をまとめていない、とクレームを入れられるから、だそうだ。
一人で勝手にどこかに行かないでください、と言えば済むところを、こういう言い方になるところに、ああ、これが自衛隊なんだなと思う。
また歩きながらの雑談で、こんなことも言っていた。
海軍のころは、教室を出て3歩歩いたら、教官に殴られた。歩くのではなく、走らなければいけない。昔はそうやって教育した。今の教育は、頑張ってはいけないとか、言えば分かるとか言っているが、それはおかしい。言っても分からないやつはいるのであって、そういうやつは一発殴れば、自分がおかしいということに気づくものだ・・・。
自衛隊というのは本当は軍隊なのだけれど、日本は軍隊を持ってはいけないという建前になっているから、この間まで防衛省ではなく防衛庁だったりとかして、自衛隊の人たちから見ると、世間から不当に低い扱いを受けているという思いや、それに反発する気持ちがあるだろう。たぶんそういう屈折が澱のようにたまっていて、それが昔の日本軍や日本の軍国主義をことさらに美化してしまうということがあるのだと思う。
上の発言もその表れということも言えると思うが、もう一方で、ある真実を含んでいるようにも思い、大変考えさせられた。
軍隊とは暴力をより効果的に行使するための組織である。普通の生活では、それは戦前も同じだったと思うが、人は殺してはいけないわけだが、お国のためには、敵を殺さなければいけないのである。
実際、近代国家というものは、軍隊の存在を前提としている。100年前は、軍力により他国を侵略し、領土を広げることが国力であった。日本にしても、ペリーが来航し、開国を迫られ、そのままでいたら一方的に侵略され、独立国家ではなくなっていただろう。富国強兵に邁進し、軍備を増強したからこそ、日本という国はたもたれた。
今でもそれは変わらない。安全保障同盟とは、軍事同盟である。アメリカとの関係において必要な軍力を維持することで、日本の国家としての立場はたもたれている。
そう考えると、戦後アメリカが憲法を設定し、そこにこれからは戦争はせず、軍隊はもたない、としたことは、もう日本を国家として認めない、と言ったことと等しい。しかしそれはやはり現実離れしていたのであって、終戦から10年で自衛隊が結成され、今に至るまでその軍力は大きくなり続けている。
いま日本人は、たぶんほかの国に比べて、日本というものについてあまり考えないのではないだろうか。会社のため、とか、家族のため、とは思う。でも日本のため、という考えをする人はとても少ないのではないかと思う。いいか悪いかは別として、それは日本が軍隊と呼べるものをもっていないということと無関係ではないような気がする。
そういう現実は踏まえたうえで、でも考えたいと思うのだ。言っても分からないやつは、殴れば分かるのだろうか。
言っても分からないやつがいるということは、ぼくも知っている。ほんとに、いくら言っても分からない。身近に何人もいる。またぼく自身も、いくら言われてもとうとう分からなかった、という体験が何度もある。
人間の言語がもたらす作用は、いま一般に信じられているよりはるかに限られていて、一回言って分かるやつは分かるし、分からないやつは、何回言っても分からない。たしかにそういうものだと思う。
民主主義というのは、人間、話せば分かる、ということを前提としていると思うが、それは幻想に過ぎない。結局は多数決で、数の多いほうの意見が通るだけである。
ぼくはじつはある時期、言って分からないやつを、物理的にではないが、言葉のうえで、または組織的な賞罰をとおして、痛い目を見させることで分からせようとしたことがあった。しかしそれでは本当には分からせることはできない、というのが結論だ。その場では服従しても、心の底からは分かっていない。だから、分かりました、と言っても、また同じことを繰り返す。
教室から出たら走る、というくらい簡単なことなら、それでも効果があるかもしれない。しかしちょっと複雑なこと、たとえば相手の立場を考えろ、などというともう、痛い目を見させるだけで分からせることはできないと思う。
それではどうしたら良いのか。ぼくにも分からない。しかし、人に何かを伝えるということはそう簡単ではなく、おそらく持てるあらゆる手段をすべて動員して初めて可能なことなのであり、殴れば分かるという単純なことではないということだ。もし元自衛隊員の美化した見方としてではなく、当時の日本軍が本当にそう思っていたのだとしたら、それが戦争に負けた理由だと思う。
と色々考えることもありながら、江田島を後にし、次は大和ミュージアム。
ここには戦艦大和の十分の一の模型があるということだったが、けっこうすごかった。
聞くともともとある戦艦模型の達人がいて、大和ミュージアムを作ろうという話が盛り上がってだろう、実物の十分の一という巨大模型を作りはじめたのだが、途中で死んでしまった。そこであとはミュージアムの学芸員の人たちが完成させたそうだ。けっこう細かいところまで再現されていて、今でも新しいことが分かると、作り変えるのだそうだ。この模型は最近作られた戦艦大和の映画のCGを作るための原型にも使われたそうだ。
ここにはほかにも多数の戦艦、戦闘機の模型があり、マニアにはたまらないだろう。
実物の展示も色々あって、いま世界に22機しか残っていないというゼロ戦や、
それに人間魚雷回天もあった。
人間魚雷とは本当にひどいことを考えたものだと思うが、これはもともと若い将校が考え、完成すると自らが真っ先に乗り込んで特攻していったのだという。
人間魚雷で特攻した隊員が、自分の遺書を録音したものがあって、それが実際に聞けるようになっているのだが、本当に悲しい。
(クリックすると拡大されます)
家族との楽しい思い出を懐かしんだあと、
「然し僕はこんなにも幸運な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはいけないと思うんだ」
という。
「怨敵撃つべしという至尊の詔が下され」、「我々青年は、余生の全てを捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ」
「永遠に栄あれ祖国日本」
日本のために自らの死を決意する気持ちは本当に尊いが、それを煽り立てた軍の上層部に、勝算はなかっただろう。勝てない戦ならやらないほうが良いのだが、そんなことを言おうものなら、卑怯者、非国民と、まさに殴られただろう。
しかしいくら頑張ったって、だめなものは、だめなのだ。
みなが目標にむけ、心を一つにしていく。それは集団が力を発揮するための、一つの大事なことだろう。しかしそれは一つであって、すべてではない。
日本人は、何故なのだろうか、単純なものを好む傾向があると思う。包丁一本さらしに巻いて、が、何となく格好いい気がする。
しかし知り合いの料理人が、包丁は一本だけではどうしようもない、あれはおとぎ話だ、と言っていた。
現実はおそろしく複雑であり、しかしそこに一つの単純な切り口から切り込んでいくことは、問題解決の一つの重要なやり方だと思うが、それがあくまで一つの切り口なのであり、現実は依然、化け物のように複雑なのだ、ということを忘れてしまうと、悲劇が起こるのだと思う。
大和ミュージアムには、呉の歴史を戦争の歴史と重ねながら丹念にたどっていくコーナーや、戦後の呉の産業を紹介するコーナーなど、呉の全貌が見渡せるよう配慮されているのと、子供たちが色々な科学実験を楽しめるようなコーナー、松本零士の宇宙戦艦ヤマトも登場する未来のコーナーなどもあり、全体としてマニア向けではない、バランスのとれた構成になっている。
また学芸員の人たちがとても親切で、主に若い女の子なのだが、平日であまり客もおらず暇だということもあるのだろう、話しかけてきて色々ていねいに説明してくれたり、質問したのだが、それがすぐ答えられないと、ほかの学芸員に聞いてくれたり、そのための資料を持ってきてくれたりする。大変楽しめた。
いま大和ミュージアムがある呉駅の海側は、以前は何もなかったそうだ。それを再開発しようという話になったとき、市の誰かが、戦艦大和を中心にすえた博物館を作ろうと言い出して、それを実現させたのだろう。
もともと呉は工業都市で、これといった観光資源もなかったそうだが、大和ミュージアムはかなりの人を動員し、観光の目玉になっているという。
事業として学ぶべき、一つの成功例なのだと思う。
さて最後は、やはり繁華街。
規模はそう大きくないが、歩いてみると入ってみたいなと思うような、風情のある飲食店がいくつもあった。
お好み焼き屋はとても少ない。関西風お好み焼き屋のぼてじゅがあったりしたくらいなので、もうここは広島風お好み焼き文化圏からは外れているのだろう。
広島風お好み焼きは、広島市内だけなのだろうか。
呉は映画の「仁義なき戦い」の舞台になった場所なのだが、不良もあまり見かけず、その辺の痕跡を感じることはできなかった。
夕食には、有名店の一つだという洋食屋
で、カツ丼を食べた。
ビーフカツにドミグラスソースがかかっていて、まさに洋食だ。創業者は戦艦で料理人をつとめた人だそうだ。
海軍風の肉じゃがというのがあったので、頼んでみた。
これはまったく、普通の、どこにでもある肉じゃが。
肉じゃがは海軍で、船で出す料理として考え出されたそうだが、要は海軍の肉じゃがが、そのまま日本中に広まったということなのだろう。