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2008-06-30

『「近代の超克」とは何か』 子安宣邦著  

近代とは、現代の社会や知識のあり方を基礎づけている、基本的な型のようなものに対する呼び名である。
ヨーロッパにおいて、それまではカトリック教会が社会および知識の中心だったものが、16世紀以降、軍隊により確保される国境の中で、ローマ教会とは切り離れて、それぞれが独自の統治を行う近代国家が形成されていく。
また知識の面では、真理はキリストの教えの中にあったものが、ニュートンの万有引力の法則の発見を出発点とし、ダーウィンの進化論を経ながら、科学の成立をもって完成を見る、キリスト教とは切り離れた真理探究のあり方が見出されていく。

日本に近代がもたらされたのは、アメリカからペリーが来航し、圧倒的な武力を背景に開国を迫ったところから始まる。日本は植民地化の恐怖におびえ、明治維新を行い、そこから猛烈な勢いで、近代化を達成していく。
日清、日露、第一次世界大戦を経、日本は列強の仲間入りをする。朝鮮半島、中国大陸への侵略を開始し、日中戦争を経て、太平洋戦争へと突入していく。
「近代の超克」とは、太平洋戦争の開戦にあたり、知識人たちより発せられ、そして日本人の大多数が感動をもって受け入れた、思想的な表現であった。

近代が21世紀の今、大きな壁に突き当たっているということは、たぶん多くの人が感じているだろう。
とくに冷戦後、資本主義は暴走し、拝金主義が蔓延し、格差は広がり、環境は破壊されていく。
このままではいけない、何とかしなければいけないと思っても、どちらにどのように進んでいったらよいのか、定かではない。座して待てば破滅すると予感しても、それを誰も止められない。
しかし止めなければいけないのだ。近代を含みこみながら、さらに大きな展望を見渡せるような、新たな土台を見つけ出さなければいけない。

しかし日本人がそのように考えたのは、今が初めてではなかったのだ。
大正から昭和にかけての時代、日本は列強の仲間入りをしたはずなのに、英米中心の世界は依然として変わらない。
政治は堕落し、社会は退廃していく。
その状況を変革しようと、青年将校が革命行動を起こし、また軍は暴走して、中国への侵略を勝手に開始する。
政府も国民もそれを止めることができない。重苦しい空気が社会を覆っていた。

そして昭和16年、日中戦争はついに英米との戦争へと発展し、太平洋戦争が開戦する。
そのとき言われたことが、これは近代を超克するための戦争なのだ、英米中心の世界秩序から脱し、東アジアを中心とした新しい秩序を打ち立てるための聖戦なのだ、ということだったのだ。
それに対して多くの知識人も国民も、それまで覆っていた霧がすっと晴れ、喝采をし、自分たち日本人こそが、世界の歴史を大きく変える主役なのだと本気で信じ、戦争に向かっていったのである。

著者はこの太平洋戦争開戦前後、そして終戦後の知識人たちの発言を、様々な資料に当たりながら丹念に掘り起こしていく。
近代の超克という思想は、単なる戦時の逸脱なのか、それとも今につながる何らかの真実を含んだものなのか。
敗戦によってこの時代の思想の流れは途切れてしまっている。しかしそこに見るべきものはなかったのか。

そして明らかにされ、主張されていくことは、近代というものをただ輸入した借り物としてではなく、それをどう私たち日本人が租借し、その結果として新たな世界観を見つけるのかということ、その必要性は今も変わらず、いやむしろ今はあの時以上に強まっているということ。
それではあの時、何が間違いだったのか。
それは、自分たち日本もすでに近代の中にいるにもかかわらず、それをぽっかりと忘れ、近代を自分たちの外側、英米にあるとし、それと戦うことによって、近代を超克できると思ったことであった。
また同時に、東アジアの新秩序、東亜共栄圏と言いながら、朝鮮半島や中国大陸に対して武力による侵略という、近代の帝国主義のやり方そのままのことを行い、しかもそれにまったく無自覚であった。
近代を超克するという、その志や良し、しかしそのやり方は相も変わらず、近代そのものだったということなのである。

これはまったく難しい課題である。
変革しようとする、そのものの中に、自分自身が含まれていなければならない。
また目的と手段を分離し、目的のためには手段を選ばず、ということこそ、今の悲劇の大半を生み出している、近代の考え方の象徴であり、そうではなく、手段そのもの、どのようにそれが達成していくのかという過程そのものが重視されていくことが必要である。

しかしそれは、本当にその通りなのだと思う。
この本の最終章、思わず嗚咽し、涙が止まらなくなってしまった。
それはぼく自身が課題であると思っていること、それを同じように課題と捉える人生の先輩が、ここにいた、ということを見つけた喜びだったと思う。

退治しようとしている相手は、自分も含めた世の中のすべてを構築しているもの、その根底に位置するものなのだ。
どれだけのことができるかは分からないが、避けて通ることはできないのだと思う。