広島風のお好み焼きが、なぜああいう形なのか?
鉄板に生地を丸く敷いて、その上にかつお節やら桜えびやらネギやらをぱらぱらと降りかけるものだった一銭洋食から、キャベツや肉や卵や、さらにはそばまでが加わっていく過程で、関西風お好み焼きが生地に具を混ぜ込んで焼くという、韓国などでも見かける、わりとよくあるやり方で対処したのにたいして、なぜ広島では上へ上へと積み上げる、あまりほかでは見たことのないやり方を選んだのか。その発想はどこからきたものなのか。なぜそれを広島の人たちが支持したのか。
前にそれは、かつての敵国アメリカと、今度は仲良くやらなければいけないという状況の中で、アメリカの食べ物であるハンバーガーやサンドイッチを無意識に真似たものではないかと書いた。
しかし昨日呉に行って、考えが変わった。
江田島の海軍兵学校の案内をしてくれた元自衛官のおじさんが、ちょっとした冗談を言っていたのだが、ここにある松の木は、松というのは普通くねくね曲がっているものだが、まっすぐに立っている。毎日毎日教官が生徒たちに、気をつけ、と号令をかけるものだから、松までまっすぐになってしまったのだ、ということだった。
日本の軍隊では、まっすぐなことが大事なのだろう。日本に限らず軍隊というものは、そういうことを求められるのかもしれない。特攻服を着た暴走族が信号を無視して交差点を走り抜けていくのも、そういうまっすぐな感じを曲解した結果だと思えなくもない。
広島は軍都であった。終戦後、平和都市としての歩みを始めてからも、そのDNAは変わらずに人々の間に息づいていたに違いない。
広島風お好み焼きにも、そのことが反映しているのかもしれない、と思ったのである。
お好み焼きの具を増やしていくというとき、それまでの一銭洋食には存在しなかった課題が生まれただろう。ひっくり返さないといけないのだ。色々な具が入って分厚くなるわけだから、そうでないと火が通らない。
そう考えると、生地に具を混ぜ込む関西風のほうが、圧倒的にやりやすいだろう。上に積み上げていってしまうと、ひっくり返すとき、ばらばらとこぼれてしまう。しかしたぶん、広島の人は、混ぜ込むということを良しとしなかったのだ。
お好み焼きというのは、あくまで鉄板に丸く敷いた生地の上に具を載せるものであって、それを生地に混ぜ込んでしまうなどというのは、お好み焼きじゃないんじゃないのか。
そうじゃなく、作るのがどんなに大変になっても、お好み焼きである以上、あくまで上に載せていく、それが日本人の生き方というものなんじゃないのか。
そんな風に考えたのじゃないかという気がする。
昭和20年に終戦、終戦後10年くらいは、お好み焼きは空腹をおさえる手頃な食べ物という域を出なかったらしい。それが昭和30年代に入って、大きく発展していったそうだ(参考)。
戦後の復興がとりあえずひと段落し、日米安保条約が締結され、自衛隊として軍も復活し、これからの日本の未来に、また希望が見え始めた時代だろう。
そういう時、無理を承知で日本人の生き方をまっすぐに貫いた広島風のお好み焼きが、軍都広島の人たちの心をとらえた、ということではなかったのかと思うのである。