郡司ペギオ幸夫「生命壱号」、また読んだ。何度も言うんだが、ほんとに面白い。科学者が一般向けに、ここまで本気で書いた本というのは、なかなかないのじゃないかな。内容はそれなりに難しいのだが、それは当然のことで、ひとりの科学者が本気で考え、実践している研究について、その内容そのものを伝えようとしているのだ。ふつうは科学者は、自分の研究内容はとりあえず置いておいて、それとはべつに、一般の人向けの、一般的な内容を書いたりするものだが、この本は違う。まさに湯気が出そうな、郡司さんの最新の、全力の研究内容が網羅されている。それが素人がすぐ解るような、簡単なものであるわけがないのだ。
しかし郡司さんは、これを読めば読むほど、その難しい内容を、一般の人にも何とか解るようにと、細心の注意を払い、できる限りの努力をしていることが、ひしひしと伝わってくる。基本的にこの本は、予備知識なしで読むことができるようになっている。集合論などの、複雑な数学も、とくに後半になると駆使されるのだが、それについてもひとつひとつ、ていねいに説明されている。本の冒頭には、全体の流れが説明されていて、各章、各節の初めには、その章や節の概要が、最後にはまとめが、かならず入っている。重要なことは、同じと思えることでも何度でも繰り返し説明される。この本に対する郡司さんの思い入れの深さが、よく伝わってくる。
この本を読んで、僕がいちばん面白いと思うこと、僕を魅了して離さない理由、それは郡司さんが、「全体とは何か」ということを、徹底して追求し続けているというところにある。この問いは僕自身も、これまで考え続けてきたことだからだ。
どんなものにも、部分と全体と、両方の側面が存在する。人間の組織というものを考えた場合も、それはひとりひとりの人間によって構成されているのと同時に、それは全体として、何らかの目的なり目標なりを持ち、存続するということのために、様々な活動を行う。その全体というものは、どのようなものであるのか。独裁者が運営する組織の場合、それはとても解りやすく、全体はあくまで、独裁者の心の中だけにある。独裁者の意思が、全体の意思だ。組織の、独裁者以外の人たちは、独裁者が想定する全体の範囲の中だけで動く。それを外れることは許されない。
しかし一方、人間のからだという、複雑極まりない、これもやはりひとつの組織であるというものを考えた場合、人間の細胞の中で、独裁者に相当する、すべての意思決定を行ない、すべてを指示するものは存在しない。脳がそういうものであるかという気がするが、実は脳だって、からだの他の部分と同様、もとはひとつの受精卵から始まっているのであって、受精卵が分裂し、何十兆個という数の細胞からでき上がる、ひとつのからだになっていく過程では、どの細胞が指示をするということもなく、お互いが相互にやり取りをしながら、徐々に役割分担がされていく。脳というものも、そういう役割のうちのひとつなのであって、もちろんある中枢であるには違いないが、すべてを指示する絶対的な存在ではない。
全体というものが、独裁者という、独裁者以外のすべての国民や構成員から見れば、外部の者によって規定されるのではなく、全体が部分から切り離れず、その時々のすべての部分のあり方に応じて、つねに生み出し続けられていくようなあり方、それこそが生命の組織論であり、それはまさに僕の最大の興味であると同時に、人類全体にとって今、最も必要とされているものであると僕は信じる。この「生命壱号」を読んでいると、それを同じように郡司さんも思っていると、ことばの端々から感じるのである。
郡司さんはそれを、「砂山のパラドックス」というものとして表現する。ここにひとつの砂山がある。それは無数の砂粒からできたものであるのと同時に、ただ砂粒であるというだけではない、「ひとつの砂山」という全体でもある。砂山は生き物ではないのだが、ここでも部分と全体の問題は、同じように存在する。砂山というものは、無数ともいえる砂粒からできているから、そのうちひとつの砂粒を取り除いたとしても、それは依然として砂山のままだ。であるとすれば、その砂粒を取り除くということを、無数に繰り返せば、最後には、ひとつの砂粒だけが残り、しかしそれは依然として砂山であるという、まったくナンセンスなことになる。
これまでの科学では、そのようなナンセンスが起こるのは、もともと「砂山」などという、実際に存在しもしない、人間の認識の中だけにあるものを、あたかもそこにあるかのごとく考えたことに原因があるのであって、そんな面倒くさいものは考えないようにしようと、そういうことにしてきた。実際砂山とは、どのくらい大きければ砂山と呼べるのか、どんな形をしたものなのか、などということについて、甚だあいまいで、はっきりしないものだ。だから最後には、砂粒がすなわち砂山であるなどと、訳の解らないことになる。
しかし郡司さんは、全体というものが、そのようにあいまいで、場合によっては部分と切り分けられなくなるような、はっきりとしないものであるからこそ、生き物がこれだけ多様なあり方を獲得できたのであると考える。全体を、そのような、はっきりしないものとして、部分と対置させること、それは具体的な操作として言えば、全体は部分とは異なった、独立したものであるようでありながら、同時に部分と切り分けができない、全体なのか部分なのかわからない領域を作るということ、そこにこそ、生命の生命たる本質があるのだと考えた。
生命壱号というのは、とても簡単なコンピュータ上のシミュレーションだ。オセロのようなもので、黒石と白石があって、初めの状態は、白石に囲まれて、黒石が固まって置かれている、そういうところからスタートする。黒石の集合体としての全体は、白石に囲まれているということによって、規定されている。
ここで、黒石ひとつひとつという部分を、確認していく操作が導入される。黒石の集合体という全体が、そのまわりを囲んでいる白石に対するものとして規定されたように、黒石のひとつひとつは、白石のひとつひとつに対するものとして規定され、具体的には、黒石集合体を囲む白石のうち、ランダムな順番で、黒石と接している白石が、黒石と位置を交換し、さらに黒石集合体の中に入った白石は、そのまままわりの黒石と、ランダムに位置を交換していくことにする。このようにして白石が、黒石集合体の黒石と、位置を交換していくことによって、黒石ひとつひとつという部分が確認されるというような、そういう操作を、コンピュータ上で実行する。
ただしこれだけだと、黒石集合体は白石に侵食されて、徐々に分断され、ばらばらになり、全体は崩壊してしまう。ところが白石が、黒石集合体の中を進んでいくとき、どの黒石と位置を交換したかということを記憶して、一度位置を交換した黒石とは、以降は位置を交換しないということにすると、話はまったく変わってくる。白石が集合体の中を進んでいっても、集合体はすんでのところで崩壊をまぬがれ、形は様々に変化し、まとまって固まっていたり、一本の紐のようになったり、ブロッコリーのような枝状になったりするのだが、ばらばらになることを踏みとどって、ひとつの全体のままでい続ける。それは実際に、粘菌のような生き物のふるまいと、見た目にもそっくりだし、さらにそこから、いくつかの統計的な性質を導きだしてみると、それは実際に粘菌から同じように導きだした数値と、まったく同じ傾向を持つ。
それはこのコンピュータ上の操作において、白石が黒石と位置を交換する際に、どの黒石と位置を交換したかということを、記憶するという一点によるのだ。そのことによって、位置を交換するという、部分を確認する操作の中に、「これまでに位置を交換した黒石の全体」という、全体が紛れ込んでしまうことになる。全体と部分とがはっきりと切り分けられず、部分だったはずのもののなかに、全体が存在してしまうということになるのだ。そんな簡単なことで、コンピュータ上に、実際に統計的な数値で比較しても、生き物と同じ性質を持ったものを作り出すことができる。なんと面白いことではないか。
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