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2010-10-14

ラーメン

これもこれまで何回も書いているが、また書くのだ。

僕はラーメンが好きで、方々食べ歩くわけだが、ラーメンの味そのものが好きだということももちろんあるけれど、それだけじゃなく、ラーメンという食べ物にたいする興味が、いくら食べても尽きないということも大きいのだ。

全国には、だしや味付けの違いによって、たくさんの種類のラーメンがあって、また同じ種類のラーメンに見えても、その背後にある考え方がまったく違うというものがあり、さらに歴史的に見ても次から次へと新しいラーメンが開発され、それがさらに少しずつ異なった亜流を産み出していくという具合に、大きく変化している。このようにバラエティーに富み、また変化し続ける食べ物って、ほかにあまりないと思うのだよな。

京都にも数百軒のラーメン屋があると思うが、ってまずそれだけの軒数の、同じ食べ物を出す店が、それほど広くもない街に存在しているということ自体がすごいと思うが、戦前の創業である新福菜館を元祖とした黒ラーメンから、第一旭を元祖とする澄んだ醤油豚骨、ますたにを元祖とする背脂醤油、天下一品を代表とするこってり、また東京から入ってきたものと思うが煮干系、などなどのいくつもの系統があり、さらにはそれら同じ系統でも、一店一店が、異なった考え方に基づき、異なったラーメンを出している。ふつうの食べ物なら、系統はせいぜい数種類で、あとはおいしいかまずいかの違いがあるくらいのところ、京都だけで考えても、同じくらいおいしい、まったく異なるラーメンというものが、いくつもある。

ラーメンの食べ歩きというものは、だからほかの食べ物とはかなり違って、ただうまいかまずいかを判定するということではなく、このラーメンの様々な違いを愛で、まだ自分が出会ったことのない、新たなラーメンの出現を期待する、ということなのだ。たぶん昆虫学者が昆虫を採集して分類し、新種の昆虫を発見する、などということと、似たような楽しみ方の側面があるのじゃないかと想像する。実際ラーメンだけは、ラーメン評論家という人が何人もいて、ラーメンを食べ記事を書くということを職業として成り立たせたりもしている。こんな食べ物は、ほかにそうそうはあるまい。

それではなぜラーメンというものが、ほかの食べ物とは違って、このような、種類の豊かさというものを獲得したのか。これはとても興味ある疑問であって、僕もこれについては、ずっと考え続け、その時々でそれなりの考えを持ってきているのだが、最近それで間違いないのじゃないかと思える考えを持つに至った。それはたぶん、「定義」にかかわることなのだ。

たとえばカレーならカレーというものが、それがカレーであるということについて、どのように決められているかを考えると、たぶん「カレー粉を使っている」ということだろう。料理法としては色々あり、インド式と欧風式、煮物と炒め物、さらには鍋物、などもあるわけだが、それらが共通して「カレー」として括られるのは、カレー粉を使っているからだ。

ハンバーグについても、ひき肉を使って作った、あの平べったい物体を指しているだろう。他のいろいろな食物を思い出して考えてみても、だいたいは、何か具体的な、調味料なり、材料なり、料理法なり、というものを指していると考えられる。

ところがラーメンについては、その事情がかなり異なるのではないかと思うのだ。もちろんまず「麺類である」ということは、共通した性質としてたしかにあると思うのだが、その他の性質をいろいろ考えてみても、だしの材料にしても調味料にしても、麺の製法にしても、かなりのバラエティーがあって、それをひとことで括るのは、難しいのではないかと思ってしまう。

例えばだしに関して、「動物性の材料を使う」ということなのかと思ってみても、今は魚介だしを使ったラーメンが全盛であって、必ずしもそれに当てはまらないものも多いし、調味料にしたって、「トマトラーメン」などというものすら存在する。麺も小麦粉を使うということは共通していても、うどんやスパゲティだって小麦粉で作られるのであって、それらとの違いを具体的な何かというもので言い表すことは、難しい感じがする。実際スパゲティかと思うようなラーメンの麺だってあるし、もし麺にそば粉を使っていても、それをラーメンと呼ぶことが、将来にわたってあり得ないのかといえば、もしかしたらそういうものだって、 これから出てきてもおかしくないような気すらする。

ラーメンというものは、そうやって考えると、果てしない自由さを持っているように見えるわけだが、しかしそれらのすべてが、「ラーメン」として括られ、他の食べ物と区別されていることも事実なのだ。それではラーメンというものは、どのように定義されているものなのか。

僕が今、これじゃないかと思う答えは、「和風でない麺類」というものだ。

ラーメンはもともと「中華そば」と呼ばれたわけだが、誰もそれが実際に中国風なのかをたしかめるということはないし、だいたい中国には日本のラーメンと同じような食べ物はないとも聞く。またトマトラーメンとか、さらにはイタリアンラーメンとかいうものは、中国風ではまったくないのであって、ここで使われる「中華」ということばは、実際に中国風であるということではなく、「これまでのうどんやそばなど、和風の麺類とは違う」ということを指し示しているのではないかと考えられるのだ。つまり、ラーメンというものは、その定義が、具体的な何かによって示されているのではなく、「~とは違う」という、否定形で示されているという、ほかにはあまり例を見ない形になっているということなのだ。ラーメンがそういう定義のされ方をしているから、うどんやそば以外の広大な麺類の領域を、全てカバーし、イタリア料理の領域にまで侵食しながらも、それをラーメンであると強弁することが許される、大きな自由度を持ったということじゃないか、ということだ。

どうだろう、この考え方、かなりよくないか。

さらにこの定義からもたらされる帰結というものがあって、それがラーメンがこれだけ大きく、実際に繁栄するということに対して、大きな影響を及ぼしていると思うのだが、「和風ではない」と定義されたことによって、ラーメンのスープは、和風だしではいけないことになった。この和風だしというもの、日本人にとっては黄金で、毎日食べても飽きない、特別な性質をもったものなのだと思うのだが、ラーメンが、この和風だしを禁じ手にされたことで、「正解がない世界」が生み出されたのじゃないかと思うのだ。

物事、たとえば水はかならず低いところへ流れていくように、「これが正解だ、これが一番うまい」というものがあれば、初めはいろんな種類があったとしても、最終的にはそこに集まり、収束していくだろう。そうなるとあとは、うまいかまずいか、という違いだけが残ることになる。ところがラーメンの場合、「これが正解」である和風だしを禁じられているから、極端にいえば「何でもあり」ということになっている。ただ自由度が大きいというだけじゃなく、この正解が存在しないことによる何でもあり状態が、ラーメンのこれだけたくさんの種類を生み出し、それがそれぞれ支持されているということを、大きく後押ししているのじゃないかと思うのだな。

こんな食べ物、ほかにあるのかな。「無国籍料理」というのも、やはり否定形で定義される料理で、30年前ほどちょっと流行ったと思うが、けっきょくはタイなりインドネシアなり、その国々の料理がやはりうまいということで、エスニック料理に吸収されてしまったと思うし。「創作料理」というのも、やはり「これまでの和食ではなく」という意味で、否定形に近いと思うが、これもやはり、創作料理を作るためには、けっきょく和食の心得がきちんとないと、うまいものはできないということになっていると思う。否定形による自由度と、その帰結としての正解のない世界というものの、両方を獲得したものは、ラーメンくらいのものじゃないかと思うのだよな。