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2008-05-07

『文章読本』 谷崎潤一郎著

この本、名前は文章読本で、一般の人が文章をどのように書いたら良いのかということを分かり易く示すのが目的であるが、それに留まらない。きわめて優れた近代文明批判の書となっている。

まず冒頭、文章より手前、言語そのものの性質について明らかにする所から始まる。日本古典の例も引きながら、日本の言語が西洋の言語とは異なり、語彙が少ないこと、西洋語にあるような文法は存在しないこと、という特徴を持つことが語られる。西洋のように言語で一から十まで説明してしまうということではなく、六か七くらいに留めておき、あとは相手に見つけさせる、そういうやり方を日本の国民は伝統的にしてきているのであり、その国民性が言語自体の性質にも表れているのだと。明治以来、日本人は西洋の長所を取り入れるだけ取り入れてきたけれど、これ以上取り入れることはむしろ害を及ぼすことになり、今日の急務は長所を取り入れることではなく、取り入れ過ぎたために生じた混乱を整理することである。そのことが一般論としてではなく、言語および実際の文章というものに即して語られていく。主張している内容について全く同感で、しかもそれを論ずるやり方が具体的かつ高度で、舌を巻くしかない。さすが日本を代表する文豪だと感じ入った。 (さらにもちろん、本来の目的である文章の書き方については、目から鱗が何枚も落ちた)。

この本が書かれたのは昭和九年。ぼくの親が生まれた頃である。それから日本はどうなって行ったのか。太平洋戦争に突入し、敗戦。戦後の復興から高度経済成長へと続き、バブルの崩壊。そして今に至っている。西洋近代文明をただ取り入れるのではなく、それを踏まえながらも日本独自のあり方を見つけなければいけないという警句は、生かされたのだろうか。いや、恐らく混乱はさらに深まり、どう整理したら良いのかすら、分からなくなってしまったという所に来ているのではないかという気がする。

近代文明に対する批判は、古くはニュートンの光学に対する、ゲーテの批判が有名である(ゲーテ色彩論)。ニュートンは光が異なった屈折率の光が合成されたものであり、異なった屈折率の光はそれぞれ、人間の感覚器によって異なった色として認識されるとした。これは自然を機械論的に理解するという近代思考の代表例であるわけだが、これにゲーテは噛み付いた。ゲーテの色彩論についてはぼくは詳しくないのだが、ニュートンの色彩論の圧倒的な分かり易さに比べると、分かり難いということは言えるだろう。その分かり難さの故、世間一般からはほとんど省みられることなく、今日に至っているのだろう。

そのような例は、枚挙に暇がないだろう。近代文明が産声を上げた時から今に至るまで、自然を機械のように捉え理解するということに対する異議は唱え続けられてきた。しかし未だ暴走トラックは止まることなく、断崖絶壁の淵に向かって爆走しているという所なのではないかと思う。

未来はそれほど明るくはない。しかし出来る事はあるはずだと思う。

中公文庫刊。600円。


文章読本 (中公文庫)