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2011-07-30

青年よ、炊飯器を捨て、鍋でめしを炊け


ひとり暮らしをするとなると、調理器具の筆頭として、まず揃えるのが
「炊飯器」
ということになるのだろうな。

べつに自分は炊飯器を好んで欲しいと思わなくても、親が
「このくらいは必要だから」
と無理やり持たせる、なんてことになるに違いない。

しかしこの炊飯器、邪魔じゃないか。
ひとり暮らしの狭いキッチン、置くとこあるのか。

流し台に置いてしまったら、もう料理する場所がなくなってしまうだろう。
冷蔵庫の上には電子レンジが鎮座してるんじゃないのか。
そうするとキッチンじゃなく、居間の戸棚とか本棚とか、そのあたりに置くことになってしまっているんじゃないのか。
ご飯を炊くと、蒸気で本棚の本が湿気ってしまうとか、そういうことになってしまっているのじゃないか。

まあ実際のところどういうことになっているのかは知らないが、狭いひとり暮らしの家で、炊飯器がかなり邪魔くさい存在になっているのは間違いないところだろう。

僕が言いたいのは、
「それならそろそろ、『脱炊飯器』してしまったらどうなのか」
ということだ。


◎ 炊飯器を使う理由


だいたいそんなに邪魔くさい思いをしてまで、炊飯器を使いつづける理由があるのか。

「炊飯器がないとめしが炊けない…」
んなこたない。
人類は炊飯器が存在する以前からめしを炊いていたのだ。

「炊飯器のほうがめしがうまく炊ける…」
それも違う。
炊飯器より、土鍋で炊いたほうがよっぽどうまい。
普通の片手鍋でも、下手な炊飯器よりはうまい。

「炊飯器だと手間がかからない…」
それは多少は言えるかもしれないが、鍋で炊くのだって、そうそう手間なぞかからないのだ。

「保温機能が付いているから便利…」
大家族や食堂なら別として、ひとりで暮らしているのだから、炊けたらすぐに食べればいい。
それに食べ終わったご飯はすぐに冷凍しないと、次の食事の時間には食べられなくなっているだろう。

このように少なくともひとり暮らしの家においては、
「炊飯器を使いつづける積極的な理由などない」
のに、なぜかめちゃくちゃ邪魔くさい思いをしながら、炊飯器が置かれていることになっているのだ。


◎ 「文化的である」という幻想


炊飯器は戦後、高度経済成長の始まりと共に開発された。
この頃「家電」が本格的に使われるようになったのだよな。
冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、エアコン…。
多くはアメリカから入ってきて、やはりこれは、圧倒的に「文化的」な感じがしたのだろう。
戦後の廃墟から立ち上がろうとする日本人にとっては、まばゆいばかりの輝きを放っていたのだろうな。

炊飯器はそういう家電の中にあり、さらに独特な地位を占めるにいたっただろう。
なぜならこれは完全に「日本発」の技術だからだ。
アメリカでめしは炊かないからな。
だから日本人にとって、炊飯器はさらに独特な思い入れもあったのかもしれない。

そうやって「文化の代表」として使われ続けてきた家電だけれども、そろそろここらあたりで、ほんとうに必要なものとそうでないものとを、きちんと仕分けしてもいいのじゃないかと思うのだよな。

冷蔵庫のように、圧倒的に必要であると思えるものもある。
でも意外にそれほど必要でもないものも多いと思うのだよな。
今年は「エアコン」が、節電の影響で、「思っていたより必要じゃなかった」ことが明らかになりつつあるかもしれない。

その中で炊飯器は、ひとり暮らしの家にとっては、
「圧倒的に必要じゃない」
ものであるのじゃないかという気がする。
むしろ「弊害」の方が、大きいと思うのだよな。


◎ 炊飯器の弊害

炊飯器の弊害として、まず第一に言えるのは
「邪魔くさい」
ことなのだけれど、炊飯器の弊害はそれだけにとどまらない。

初心者にとって
「料理の本質を見えなくさせる」
ことがあると僕は思う。

まず献立的な側面がある。

これは何度も言ってきたことなのだけれど、炊飯器があると、初心者が「食事を作ろう」と思う時、
「まずはめしを炊いて…」
ということになってしまう。
しかしそう思ってしまうことが、どれだけ「料理のやる気」を失わせることか。

めしを炊いてしまうと、それをきちんとした「食事」に組み込むためには、多くの場合
「味噌汁」
が必要になる。
それからさらに
「おかず」
も必要になる。
どれもそれなりに「火」を使わないとできない。

「食事のたびに、火を使って3品も作らなければいけない」となると、やる気をなくすのも、もっともなことだろう。

めしを炊きさえしなければ、もっと手軽に豪華な食事を作ることはいくらでもできるのに、炊飯器があるために、それがわからなくなってしまうのだ。

さらに
「米を料理する」
ことそのものについての問題もある。

「米」は日本人にとって、いちばん大事な、中心的な食材だろう。
それを料理するにあたって、炊飯器を使ってしまうと、「米を料理する」ことが、
「まるまるブラックボックスへ入ってしまう」
ことになる。

今、炊飯器を使わずに米を炊ける人は、ほんとに少なくなっているのじゃないか。
でもなぜ日本人は、自分にとっていちばん大事な食材を料理するのに、その方法を知らないのか。
その方法を知らずに、平気でいられるのか。
それがわからない。

自分にとっていちばん大事なものを、自分でやらずに機械に任せてしまうことなど、文化的でも何でもない。
ただの「丸投げ」だ。

また「米料理」を自分でしないものだから、初心者は
「米料理に様々なバリエーションがあること」
もわからなくなってしまう。
炊き込みご飯。
おかゆ。
これはめしを自分で炊いていれば、何のことはない、それの単なるバリエーションなのに、炊飯器を使ってしまっているために、えらく敷居が高いものとなってしまっている。

これは文化的であるどころか、むしろ
「文化を喪失しつつある…」
そのようにすら言えるのじゃないか。


◎ 青年よ、炊飯器を捨てよ

したがって僕は提案したい。

「青年よ、炊飯器を捨てよ。鍋で米を炊け」

今、原子力発電所だって、使うのをやめようかと言われるような時代だ。
炊飯器を捨てることなど屁でもない。

しかし僕は確約する。
炊飯器を捨てることにより、
「大きく広がる料理の世界がある」
ということを。


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◎ 鍋でめしを炊く方法

めしはほんとうは、「土鍋」で炊いたほうがうまいのだ。
めしを炊くには、とにかく
「高温である」
ことが大事で、土鍋は鉄やステンレスの鍋よりも、蓄熱の度合いが高く、高温を発することができる。
「かまどさん」という、めしを炊く専用の土鍋があり、これで炊いためしは、それこそ
「ヤバい…」
あまりにうまくて、おかずが全くなしでも、いくらでも食べられてしまうくらいだ。

しかし誰の家にでもあるだろう、ラーメンを作るときのような普通の「片手鍋」でも、めしは炊飯器に引けを取らないうまさで炊けるから、まずはそれを試してみたらいい。
土鍋がすでに家にある人は、それを使ったらいいが、やり方は片手鍋とまったく同じだ。


まず米を研いで水に浸しておく。これは炊飯器と同じだ。

ほんとうは普通の米をちゃんと自分で研いだほうがうまいけれど、無洗米だってかまわない。

問題は
「水加減」
で、これは炊飯器を使うと、内釜に刻んである目盛りに任せてしまうから、ほとんどの人がよく知らないだろう。

まず大事なことは、
「水加減は適当でも、それなりにおいしく炊ける」
ということだ。

やっているうちに微妙な加減がわかってくるのだが、適当にやったって、死ぬほどまずいめしになることはない。
だから、怖れずに色々やってみたらいいのだ。

水加減の基本は、自分で米を研いだ場合、
「米の量の1.1倍」
だ。

ちなみにこれはなぜかというと、
「水がちょうど米に同じ体積だけ吸い込まれ、あとは水蒸気で放出される」
という意味なのだ。
米は炊かれて、自分と同じ体積の水を吸収することにより、「めし」になるのだ。

ところがこの1.1倍という分量は、水が「まったく吹きこぼれなかった場合」の話で、これに鍋から吹きこぼれる水の量を足さなければならない。
これが、鍋によって違うのだ。

僕は
「150ccの米に対して、200ccの水」
でやる。

また無洗米を使う場合、無洗米はカップに同じ分量でも米の体積が多いのと、研がずに乾いた米に水を入れるから、米が吸収する水の分量を計算に入れないといけない。

僕は無洗米の場合、
「150ccの無洗米に対して、250ccの水」
でやる。

これを目安にして、色々やってみたらいい。
水がちょっとくらい多くたって少なくたって、食えないほどまずくなることは絶対ない。

米を研ぐ場合、鍋でそのまま研ぐだろう。
一度きちんと水を切らないと、水加減がわからなくなってしまう。
研いだ米をザルに空けてもいいのだが、いちいちザルを使うのはめんどうくさいから、手で米がこぼれないようにおさえながら、鍋をかたむけて水を切るようにする。

米は水に浸したら、最低でも30分以上、そのまま置いておく。


米を水にきちんと浸したら、いよいよ火にかける。

火加減で大事なのは、
「めしは鍋の温度が高ければ高いほどうまく炊ける」
ということだ。

ただここで、あまり火を強くし過ぎると、吹きこぼれが激しくなりすぎるので、その兼ね合いで火加減は決まることになる。

だから、まあ要は
「中火…」

なんてことない妥協策だ。

しかしここで注意しないといけないのは、
「吹きこぼれるからといって弱火にしてはいけない」
ことだ。
吹きこぼれは承知のうちで、ある程度の火の強さを保たないと、おいしいめしは炊けない。

それでだんだん鍋から水が吹きこぼれ、蒸気も出て、水がガンガン沸騰する状態になる。

問題は、
「いつ火を止めたらいいか」
だ。

吹きこぼれがだんだん収まってくる。
鍋から出る蒸気の勢いが、だんだん弱まってくる。

そしてそのうち、
「チリチリ…」
という音がし始める。

これは鍋の底で、わずかに残った水が蒸発を始めたことを示す音だ。
この音がし始めたら、「鍋に水がなくなってきた」ということだから、ここで火を落とすことになる。


ただここで、非常に大事なポイントがある。

「火を完全に落としてしまわない」

ことだ。

水がなくなると、米は「蒸らし」という状態に入る。
米粒の中に入り込んだ高温の水が、さらに米をふっくらとした状態へ仕上げてくれるのだ。

ここで、「ある一定の温度」が絶対に必要なのだ。
温度が低いと、めしがふっくらと仕上がらない。

だから、
「最も小さなとろ火」
の状態にして、3分から5分くらい。
あまりやり過ぎると、今度は鍋底が焦げ付いてくるので、そうならないくらいの間、火をつけておくようにする。

こうやって火をつけておくことは、温度を下げないことと、さらに鍋の中の余計な水分を飛ばしてくれる効果もある。
これをやるかやらないかで、めしの味は大きく変わるから、ぜひ忘れないでやってみてもらいたい。

火を完全に止めたら、さらに5分ほど蒸らして、めしは炊き上がりだ。


自分で鍋で炊いためしは、炊飯器に任せて炊いためしより、はるかに愛着がある。
その愛着が、また「うまさ」を倍増させるのだ。

もし「めしが硬すぎる」とか「やわらかすぎる」とか不満を感じたら、水加減や火加減をいろいろ変えてみる。
そうやって様々に試行錯誤をしながら、自分の技術を向上させていくことができるというのも、
「めしを自分で炊く」
ことの大きな楽しみだ。