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2011-07-12

「復興の精神」おもしろい

今毎晩風呂に入りながら、「復興の精神」というのを読んでいて、けっこう面白い。

大震災と原発災害について、日々報道機関によりニュースが流され、各界の識者がさまざまな具体的提言を発表しているけれど、もう少しじっくりと、
「今何をなすべきなのか、何を考えるべきなのか」
を考えたい。
ということで、新潮新書編集部が人選した9人が寄稿したというもの。

たしかに震災と原発について、僕も特集した雑誌をいくつか読んだりして、非常に勉強にはなったのだが、ちょっともう食傷気味。
目の前にいまだ復興の進まぬ被災地と、極度の混迷におちいった政治の状況があり、そこから目を離してはいけないけれど、もう少し大きなスパンでものを考えたい。
そんな風に感じている今、この本はなかなか参考になる。

いくつか興味を惹くものがあるのだが、一つは禅僧 南 直哉が「祈り」について書いたもの。

被災地の人達の今もつづく過酷な現実にたいして、多くの国民は「無力」である。
もちろんボランティア活動をしたり、経済的な応援をしたりということはあるけれど、被災者の人達の苦しみを自分が代わってやることはできない。
そういう巨大な現実を目の前にしたとき、人間は「祈る」という言葉のほんとうの意味を知ると南は言う。

これまで日本は、また同様に世界は、現実にたいして、
「何でも思い通りにすることができる」
と考え、科学技術を発展させ、政治経済の枠組みを形作ってきた。
でも今回の震災と原発事故が示しているのは、
「思い通りにならない現実というものが、ある」
ということだ。

今回の震災を機に、現実をなんでも思い通りにしようとすることを一旦やめ、
「人間は無力なのだ」
ということを前提とした、新たな生き方を模索すべきではないのか、と南は言う。

僕も今回の震災をきっかけとして、「祈り」の意味を初めて知ったクチだ。
以前から宗教家の意見を聞いてみたいと思っていたのだが、この南の考えは、僕自身が今漠然と感じることと、ぴったりと重なる感じがした。

それからもう一つは、医師 大井 玄の文章。

今の日本の状況が示している際立った特徴は、一つには、被災地の人々が冷静・沈着で、災害時には横行するものである略奪などもいっさい起きず、他人にたいして思いやりを持った、秩序だったふるまいを維持していること。
そしてもう一つは、政治におけるリーダーシップの決定的な欠如である。
そう大井は言う。

しかし日本のこの特徴は、今に始まったことではなく、徳川時代からすでにそうだったというのである。
幕末に日本へやって来た欧米の使節団は、
「日本は文化的、経済的には程度が高いが、政治的には無能である」
という評価を下している。
そのことをこれまで多くの識者が嘆きつづけてきたけれど、それはいまだ全く変わっていないということが、今回の震災で証明されている。

しかし、と大井は言う。この民衆の秩序と政治の無能さとは、全く同じ、一つのことの二つの側面なのだと。
日本は狭い国土と、限られた資源の中、森林の管理や有機肥料の活用などを緻密におこない、リサイクル型の生活様式を編み出すことにより、多くの人口を養ってきた。
江戸時代後期には、アメリカの国土の30分の1で、しかもその8割が山岳地帯という狭い貧しい土地において、アメリカより1千万人も多い3300万人が平和に暮らしてきた。
そのために必要だったことが、
「分を超えた欲望の自制、勤勉、そして争いの回避と協調」
という倫理意識だったという。
この倫理意識が、「被災者の人たちの秩序だった行動」と、「政治の無能さ」との両方にあらわれている。

たしかに政治的な混乱は、嘆かわしいことではあるが、それでは政治家がリーダーシップを発揮すれば、それで問題は解決するのかといえば、「そうではない」と大井は言う。

たとえば、アメリカはサダム・フセインがアルカイダと結託し、大量破壊兵器を保持しているという全くの「妄想」のもとに、イラクを攻撃し、フセインを殺害した。
しかしこれは、当時のブッシュ大統領による、強力なリーダーシップによって行われたのではなかったか。
地球だって本当は、限られた資源しかない、狭い土地なのだ。
そういう場所で、アメリカのように武力で他国を脅迫するようなことをしていたら、人類は遠くない将来到底やっていけないことになる。

日本は政治的にいかに無能であろうとも、古来より幾多の災害に遭い、それを克服し、復興したきた。
今回の大震災と原発災害だって、多くの困難はあろうとも、日本人は克服していくだろう。
復興の原動力は、「勤勉と協調」という日本人の倫理意識に根ざすもので、それこそが、これからまさに、世界にとっても必要とされるものではないのかと、大井は言う。

かなり共感するものがありますね。


昨日の昼めしは、ハマチあら炊きの煮こごり。
煮こごりというのは、炊きたてとは全くべつの食い物になるのだよな。
これはいいですよね。


晩めしは、茄子と鶏のうま煮。
僕がいつも見ている「ねこおやじさん」という人のブログに、「茄子のうま煮」というのが載っていて、それを参考にした。
http://nekouresi.blog85.fc2.com/blog-entry-419.html


ねこおやじさんのレシピは、茄子を単品で煮込むものなのだけれど、一人暮らしで食事を作るとなると、単品の惣菜をいくつも作るのは手間がかかるから、いくつかの材料を一気に料理できるもののほうがいいというのが、僕の考え。
それで茄子を鶏肉といっしょに煮て、素麺を添えてみた。

茄子は皮を残すと煮汁が青く染まってしまうから、皮はすべて剥いて使った。
鶏肉と茄子とを多めの油で炒め、そこへたっぷりの酒と、水を入れ、砂糖、みりん、醤油でこってりめに味付けして、しばらく煮るという話。

簡単にできて大変うまいです。

昨日は大七からくち生もとを2合半で飲み切った。