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2011-01-28

生命本紹介 「生物記号論」 (川出由己)


「生きているとはどういうことか」に興味があるという場合、科学において、「生きている」ものをあつかう分野、生物学をひもといてみるというのが、当然王道にはなるはずなのだが、現在、生物学の主流となっている分子生物学について、いろいろ触れてみても、どうも今ひとつしっくりこない。

分子生物学は、生き物を「分子でできた機械」と考えるもので、生き物の最小単位である、目にも見えぬほど小さな細胞というものが、DNAやら、タンパク質やらといった様々な分子が、いかに巧妙に組み合わさることにより、全体として「生きる」ということを実現しているのかということについて、驚くほどたくさんのことを明らかにしていて、細胞というものが、なんともうまく出来ているものだと感心するとともに、それを次々と明らかにしていく生物学者の力量にも、舌を巻く。

しかしそれに触れれば触れるほど、わき起こってくる疑問があり、それについて納得のいく説明が、どこにもされていないということに、気づくことになるわけなのだが、それは「そんなにすぐれた機械を、誰が何のために、どのようにつくったのか」ということだ。

たとえばここに時計があり、時計というものを知らない人が、それを理解しようとする場合、もちろんその時計のフタをあけて、一つひとつの歯車がどうなっていて、それが他の歯車とどのように組み合わさって、全体としてどのような働きをするのもなのかをくわしく調べるということは、当然やってみるべきことなのであるが、それだけでは時計というものを理解したことにはならない。
時計というものが、「時刻をしめす」という目的のためにつくられたものだということがわからなければ、時計の仕組みについて、どんなにくわしく知ったとしても、何もわかったことにはならないし、さらには、もともと時計というものが、こういう形で発明され、それがどのように発展して、今の形になったのかということも、知るべき大事なことだろう。

生き物というものは、これは当然、人間がつくったものではないわけだが、神様がつくったということも、今は信じる人は少ないだろう。
自然によって生み出され、何十億年という長い期間をかけて、育てられてきたものなわけなのだが、それでは自然は、これだけ様々な種類の生き物を、何のために、どのようにつくってきたのかということについて、現在の科学はどのように答えるのかといえば、自然や生き物に目的などはなく、原始の地球にたまたまあった、いろいろな種類の分子が、ただ偶然、よせあつまり、ランダムに変化しながら、まわりの環境にうまく適合し、たくさん増えることができたものは生き残り、そうでないものは死滅するということの繰り返しで、今のような複雑精妙な生き物までが、生み出されたきたのだという。
それは例えてみれば、サルにタイプライターを打たせていれば、いつかシェイクスピアのような、立派な文学作品ができるだろうと期待するようなものであって、常識的にはまったく信じることができない。

シェイクスピアが時代をこえて、あれだけ人を感動させる作品を残せたということは、それなりの想いがあり、それを実現する才能があって、さらにそれをじっさいに努力して書き上げるということがあって、初めて可能だということは、誰もが認めるところなわけだが、現在の主流の科学は、それはあくまで人間についての話であって、自然はそういうものではないという。
自然には目的や思い、意思や努力などというものは、いっさい存在することはなく、ただ偶然生みだされた原因が、環境の作用を受けながら、ある結果を導きだすだけであると、言うわけなのである。

科学はもともと、キリスト教に対抗し、キリスト教が、すべては神が造りたもうたと言うのにたいして、そうではなく、神ということばを抜きにして、真実を明らかにしようというところから生まれたものだから、目的とか意思とか、そういうものについて、過敏に反応するというのは、わからないこともないのだが、しかしそういうものをまったく抜かして、これほど複雑精妙な分子の機械が、どんなに長い期間があったとしても、ただの偶然の結果として出来上がってくるというのは、素朴な常識的な感覚からすれば、ちょっと理解するのは難しい。

しかし科学者のなかにも、じつはそのように考えている人もいるのであって、この本の著者である川出由己もその一人。
川出は63歳の定年まで、京都大学で免疫について研究していたが、そのあいだずっと、生き物をただ物理的な機械が、偶然の産物として生み出されてきたと考えることになじめず、大学を退官後、それでは生き物を、どのように理解したらいいのかということについて、自分の頭で考え始めた。

いろいろな本や論文を読み、人の話を聴くうちに、ある日出会ったのが「生物記号論」。
記号論というのは、人間のことばのふるまいをもとに、それを抽象し、一般化したもので、生物記号論は、生き物もただ物理的な側面ばかりでなく、記号的な側面をもつと主張する。
目的や意思をもち、主体的なふるまいをするものであると考えるものなのだ。
もちろんこれは、主流の生物学とは、真っ向から対立するものであって、生物記号論を真剣に研究する人は、ほんとに少数派であるわけなのだけれど、川出は十数年にわたって、自分の頭で考え続け、その末にまとめられたのが、この「生物記号論」。

これはまったくよくできた本で、まず書かれている日本語が、とても平明でわかりやすい。
学者の書いたものというと、どうしても難しく、わかりにくくなってしまいがちだが、この本には微塵もそういうところがない。
もちろんマンガや雑誌を読むのにくらべれば、たしょうの骨は折れるが、「生きているとは何か」を真剣に考えたいと思っている人であれば、専門知識のまったくない、ずぶの素人であったとしても、最後まで読み通すことができるようになっている。

内容については、まったく納得ができる。
生き物が記号という側面をもつということについて、これだけの根拠をしめしながら論じられれば、ふつうなら誰でも、まったくその通りであると、思わざるを得ないだけのものとなっている。
議論に飛躍したところもない。
一歩一歩ていねいに、踏み外さぬようゆっくりと進んでいく。

著者の結論は、「生き物はすべて、心の次元をもつ」ということだ。
それは現在の一般常識からすれば、ちょっと奇妙な感じはするのだが、一般常識から反することが、なにもまちがいであるとはかぎらない。
相対性理論や量子力学が、どれほど一般常識と反する理論を打ち立てたのか、思い出してみるがよい。

この本は、現在の主流の生物学がまったく無視する、しかしなくてはならぬ重要な側面について、現時点で望みうるかぎり、もっともわかりやすく、そしてバランスよく、書かれたものである。
「生きているとは何か」を知りたいと思う人には、専門家であるとないとにかかわらず、必読の書であることは疑いがない。