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2011-01-23

茂木健一郎氏、郡司ペギオ-幸夫氏の講演を聞いた


1月21日に、大阪大学人間科学研究科で開催された、シンポジウム「生命ってなに?生きている私ってなに?」で、脳科学者である茂木健一郎さんと、理論生物学者である郡司ペギオ-幸夫さんが話をするというので聴きに行った。
吹田にあるキャンパスで、家からは1時間ほど。
でも途中4度も乗り換える。
万博をやった場所の近くで、太陽の塔、初めて見た。
意外にでかかった。

大学の新しいキャンパスというのは、だいたい山の中にあるもので、吹田キャンパスもそうなわけだが、寒いこと寒いこと。
京都も寒いが、それよりだいぶ寒く、また会場も、途中で暖房を止めたりするものだから、階段教室だったから上のほうは暖かかったのかもしれないが、最前列、階段のいちばん下に陣取った僕は、ダウンを着ながら話を聞いてた。

それはどうでもいいのだが。

いちばんの興味は、郡司さんの話に、茂木さんや、あと主催者である哲学者、檜垣立哉さん、またやはり哲学者の塩谷 賢さんが、どう絡むのかということだったのだけれど、結論をいえば、あまり絡んでいなかった。
郡司さんの書いたものとか、皆あまり読んでいないのだな。
だからそれぞれの視点の話がただ並ぶということになり、それについてはちょっと残念だった。

でも郡司さんと茂木さんの話は、それぞれとしては、とてもおもしろかった。




郡司さんというのは、猛烈な早口で、しかもぼそぼそしゃべる人で、郡司さんの話がわかりにくいと言われるのは、内容の難しさもさることながら、その話し方にも、大きな理由があると思うのだが、それでも昨日は、文系の大学生を相手に話すということで、専門用語は極力つかわず、短い時間のなかで、できる限りわかってもらおうとしているということが、よく伝わってきた。

郡司さんは今、動物の「群れ」についての研究に取り組んでいて、群れというものが実は、人間や動物の「からだ」と同じようなものだと言えるいう、あまりに刺激的なことに取り組んでいる。
考えてみたら、郡司さんが言うとおり、人間のからだというものも、無数の細胞が集まったものであって、群れの一種であると言えないこともない。

群れというのを説明するこれまでの理論というのは、鳥なら鳥が、一匹一匹が、まわりの鳥と、進む方向とスピードを揃えようとすることで、群れ全体として一つの方向へ進むのだと考えるというものだった。
これは集団が統制されたふるまいをするという場合に、誰でもすぐ思いつく考えだ。
軍隊の行進などは、実際、まさにそういう考え方によって統制されている。
しかしそれだけだと、すべての鳥が同じ方向へしか進まないことになるので、「ゆらぎ」というものがあって、一匹一匹が気分によって、ランダムに方向やスピードを変えてしまうことがあり、その変化にまた、まわりが合わせようとすることで、全体として方向やスピードが変化するということにする。

ところがここ数年、コンピュータによって映像を解析するという技術が著しく進歩して、動物の群れをビデオで撮り、そこから動物の一匹一匹が、実際にどういう動きをしているのかということを、きちんと測定することができるようになってきた。
そうするとそこから、今までの考えではまったく説明ができないことが、群れのなかで起こっていることがわかってきたのだ。

群れが全体としてある方向へ進んでいるとして、一匹一匹がその全体の方向から、どのくらいずれているのかということを、撮影したビデオの映像から計算することができる。
今までの理論では、ゆらぎは一匹一匹の気分によって、ランダムに起こることなわけなので、それらはすべての鳥について、バラバラなものであるはずだ。
ところが実際には、群れの中のかなり大きな集団で、その中にいる一匹一匹の鳥の進む方向の全体からのずれが、みな揃っている場合があるということがわかってきた。

集団の中で、ずれが揃っているとは、群れの全体はある方向へ進もうとしているのに、群れの中のその集団だけは、それとは別の方向に進もうとするということだ。
これは例えてみれば、人間が歩いているときに、腕を動かせば、その腕は、歩いて進もうとする方向とは別の方向に動くというのと、同じような話だ。
動物の群れのなかに、からだの腕や脚などの器官にも相当するような、独立した集団があるということなのだ。

そういう独立集団が、それではどうやって、揃った動きをするのか。
音波などの物理的な信号によって、おたがいに連絡をとりあっているのか。

もしそうであるとしたら、音波なら音波のとどく距離というものは、その物理的な性質からきまる、一定なものであるはずだから、集団の大きさというものは、そこから一定なものになるはずなのだが、実際にビデオから測定してみると、なんと、その集団の大きさは、群れが小さいときには小さく、群れが大きくなると、それに比例して大きくなるという。
小さな子どもは腕も短いが、大人になれば長くなる、ということと同じ話だ。
そうであるとすると、その集団は、物理的な信号によって統制されているのではなく、別の理由でそういうふるまいをするようになっていると考えなければいけないわけで、これまでの理論ではそれを、まったく説明できなかった。
ところが郡司さんがあるモデルを作り、それがこのことを、ピタリと説明したということなのだ。

モデルの詳しいことについては、僕もよくわからなかったが、根本的な考え方としては、郡司さんはカニについてのモデルを作ったのだが、このカニが、自分のまわりを認識するのに、ふた通りの認識の仕方をするということなのだ。

まわりに仲間のカニがそれほどいないときには、カニは、自分のまわりのカニがどこかへいなくなったら、そこへ自分が移動する、ということをする。
これは、カニは自分のまわりというものを、一匹ずつのカニが何匹かいる、という形でとらえているということだ。

それにたいして、自分のまわりにたくさんのカニが集まった状態になってくると、カニは、自分のまわりのカニたちを、ちがった形で認識するようになる。
カニは自分の進もうとする方向について、たくさんの可能性をもっているわけだが、それを同様にたくさんの可能性をもった周囲のカニと、郡司さんは「共鳴」ということばを使っていて、これが具体的にどういう計算をすることなのか、よくわからなかったが、とにかく、近くにいるカニどうしが、おたがいの可能性について折り合いを付けながら、全体として一つの方向を決めていくということをするというのだ。
ただ他人に合わせるとかいうことではなく、あくまでたがいに共鳴しながら、一つの方向を見出していくという、場のようなものが、できてくるというのだな。

そういう、自分の進む方向が、自分が一人で決めるということでもなく、他人に合わせるということでもなく、そのどちらでもない、中途半端といえば中途半端なやり方で決まっていくと考え、それをモデルに組み込むと、これまでの理論では説明できなかったカニの群れのふるまいについて、見事に説明できるようになるという話なのだ。
なぜそう考えると、群れのなかに、全体と方向がずれた、独立した集団ができることになるのか、不思議といえば不思議な話だが、とにかくそういう考えを組み込んだモデルをコンピュータでシミュレーションしてみると、たしかに実際のカニの群れのふるまいを、まことにうまく説明してしまうのだ。

郡司さんがすごいと思うのは、郡司さんも、そのモデルを作るにあたって、実験結果を見て、それを説明できるのは、このモデルだ、ということを、論理的に導きだしたのでは、たぶんないのだ。
郡司さんにとってはまず、ただ自分をまわりと合わせるだけの、そういう存在が生命であるはずがない、という確信が、はっきりとあるということなのだな。
そして生命というものは、こういうものであるはずだという、郡司さんの考えがあって、それをモデルにしてコンピュータで計算させてみたら、偶然といっては失礼なのだが、結果として、実験結果とピタリと合った、ということなのではないかと思う。

自分の確信が、実験を見事に説明するというのは、相対性理論を作ったアインシュタインにしても、量子力学建設の立役者だったニールス・ボーアにしても、全盛期にはそういうことだったわけなのだが、郡司さんが今、そういう風にして、実験結果を次々と説明していっているということは、郡司さんが科学者として、まさに脂がのりきった時期に入っているということなのだろうな。




茂木さんは、夏目漱石の話から入った。
夏目漱石が、東大だったかの教授の口がほとんど決まっていたのに、それを断って、朝日新聞社という、当時でいえばほとんどベンチャー企業のようなところへ就職したりだとか、イギリスへ留学しても、自分はイギリスのような文学はやらないと決心して帰国したりだとか、世の中の確立した体制だとか、考え方だとか、そういうものに頼ったり属したりせず、そこからは「降りる」決意をし、一介の文学者として、物事を自分の実感にもとづき、自分の頭で考えていくという生き方をしたことを紹介し、自分はいま、そういう風に生きようとしているし、これからの日本や世界にとって必要なことは、そういう生き方をすることなのじゃないかと、茂木さんは言う。

茂木さんは何人かの学生を指導もしていて、彼らにたいしては、きちんと博士号が取れるように、「クオリア」などということはひとことも言わず、今の認知科学の確立した方法論のなかで、無難なやり方で研究をさせるようにしている。
しかし本当は、クオリアなどという、これこそが解決すべき最大の問題であるというものを突破していくためには、いま科学者たちが、ただ論文をたくさん書き、自分の実績を作るために行っている研究のやり方など、まったく意味がない。
茂木さんはそれを、どこかの学会で、みなの前で言ってしまったらしくて、それでいま、科学者仲間から「干されている」という仕打ちにあっているのだそうだ。

茂木さんは、クオリアなどの問題は、いま主流に行われている研究のやり方では、ぜったいに解決できないということを、論理的に結論したということで、そうではない進み方というものを、なんとか見つけようと、日々模索している。
それと同時に、去年1年間は、ツイッターによって日本を変えられるのではないかと考え、それに向け努力をしたけれど、世の中の確立した体制というものは、なかなか手ごわくて、そう簡単にひっくり返せるものではないということがわかり、それはもうあきらめたのだそうだ。
しかし日本が、そして世界が、今どんどん崩壊しつつあるのはまちがいないことであって、それを食い止めるためには、ただいい大学へ入って、いい会社へ就職して、などということを考えていてもダメなのだ、自分が何をやらなきゃいけないのかということについて、ほんとに自分の頭で考え、それを行動に移していくことをしなければならないと、大教室にいっぱいの聴衆の学生たちに向かって、茂木さんは力強く語っていた。



僕も基本的に、茂木さんと同じ想いであって、前の会社に入ったのも、そしてまた辞めたのも、世の中のレールにただ乗って進むのではなく、自分の頭で考えたいと思ってのことだった。
 
思い出してみれば、僕が大学に入ったときには、大学の権威というものは揺るぎないもので、まさかその大学が、つぶれるなどということは、考えられもしなかったことなわけだけれど、それから早30年、時代は変わり、大学も統廃合され、一流企業や銀行すら、つぶれたり、外国資本になったりする、激動の時代を歩んできている。
ソ連が倒れ、戦後の体制が崩壊し、これからはアメリカ中心の明るい世の中になるのかと思ったら、アメリカは巨大な軍事力を背景として、自分たちに都合のよい体制を世界に迫り、ひたすら金儲けに走るようになる。
それに対抗して、軍事的な、また最近では情報的な、テロリストが横行し、また中国を初めとして独裁政治が、ふたたび息を吹き返している。
民主主義だというけれど、もうそれはほとんどお題目に近いものになってきていて、アメリカも日本も、どちらへ進んだらいいのか、まったく先が見えなくなっている。

なぜ世界がそのようになっているのか。
それは、その世界を形作っている、根本的な考え、「近代」とよばれる考え方が、もうすでに限界にきていて、「ポストモダン」とかいって、何十年か前に「近代は終わりだ」と盛んに言われたけれど、けっきょく近代にかわる新しい考え方を生み出すことができず、今に至ってしまっているということが理由なのだ。
近代という考えの根幹に、科学があり、科学はたしかに、人類を大きな隆盛にみちびいたけれど、それは同時に、各国が保有する膨大な数の兵器や、深刻な環境汚染というものをも生み出しているのであって、このままでは人類は破滅しかねないと、皆がうすうす思っているのに、誰も立ち止まることができない。

そのとき、そこでもっとも問われるべきことは、「生命」とはなにか、自分の「意識」とはなにか、という問題なのだ。
現在の科学は、ここにはっきりとした答えを与えることができずにいるのだが、それは、科学というものがもつ限界そのものの、はっきりとした表れでもあるのである。
科学が、この問いに正面から向き合い、もしそれを突破できることがあったとすると、そのときには、科学というものそのものが、根本から大きく、つくり替えられるということを意味する。

郡司さんも茂木さんも、このことをはっきりとわかっていて、そこになんとか、少しでも貢献したいと、日々努力している人たちなのだ。
それはもちろん非主流派であり、少数派なのではあるが、しかし確実に、少しずつ前に進んでいるのであって、僕がいちばん願うことは、僕もそういう人たちのそばにいて、自分ができることを少しでも、いっしょにやっていきたいということなのだ。