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2011-01-12

【読書感想】 「春宵十話」 (岡 潔)


1901年、明治34年生まれ、1978年に亡くなった数学者、岡 潔のエッセイ集。 
この人、小林秀雄と対談していて、それを僕は小林秀雄の全集で読んだのだけれど、小林秀雄は毎日新聞に連載された、この「春宵十話」を読み、おもしろくて、切り抜いて保存しておいたほどで、対談でも息があって、当時小林秀雄は「感想」を未完で中断したばかりのころで、そのあたりの自分の気持のこととか、ずいぶん素直に話している。
小林秀雄はずいぶんいろいろな人と対談したのが全集に入っているが、そのなかではこの岡潔と、あと坂口安吾とのものが断然おもしろく、それでこの「春宵十話」は、ずいぶん前に読もうと思って買ってあったのだ。
ちなみに小林秀雄と岡潔の対談は、「人間の建設」というタイトルで文庫本にもなっている。

明治生まれの人というのは、もう生きているとしたら100歳を超えることになるから、存命の人は少ないと思うけれど、やはり明治というのは、今の時代とはずいぶんちがって、小林秀雄にしてもそうなのだが、考え方がシンプルというのか、気骨があるというのか、そういう人たちのことばに触れると、懐かしいというのか、今の時代ではほとんど忘れ去られているようなことを、思い出すという気にさせられる。

岡氏は40代で敗戦を経験し、その後の日本が大きく変わってしまって、このままでは日本、そしてそれだけじゃなく世界は、滅びてしまうのではないかと本気で心配している。
何でも「自分が自分が」と言うようになり、昔はまず人のことを先に心配して、自分のことはあとにまわすというのが、日本人の美徳だったはずなのに、それがすっかりなくなり、とくに女性の顔が、戦前とは大きく変わり、「動物的」になったという。
女性の初潮も、戦後になって2歳以上早くなり、これは戦後の教育が、何でも自分のやりたいことをやらせるという、人間の動物性を刺激するようなことばかりをやっているのが理由であるにちがいなく、このエッセイを書こうと思ったのも、それがまちがっているということを、世の中の人になんとか伝えたいということが動機であると書いている。

教育に必要なのは、知識ではなく、まずは「情緒」であると、岡氏は言う。
きれいな日本語で書かれた歴史や文学を子供に読ませたりして、物事を受け取るための基盤となる、人間の情緒というものを、子供たちにしっかりと植えつければ、あとは子供たちは、様々な知識を、自分の力で吸収できるようになっていく。
それがなく、ただ知識ばかりを与えるようになっているから、いびつな人間ばかりが育つということになっているのじゃないか。
だから教育のやり方としては、戦前のやり方から、軍国主義だけを抜いたものが、いちばんいいと言う。

僕は東京に40年以上住み、それから名古屋、広島、そしていまは京都に住むという経験をしているのだが、地方に住んで初めて、東京というのがいかに非人間的な場所かということを痛感することとなった。
だいたいすし詰めの満員電車で1時間も2時間もかけて通勤するのが、当たり前な、ふつうのことであるとされている場所だ。
目の前に、美女でもいればいいが、だいたいはおやじのハゲた頭が並んでいたりして、それを1時間も2時間も眺めつづけるというのは、明らかに人間の限界を超えている。
だから東京では、他人に関心をもたなくなり、街を歩いていても、人と目が合うなどということは、ほとんどない。
もし目が合うとしたら、それはセールスや呼び込みなのだ。
現代日本の最先端から、ちょっと離れるだけでも、それだけのものが見えてくるのだから、これが100年ちがったら、世界はどれほど人間味にあふれていたのだろうと思ってしまう。

現代はすでに、岡氏が危惧したよりも、さらに事態は悪化していて、僕も人類は滅亡するのではないかという岡氏の意見には、うなずかざるを得ない。
岡氏はそれを食い止めるためには、あまり効き目がないように見えても、けっきょくは教育というものがいちばん大切なのであって、それを変えるために、自分ができる限りのことをやってみるということをした。
時代を100年前にもどすなどということは、もちろんできないことなのだけれど、人間とは本来、どんなものであるのかということについて、微力ではあっても、一人ひとりができるだけのことをしようとしていくことが、けっきょくは最終的に世の中を変えることにつながっていくと、信じてやっていくしかないのだと思う。

岡氏は自分の数学上の発見についてもいろいろ書いていて、それもおもしろい。
発見というものは、知識を積み重ねていった結果起こるものだろうという気がするが、実際にはそういうものではないそうだ。
もちろん自分で、詰められるだけ詰めて考え続けるということは大事なのだが、それをただそれだけでは、発見は起こらない。
そうではなく、ぜんぜん関係ない、きれいな景色を見たり、芸術にふれたりしたときに、その考え続けていたことの答えが見つかるのだそうだ。
知識というものは、ただ組み立てるものではなく、それがすべて、いちど自分のなかに入って、無意識のうちに発酵して、それがそのうち湧き上がり、形をあらわすようになる。
それが発見なのであり、それはあくまで、知識ではなく、情緒の目でしか見えないものなのだ。