さて、まただらだらと、今度は自分のことなぞ書いてしまって、自分でも、この「暗黙知の次元シリーズ」はどこへ行くのだろうと、不安にもなるのだが、「暗黙知の次元」の最後の、驚くべき結論までは、なんとか辿り着きたいと思っているのだ。
ポランニーは、暗黙的な認識、すなわち、梅干しとかつお節というものを踏まえながらも、その一つ一つを注視するのでなく、あくまで「冷奴の薬味」というものを探し求めるとき、「梅かつお」という新たな形が姿をあらわすということ、また相手の話す英語の、単語の一つ一つを理解しようとするのでなく、相手が何を言いたいのかに耳を傾けるとき、相手の話す英語の内容が、はっきりと見えてくるということ、そのことは、ここでいきなり、辿り着きたいと思っていると今言ったばかりの、この「暗黙知の次元」の結論を言ってしまうと、「生命そのものである」と言うのだ。ポランニーは、40億年前に、初めて細胞というものが生まれたとき、そこには、この梅かつおが僕の中で姿をあらわしたのと同じことが起こっていた、梅かつおを生みだすのと同じ原理が、40億年前に働いていた、と言う。さらに、そこには「意識」が発生していなければいけなかったはずだ、とまで言うのである。
すごいな、ポランニー。僕はまったく同意見だ。ってポランニーにとっては僕ごときが賛成したって、何の足しにもならないわけだが。
一般的な考え方としては、100億年前に宇宙というものが出来て、そこには人間はおろか、生命の痕跡すらなかったところが、何らかの原因によって、40億年前に最初の細胞という形で生命が生まれ、そしてその延長線上に、100万年前に、言語を話し、意識をもった存在である人間が生まれた、とされている。つまり普通は、100万年前より以前は、意識というものはなかったし、40億年前より以前は、生命というものはなかったと、考えるわけだ。でもほんとにそうなのか。
例えば、誰でもいい、ある人間、小沢一郎のことをどうしたら理解できるか、ということを考えてみるとする。もちろん小沢一郎を完全に理解した、ということは、人間は自分ですらも、完全に理解することはできない以上、永久にないことなわけではあるが、小沢一郎はなぜああいう不機嫌そうな顔をしているのかとか、小沢一郎はなぜ、ああいう高圧的な物言いをするのかとか、そういうちょっとしたことでも、理解できるということがあるとすると、それは小沢一郎を、自分と同じ人間であると仮定することによるのじゃないか。小沢一郎の一挙手一投足を自分に当てはめ、自分に置きかえて考えてみるからこそ、小沢一郎を少しでも、理解できるということがあるのだろう。
それは小沢一郎に限らず、歴史上の人物についても同じだろう。500年前に生きた織田信長という人を、僕たちは僕たちなりに、理解しようとすることができる。それは様々な歴史資料から、自分のなかに、自分と同じ人間である織田信長が、何をどう考えたのかを探ることだ。自分と違うものであったとしたら、理解の仕様がないのじゃないか。
そのことは、僕は単純に、500年を40億年に引き伸ばしてもいいのじゃないかと思うのだ。40億年前に人間がいなかったことは、それは当たり前、確かなことだ。しかし、「自然の全体」というものを考えてみたとき、その総量は、今と変わらなかったと考えなければ、40億年前を理解することはできないのではないか。その自然のなかに、少なくとも今は、「意識」というものが存在する。であれば、40億年前、初めて細胞が生まれたときに、意識に相当する、同じ性質のものが、自然には存在すると考えなければいけないのではないか。さらにそれは、100億年前に宇宙ができたときから、すでにあったと考えなければいけないものなのじゃないかと思うのだ。
それは必ずしも、ひどく突飛な話というわけでもなく、たとえば物理法則というものについて考えてみると、今自然を支配しているのとまったく同じ物理法則が、100億年前から、いやもしかしたらもっと前から、存在すると考えるからこそ、宇宙の起源というものを考えることができるわけだ。宇宙そのものは100億年前にできたかもしれないが、物理法則自体は、そのとき初めてできたものではなく、終始一貫変わらないものとして考える。
もし仮に、生命というものを支配する、物理法則とは違う、何らかの新しい原理、それはポランニーは「あるに違いない」とはっきりと言うし、僕もまったく100パーセント、その通りだと思うのだが、そういうものがあったとして、それがあらゆる生きものから、人間の意識というものまでをも、貫いているものであるとしたら、その原理は、100億年前から終始一貫、変わらずに存在し、それが最初の細胞を生み出し、あらゆる生命、そして人間というものを生み出してきたと考えることは、何もおかしくない。逆に、意識というものが100万年前に初めて生まれ、生命が40億年前に初めて生まれたと考えることが、物事を難しくしてしまっているのじゃないかと、僕の場合は完全に素人考えで、「DNAの冒険」をして以来、漠然と思っていたのだが、まったく同じことを、ポランニーは考えている。少なくとも、ポランニーは考えていると僕は思って、この「暗黙知の次元」、死ぬほど面白かったのだ。
とここまで書いてしまったら、「暗黙知の次元」について、なんとなくすっきりしたかも。ポランニーはもちろん、こんな雑な議論はしないのであって、もっと一歩一歩丁寧に、それこそ蝶が舞い蜂が刺すように進んでいくのだけれど、その足どりや、そのなかに見えるポランニーの迷いや、自信のなさや、また逆に確信みたいなものは、「暗黙知の次元」を実際に読んで、感じるしかないことなわけで、僕がとやかく言うことじゃないような気もするしな。
とここまで書いてしまったら、「暗黙知の次元」について、なんとなくすっきりしたかも。ポランニーはもちろん、こんな雑な議論はしないのであって、もっと一歩一歩丁寧に、それこそ蝶が舞い蜂が刺すように進んでいくのだけれど、その足どりや、そのなかに見えるポランニーの迷いや、自信のなさや、また逆に確信みたいなものは、「暗黙知の次元」を実際に読んで、感じるしかないことなわけで、僕がとやかく言うことじゃないような気もするしな。
暗黙知の次元シリーズ、とりあえずここで終わることにして、また書きたいと思うことがあれば書く、ということにしようかな。この文章を書き始めるとき、ってつい1時間ほど前だが、そのときには、終りはだいぶ遠いと思っていたのだが、ずいぶん早かったな。