中村 その頃モノーが言った有名な言葉があって、「大腸菌での真実は、象での真実でもある」と。その頃はみな大腸菌で研究していたわけだけれど、遺伝の仕組みについてはすべての生きもので共通だから、ここで大腸菌について見つかったことは、すべての生きもの、象にだって通用することなんだ、もうこれで基本は全部わかっちゃったんだ、と思ったということ。それはほんとに華やかな状況でした。
ところが学問がそういう華やかな状況にある時は、一方で、新たな悩みが生まれているとさっき言いましたね。アルプスがあって、その山の上にある湖から分子生物学という細い細い、でも非常に見事な流れができた。「細い」というのは、そんなに大勢の人がやったわけではないから。ところが山の中腹で、また湖ができてしまったのです。
次に何が分からなかったのかというと、たとえば脳のこととか。「大腸菌で分かったことは象でも同じだ」とは言うけれど、大腸菌とは仕組みがずいぶん違う「真核細胞」があり、たくさんの真核細胞が集まってできた「多細胞生物」があり。多細胞生物は「発生」といって、卵から子どもが生まれていったりするし、さらにはそこから「脳」という、とても複雑な働きをする臓器ができていく。そういうことを具体的に考えようと思うと、大腸菌を見ていただけでは何も分からない。それをどうやって研究したらいいのか。材料にするのはネズミがよいか、線虫といって細胞数の少ない簡単な生き物か、ショウジョウバエかと、みんなで議論しました。外から見ると、「DNAの研究は発展している」と言われていたけれど、中では大議論が起こって、みんなで方向を模索した、苦悩のときだったわけです。前は物理学者、今度は分子生物学者です。
そこへ出てきたのが、ポール・バーグらによる「組換えDNA技術」。これは話せば長い物語で、分子生物学者としてのすばらしい技術や考え方があったからこそ、ポール・バーグにそれができたのですけれど、それは短い時間では話せないから割愛するとして、とにかく、組換えDNA技術を使うと、ハエだろうと、ネズミだろうと遺伝子から研究ができるという、そういう方法を開発したわけね。それともう一つは、イギリスのサンガーが、DNAの塩基配列の解析法を開発した。
この二つの技術ができたために、今度は構想ではなく技術が解決してくれたのだけれど、「どんな動物でも扱えます」ということになった。ここですごいのは、「人間も扱えます」ということになったこと。
ネズミなら、カゴの中で飼って、しっぽを切ったりいろいろなことをして研究できるけれど、人間をカゴに入れて、しっぽ切って研究するなんてこと、ぜったいできないでしょう。あ、人間にはしっぽはないか。だから生物学では、人間の研究はできなかった。だけど人間のDNAをとって調べることはできるのです。組換えDNA技術によって、人間まで研究できる。これはすごいことです。この技術は「とんでもない技術」とされることがあるけれど、そうではありません。学問の流れの中では、ほんとにすばらしい、重要な、革命的な、これがなかったら今の生物学はありません、という技術です。
そういう経緯で、アルプスの中腹の湖に水がたまって、脳の研究はできない、発生学もできない、どうしよう、と言っていたところへ、この二つの技術ができて、大きな流れができて、今に至っています。ここで大事なのは、生物学が人間まで扱えるようになったということ。そうなると「医学」と生物学が結びつくことになる。医学と生物学がつながって生まれた新しい学問の太い流れが、ものすごい勢いで流れ始めました。最初はアルプスの山頂からの細い細い流れだったものが、それとは比べものにならない、太い太い流れになっているわけです。研究者も増えて研究は盛んになっているけれど、それではこのまま流れていくかというと、そうではない。また今、水がたまって、湖ができている。私は「今また、たまりができている」と考えています。
(つづく)
中村桂子先生インタビュー(1) 「分子生物学の始まり」
中村桂子先生インタビュー(2) 「分子生物学の流れ」
中村桂子「ゲノムが語る生命―新たな知の創出」