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2010-04-16

マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」(3)


「暗黙知」という言葉をきくと、なんとなく、「はっきりとは認識されないけれど、暗黙のうちに感じられる知識」という、あくまではっきりとした認識が主であって、暗黙知はそれを補うもののように感じられるところがあるけれど、マイケル・ポランニーが言わんとしていることは、全く違うのだ。前にポランニーの言葉を引用したところに「暗黙の力」とあるように、「形成」や「統合」を生みだす源として、暗黙というものを捉えている。「ラーメンの味」というものは、ラーメンを構成するスープや麺やチャーシューや、そういう一つ一つのものの味から、暗黙の力によって統合されたものなのだ。ラーメンの味を感じるというと、あらかじめあったものを人間が受け取るだけという、受け身なイメージがあるが、そうではなく、あったのはあくまでスープの味であり、麺の味であるところから、それを食べた人間が一つのラーメンというものの味として生み出したもの、創造行為なのだとポランニーは言うのである。

だからポランニーは、ラーメンの味を知るというのと同じこととして、そのもっとも高度なものとしては、科学や芸術の天才が示す創造活動、また名医の診断、芸術、運動、専門分野の様々な技量、工具や探り棒、教師の指示棒などの使用などをあげる。これらはすべて、一つ一つの要素から、暗黙の力によって、一つの形が生み出される過程なのである。

ラーメンを食べるというとき、僕はまずスープをすすり、麺を食べ、チャーシューをかじり、としていくのだが、こうやって一つ一つに注意が向いていたところから、だんだん「ラーメンの味」というものへと注意が向けられていくことになる。ラーメンの味に注意が向けられ、それが一つの人格のようなものとして、はっきりと感じられるとき、またそれが似たような他のラーメン屋とは明らかに違っていると感じられるとき、スープや麺などの一つ一つについて、それは当然ラーメンの味の違いを作りだす理由になっているはずなのだが、それを明確に言葉にすることはできない。それらはラーメンの味そのものを通して、感じられるだけなのである。

ラーメンの味というのは、ラーメンの「意味」であると言ってもよい。この意味というのは、「単語の意味」などというのとは少しちがうが、音楽の意味とか、絵画の意味とか、そういうものと同じである。そうするとラーメンを食べるということは、僕たちが自分の身体の感覚によって、スープや麺を味わうことによって、徐々に自分の身体から離れて、ラーメンという外部のものの中に、意味を見出そうとするプロセスであるといえる。暗黙的認識とはそのような一つのダイナミックな動きを伴ったものだ。

(つづく)