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2010-04-18

マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」(5)


マイケル・ポランニーは、客観的であるとされる科学における発見も、実は暗黙知という、個人に由来する力にささえられていると言う。すべての科学研究の出発点となる「問題」とは、どのように考察されるものなのかを考えてみる。ポランニーはプラトンの例を引く。



プラトンは「メノン」の中で、
「問題の解決を求めることは不条理だ。なぜなら、もし何を探し求めているのか分かっているのなら、問題は存在しないのだし、逆に、もし何を探し求めているのか分かっていないのなら、何かを発見することなど期待できないからだ」
と言っている。問題を考察するとは、まだ見つかっていない、隠れた何かを考察することであって、そこに一貫性があるということを、暗に認識することなのだ。だからもしすべての認識が、はっきりと意識できるものであり、明確に言いあらわすことができるものであるとしたら、私たちはその問題を、認識することも、答えを探し求めることも、できはしない。もし問題というものが存在して、それを解決することによって、発見というものがなされるのだとしたら、私たちは言葉で説明することはできないが、とても重要であるという、そういう事柄を認識できるということになる。そのように問題の考察が暗黙的に行われるものであるとすると、プラトンの不条理は実際には不条理ではないし、また実際科学にかぎらず、すべての「知」の発見は、これと同じようになされるものなのだ。

そのような知を、生み出し、育てていこうとするということは、問題を前にして、発見されるべき何かがかならず存在する、という信念に、心底うちこむことだ。そうやって信念をもつのは個人なのだし、またそれを見つけていこうとする場合にも、だいたいは孤独な営みとなるわけなので、それはまさしく個人的な行為である。しかしそれが、客観的ではない、個人の行いであるからといって、科学における発見では、自分勝手に物事を進めてしまうなどということとは、まったく違うのだ。発見しようとする者は、なんとしてでも隠れた真理を追求しなくてはいけないという、そういう責任感に満たされている。真理のベールを剥ぎとるために、彼は献身的な努力をするのである。

実証主義者は80年以上にわたって、科学における発見が、個人によるものではない、客観的なものであるということを示すような基準を探し求めてきたが、そんな基準などあるわけはない、そのようなことは無駄なのである。問題に心底うちこむ、個人の掛かり合い(コミットメント)を、一般的に形式化することなどできない。もしそんなことが出来るとしたら、それは物事を何でもかんでも、はっきりと目に見えるように明らかにするということであり、それはその内容を台無しにしてしまうだけなのだ。

それでは実証主義者がとなえる、「客観性」という理念にかわるものは何なのか。それを見つけ、確固としたものとして打ち立てることは、まことに難しい。しかしそれこそが、暗黙知の理論を前にして、私たちがこれから、腹をすえて取り組むべき課題なのである。