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2012-01-02

京都に残る、昔ながらの味。
「芋棒」


京都の正月料理で、絶対に作ってみたいと思ったのが、「芋棒」。棒ダラと海老芋を煮込んだもので、檀一雄の著書に出てくるんです。

檀一雄はちょくちょく京都へ来ていたみたいで、梅雨の頃、ある日ふらりと京都へ来て、そのまま年が明けるまで、家に帰らなかったことがあるとのこと。麻の背広一着を着ただけで来てしまったので、夏になればアロハシャツでよかったけれど、冬は寒くて、東映の岡田社長からオーバーを借りたのだとか。

大学生の頃にも、檀は東京から九州へ帰省する折、京都で途中下車しては、祇園や島原に泊まっていく。そういう時、円山公園で食べたのが、「芋棒」だというんですね。貧乏学生の身分でも食べられたものだから、ラーメンくらいの手頃な値段だっただろう、という。

棒ダラは、なにも京都だけで食べられていたわけではなく、九州でも、檀のおばあさんが、1週間に1~2度は、棒ダラを冬瓜やジャガイモ、玉ネギなどといっしょに、トロトロ煮込んでくれた。



家の近くの魚屋で、秋口だったかに、「棒ダラはあるか」と聞いたら、「正月にむけ出てくるから、楽しみにしてなさい」とのこと。それ以来、棒ダラを今か今かと、首を長くして待っていたところ、年末になり、とうとう棒ダラが、魚屋の店頭にお目見えしたという次第。

棒ダラは、タラを天日で干し上げたもので、カチンコチンになっている。アジの干物などとはケタ違いに硬く、これで人を殴り殺そうと思えば、できるのじゃないかと思うくらい。

檀一雄のおばあさんは、これを木槌でトントンたたき、それから水に浸してふやかしていたそうだけれど、水に浸す時間は、週に1~2度は棒ダラの煮付けを作っていたというのだから、1日か、せいぜい2日くらいなものなのでしょう。

ところが京都はちがう。これを一週間にわたり、毎日水をとりかえながら、水に浸しつづけることをする。それだけ長く水に浸すことに、どういう意味があるのかわからないけれど、毎日水をとりかえるというのだから、ただやわらかくするだけのことではなく、アク抜きの意味もあるのかもしれないですよね。

これを家で自分でやる人が、どれだけいるのか知らないけれど、これはもちろん、魚屋でやってくれて、正月直前になると、もう棒ダラは水に浸し終わったやつしか売ってない。

1週間水にひたした棒ダラは、ふやけた、やわらかい状態になっていて、丸ごと買っていく人も見かけたけれど、ほとんどの人はパックに小分けにされたのを買っていく。

パックはひとつ900円。5~6切れが入っている。



しかし棒ダラは、まだこの先に、かなり長い道のりが待っているんです。

まず5分ほど水で煮て、しばらくおいて冷まして湯を捨てる。

そしてふたたび、新しい水に浸して、5~8時間おく。

そしてようやく、昆布とかつお節のだしで煮る。その時間、3~4時間。

そうしてようやく、味付けしていくことになるわけです。



このまま普通は、棒ダラだけで煮付けてしまうみたいだけれど、今回の目標は、芋棒。

使うのは、「頭芋」。海老芋と頭芋は、八百屋によれば、「味はいっしょで形がちがうだけ」とのこと。「大きさあたりの値段は頭芋のほうが安いから、そっちにすれば」と言われて、そうしたのだけれど、食べてみてわかったのは、これは要は里芋の巨大なもの。

京都の八百屋には、正月前になると、ふつうの里芋が売っていなくて、この巨大な頭芋か、海老の形をした海老芋か、または小型の里芋で、「小芋」と呼ばれるものしかない。味は全部おんなじ。

この頭芋の、上下を落とし、皮を分厚くむく。

これを細かく切り分け、下茹でしてもよかったけれど、もうそのまま入れてしまって、砂糖を入れて15分、さらに酒とみりん、醤油で味付けして15分。

コトコト炊いたら、火を止めそのまま冷まして味をふくませる。



そしてついに完成した芋棒。


憧れの味だったということも、加味されているのかもしれないけれど、これは非常にうまいです。

魚は生のものを煮付けるのも、もちろん柔らかくておいしいけれど、棒ダラは、一旦干し上げて、カチンコチンにしているから、そのあいだに熟成されて、生魚とはまったくちがう、しっかりとした味が出てくる。肉でも、生肉を煮込むのと、ベーコンやハムを煮込むのとではちがうのと、おなじようなことじゃないかと思うんですよね。

食べ応えもしっかりとしている棒ダラに、またねっとりした頭芋が、最高ともいえる取合せ。今では棒ダラは、正月にしか手に入らないけれど、たしかに身近にあれば、週に1度でも2度でも、食べたくなるのは間違いないです。