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今日の晩酌は、鶏のつみれ汁。
肉はそのまま煮たり焼いたりするのもうまいけれど、ひき肉を使うと食べ応えがまったく変わるから、料理の幅が大きく広がる。
特にひき肉を団子にして煮るつみれ汁は、ふんわりとやわらかくて何ともうまい。
ひき肉を団子にするときは、香味野菜を入れるのが絶対的なポイントになる。
長ねぎか玉ねぎにくわえ、今日はニンジンにしたけれど、ゴボウやセロリ、しいたけ、ピーマンなどを入れる。
それから肉のだしを汁にするときは、下手にしょうゆを使うとおいしくない。
しょうゆを使うのならかつおだしを入れないと、ぼんやりとした味になってしまう。
だから今回、鶏つみれ汁の味付けは、塩コショウ。
コクを出すためにバターをくわえる。
肉団子を作るのは、何も面倒なことはない。
鶏モモひき肉200グラムに長ねぎのみじん切り10センチ分、ニンジンのみじん切り細いところを5センチ分、溶き卵1/2個分、おろしショウガと酒、しょうゆをそれぞれ小さじ1、塩小さじ1/4、片栗粉大さじ1を器に合わせ、粘り気が出てくるまでよくこねる。
だし昆布を敷いた鍋に3カップの水を沸かし、日本酒1/2カップほどを入れたら、こねたひき肉をスプーンで3センチほどに丸くまとめて入れていく。
アクをとりながら5分ほど煮たら味を見ながら塩を入れ、豆腐と長ねぎのざく切りをくわえてさらに5分くらい煮る。
器によそってバターを落とし、黒コショウをふる。
レモン汁(ポッカレモン100)をひとたらししてもうまい。
明治以来、外国の文化をとり入れることで発展してきた日本だから、日本人は外国のものだというだけで、つい「いい」と思ってしまうところがあると思う。
でも文化は、常に全体としてバランスがとられるものだから、外国の文化の一部だけを無反省にとり入れてしまうと、自国の文化のバランスを崩してしまうところがあるのではないかとぼくは思う。
たとえば科学技術やビジネスの世界で大事とされる「合理性」は、「生命」や「人間性」の領域におよぶと、それだけでは単純には割り切れないところが出てくる。
ヨーロッパやアメリカでは、生命や人間性については、合理性ではなく「キリスト教」で判断することも多いわけで、キリスト教の受け皿のない日本で合理性だけを厳密にとり入れてしまうと、世界がひたすら殺伐としてしまうことになるのではないだろうか。
料理もそうで、外国の料理はそれはそれでおいしいけれど、それをそのまま日本の食卓に並べてしまうと、他の和食メニューとまったく合わず、日本酒のアテやご飯のおかずにもならないものになってしまいかねない。
外国の料理文化を日本の文化と調和させる努力は、とんかつなどの「洋食」に代表される通り、これまでも綿々と続けられていることだけれど、それこそが日本人にとって必要なことであり、また同時に面白いことなのではないかと思う。
外国の料理文化の代表の1つが、「肉」だといえるのではないか。
肉は明治より前、日本ではあまり食べられていなかった。
肉はしょうゆの味と、そのままでは合わない。
肉にただしょうゆをかけて食べても、魚と異なりおいしくない。
中国料理のように、ニンニクや八角などの香辛料を使えば、肉としょうゆは合うようになるけれど、ニンニクや八角は、日本人の嗜好にあまり合わない。
そこで肉としょうゆを、日本人の嗜好に合わせながらどう調和させるかという試みが、長い年月にわたって続けられ、ウスターソースやラーメンの発明として結実したといえるのではないだろうか。
酸味や辛味、魚介だしなどを加えることで、肉としょうゆはニンニクなしで調和するようになる。
今回の鶏つみれ汁も、かつおだしを使えばしょうゆで味付けして問題ない。
ただわざわざだしをとらなくても、塩コショウに和食との相性がよいバターを使えば、十分日本酒のアテになる味になる。
「調味料も奥が深いね。」
面白いんだよこれが。