冷めてもおいしく、ご飯に合い、それほど汁気も出ない弁当用のおかずとして考えた、さつま揚げとニラの炒め物。といってもぼくはもちろん、これを酒のアテにする。しょうゆ味だが、ゴマ油とオイスターソースでコクを出し、唐辛子でアクセントをつける。
ゴマ油少々をひいたフライパンを強火にかけ、輪切りの赤唐辛子を入れたら、まず細く切ったさつま揚げ、つづいてしめじを炒める。
ざく切りのニラを入れ、しんなりしかかったところで合わせ調味料を入れ、ひと混ぜして塩加減すれば出来あがり。
合わせ調味料は、酒大さじ1、しょうゆ小さじ2、オイスターソース小さじ1、片栗粉小さじ1。
かなりうまい。
弁当に入れるなら、ご飯の上に乗せてしまう手だと思う。
あとはしじみの赤だし。
砂出しし、よく洗ったしじみを、しじみが100グラムなら2カップ程度の水に入れ、アクをとりながら中火で煮、しじみの殻がひらいたら、赤だしみそ(八丁味噌)を溶き入れる。
先日バーで、マスターと、居合わせた男性のお客さんと、話をした。
30代前半の2人を相手に話した話題は、「自分がいかに死ねるか」について。
ところがいつもなら熱い語りの応酬になるこの話題が、まったく盛り上がらない。
お客さんも、
「自分が死ぬことなど考えると、悲しい気分になってきますね」
などと言う。
この失敗を経験し、30代の人はまだ自分が死ぬことなど、考えてもいないことに思い至った。
振り返ってみれば自分も30代の頃は、次の大きな区切りとなる50歳までに何ができるかしか、考えていなかった。
ところが40代も後半になると、50歳の次の大きな区切りは、自分の「死」であることに気付く。
50歳になった今、「いかに死ねるか」は悲しくも何ともない、日々の生活を律する目標になっている。
ぼくは、パリのアパルトマンで死にたい。
今一人のぼくは、これから恋人ができるかもしれないし、できないかもしれない。
このままずっと一人で暮らし、孤独死することになるのなら、どうせなら古びたアパートや団地の一室ではなく、おしゃれな場所がいい。
パリのアパルトマンほど、孤独死にふさわしい所はないのではないか。
パリのアパルトマンで孤独死するためには、経済的な基盤が必要であることはもちろんだけれど、それ以前に、日本を離れなければいけないから、日本ですべきことをし終わってしまわなければいけない。
すると、「自分が果たすべき責任は何か」を考えることになる。
責任にはもちろん、親の看取りや子供の成長など、「家」のことがある。
しかしそれ以外に、ぼくには「日本人としての責任」が残っているように思う。
今の日本の状況を眺めるに、これからしばらく、悪くなり続けるとしか思えない。
高度経済成長時代に上がり続けた日本は、バブル崩壊とともに下がり始め、今は下がり続けている。
日本が下がり続けているのは、もう通用しなくなっている高度経済成長時代の考え方を、未だに引きずってしまっているからだと、ぼくは思う。
もし日本がふたたび上昇機運に入ることがあるとすれば、それは若い世代の人たちが、高度経済成長時代とは違う、根本的に新しい考え方を身に付けるようになったことを意味するだろう。
今の時代を作ってきた人間の1人として、ぼくは若い人たちが新しい考え方を身に付けることを、応援したい。
若い世代にバトンを引き継ぎ、心置きなくパリへ行きたい。
「その考え方ってどういうものなの?」
それはまだよくわからないんだ。