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2011-06-30

炒麺2種

この頃何かと素麺を食べるようになり、にわかに素麺に対する愛着が高まってきたので、昨日は昼めしも素麺にしてみた。

ソーミンチャンプルー。

これは以前僕が蒲田にある沖縄料理の居酒屋に入り浸っていたときに作り方を習ったのだが、異様に簡単。
しかもうまい。
これもひとり暮らしの男性には力強い味方となるから、ぜひ試してみてもらいたい。

と言って作り方を説明するまでもないほどで、フライパンでシーチキンとニラ、そして硬めにゆがいて水にさらし、よく水を切った素麺を炒め、塩コショウする。以上。
シーチキンは中に入っている油ごと使う。だから改めて油は敷かない。

こんなに簡単なのに、すごくうまいのだ。シーチキンが絶妙な調味料の役割を果たしている。
ちょっとビーフンとかそういう東南アジア料理の風情もあって、沖縄の文化っていうのは、やっぱり南方系なんだなと感じさせられるところだ。


晩めしの材料を探しにグルメシティへ行ったのだが、何なのだ、今は。
ゴーヤ258円。オクラ258円。ほうれん草も小松菜も水菜も198円。長ネギは細っこいのが一本158円。
ゴーヤとオクラの値段にはまったく眼を剥いてしまったのだが、これはこの異常に早かった梅雨入りのせいなのか。それとも東北の野菜が出荷停止になっていることが響いているのか。

まあいずれにせよこんな値段じゃ野菜は買う気がしないなと思っていたら、冷蔵庫に見切り品一本50円で買ってあった長ネギが入っていることに気付いたので、それとやはり冷蔵庫に中途半端に残っていた鶏肉、通常通りの価格だったしめじ68円だけ買って、焼きそばにすることにした。
焼きそばにはほんとはビールかなと思わなくもないが、ちゃんと和風の味付けにすれば日本酒にも合わないことはないだろう。

鶏肉と長ネギの焼きそば。

焼きそばというのは、もちろん作り方は色々あるが、こういう肉や野菜と麺とを一緒に炒めるタイプのものは、まず肉と野菜を炒め、次にタレをジャーと入れ軽く肉や野菜とからめ、最後に焼きそば用の蒸し麺を入れ炒め上げる、という手順になる。
この順番でやると、タレが肉や野菜のうまみを溶かし出して、そのうまみごと麺にしみ込むということになるのだ。

鶏肉は余っていたから使っただけで、ほんとは豚肉でもいいし、野菜もニラともやしとか、好きなものを使えばいいのだ。
タレは基本が酒と醤油。これに昨日はチューブの生姜だけ混ぜ込んだが、ニンニクを入れるとより中華風の味になる。
醤油を入れずに酒と生姜とニンニク、それに塩で味付けすると、塩焼きそばになる。

こういう料理だとどうしても中華だしの素を入れたくなる人もいるかもしれないが、まったく必要ない。ただその分酒をたっぷり使うから、中華だしの素のほうが値段は安いかもね。

最後に味を見て塩気が足りなければ塩を追加し、好みでコショウを振るが、炒め物の味見というのは間違う場合が多いから、塩気はちょっと足りないかなというくらいにしておいて丁度よいことになる。

麺はふた玉使ってしまい、食べ切れないかなと思ったけれど、意外にぺろりと行けてしまった。
その代わり酒はいつもより少なめで1合半。
この炭水化物路線、土曜日にサウナへ行ったとき体重を測って、太っているようならどうするかまた考えることにする。

2011-06-29

焼き鳥丼、あさり酒蒸しにゅうめん、賀茂鶴

京都はもう完全に真夏の陽気。
九州南部が梅雨明けしたと、昨日発表があったそうなのだけれど、梅雨入りとか梅雨明けとかの発表というのはだいたい、実質的にそうなって、何日かしてから間違いないとなって発表されるものだから、関西ももうほんとは梅雨明けしてるんだろう。
そろそろ発表があるんじゃないのか。

去年は記録的な猛暑だったわけだけれども、それを上回りそうな猛暑になりそうな予感がする今年、大地震もあったし、地球が人類に対して何かを訴えかけようとしていると考える人が増えてもおかしくなさそうなところだ。
最近宗教とかはどうなんだ。
さすがにこれだけ科学が発達してしまうと、天変地異に乗じて宗教が勢力を拡大するなんてことは、あり得ないことになってしまったのか。

とまったく意味のないことを考えてみた。

僕は暑くなっても食欲が落ちるということはまずない。
真夏にラーメンとか平気で行けるんだが、これは酒を飲むということが関係してるんじゃないかと思うんだがな。
酒というのは食欲を増進させる作用があるわけで、真夏にギョウザとかいうとイマイチな感じがしても、これに冷えたビールを付ければ最高の取り合わせになる。

というわけで、昨日の昼は暑い中、焼き鳥丼。
フライパンで焼き鳥くらいの大きさに切った鶏もも肉と、昨日は玉ねぎにしたが長ねぎが安ければそちらのほうが当然いい、それを焼いて、酒、砂糖、みりん、醤油のタレをジャーと注ぎ込み、煮詰めてよく絡めれば出来上がり。
白めしの上にタレごとかけて食う。

これは作るのはとっても簡単なのだが、非常にうまかった。
コツと言えるようなものもほとんどなく、誰がやってもそう失敗することはないと思うが、あえて言えばタレに砂糖をたっぷり入れること。
こういうものはちょっと甘すぎるかな、というくらいのほうがうまいのだ。

晩めしはあさりの酒蒸しにゅうめん。
ご存知のとおり最近は酒のつまみに素麺を入れるのに凝っているのだ。
炭水化物をいっしょに摂ったほうが、酒が穏やかに飲めるような感じがするし、特に汁気のある食い物のばあいだと、その汁を素麺が吸ってからめて、大変うまい。
このあさりの酒蒸しのばあいも、あさりから極上のだしが出るわけで、それを残らず味わうというのに素麺を入れるというのは、まさにうってつけのやり方だ。

あさりの酒蒸しの作り方は、知ってる人も多いと思うが、バカみたいに簡単で死ぬほどうまいから、ひとり暮らしの男性はぜひ試してみてもらいたい。

あさりはスーパーで売ってるのは、ほとんどがもう砂出しされているから、わざわざ塩水に漬けるなんてことはしなくて良い。
ただ水で洗うときに、両手の手のひらでこれを掬って、こすり合わせるようにして、汚れはよく落とすようにする。
鍋に入れたらあさりが半分ほど浸かるくらいの日本酒を入れ、そこにちょこっと水を足し、醤油もたらりとたらして、フタをせずに火にかける。
沸騰してあさりの口が全部開いたら、それで出来上がり。

酒は久しぶりに、広島の銘酒賀茂鶴。
これは爽快辛口というタイプなのだが、その辛味の対極に、きちんと濃厚な甘みが据えられていて、そんじゅそこらのすっきりしているだけの淡麗辛口とはぜんぜん違う。
一見上品でありながら、実はやんちゃ、という風情なのだよな。

2011-06-28

この頃食ったもんなど

昨日は菅首相が夜の10時から記者会見をやったみたいで、僕はとっくに酒をのんで気持よく酔っ払っていたわけなのだけれど、そのあと布団に入ってから、そのビデオを見てしまったら、もう色々考え始めてしまって到底眠れなくなってしまったから、起き出してツイッターでつぶやき始めたらとめどなく爆裂してしまった。
おかげでその後はぐっすり眠れたが。

菅首相については、まあ見ているとなんともイライラしするのだが、基本的には黙ってまかせようと思っている。

よく子供でも部下でも、何かをやれと言ったら、とやかく口を挟まずに、最後まで自分でやらせないといけないということがあるじゃないか。
傍から見ていると危なっかしくて仕方がないんだが、そこであまり助け舟とかを出してしまうと、本人のためにならない。
こちらが傍から見る世界と、本人が自分の目で見ている世界とは、はっきりと異なった別の世界であって、本人がきちんと自分の世界の中で、自分で問題を解決しようとしない限り、物事は前には進まないのだよな。

もちろんそれ相当の立場にある政治家や専門家がきちんと批判していくということは大事なことだと思うけれども、外野はあまりつべこべ言わずに応援だけはすると。
僕は外野にいる、民主党の政権交代を支持した人間として、そういう風にしようと思っている。

おとといの晩めしは、前日のカンパチあら炊きの煮こごり。
魚の煮物を冷蔵庫に入れておくと、ゼラチン質が固まってゼリー状になるわけだが、この煮こごりが、前日の出来たての煮物とは、また別種の食い物になるというわけなのだよな。
夏だしこういう冷たいおかずはいいものだ。
これにまた冷たい素麺を添えるのが、なんともよく合う。

鞍馬で「木の芽煮」というのを買ってきたのだ。
木の芽と昆布を佃煮にしたもので、鞍馬の名物だそうなのだが、これを昨日は炊きたての白めしにのせ、赤だしを添えて昼めしにした。
この手の食い物で京都で有名なのは山椒じゃこだと思うけれども、そちらは山椒のあでやかな風味が利いて、風雅の趣きがあるのに比べて、こちらはなんとも素朴で無骨。
木の芽の微妙な風味が奥ゆかしい。

鞍馬に行っても思ったのだけれども、あそこはなんとなく京都のきらびやかな雰囲気というよりも、奈良のような素朴な感じがしたのだよな。
源義経のゆかりの里だったりするわけなので、そういう武家の質実剛健な伝統とか、残っていたりするのかもな。

晩めしは鶏肉とチンゲン菜のにゅうめん。
最近は素麺を入れるというのに凝っているのだ。
炭水化物を食べながら酒をのむというのは、ぜったい体にいい気がするな。
あとはたけのこと油揚げを入れて、昆布だしに酒、みりんとうすくち醤油で味付け。
もう別の器に取ったりせずに、鍋から直接つまんで汁もスプーンですする韓国式。

酒はスーパーで買った酒パックの菊正宗だが、昨日は3合のんでしまった。
炭水化物を食うのなら、酒が減らないと意味がないんだがな。

2011-06-27

鞍馬温泉

京都に住み始めて1年4ヶ月になるのだが、いい場所もいろいろあるだろうに、それを知らないというのはもったいない。
名の知れた観光地はめぼしい所はひと通りまわったのだけれど、やはりそういうものより酒を一杯やったりするのに気分が良いところを探したいところだ。

昨日は思い立って、叡山電車にゴトゴトと揺られて鞍馬へ行ってきた。
以前知人が鞍馬になかなか居心地の良い日帰り温泉があると言っていたのを思い出したのだ。

出町柳から30分。
鞍馬の駅は、奥深い緑の中にある。

隣の貴船は、京都市内でも祇園や先斗町とならぶ名高い高級料亭エリアとなっていて、料理屋やら料理旅館やらが軒を並べ、川床料理に舌鼓を打つなんてことができるようなのだけれど、こちら鞍馬は、その分ということなのか、まったくひなびている。
だいたいが鞍馬というのは、由岐神社だの鞍馬寺だの、貴船神社だのをまわって歩くハイキングコースの、起点となっている場所で、鞍馬自体には見るべきものはあまりないようだ。
昔ながらの、ちょっと朽ちかけたような趣きのみやげ物屋兼食堂が、全部合わせても10軒程度あるばかりで、ほかに何もない。
でもそういう穴場的な場所というのも、また得難い魅力があるわけだよな。

鞍馬唯一の観光地である鞍馬寺仁王門。
鞍馬寺は山の奥にむかって広がっていて、ここからケーブルカーでそこを手軽にまわることもできるようだ。
牛若丸伝承説話の地で、天狗伝説でも有名だというから、一度は見てみなければいけないと思うが、僕は酒をのむのが目的だから、今回はパス。

ここから山へ向かってすこし歩いていく。
この道は若狭湾と京都を結ぶ、いわゆる鯖街道のひとつということになるみたいなのだが、古い建物が立ち並び、昔ながらのたたずまい。
京都というよりは、奈良あたりの田舎の雰囲気に近いような感じがした。

そこをやや歩いた所にあるこの「くらま温泉」が今回の目的地。
硫黄泉の天然温泉が湧き出していて、全体は健康ランド風になっており、食事や宿泊もできるようになっているが、日帰りでの入浴も可能。

風呂は鉄筋コンクリートの建物の中にあるものと、こちら露天風呂とがある。
施設全体を一日使い放題にすると2,500円だが、この露天風呂に一回入るだけなら、入浴料は1,000円。
僕はもちろん後者を選んだ。

この露天風呂が実に良かった。
奥深い山の中にあるので目の前に深い緑の山肌を一望しながら湯に浸かることができる。
ちょっとした秘湯の趣き。
また震災の影響なのか、元々がこうなのか、人が少なくて、僕以外にいっしょに風呂に入っているのが常時5人くらい。
ここで風呂に入ったり出たり、足だけ浸かったりして、鳥のさえずりを聞きながらぼうっとする。
なんとも言えぬ贅沢なひとときを過ごした。

本館には食堂もあるが、あまりうまそうにも見えなかったので、敷地内に設けられている休憩コーナーでとりあえず缶ビール。

それから駅前の食堂で冷や酒にニシンそば。
ニシンそばというのは、京都の庶民の味だよな、ほんとうに。

2011-06-26

朝ビール、新福菜館、カンパチのあら炊き

昨日も朝からサウナへ行って、あったまったり冷ましたりを繰り返し、もうこれ以上は一滴も残っていないというくらい、疲れのエキスをしぼり出したあと、生ビール。
これがほんとにタマラナイわけなのだな。

ビールというのは何と言っても、朝のむのがうまい。
特に朝起き抜けに、燦々とさし込む朝日を浴びながらのむビールは、もうこれ以上の幸せはないだろうと言うくらいなものなわけだが、そこまではなかなかできなくても、午前中にのむビールはやはりうまい。

普段人間というものは、大なり小なりやらないといけないことがある。
もちろんそれは、やらないと生きて行けないわけだから、当然やることになるわけだけれども、人間それだけのために生きているのではないということだ。
それでは何のために生きているのかと訊かれると、ちょっと困るところもあるが、少なくとも自分は、そういう細々とした、様々に悩ましい事柄のためだけに生きているのではないということを、声を大にして言いたい。
それがビールを、朝のむということの意味なのだろう。

これをのんだ瞬間に、自分のまわりに結界が張られ、何の役にも立たないことを堂々として、後悔することのない時間が流れはじめる。
やはり時々は、そういう時間の流れに身をまかせることも、人間にとっては大事なことだ。

というわけで昨日も、サウナで朝ビールのあとは、新福菜館三条店で、昼ビール・アンド・ラーメン。

そして帰宅して、冷房のきいた部屋で昼寝というフルコースを、つつがなく執り行なったというわけなのでした。
メデタシメデタシ。

晩めしはカンパチのあら炊き。
グルメシティでうまそうなカンパチのあら、たっぷり入ったのが150円などというのを見てしまったら、これは買わずに通り過ぎることはできないのだ。
魚のあらというのは、びっくりするような安い値段で売っていて、しかも骨の近くの肉だから、たんまりと脂がのっていて、下手をしたら切り身なんかよりよっぽどうまい。
ひとり暮らしの強力な味方なので、ひとり暮らしの男性は、ぜひ活用してほしいと思うのだよな。

何度も書いていることなのだが、魚のあらを炊くときに、ひとつだけ気を付けないといけないことは、あらの下処理をきちんとすることなのだ。
それだけ気を付ければ、あとは何をどう間違ったって、そこそこおいしいあら炊きが出来上がる。
まずあらを熱湯に浸して、それから水でよく洗う。
熱湯は昨日は、わざわざ湯を沸かすのではなく、給湯器のお湯を最強温度にしてやってみたけれど、まったく問題なかった。
水で洗うときは、あらには血の塊がたくさん付いているから、それを念入りに取るのと、皮の部分にヌメリが付いていたりするから、それもていねいにこすり落とす。
鯛のあらなんかだったら、いっしょに鱗も指で剥がし落とす。

これだけやっておけば、あとはそれを大根といっしょに鍋に入れて、たっぷりの酒と水、多めの砂糖とみりん、それに醤油で好きな味付けにして、アクが出たらちょっと取ったりもして、ペーパータオルの落し蓋をして1時間ほど弱火でコトコトと煮るだけ。
火を止めたらかならず、30分以上はそのまま置いて、冷まして味をしみ込ませる。

昨日はこれに素麺を添えてみたが、うまみの出まくった煮汁を吸い込んで非常にうまい。
しかもやはり、炭水化物を少し食べると、それで腹がふくれるから、必要以上に酒をのむことがなくなるというのもいい。

2011-06-25

炭水化物に酒

京都では、梅雨はどこへ行ってしまったのかというような天気が続いている。
連日真夏日で、本番はまだ先のはずなのに、いきなりこれはやめてくれよというような暑さ。

今年は節電ブームでもあり、また実際に節電しなければいけないものもあるから、できるだけエアコンを使わずに過ごしてみようと思っている。
いちおう扇風機は持っているのだけれど、これまではエアコンに頼った生活をしてきたので、まともに使ったことがなく、今回ちゃんと風が当たるように向きを調節し、風量を強めにしたら、意外に涼しいじゃんということに初めて気づいた。
30度くらいの気温だったら、これで余裕で行けそうだ。

ただ夜は、昨夜扇風機だけで寝たら、耐えられずに明け方起きて、結局エアコンをつけて二度寝した。
昔の人は、夜もエアコンつけずに寝ていたのか。
それとも気温が今とは違ったのか。
まあちょっと悔しい気持ちがなくはないのだけれど、眠れないというのは健康的にどうかと思うし、だいたい午後の電力がピークの時間帯以外は節電する必要もないわけだから、これから夜は、エアコンつけて寝ることにした。

昨日の昼めしは、残り物の肉じゃがにお新香で白めし、それにコップ半分ほどの冷や酒。
昼から酒をのむというのは、会社に勤めていたりするとなかなか難しいものだが、僕は家で仕事をするのでそれはまったく関係ない。
眠くなるのじゃないかと思うかもしれないけれど、僕は酒をのんでものまなくても、どちみちめしを食ったら眠くなるから、毎日30分ほど昼寝することにしていて、コップに半分ほどであれば、酒をのんだからといってその時間が長くなるわけでもない。
しかしこうして、めしと一緒にちょこっとでも酒をのむと、大しておもしろくもない残り物のめしでも、数段うまくなる。
別に酔っ払いたくてのむというわけではなく、酒をのまずにめしを食ってしまうのは、もったいないということなのだよな。

以前はこのような酒ののみ方はできなかった。
若かったせいもあるのかもしれないけれど、とにかく酒というのはガブガブのむもので、つまみも酒がまずくなるから、最小限にしていた。
まあそうやってのむのも嫌いじゃないから、今でも時々やるのだけれど、しかしそうではなく、あくまでめしを主体としながら、めしの合間に酒をのむというのも悪くないのだよな。

特に炭水化物を食いながら酒をのむなどということは、以前は言語道断だったのだけれど、この頃は何の問題もなくできるようになっていて、むしろけっこういいなと思うようにもなっている。
特にいいのは、ラーメンとビールとか、そばに日本酒、あとはお好み焼きにビールなんかだろう。

ラーメン屋でビールを飲むという場合、王道としては、まずビールとキムチとギョウザを頼んで、キムチをつまみにしてビールをのみながら、ギョウザが焼き上がるのを待ち、ギョウザが来たらそれでビールを飲み切って、最後にラーメンでシメるということになるだろう。
でもこのビールとキムチとギョウザとラーメンが、同時に来てしまうというのも意外に悪くない。
ラーメンとビールというのは、けっこう合うものなのだよな。

というわけで昨日の晩めしは、炭水化物に酒を合わせてみることにした。

鶏肉とカブのにゅうめんに冷や酒。
鶏モモ肉とカブが中途半端に余っていたので、この汁に素麺を入れてカサを増やしたというところもないではないが、しかしこれは、たしかにいいな。
カロリーを酒だけで摂るいつもの晩めしに比べて、素麺がある分、酒をそれほど飲まなくても済むような気がする。
と言っても昨日も2合はのんだのだけれど。
酒といっしょに炭水化物を摂ったほうが、体にもいい気がするのだけれど、でもこれで太ってしまうということになると、それはそれでまた問題なのだよな。

2011-06-24

ikoi cafe

毎週木曜の昼めしは、ikoi cafeでランチを食うことにしている。
僕が毎週読んでる週刊文春を、この店は発売日に買って置いているから、それを読みに行くということが大きいのだけれど、まあこの店が気に入っているということもある。

僕が定期的に巡回している飲食店は、昼が新福菜館三条店とここ。
夜はほっこりバーKajuとスナック都。
昼は週いっぺんで、夜は月いっぺん。
この4軒が、僕としてはこの界隈で、いちばん気に入ってる店だということになる。

飲食店をやるという時、まずもちろんそれは事業なわけだから、きちんと利益を上げなければいけない。
赤字は悪であり、事業主としてはそれは何としても避けなければいけないということがあるわけだよな。
でもそれでは黒字だったら何でもいいかというと、必ずしもそういうわけではない。

飲食店が黒字を出そうという時、やるべき事というのはいくつもあるだろう。
店がきれいに掃除されているとか、店員が明るくさわやかに接客するとかいうことから始まって、原価率やら地域の特性やら何やらかにやら、考えるべきことは山ほどあって、それらはたしかにどれも重要だということになるはずだ。

でもそれらを、どれも満たしているという店が、おもしろいのかとか、居心地がいいのかというと、必ずしもそうではないんだよな。

僕はラーメンが好きで、ラーメン屋めぐりをしたりもするのだが、よくチェーンのラーメン屋で、いかにも綿密なマニュアルが用意されていて、店主は一から十までそれを守るべく、頑張ってやっているのだろうなと思うような店がある。
その努力や賞賛に価することだと思うし、そういう店が人気店になることだってままあることなのだけれど、僕はそういう店にはまったく意味を感じない。
なぜならそういう店では、店主がやりたいことは「儲けたい」という一点なのだ。
儲けるためには、お客さんが求めるものを敏感に察知し、それをできる限り安い値段で提供する。

でも例えば僕が、どこかの店へ行ってラーメンを食べようと思うのは、単に自分が求めるラーメンを食べたいということだけではなく、やはり店主とのコミュニケーションを求めているというところが大きいのだよな。
ラーメンとはただ人間の腹を満たすだけのものではなく、それが人間と人間とのあいだでやり取りされる限り、何かの意味を持つということは避けがたいことだ。
その時、それではそのラーメンに、店主がどのような意味を込めてお客に手渡すのかを味わうことが、ラーメンを楽しむということであって、その意味が、「自分が儲けたい」ということであったとしたら、これほどつまらないことはない。

だけれども、その「ラーメンに自分の想いを込める」ということは、そうやって言葉で書くと簡単そうで、どこのラーメン屋だってそれを目指していそうなものだけれど、実はけっこう難しいことなのだと思う。

ラーメン屋を経営していくということを、事業として捉えた場合、「利益を上げる」ということがまず目的として設定されて、そのためにはどうしたらいいのかということが、無数の「手段」として羅列されていくことになる。
僕は飲食店を経営しようと思ったことはないから、それらの手段としてどのようなものが掲げられているのか、詳しいことは分からないけれど、おそらくどれももっともで、たしかにそれがないと、お店は儲からないよね、という類のことが言われているのだろうと思う。
チェーンのラーメン店の場合などでは、その羅列された手段のひとつとして、たぶん、「店主の想いを込める」などということが掲げられているに違いない。

しかしラーメン店主がラーメンに思いを込めるということを、ほんとうの意味で考えようとした場合、それでは足りないのだ。

儲けるための手段としての「想い」などというものは、すぐに見破れるものであって、それが単なる便法に過ぎないということを、客はよく分かっている。
そうではなく、店主がほんとにお客に想いを伝えようとしたならば、ラーメン屋を経営する、その事業を行うという、その目的そのものが、「儲けるため」ではなく、何らかの店主の想いを「実現するため」であるという形に、書き替えられなければいけないことになるはずなのだ。

それは重大な問題であって、なぜかというと、儲けるという目的のために行う無数の手段という、経営学の論法が、まったく通用しないことになるからだ。
だからと言って、経営学が嘘なのではない。
たしかに経営学で言われているようなことは、実際に実現されていなければ、店は利益を出すことはできない。

であるとすると、どうならなければいけないのかというと、店主が何かを実現したいと、そのためにラーメン店を経営することが、「結果」として、経営学が要求するような一つ一つのことがらを実現していると、そういうことが行われなければならない。
手段ではなく、結果である、という大転換が、そこで果たされなければならないのだよな。

それではそれは、どのように転換できるのかということは、少なくとも今、僕は説明することができないし、説明が可能であるものなのかどうかもよく分からない。
でもそれが果たされていると感じるのが、ikoi cafeを初めとする、僕が巡回するいくつかの店なのだ。

ikoi cafeも、店の隅から隅まで、出てくる料理から、テーブルや窓際に置いてある小物の一つ一つにいたるまで、ママの人間性が感じられる。
そのことに対する好き嫌いはあると思うし、店はどちらかと言えば若い女の子を主なターゲットとして設定されているから、僕などはちょっと肩身が狭いものもあるのだけれど、まあそれなりに居心地がよくて、毎週飽きずに通っているというわけだ。


晩酌は肉じゃが。
海軍式の、砂糖と醤油以外の調味料やらだしやらは一切入れずに、アクも取らないというやり方なのだが、すごくうまい。

大七生もとは飲み切った。

ikoi cafe

2011-06-23

あさりの酒蒸し

梅雨の晴れ間ってのはいいもんだ。
京都もおとといからか、真夏日に突入して、蒸し暑さに拍車をかけている。
6月からこの気候ってのは、これからいよいよ夏になったら、どうなってしまうんだ。

今年は節電も、それなりにはするつもりで、今のところは扇風機でしのいでいる。
でも去年、京都に来てはじめての夏、やはり京都の夏もすこしは味わっておかないといけないだろうと思ってエアコンを止めてみたら、速攻で熱中症になった。
今年もすでに、沖縄かどこかで熱中症で死んだ人がいるとのことだし、節電のしすぎで死んだというんじゃ、あまり美談にはならないからな。

こうやって蒸し蒸ししてくると、我が家でも微生物が活躍しはじめて、風呂場とかすこし臭ったり、手を洗ってタオルで拭くと、その手が逆に臭くなったりする。
僕も掃除をしたり、洗濯をしたりするということについては、やぶさかではないのだけれど、体を洗うのには石鹸やボディシャンプーは使わないようにしている。

いや念のために言っておくと、僕は冬でも毎日風呂に入るし、夏はさらに、朝シャワーも浴びる。
だから汚くはないのだということは、知っておいてもらいたい。

新聞で体の油脂は40度のシャワーで十分落ちるのであって、それ以上は落とし過ぎだというのを見て、実践してみることにしたのだ。

それから1年以上が経つが、実に快適。
まず臭いやかゆみが、石鹸を使っていた頃にくらべると圧倒的にすくない。
頭とかも、全くかゆくならない。
体の臭いも、昔なら、自分でも耐えられないというほどのことがあったのが、今はそれほどのことはない。
いや足が多少納豆臭かったりというくらいのことはあるが。

床屋とかへ行くと、オネエちゃんにシャンプーしてもらうのは気持いいから、やってもらうんだが、そうするとその後3日くらいは、頭がかゆくなる。
ところがそれが過ぎると落ち着いて、あとは全くかゆくないということになるのだ。

僕はこれは、微生物の仕業であるとにらんでいる。
かゆみというものがどういう仕組によって生まれるものであるか、僕はよく知らないけれど、やはり微生物が関係しているんだろう。
だいたいそういう悪さをするやつは、ほかに誰もいないところへ行くと、やりたい放題をするものだ。
ところがそこへ、いろんな微生物が繁殖してくると、おたがいに牽制しあって、そうそう勝手なことはできなくなる。

それをいちばん実感するのは、まああまりきれいな話じゃないが、水虫。
僕は水虫を長年飼っていて、これはどんなにていねいに薬をつけても、毎年夏になると、活動を始めたものなのだが、これが去年石鹸を使わなくなってから、全然出てこないようになった。
ただしこれは、僕は去年から、夏に革靴を履くということもなくなったので、それも大きく関係しているかもしれないが、しかしやはり、微生物の相互監視体制がととのったということも大きいのじゃないかと思っている。

微生物と人間というのは、何百万年という時間をかけて、共存共栄する道筋をさぐってきて、今のような関係を築くにいたっているわけだ。
たとえば蚊なんていうのは、刺されるとかゆいわけだが、それはまだ、付き合いの歴史が浅いということなのだろう。
別に蚊にだって、かゆくされたり病気を移されたりしなければ、こちらとしたって、血くらい吸わせてやるのはやぶさかではないわけだ。
これはおそらく、蚊だってこれから何万年か付き合えば、刺してもかゆくしないように工夫してくるに違いない。

最近は人間は、自分のまわりを整理整頓したいという気持ちが強くなりすぎて、大事なものも殺してしまうということになりがちなのじゃないかと思うのだよな。
その辺のこと、もうすこし考えてみてもいいんじゃないかと思ったりもする。


昨日の昼は、おとといのカブと豚肉の汁に白めし。
これはほんとに、我ながら、久々の大ヒットだったな。
カブに豚肉、油揚げ、こんなに相性のよい取り合わせを、どうして今まで、スーパーで毎日カブを眺めていたのに、気が付かなかったのかと思うのだが、発見というものはこうやって、さりげないところに潜んでいるものなのだ。

こってりしたものが続くと、あっさりしたものが食べたくなる。
というわけであさりの酒蒸しと冷奴。
あさりの酒蒸しは、酒だけだとちょっとくどいので、水をすこし足し、うすくち醤油をちょこっとたらす。
酒は大七からくち生もとを2合半。

2011-06-22

親子丼、カブと豚肉の汁

冷蔵庫にあまっていた鶏肉で、親子丼をつくった。
というか、実はそうではなく、鶏肉を買うときにすでに、ブラジル産のもも肉だったが、2個入りのパックしか売っていなかったので、それをどういうふうに使うか、計画してあったのだ。
計画というものは、僕はあまり好きでなく、できるだけ行き当たりばったりに人生を送りたいと思っているのだけれど、多少は必要になるばあいもあるということだ。

親子丼をつくろうというとき、もちろん僕は料理の本など見ないが、もし見たとしたら間違いなく、その材料の欄には「だし」と書いてあるはずだ。
このだしというのが曲者で、親子丼の材料にだしと書く料理の本は、ひとり暮らしの人は信用しないほうがいい。

だいたいこのだしをどうやって取ればいいのかが問題だ。
料理の本には申し訳程度に、カツオや昆布を使った一番だし二番だしの取り方が書いてあったりするけれど、親子丼に必要なだしの量100ccとかそんなものに、わざわざそんな手間をかけろというのか。

いやだしは冷凍保存できますからと言うが、ほとんどの人はここで、そんなことをするくらいならということで、ほんだしなどの化学調味料を使うということになってしまうというわけだ。
いわば親子丼の材料にだしと書くということは、暗黙のうちに化学調味料の使用をすすめていることになる。

僕は化学調味料を全否定するという立場ではなく、特に昔ながらのラーメンなど、化学調味料がなければ料理そのものが成立しないというものについては、積極的にそれを楽しむということもできはする。
でも家で自分で料理を作るというばあいには、化学調味料というものは、極力使わないほうがいいと思うのだよな。

なぜかと言えば、化学調味料を使ってしまうと、「料理」というものそのものが、よくわからなくなってしまうからだ。

「だし」の起源を考えてみると、もともとは、おそらく、肉や魚と野菜をグツグツと煮て、鍋のような形にして食べる、その時のスープの味が出発だったに違いない。
そのうちに人間は、いつもいつも鍋のような、すべてが一緒くたにされたものだと、あまりに芸がないと考えるようになり、肉は肉、野菜は野菜、というように別々に料理するようになって、その時初めて、「スープ」というものが、独立に捉えられたものとして誕生したのだろう。

日本も同様だったはずで、もともとは鍋のようなものだったところから、だしというものが独立し、そのだしを簡単に取るための方法として、かつおぶしだの煮干だの昆布だのというものが編み出されるにいたった。

その延長に、化学調味料はあるわけで、考え方として、かつおぶしを使ってだしを取るのと、化学調味料を使うのとでは、どちらも簡単にだしが取れる材料ということなのだから、何も違うことはないのじゃないかと考えたくもなるところだ。

だけれども。
化学調味料は粉末で、それをただ湯に溶かすだけだから、あまりに簡単すぎて、その起源が元々どいういうものだったのかということが見えなくなってしまうと思うのだ。
料理をうまくする魔法の粉で、とにかくこれを入れさえすれば、おいしい料理が出来上がると思ってしまう。
だしというものについて、そういう理解をしてしまった瞬間、料理の本来のあり方が見えなくなってしまうのだな。

親子丼をつくるのに、たとえば鶏肉と玉ねぎを入れるなら、それをグツグツ煮れば、それですなわち、だし取りは完成するわけだ。
いやもちろん、食べる肉をだし取りに使ってしまうと、その肉がちょっとパサパサになってしまうということはないではないが、それをわかってだしを別に取るというのなら良し、でもそれを知らずに、肉と野菜を煮込んでおきながら、化学調味料を入れないとだしにならないと思い込んでしまうのは、魚を釣っておきながら、スーパーで切り身を買うというようなものだ。

というわけで、親子丼は、水と、それにちなみにたっぷりの酒、あとみりんと醤油で味付けした汁で、鶏肉と玉ねぎをちょっと煮て、溶き卵を回しいれてフタをし火をとめ、ちょっと蒸らして、炊きたての白めしのうえにかければ出来上がりという次第。

我ながら大変上手にできたので、うまいものを食うためには、当然酒は必要なのだ。


今までスーパーでカブを何度となく目にしながら、僕はスルーしていたのだ。
カブは野菜の中ではとても好きな部類に属するのだけれども、料理の方法として油揚げといっしょに煮るということくらいしか思い付かず、しかもいつも3コ一束で売ってるものだから、とても食べ切れないと思っていた。

でもこれは大きな間違いだったということに、昨日気がついた。
僕がいつも作っている、肉と野菜を入れた汁、それに入れたらいいというだけのことだったのだ。
というわけで昨日は、カブと豚コマ肉、それに油揚げを、昆布だしにたっぷりの酒、あとはみりんと醤油で味付けして汁にしてみた。

豚肉のおいしいだしが、カブと油揚げにしみこんで、これはたまらん。
カブはあっという間にやわらかくなり、気づいたら煮くずれているということになりがちだから、煮時間だけは注意しておかないといけない。
だいたい5分とか、そんなもので十分なのだ。

酒は大七からくち生もとを2合。

2011-06-21

鶏の照焼き風いため

鍋で炊く白めしってのはうまい。
と言っても僕のばあい、炊飯器で炊いた白めしを食う機会があまりないから、正確に比較しているわけではないんだが。

炊飯器で炊いた白めしを食べるというのは、そこいらの食堂だの何だので食べるときに限定されているわけなのだが、少なくとも、そういうところで食べる白めしより、家で鍋で炊いたやつのほうが圧倒的にうまい。

家だと炊きたてを食べるから、どうしても保温することになってしまう料理屋とはそれが違うのかなと思わなくもないのだけれど、でも前にどこかの洋食屋で炊きたてのが出てきたことがあったのだが、それは大してうまくなかった。

僕が思うに、うまい白めしを炊くためには、まずは火力が重要なのじゃないかと思うのだよな。

とにかく米は、温度が高いほうがふっくらとおいしく炊けるのだから、火力はある程度強いほうがいい。
でも炊飯器だと、それが弱いってことがあるんじゃないのか。

あとポイントだと思うのは、蒸らしに入ってから、火を完全に止めてしまわないこと。
最弱の火をつけたまま、5分くらいはおいておく。
こうすると余計な水気が飛んで、めし粒の、中はふっくらしながらも、外は乾いて、べっちょりとか、ねっとりとかいう感じが皆無になる。

炊き方は、ネットにもいろいろ書いてあると思うし、もうここではめんどうくさいから書かないけれど、ぜひ試してもらいたいものだと思う。
まあ最初の何回かは、失敗すると思うけどね。

あ、もうひとつだけポイントを言っておくと、火は鍋から吹き出る蒸気が収まってきて、チリチリと鍋底で水が蒸発する音がし出したら、30秒か1分くらいして落とすようにする。


浅蜊のむき身というのが、グルメシティでは安く売ってる。
中国産だから、それがたしかにちょっと心配だということもないではないが、100円そこそこでけっこうな量になる。
それを池波正太郎直伝の「ぶっかけめし」にするわけなのだ。

これは汁をたっぷりにした、汁かけめし的にすることもできるし、こってりと炊いてどんぶり物的にしてもいい。
昨日はこってり炊いてみた。

ちょっと醤油を入れすぎて、塩辛くなってしまったのだが、それ以外は上々。



この頃は暖かくなってきたせいで、鍋から離れて炒め物にハマりつつある僕。
しかしただ炒め物っていうんじゃない。
あくまで和風の炒め物を追求したいのだ。

料理の本とか見ると、中華料理の作り方が定番の一つになっている。
なもんだから男はすぐ感化されてしまって、中華鍋とか、中華料理用のおたまとか、揃えてしまったりするものだよな。
何を隠そう、僕も以前は、中華鍋は3つくらい持っていた。

べつに中華料理を否定するわけじゃないんだが、中華料理はやはり日本酒には合わない。
あのニンニクだのゴマ油だの唐辛子だのを多用した強い味に、淡い味の日本酒は負けてしまうのだよな。
やはり中華を食べるのなら、老酒か焼酎なのだ。
しかし僕は今のところ、料理に酒を合わせるというよりは、あくまで日本酒にこだわりたいという気分だから、酒に料理を合わせるということになるわけだ。

スーパーで品物を見て、ピーマンを食べるということにまず決めて、それに鶏もも肉とタケノコをあわせることにした。
タレは酒とみりん、醤油に砂糖。
いわゆる照り焼きの調味料。
だからこれは、炒め物というよりは、鶏の照り焼きにピーマンとタケノコがあわせてある、という位置づけなのだ。

鶏肉とかを炒めようとするばあいは、これは炒めるというよりも、「焼く」と考えることが大事だ。
ガチャガチャ掻き回していても、分厚い肉には火が通らないから、そのまま置いてしばらく焼き、焦げ目がついたら箸でひとつひとつひっくり返す。
あとは野菜を入れ、軽く火が通ったらタレを注ぎ入れて、煮詰めて全体にからめつけるようにする。

これは非常に良かったんだが、じつは鶏肉に塩コショウで下味をつけてしまって、それが余計だった。
別に下味などつけなくても、焼き鳥だってタレだけつけて焼くわけだから、そのままで良かったのだ。
おかげでちょっと塩辛くなってしまった。
昨日はなんだか、塩加減を間違いつづける一日だったな。

このピーマンだが、中華料理では「歯ごたえを残す」ということが重視されるが、それはひとつの考え方であって、ピーマンというのはやわらかく炊いたっておいしい。
だからここでは、ピーマンの歯ごたえを残そうと思って焦ることなく、タレをゆっくり炒りつけていったらいいと思う。
タケノコを入れれば、歯ごたえはそちらで楽しめるし。

酒は福島、「大七からくち生もと」。
昨日はこれを3合のんだ。

2011-06-20

嵐山で昼酒

昨日の京都は、暑くもなく、寒くもなく。
雨も降っていないが、かといって晴れてもいない。
昼前にブログを書き終え、ベランダで煙草を吸いながら空をながめて、こういう中途半端な天気の日にこそ、京都を見ておかなければいけないと急に思い立ち、嵐山へ出かけることにした。
いやまあ、それはただの取ってつけた理由であり、その実景色がよいところで昼酒をのみたくなっただけなのだ。

嵐山は観光地だから、飲食店はほとんどが観光客目当ての店となるわけなのだが、昼酒におすすめのスポットというものがないわけではない。
嵐電嵐山駅を降りたら前の通りを左へ行く。
この道沿いの店は、あまりロクなものがない。
渡月橋に出たら、これを渡らずに川沿いの道を右へ行く。
そうすると右手に吉兆などの料亭が見えてくるので、金を無駄づかいしたい人はそちらへ行ったらいい。

でもその向かいあたりに、川に突き出たオンボロな小屋みたいなお茶屋があったり、さらにその奥へ、山にむかって進んでいくと、山の木々に囲まれて、これまたオンボロな食堂があったりする。
どちらも川に面していて、窓にガラスはなく、というより窓というもの自体が存在しないオープンスペースになっているから、この時期桂川のゆるやかな流れをながめながら昼酒をのむというには、うってつけの場所となっている。
どちらもロクな料理はないが、この観光地らしからぬオンボロ具合は妙に落ち着くから、ぜひ行ってみることをおすすめするのだ。

昨日は川に突き出た小屋のほうで、おでんに冷や酒。

酒をのんだら、そのまま川沿いを歩いていくと、急な石段があるから、そこをずっと上がっていくと、亀山公園の展望台にたどりつく。

普段はビルの中で暮らしているから、やはりどうしても時々は、こういう景色を眺めたくなる。
京都は市内から30分もかからずにこういう場所に来られるということが、東京とはえらく違うところだ。

僕はだいたいいつも、ここから歩くコースが決まっていて、まず竹林。

このあたりの竹林はかなり広大で、いちど抜けたと思ったら、また新たな竹林が現れる。
中はひんやりとしていて気持ちがいい。

それから野宮神社に抜けて、お賽銭をあげてお参り。
ここから線路を渡って、ずっと上がっていくと、二尊院だの何だの、見るところもたくさんある。

二尊院から祇王寺へむかう道の途中に「お食事処こみち」という店があり、ここは僕の行きつけだ。

行きつけと言ってもまだこれで2回目。
ハンサムなマスターと美人の女将さんが、僕よりちょっと年下だと思うんだがすごくいい人たちで、こちらがひとりで酒をのみに入るといろいろと話し相手になってくれる。
前回も森嘉で豆腐を買うつもりだと言ったら、時間が微妙でなくなるといけないから電話しておいてあげると言って、わざわざ豆腐一丁を予約してくれた。
こちらもそのお礼をしなくちゃと思って行ったのだが、相手も覚えていてくれたみたいで、帰り際には「いつもありがとうございます」とも言われたから、これはもう立派に行きつけというものなのだ。

食ったのはニシンそばに冷や酒。
そばはちゃんとコシがあってきちんとうまい。
七味にくわえて山椒もかける。

そこからちょっと戻って、清凉寺をぬけて森嘉。
ここは嵯峨豆腐の代表店で、嵐山のめぼしい湯豆腐店ではここの豆腐を使っている。
檀一雄の「美味放浪記」でも、ここの豆腐を絶賛している。
昨日は豆腐にくわえてひろうずを3個買った。

晩めしは、この森嘉のひろうずをだしで炊いたのと、豆腐はそのまま冷奴にした。

ひろうずの中身はぎんなんと百合根、きくらげとにんじん。
だしをうどんのだし程度の濃さにしたのだけれど、それだとちょっと薄すぎたのが残念だった。

この写真ではわからないが、森嘉の豆腐はふつうの2丁分ほどもある巨大なもので、これはその3分の2の量。
「できれば今日中にお召し上がり下さい」と言われ、絶対にそれは無理だろうと思ったけれど、結局全部ぺろりと食べた。

絹ごしよりちょっと硬いかなというくらいの食べ応えなのだが、ひとことで言うと、これといって特徴がない。
だから、なんだ、ふつうじゃん、と思って食べ進むのだけれど、食べれば食べるほどうまくなってくるのだ。
味は濃すぎず薄すぎずで、変なクセのようなものが皆無。
いくら食べても食べ飽きないといった風情で、さすが王道とは、まさにこういうものなのだろうな。

ひろうずも同様。
3個はぺろりといけた。