この本は、駐輪場の料金を払うために、お札をくずそうと思って買ったのだ。まあでも、伊集院静は、そのむかし週刊文春の「二日酔い主義」という連載コラムをおもしろく読んでいたことがあって、この「羊の目」の単行本が出たときも、新聞の書評をみて、読んでみようかなと思ったけれど、けっきょく読まなかったということがあったから、ぜんぜん興味がないわけではなかったのだが。
その週刊文春のコラムは、「二日酔い主義」というタイトルの通り、伊集院静が自分が酒を飲んだときの、ハチャメチャな模様を、淡々と描いたもので、とてもおもしろかった。あのころの週刊文春は、ナンシー関の連載もやっていて、毎週楽しみにしていたものなんだがな。
この「羊の目」は、神崎武美という、戦前から戦後を生きた侠客の人生を、短編の連作形式で描いたもの。夜鷹の子として生まれ、ヤクザの親分に拾われ、幼少の頃より、修羅場をかいくぐる、凄まじい人生を生きる。実際に育ての親でもある親分に、絶対的な忠誠を誓い、自分の命は親分にあずけ、親分の命を脅かそうとするものは、ためらわずに殺害する。タイトルである羊の目というのは、その主人公の目が羊の目のように澄んでいて、日常はもちろん、どんな修羅場になっても、怯えや恐れというものを微塵も感じさせず、逆にその目を見た相手が、怖気づくほどであったということから付けられている。
主人公は義理を絶対的に重視し、それを貫いて生きるが、現代の日本は、ヤクザの社会ですら、義理だけでは成り立たなくなっていく。そこで裏切られ、命を狙われて逃亡するが、その先々でも、主人公の澄んだ目は人を惹きつけ、手を差しのべる人が現われる。著者はこの小説をとおして、現代社会には限りなくなくなってしまったように見える、他人にたいする信頼と忠誠、そしてその上で、何ごとにも捨て身でむかっていくこと、そういうものの素晴らしさを描こうとしているように見える。そして実際、この小説は十分おもしろく、著者の主張は大きな説得力をもって伝わってくる。
しかしなあ、どうなのかな。僕は著者の描こうとする世界観に、無条件に賛同するわけにはいかないのだ。上の者に命をあずけ、盲目的に信仰することを善しとすることは、すなわち、太平洋戦争のころの日本を肯定し、また現在の北朝鮮を肯定することでもある。またスケールは小さいが、同じ構図が、小沢一郎とその取り巻き集団のあいだにもあると思う。上の者を盲目的に信仰することは、常に、上の者の思考停止を帰結するのであり、そういうものが生み出した悲劇があまりに大きかったから、日本は平和国家への道を歩んだのではなかったか。
たしかに現代の日本が、以前の反動で、極端に反対の側にむかってしまい、そのため社会のあらゆるところで、信頼や絆というものが希薄になってしまっているというのは、そのとおりだと思う。また事前に成功を計算するのではなく、そういう計算を度外視した、捨て身な生き方だけが、本当の成果というものを勝ち得るだろう、ということもわかる。しかしだからといって、日本が70年前にもどったらよい、ということにはならないだろう。僕に言わせれば、著者は団塊の世代で、戦争の痛みを知らず、戦後の高度成長の時代を、誰にも制約されず、好き勝手に生きてきた世代だから、そういう無反省なことを考えるのだ。
まあしかし、それはちょっと厳しすぎる見方で、著者もただ、昔に戻ればいいということではない、ということくらい、重々承知なのかもしれない。またこの小説の終盤、たしかに親分にたいしてではなく、家族への愛や、キリスト教的な神への信仰というものが、新しい時代をひらく鍵になるのではないかと、著者は示唆しているようにも見える。この絶望的な時代において、著者も、それはもちろん僕もだが、これからどうしていったらよいのか、ちゃんとしたことはわからない。わからないけれども、ひとつ言えることは、日本人があの羊の目のように澄んだ目を、もう一度取り戻してほしいと、そういうことなのかもしれないな、著者が言いたことは。
★★★★☆
羊の目 (文春文庫)