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2011-04-07

砂肝のショウガ煮

仕事のほうも、アルバイト先を探したり、安原稿のライター仕事をとりあえず始めてみたり、いろいろこちょこちょやっているのだけれど、すぐにお金にはならないけれど、こちらが「自分の本業」と自分ではおもっている、本の原稿書きのほうも、遅々としながらもなんとか進んではいるのです。
いちおう題名は、仮のものとして
「『徹底した不定さ』という名の未来」
ということにしていて、「徹底した不定さ」というのは、郡司ペギオ-幸夫さんのことばなのだけれど、ここに向かって、なんとか到達したいと、いまひたすら舟を漕いでいるというかんじ。

リビアみたいな独裁政権をみるとわかりやすいのだけれど、独裁者は国を統治するために、自分の目に見えるすべてを、明確なものにしておきたいとおもう。すべての手下や人民が、自分の意図するとおりに動き、それ以外のものが一切、表にあらわれてこないようにしたい。そのために自分に歯向かうものは徹底的に迫害し、場合によっては殺害までも厭わないということだとおもうのだけれど、それはカダフィや金正日が特別なのかといえば、かならずしもそういうわけでもなくて、日本もふくめてどこの国でも、どこの会社でも、大なり小なりおなじような考え方にもとづいて運営されているのじゃないか。
それは「自動車を運転する」などということと基本的におなじことであって、統治者は特性のはっきりわかっている、機械としての「組織」を操縦するのである、ということなのだとおもう。
「機械」だから、そこに予測不能なことなどあってはならない。予測不能なことは、機械にとってはあくまで「欠陥」なのであって、「修正」されなければならない。

しかし「生き物」の世界はそうじゃない。「予測が不能である」ということが、生物の世界の根本にあるわけで、これはこれまでもずっと言われてきていることなのだけれど、そのとき、考え方としてどうしても、予測可能である「機械」と予測不能である「生物」を、「対立」したものとして取り扱うということになってしまっていた。機械と生物は、あい反するものである、ということになるわけなのだな。

ところが郡司さんが本当にすごいと僕がおもうところは、
「予測不能な機械」
というものを考えようとしているのだ。
機械と生物とを対立したものとして捉えるのではなく、その二つのものは、あくまでおなじ自然の「二つの側面」であると考えるということなのだな。
そのこと自体は、郡司さんが初めてではないのだけれど、郡司さんはそれを実際にコンピュータでシミュレーションできるようなかたちに組み立てて、それを「粘菌」や「動物の群れ」のふるまいの観測結果と比較し、たしかにそれらは数量的な意味で、「おなじ性質」をもっているといえるところまでもってくる。
そのとき、「徹底した不定さ」というものを、機械のなかに組み込まなければいけない、ということになるというわけなのだ。
僕はこれは、まさに革命的なことであると、絶対的に信じていて、郡司さんはそのことを、「思想として展開させなければならない」というのだけれど、僕もその思想がまさに、これからの日本、そして世界をつくり上げていこうとするときの中心になるものであるとおもっている。

そういう、まさに現在進行形である郡司さんの研究内容を、その背景として、「進化」と「記号論」という二つの軸のなかに位置付けて、最低でもそういうものに興味ある大学生とか、意識の高い主婦とか、そういうひとたちが読めるものにしたいとおもってる。
専門知識を要する、それなりに複雑な内容だから、それをわかりやすくおもしろく、表現するというのは、それほど簡単なことでもなくて、しかもそれを「書きながら考える」ということになるから、あるそれほど長くない部分を書こうとするのにも、1時間とか2時間とか、考えてしまうということも多いし、書きながらも、一文一文をけっこう考えながら書くことになる。

でも僕はいままで、そういうふうにゆっくり文章を書いた経験があまりなかったから、とてもおもしろいのだな、それが。
だいたい朝起きて、オレンジジュースと紅茶、それにチョコレートをかじりながら、メールやニュース、それにツイッターなんかをチェックして、からだと頭を目覚めさせ、それからおもむろにPCにむかうということになるのだけれど、初めのうちはぼっとしていて、「何を考えたらいいか」すら、浮かんでこなかったりすることがある。またこの時間が、けっこう長く続くことがあって、そういうときにはなにかと気が散って、タバコを吸いにいったり、紅茶のお代わりをしたり、またついツイッターを見てしまったり、ということになるのだけれど、そのうちだんだんと、ぼうっとしていた頭のなかに、考えるべき内容が徐々にかたまりはじめる感じがあって、そうするとそれは急速にスピードを増して明確になっていき、気付いたらキーボードを打ちはじめていて、1時間か2時間で、ひとまとまりの部分を書き上げるということになる。

池波正太郎の「食卓の情景」を読んだときに、おなじような内容のことが書いてあって、短編小説を書こうとして、5日くらい時間をとると、そのうち3日は、ぼうっと考えているのだそうだ。その時間が一番つらいと、池波正太郎も書いている。
そのうち登場人物が、徐々にかたちを成し、活き活きとして、声を発し、みずから動きまわるようになると、原稿は一気に完成するのだそうだ。

僕の原稿は、予定のまだ半分もいっていなくて、しかも書き上げてから、ただ直すということではなく、もう一回書き直すということが必要なのじゃないかという気もしているから、これからアルバイトも始めたりすると、どのくらい時間がかかるものなのか、よくわからなかったりもするのだが、焦らず怠けず、一歩一歩すすんでいきたいとおもっている今日このごろなのでした。



昨日のグルメシティは、特売日ではなくふつうの日で、魚も肉もイマイチぴんとくるものがなかったので、そういうときは、鶏モツに手がのびるのだな。変わったものを食べてみようか、という気になるのだ。
ホルモン系は、僕はわりと好きで、だいたいそういう人が捨てるようなものを、どうやったらおいしくたべられるのかという問いに、僕はとても惹かれるものがあって、魚のアラが好きだというのもそういうことなわけだけれど、グルメシティはホルモンはほとんど置いていなくて、あるのは鶏のレバーと砂肝だけ。
レバーだと、レバニラ炒めしか思い付かず、煮るのが好きな僕はいつも砂肝を選んでしまうわけなのだが、考えてみたら、レバーだって煮てもいいのかな。

というわけで砂肝のショウガ煮。酒に砂糖、みりんとしょうゆでこってりと味をつけた汁で、砂肝とショウガを好きなだけ煮るという話。
煮物というのは、味の濃いうすいとか、煮詰めるのか煮詰めないのかとか、そういうことによっておなじ材料でもかなりちがった感じになって、そういうのがまたおもしろいのだ。

あとは長ネギ入りの湯豆腐。

酒は福島「奥の松」本醸造。



今日の昼めしは、木曜恒例、「ikoi cafe」アンド、週刊文春。
週刊文春は、先週号がとくにおもしろかったのだけれど、震災後はそれ以前とくらべておもしろくなっている。
東京電力のこととか、官邸のこととか、新聞やネットではなかなか出てこない詳しい情報が、独自取材で載っているということが、ひとつにはあるのだけれど、そういう記事以外の「エッセー」も、震災後はおもしろくなっている。

今回のこの悲惨な震災というものは、ある意味で日本人全員の「共通体験」となっているわけで、僕もこうやってブログをやっているから感じるのだけれど、それにたいしてどういうスタンスをとるのかということは、けっこう考えどころなのだよな。
震災をまったく無視して、それまでと変わらないことを書いているひとも、週刊文春のエッセイ人のなかでは半分くらいはいるのだけれど、残りの半分、ふだんから時事ネタを取り上げるひとたちは、当然これを話題にすることになる。
いまは「自粛」とか「不謹慎」とかいう、戦争中の「非国民」みたいな高圧的な雰囲気もあるから、いかにそういうことを言わせないようにして、しかもおもしろいことを書くかというのが、まさにエッセイストの「腕の見せどころ」なのだとおもうのだよな。

僕は震災前は、「中村うさぎ」のエッセイがいちばん好きだったのだけれど、これは震災後は失速している。震災との距離が、うまく取れていない感じがする。
それにたいして、やはりさすがだとおもうのは、「林真理子」と「伊集院静」。この二人は、震災を取り上げながら、しかも「笑える」という、名人芸ともおもえる筆のキレをみせていると、僕はおもう。