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2011-09-08

幸せが何なのかをあらためて問い直す時代


昨日といい、今日といい、まさに絵に描いたような秋晴れ、空気はからっとさわやかで、日中はそこそこ気温も上がるが、暑くて不快ということもない。食い物はうまいし、これから秋が深まれば木々は紅葉で色付くし、1年の中でも最高とも言える季節に突入したというわけだ。

日々移り変わる季節を全身で感じながら生きるというのは、気候に恵まれた土地日本で暮らす人々が、大昔から持っていた習性なわけだが、これを今、どのくらいの日本人が感じられているのか。もちろん多くの人が、変わらずそれを感じているのは間違いのないことだろうが、空も大地も見えない、コンクリートで囲まれた場所で暮らす人の中には、ただ暑いとか、寒いとかいうこと以外に、季節を感じることなどなくなっている人も増えているんじゃないのか。


ひと昔前のテレビのコマーシャルで、明石家さんまが「幸せって、何だっけ、何だっけ」と歌うのがあり、僕は今でも、それが時々頭に浮かんでくるんだが、幸せって何だっけとあらためて言われると、ちょっと考えてしまうところがある。幸せが何かなんてこと、ここ何十年か、考えなくても済んできたところがあったんじゃないか。

昔は、幸せは誰もが知っている、解りやすいものだったろう。加山雄三が「僕あ、幸せだなあ」とひとりごちたみたいに、お気に入りの奥さんがいて、かわいい子供たちがいて、自分は会社で一生懸命働き、マイホームを建て、奥さんはそこで子供たちを育てる。それが幸せというものであると、誰もが疑わない時代があった。

でも今や、巨額の住宅ローンを抱え、ご主人は片道2時間かけて通勤し、奥さんは家で寂しい思いをしながら子供を育てるという生活を、いいと思う人は少なくなってきているだろうし、実際それすらも、したくてもできないという経済的な苦境にいる人も増えている。すでにゴールインし、無事逃げ切った人達にとっては、幸せは相も変わらず、マイホームなのかもしれないが、それより下の世代の人達の多くは、もうそれを幸せとは思えないということになっている。

だから今、幸せって何だっけ、とあらためて聞かれると、「よくわからない」ということになる。以前の幸せが、今はもう幸せとは言えないことになってはいるが、かといって新たな幸せが何なのかも、どうもはっきり見えてこない。幸せが何なのか見えてこなければ、自分がどちらへ向かって進んだらいいのかも、よく解らないことになってくるわけだ。


そういうところで、あの悲惨な東日本大震災が起こったわけだが、震災直後の一瞬の間、日本はそれまでとは全く違った状態にならなかったか。震災の映像を見ては涙し、被災した人たちをなんとか助けたいと思い、世界の人達が援助してくれたり、メッセージを送ってくれたりすることに感謝する。そういう気持ちで、日本人が一丸となったことが、ほんの一瞬の期間だけあった。

もちろんそれは、大災害が起こるとよく起こる、精神的な作用の一つだと言われ、その通りなのだとも思うが、日本から余分なものを全部取り外してみれば、日本人の精神の奥底には、まだそうやって、他人を思いやる気持ちが残っていたということを、示しているとも言えるんじゃないか。もうすでに、それは再び見えにくくなってしまったけれど、他人を思いやり、その人のために何かできることをするという当たり前のことが、幸せなんだということを、日本人はあらためて確認したとも言えるのじゃないかと思うのだよな。

政治家や、官僚や、東京電力を初めとする財界のお偉いさんたちは、相も変わらず自分のことしか考えていないように見受けられるが、時間が経つにつれ、そういう人達はいなくなるのだ。世代は確実に入れ替わっていく。必要なことは、いざ自分たちが日本を担っていくということになった時、日本人の幸せが何なのかということについて、はっきりと知っているということなのだと思うのだよな。

それは本来、難しいことでもなんでもない。人間は誰でも、幸せになることができるはずなんだから。



昨日の昼飯は、焼きそばにビール。焼きそばは2玉の大盛り。色々やることはあるんだが、あえてビール。さらに昼寝。僕はぞは簡単に、こういうことに幸せを感じてしまうんだがな。



晩飯は鶏の塩焼き。


それに茄子の塩もみ。

茄子の塩もみは、おかかだのゴマだの、醤油だの、かける必要がまったくない。これだけで十分うまい。これはいつもってわけじゃないんだよな。茄子が旬になり、ほんとにおいしくなってくると、こういう贅沢なことになるというわけだ。


あとは冷奴にセロリの漬物で、酒を2合。