「現代思想5月号 東日本大震災特集」には、まだいくつかおもしろいとおもったものがあって、「塚原東吾」というひとが書いた
「災害資本主義の発動」
という論文は、僕自身の問題意識とかなり重なるものがある。
塚原氏は1961年生まれ、神戸大学で「科学史」を研究しているひとのようなのだが、グーグルで検索しても、学生が作成したとおぼしきホームページ
http://tsukaken2.world.coocan.jp/
しか出てこなくて、またそのトップページが、見ればわかるとおりゼミの学生との飲み会かなにかで、ピースサインをして盛り上がる学生といっしょに写るスナップ写真だったりするから、インターネットが全盛の今日、自分の業績をアピールするためにそれを積極的につかわないというのは、この世代の学者としては、どちらかといえば、変わったタイプなのじゃないかという感じがする。
まあ僕はそういうひとが、わりと好きなのだけれど。
塚原氏は
「災害資本主義」
というものが近年、世界を横行しているという。これは災害時に、国家が「火事場泥棒」的に、「収奪」や「搾取」のためのシステムをつくり上げてしまうことで、塚原氏はそのひとつの例として、「9.11」からイラク戦争にいたるプロセスをあげている。
昨日も「ビンラディンが殺害された」というニュースがあり、アメリカ国民はそれにたいして諸手を上げて大喜びしているわけだが、そういう空気は、じつはアメリカ政府によって巧妙に仕組まれ、つくり出されたものであるということで、アメリカ政府は9.11のテロをうけ、アメリカ国民の「テロにたいする恐怖」をあおり、救出活動をおこなう消防士を「英雄」あつかいし、そういうことによってイラク戦争へ向かっていく道筋を付けていく。戦争が起これば、軍需産業は大儲けするわけで、それからイラク戦争の後、イラクを「復興」するということにあたっても、当時の副大統領だった「チェイニー」ほか共和党政権の有力者たちは、濡れ手に粟の暴利をむさぼっていたのだそうだ。
古くはナチスドイツの恐怖にたいして、原爆を開発するための「マンハッタン計画」が立ち上げられ、莫大な規模の兵器産業が生み出されていったわけだし、ソ連崩壊や天安門事件、スマトラの津波、ハリケーン・カトリーナなどの際にも、それをきっかけとして、アメリカでは同じように、新たな政策が導入されているとのこと。しかもそれはアメリカだけではなく、日本でも同じようにおこなわれていて、その代表例が、「阪神淡路大震災」の復興であったと塚原氏は言う。
「神戸は震災によって、二度、破壊された」
と塚原氏はいうのだが、震災からの復興に際して、公共事業により、「神戸は蹂躙された」のだそうだ。震災が既存の開発計画を一気におしすすめるまたとないチャンスとなり、行政とゼネコンとが結託し、「地震そのものよりもはるかに神戸の街を思いのままにし、道路を通し破壊された家々をさらに押しなべ、すでに壊されていたコミュニティを根底から破壊した」。神戸空港という「モニュメンタルな無用の長物」がつくられ、長田の駅前には「あまりに見事なまでに無意味な」鉄人28号の巨大な鉄像がたてられ、「ほとんどSF的な恐怖を呼び起こすレベルの陳腐さ」の三国志の石像群がつくられた。
またそのときに、神戸空港の建設予定地に断層が存在し、それが危険であるということを、多くの地震学者が指摘しているのだが、それは行政によってやすやすと無視された。「復興」という名のもとに、知的分析にたいする横暴さえまかりとおった。
そのような経験をもとに、塚原氏は、同じことが今回の震災でもおこると予言する。具体的には、
(1)「緊急事態に対処するため」という名目で、批判や対抗する意見を自己検閲する国家キャンペーンが張られる。「オールジャパンでやろう」ということで、ものを考えない風潮が生み出される。救援で活躍した米軍や自衛隊にたいして、信頼が熟成され、軍事化が進行する。
(2)判断の硬直化と同調圧力の強化、監視社会の内面化が進行する。
(3)産業界と政府による再領土化と、例外状態的な統治がおこなわれる。翼賛体制が成立し、非常時が常態化して、総力戦体制の再強化がおこなわれる。
ということであろうという。
これはおそらく「最悪のシナリオ」と言うべきものだろうし、そのようなことが本当に起こるとは、にわかには信じられないけれど、たしかに総務省がインターネット接続業者にたいして「デマ」を自主的に削除するように指示したり、石原慎太郎は「花見は自粛するべきだ」と発言したり、フリーのジャーナリストが記者会見から排除されようとしたり、そういう兆候がないとはいえない。最悪のシナリオを想定することの重要さは、今回の原発にたいする対策で、身にしみて感じるところでもあり、上のようなことが政府によっておこなわれるかもしれない、ということを念頭において、今後のことを考えるということは、たしかに大事なことだろう。
塚原氏は、今回の福島原発の問題を機に、まず「戦後日本の原子力体制」をいうものを考え直すことが大事であるという。日本の原子力政策は、もともとアメリカから導入されたもので、中曽根康弘や読売新聞の正力松太郎が、「平和のための原子力利用」という大キャンペーンを、メディア戦略を駆使することによりおこない、制度として確立させた。中曽根は「学者は札束で頬をなでてやればいい」と語ったそうだが、そのような原子力技術は、生来的に「学術界と知性を踏みにじる性質」をもって生まれついていて、メディアをつかってプロパガンダされるけれど、誰もきちんとした責任を取ろうとはしない、というものになってしまっている。
またさらにその背景として、明治以来、日本が「富国強兵」策の一環としてのみ、科学技術を捉えてきたということについても、きちんと考え直されなければいけないと塚原氏はいう。日本においては、科学技術が「日本の国力」を増すということのためだけにあり、本質的な意味での創造性や想像力が求められていない。そういう体制が、日本の原子力体制を深いところでささえているのであり、そういう考え方そのものを、今回の事故をきっかけに見直すということをしなければならない。
今回の原発事故のあと、原子力についての信頼できる専門家である「北村正晴」は、「どこからどこまでが退避するべきであるのか」という質問にたいして、
「退避の判断は個人のものであり、専門家はそれについては判断できない」
と語った。塚原氏はこれが、
「現代科学の敗北宣言とも読めるもの」
であるという。現代の科学技術においては、以前のような「物理学」の範疇では解けない、専門領域を横断する社会的判断が必要とされる問題が生まれてきているのであって、それにたいしては、個々の「専門家」は無力であり、より広い範囲の人々が、そこに加わることが必要である。
ドイツでは日本の原発事故をきっかけに、25万人のデモが即座に起こっているけれど、お膝元であるはずの日本では、そのような大きな運動が起こる気配はない。それではどのようにしていったらよいのか。そのことをこれから、災害資本主義に対抗しながら、学問領域を超えた知的営みとして、見つけていかなければいけないと塚原氏はいうのである。
昨日の昼めしは、おとといの鯛アラの煮付けを、冷蔵庫に入れて煮こごりにして、それを炊きたての白めしの上にのせた。
カレーなどでもそうだけれど、冷たいものを温かいめしの上にのせるって、けっこううまいのだ。
晩めしは鶏の水炊き。
やはり鶏モモ肉の食べ方としては、つくるのに時間はかからないわ、うまいわで、これを上回るものはなかなかないな。だし昆布と酒をいれた水で煮て、ポン酢に七味をふったタレにつけて食べる。
酒は奈良の「初霞」。昨日は3合半も飲んでしまった。はんなりとして、ちょっと酸味が効いているのだけれど、どこか「スキ」のある味なのだな。それがつい飲み過ぎるということになってしまう理由なのではないかとおもう。