菅前首相など見ているとつくづく、古い世代の人だという感じがしたもんだ。いや実際に年齢的にも、菅前首相は古い世代と言えると思うが、それよりもあの行動様式が、「懐かしい」という思いすら湧き起こるものだった。
コミュニケーションの基本は飲むこと。何でも自分自身が現場へ行かないと気が済まない。これはたしかに重要だった時代もあっただろうが、今では多くの人が、時代遅れと感じるようになっているだろう。
僕の世代でも、昔はよく飲んだものだ。人と出会い、関係を作ろうと思ったら、以前は飲むことしかなかった。あとは麻雀。僕は勝負事に興味が持てない体質で、麻雀はほとんどやらなかったが、友達にはやってるやつも多かった。酒を飲んだり麻雀をしたりすることで「仲間」ができ、それは仕事や遊びのいろんな局面で、役立つことになっていたわけだ。
それから女の子と付き合おうと思ったら、絶対的に必要だったものは車。車がなくて女の子と遊ぶというのは、考えられなかっただろう。
でも今の若者達、どうなのか。酒は飲むのか。よく知らんが、飲まない奴も多いんじゃないか。飲んだとしても、きちんと上品にたしなむ程度だったりして、昔みたいに一気飲みとかしないんじゃないか。女の子と一緒だと飲むかもしれないが、男同士で飲んだりは、もうしなさそうだよな。
麻雀ももうしないだろう。車だって持たない奴が多い。
そのかわり、iPhoneだけはしっかり持ってたりするわけだ。
だいたい酒を飲むことの効用といえば、仕事中や勉強中にはできない、まったく下らない、意味のない話をすることにあるわけだ。利害とか効率とかを抜きにしたところで、人と言葉を交わすことで、人との結びつきが強くなる。それが酒を飲むことの意義だっただろう。
ところがそんなことは今や、ネットでいくらでもできるのだ。僕も以前は、毎日渋谷で仲間と飲んでいたクチだったが、最近はほとんど飲みに行かなくても、欲求不満が溜まることはまったくない。下らない話はいくらでも、ツイッターやらフェイスブックやらでできるからだ。
ツイッターやらフェイスブックやら、その他のネットにおけるコニュニケーションは、飲む席でのコミュニケーションを9割方置き換えてしまったと言えるんじゃないか。残るのは面と向かわないとできないことがある男女の関係と、あとやはり僕なども、東京や広島の友達と、ツイッターやフェイスブックで日常的にやり取りはしていても、年に1回くらいは、実際に会って話したいと思うところはある。
以前のコミュニケーションはどれも、「肉体的な強さ」が大きな意味を持っていた。例えば酒を飲むのにしたって、まず酒が飲めなければいけないわけだし、それを十分に長時間にわたって楽しもうと思ったら、酒が強くなくちゃいけない。麻雀も、一晩中やるわけだから、やはり体力勝負だろう。肉体的な強さは、一般的には男性のほうが勝るから、以前のコミュニケーションは男性が主役、男性が中心だったと言っていいだろう。
ところがそれがネットに移行して決定的に変わったことは、ネットにおけるコミュニケーションは、肉体的な強さとまったく関係ないということだ。ネットにおいては、酒が強くても、体力があっても、まったく意味がない。ネットにおいてはコミュニケーションは、体力によってなどではなく、そこに表現されたつぶやきなり、コメントなりの内容そのものによって決まる。そうなるとこれは、圧倒的に女性が有利だと言えるんじゃないかと思うんだよな。
女性が男より口が立つというのは、昔から知れた話だ。男は口で争うと、女性に負けてしまうから、その分酒を飲んだり、麻雀したり、女性より優位に立てる、体力勝負の土俵でコミュニケーションを図り、負けを挽回してきたのかもしれない。ところが今や、ネットでは、男は女と同じ土俵で勝負しないといけないことになったのだ。
草食系男子と肉食系女子などというが、これはネットのコミュニケーションで、女性が優位に立っていることを表しているんじゃないか。女性が大昔から駆使してきた口の力を、今や男も、駆使しなければならなくなった。男が優位に立てる場所が、なくなってしまったとも言えると思うんだよな。
今世界が、男の論理で動いているのは、間違いのないことだろう。強い、弱い。上、下。勝った、負けた。政治の世界など典型だ。それがすぐに変わることはないだろうけれど、ネットで育った世代がある年齢に達する頃には、それはもしかしたら、大きく変わるんじゃないか。肉体重視の男の論理でなく、言論重視の女の論理で、世界が動くようになっていくというのも、夢ではないんじゃないか。まあでもそれは、世界がその時まで、あればの話だけど。
僕がこの夏、スーパーでちょくちょく目にし、気になっていながらも無視していた材料の一つが冬瓜だ。無視していたのは「うどんすきにも焼きそばにも入れられない」という理由だったが、麺料理の呪縛が解けた今、たまたま昨日、フェイスブックの知り合いが冬瓜を食べていたこともあり、僕も冬瓜を食うことにした。
前に一度冬瓜を煮た時には、煮すぎてドロドロに崩れてしまったんだよな。実際今回やってみても、冬瓜は火から下ろすタイミングが難しい。透き通ってきたなと思ったらすぐに火から下ろさないと、今度はあっという間に煮崩れてしまう。だから弱い火で、やさしく煮てやらないといけないわけだ。
昆布だしに鶏ひき肉を入れ、あくをすくいながらだしを取り、酒・みりん・しょうゆ・塩で薄めに味を付ける。その汁で冬瓜をコトコト煮て、煮上がったら冬瓜を取り出し、残った汁に片栗でとろみを付けて、冬瓜の上からかける。
これはまあまあ、上手にできたっす。冬瓜の皮を剥くのに、緑色の部分をすこし残してしまったのだけれど、やはりあれは厚く剥いて、完全に白くしてしまったほうが、煮上がりはきれいだっただろうな。
昼飯は焼きそば。具は豚コマ肉に長ネギ、それから椎茸。
2011-09-03
2011-09-02
えげつないことするなと思うが
僕は東京に40年住んで、そのあと名古屋、広島、そしていま京都に、それぞれ1年半強、住むということになっている。その土地に、短い期間ではあっても実際に住んでみると、旅行や出張で訪ねるというくらいでは絶対にわからない、その土地その土地の習慣とか考え方とか、そういうもんが見えてくるのが面白い。
長年住み慣れた東京を離れて、初めて行った名古屋では、もうカルチャーショックの連続だった。例えば街を歩くとする。たくさんの女の子とすれ違い、エロオヤジであるこちらとしては、女の子をチラチラと目の端で追ったりするわけだ。
東京ではそういう場合、女の子は絶対にこちらを見ない。少なくとも僕は、女の子から見られていると感じたことは一度もない。東京では「見たら負け」というところがあるんじゃないかと思う。だから僕などは、いつも負け続けていたわけなのだ。
ところが名古屋の場合、女の子の方もチラチラこちらを眺め、しょっちゅう目線が合ったりする。名古屋ではそれが普通で、少なくとも「目線が合ったら負け」ではないのだろう。僕は名古屋へ行ったら、急に「モテる男」になった気がしたものだ。
名古屋では、地下鉄に乗るとおばあさんが普通に話しかけてくるのにも、死ぬほどびっくりした。東京だったら、電車の中で他人に話しかけるのは、頭のおかしな人くらいだろう。
同じ日本なのだが、それぞれの土地で驚くほど文化が違い、現代社会では人の行き来も多いし、狭い日本なのだから、もっと均質化されても良さそうなものなのに、その違いは根強く残っている。色々引越しをして、土地土地を渡り歩くというのは、根無し草になり寂しいのじゃないかと思うかもしれないが、僕は寂しさよりも、土地土地の文化を知る面白さのほうが、圧倒的に上回る。
京都へ来ても、色々思うところがあるのだが、一つものすごくはっきりと、東京との違いを感じさせるところが、「バーでのマナー」だ。
カウンター席しかない、小さなバーや居酒屋へ行ったとする。東京の場合、カウンター席での飲み方にははっきりとしたマナーがあって、それは「隣のお客さんに話しかけちゃいけない」ということだ。
カウンター席だから、自分の隣には、知らないお客さんや、知っていたとしても、友達ではないお客さんが座っていたりするわけだけれども、バーテンやオーナーの橋渡しなしに、そのお客さんに話しかけるのは、東京ではマナー違反なのだ。東京ではバーテンの橋渡しがあって初めて、隣のお客さんと話していいことになる。僕は馴染みになった居酒屋のママに、かなり厳しく教育されたから、それは間違いない。あと他のお客さんが話した話題を、自分が取って話してしまうことも、やはりマナー違反になる。
ところが京都の飲み屋へ色々行っておどろいたのは、カウンターに座った瞬間に、両隣のお客さんがここぞとばかりに話しかけてくることだ。店のカラーによっても多少の違いはあるのだが、京都では多くの飲み屋で、一見のお客は両隣はおろか、店中の全てのお客さんから、仕事やら何やら、根掘り葉掘り聞かれて、常連客の名前も4~5人は覚えさせられ、無理やり常連客の仲間入りをさせられるのは間違いない。
それだけ見ると、京都の方が、東京よりフレンドリーでいいようにも思うが、京都にだって、店の雰囲気を壊す困った客というのはいるわけだ。そういう客がカウンターで所構わず周りのお客さんに話しかけたら、それはお店だって、常連のお客さんだって困るだろう。
しかしそういう時のために、京都が持っている安全装置が、「お断りシステム」なのだと思う。
京都では「一見お断りの店」がけっこうある。祇園やらの高級なお茶屋だけの話じゃなく、安い居酒屋でも、扉に「一見お断り」の札が貼られている場合がある。またはっきりとそのように表示されていなくても、実はマスターやママが、相手を見て、「この人はうちの店の雰囲気には合わない」と思えば、一見客を断る店は多い。僕は幸い、まだ断られたことはないのだが、僕がよく行くバーでも、いわゆる酔っぱらいのオヤジが、鼻ちょうちんで気分よく扉を開けた瞬間に、マスターが「ごめんなさい」と言って断っていた。
一見に限らず、京都では、色々な理由で出入り禁止になるお客が、それぞれの店でけっこういる。京都では、店内でのマナーが東京のような形で外的に決められていない代わりに、問題のあるお客を中に入れないことで、店の雰囲気を守るということなのだろう。
日本の各地で、それぞれの文化があるというのはその通りなのだが、それを「東京とそれ以外の地域」という形で括ることもできるように思うんだよな。東京は日本の首都だから、他の地域にはない、独特の文化が発達していると言えるのじゃないか。
これは東京の文化じゃないかと僕が思うのは、「ルールやマナーを明文化したがる」ということだ。さっきの飲み屋のマナーの例でも、「これはいい、これはいけない」ということがはっきりと、単純な形で決められている。京都にだって当然マナー違反はあるわけだが、酔っぱらいのオヤジを断ったマスターに、「なぜ断ったの」と聞いても、「いやうちの雰囲気には合わないから」としか、マスターは答えられないだろう。いい悪いの線引きが、京都では曖昧なのだ。
ルールやマナーが明確であるということは、誰にでも公平で、一見いいことのように思えるけれども、逆に実は大事なことを見落としてしまう、ということがあるんじゃないか。ルールやマナーに従ってさえれば、何をやってもいい、というような風潮を、生み出してしまうところがあるんじゃないかという気がするんだよな。
経済学者の金子勝氏のツイートによると、8月26日に国会で、福島での除染についての法案が、審議されることもなく、自公民により強行採決されたのだそうだ。その除染法が、原案にはなかったとんでもない書き換えがされているのだそうで、環境省が、原子力ムラと相談の上、除染に関するすべてを決め、住民に決定権は一切なく、罰則をつけて強制的に従わせるものになっているのだという。どんなに能力があっても、民間業者は一切入れずに、政治家と官僚が自分たちの利権を守るために、都合のいいようになっているのだそうだ。
復興という巨大な利権を、濡れ手に粟で持っていくために、自分たちの都合のいいようにルールを決めていく。国会で、定められた手続きをきちんと経ているのだから、そこには何のルール違反もない。ルールを守っていればそれでいい、という考え方からすれば、何も問題ないことだ。でも「そんなえげつないことするなよ」というのが、普通の人の実感だろう。しかし「えげつないこと」は、ルールやマナーとして明文化できることとは違うから、何の強制力も持たないことになる。
「すべてを曖昧にする」というのは、日本が元々持っていた文化じゃないかと思うのだよな。物事を曖昧にすることにより、不要な対立を避け、みんなが仲良くしていく。日本はそうやって、狭い国土で平和に暮らしてきた。
そこにたぶん、西洋から、「全てを明確に定める」という文化が入ってきた。そうすると、それまでの日本が持っていた、曖昧でありながらも大事なことが、明確でないという理由で「意味のない」ものとなり、忘れさられてしまっていく。そういうことがあるのじゃないかという気がする。
西洋では、合理主義の一方で、いまだにキリスト教が、大きな力を持っている。キリスト教は、「倫理」について、たぶん今でも西洋を支配し、それが合理主義とのバランスを保っている所があるのじゃないか。
ところが日本は、西洋から合理主義だけを輸入してしまい、キリスト教は輸入しなかった。それが今日本で、倫理的に見てあまりにおかしいことが、平気でまかり通ってしまうようになっている、一つの理由じゃないかと思うのだよな。
もちろん僕は、「それではキリスト教を輸入しよう」ということを言いたいのじゃない。入ってきてしまった合理主義は、もう取り除くことはできない。すべてを曖昧にして済ませてきた、昔の日本に戻ることはできない。そうであるならば、合理主義をうまく飼い慣らし、日本人がもう少し心地良く暮らせるようなあり方を、何らかの形で見つけていく必要があるんじゃないか。
それがどういうものだか、僕にもよくわからないけれど、少なくともはっきりしていることは、それは政治家や一部の専門家に任せればすむ問題ではないということだ。日本人の一人ひとりが、考え、模索していかなければならない課題なのであると思う。
金子勝氏のツイート:
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109103045996052480
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109378653477015553
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109381013926461440
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109386030322421760
昨日はグルメシティは、毎週木曜日の特売の「木曜もっくん」と、毎月1日の特売である「一の市」が重なって、巨大な特売日となっていた。しかし特売ってのは、どうして何でもかんでも、いっぺんに安くしてしまうのかな。品を替え、毎日順番に安くしてもらった方が、こちらとしてはあがたいんだがな。でもそれではスーパーとしては、意味がないということか。
そのグルメシティの特売で、昨日は鶏もも肉を買った。鶏もも肉はこのところずっと、汁の実にばかりしていたのだけれど、鶏もも肉自体を、一番おいしく味わうのだとしたら、僕は塩焼きだと思うのだよな。
塩焼きは、僕は粗塩だけをすり込んで、青ねぎとレモンをふって食べるのが好きだが、べつに好みでコショウを振ったっていい。でも間違いないのは、焼き過ぎないのが何より肝心だ。
僕はフライパンのフタはしないで、弱火でじっくり焼くようにするが、ちょっと赤いかな、というくらいで火を止めると、柔らかくてモチモチでうまいのだ。でも昨日は、久しぶりの塩焼きだったので、ちょっと焼きすぎてしまった。
茄子のおしたしは、前日硬すぎて失敗したから、もう一度チャレンジした。「ゆで過ぎかな」というくらいゆでてみたら、やはりゆで過ぎだったが、ゆで過ぎると困るのは、絞るとき形が崩れてしまいそうになることくらいで、味は硬いよりは100倍うまい。でももう少し硬めでもよかった。
こういうつまみで酒を飲むと、酒が非常にうまくて、つい飲み過ぎてしまいそうになるのだが、昨日はなんとか2合で終われた。
長年住み慣れた東京を離れて、初めて行った名古屋では、もうカルチャーショックの連続だった。例えば街を歩くとする。たくさんの女の子とすれ違い、エロオヤジであるこちらとしては、女の子をチラチラと目の端で追ったりするわけだ。
東京ではそういう場合、女の子は絶対にこちらを見ない。少なくとも僕は、女の子から見られていると感じたことは一度もない。東京では「見たら負け」というところがあるんじゃないかと思う。だから僕などは、いつも負け続けていたわけなのだ。
ところが名古屋の場合、女の子の方もチラチラこちらを眺め、しょっちゅう目線が合ったりする。名古屋ではそれが普通で、少なくとも「目線が合ったら負け」ではないのだろう。僕は名古屋へ行ったら、急に「モテる男」になった気がしたものだ。
名古屋では、地下鉄に乗るとおばあさんが普通に話しかけてくるのにも、死ぬほどびっくりした。東京だったら、電車の中で他人に話しかけるのは、頭のおかしな人くらいだろう。
同じ日本なのだが、それぞれの土地で驚くほど文化が違い、現代社会では人の行き来も多いし、狭い日本なのだから、もっと均質化されても良さそうなものなのに、その違いは根強く残っている。色々引越しをして、土地土地を渡り歩くというのは、根無し草になり寂しいのじゃないかと思うかもしれないが、僕は寂しさよりも、土地土地の文化を知る面白さのほうが、圧倒的に上回る。
京都へ来ても、色々思うところがあるのだが、一つものすごくはっきりと、東京との違いを感じさせるところが、「バーでのマナー」だ。
カウンター席しかない、小さなバーや居酒屋へ行ったとする。東京の場合、カウンター席での飲み方にははっきりとしたマナーがあって、それは「隣のお客さんに話しかけちゃいけない」ということだ。
カウンター席だから、自分の隣には、知らないお客さんや、知っていたとしても、友達ではないお客さんが座っていたりするわけだけれども、バーテンやオーナーの橋渡しなしに、そのお客さんに話しかけるのは、東京ではマナー違反なのだ。東京ではバーテンの橋渡しがあって初めて、隣のお客さんと話していいことになる。僕は馴染みになった居酒屋のママに、かなり厳しく教育されたから、それは間違いない。あと他のお客さんが話した話題を、自分が取って話してしまうことも、やはりマナー違反になる。
ところが京都の飲み屋へ色々行っておどろいたのは、カウンターに座った瞬間に、両隣のお客さんがここぞとばかりに話しかけてくることだ。店のカラーによっても多少の違いはあるのだが、京都では多くの飲み屋で、一見のお客は両隣はおろか、店中の全てのお客さんから、仕事やら何やら、根掘り葉掘り聞かれて、常連客の名前も4~5人は覚えさせられ、無理やり常連客の仲間入りをさせられるのは間違いない。
それだけ見ると、京都の方が、東京よりフレンドリーでいいようにも思うが、京都にだって、店の雰囲気を壊す困った客というのはいるわけだ。そういう客がカウンターで所構わず周りのお客さんに話しかけたら、それはお店だって、常連のお客さんだって困るだろう。
しかしそういう時のために、京都が持っている安全装置が、「お断りシステム」なのだと思う。
京都では「一見お断りの店」がけっこうある。祇園やらの高級なお茶屋だけの話じゃなく、安い居酒屋でも、扉に「一見お断り」の札が貼られている場合がある。またはっきりとそのように表示されていなくても、実はマスターやママが、相手を見て、「この人はうちの店の雰囲気には合わない」と思えば、一見客を断る店は多い。僕は幸い、まだ断られたことはないのだが、僕がよく行くバーでも、いわゆる酔っぱらいのオヤジが、鼻ちょうちんで気分よく扉を開けた瞬間に、マスターが「ごめんなさい」と言って断っていた。
一見に限らず、京都では、色々な理由で出入り禁止になるお客が、それぞれの店でけっこういる。京都では、店内でのマナーが東京のような形で外的に決められていない代わりに、問題のあるお客を中に入れないことで、店の雰囲気を守るということなのだろう。
日本の各地で、それぞれの文化があるというのはその通りなのだが、それを「東京とそれ以外の地域」という形で括ることもできるように思うんだよな。東京は日本の首都だから、他の地域にはない、独特の文化が発達していると言えるのじゃないか。
これは東京の文化じゃないかと僕が思うのは、「ルールやマナーを明文化したがる」ということだ。さっきの飲み屋のマナーの例でも、「これはいい、これはいけない」ということがはっきりと、単純な形で決められている。京都にだって当然マナー違反はあるわけだが、酔っぱらいのオヤジを断ったマスターに、「なぜ断ったの」と聞いても、「いやうちの雰囲気には合わないから」としか、マスターは答えられないだろう。いい悪いの線引きが、京都では曖昧なのだ。
ルールやマナーが明確であるということは、誰にでも公平で、一見いいことのように思えるけれども、逆に実は大事なことを見落としてしまう、ということがあるんじゃないか。ルールやマナーに従ってさえれば、何をやってもいい、というような風潮を、生み出してしまうところがあるんじゃないかという気がするんだよな。
経済学者の金子勝氏のツイートによると、8月26日に国会で、福島での除染についての法案が、審議されることもなく、自公民により強行採決されたのだそうだ。その除染法が、原案にはなかったとんでもない書き換えがされているのだそうで、環境省が、原子力ムラと相談の上、除染に関するすべてを決め、住民に決定権は一切なく、罰則をつけて強制的に従わせるものになっているのだという。どんなに能力があっても、民間業者は一切入れずに、政治家と官僚が自分たちの利権を守るために、都合のいいようになっているのだそうだ。
復興という巨大な利権を、濡れ手に粟で持っていくために、自分たちの都合のいいようにルールを決めていく。国会で、定められた手続きをきちんと経ているのだから、そこには何のルール違反もない。ルールを守っていればそれでいい、という考え方からすれば、何も問題ないことだ。でも「そんなえげつないことするなよ」というのが、普通の人の実感だろう。しかし「えげつないこと」は、ルールやマナーとして明文化できることとは違うから、何の強制力も持たないことになる。
「すべてを曖昧にする」というのは、日本が元々持っていた文化じゃないかと思うのだよな。物事を曖昧にすることにより、不要な対立を避け、みんなが仲良くしていく。日本はそうやって、狭い国土で平和に暮らしてきた。
そこにたぶん、西洋から、「全てを明確に定める」という文化が入ってきた。そうすると、それまでの日本が持っていた、曖昧でありながらも大事なことが、明確でないという理由で「意味のない」ものとなり、忘れさられてしまっていく。そういうことがあるのじゃないかという気がする。
西洋では、合理主義の一方で、いまだにキリスト教が、大きな力を持っている。キリスト教は、「倫理」について、たぶん今でも西洋を支配し、それが合理主義とのバランスを保っている所があるのじゃないか。
ところが日本は、西洋から合理主義だけを輸入してしまい、キリスト教は輸入しなかった。それが今日本で、倫理的に見てあまりにおかしいことが、平気でまかり通ってしまうようになっている、一つの理由じゃないかと思うのだよな。
もちろん僕は、「それではキリスト教を輸入しよう」ということを言いたいのじゃない。入ってきてしまった合理主義は、もう取り除くことはできない。すべてを曖昧にして済ませてきた、昔の日本に戻ることはできない。そうであるならば、合理主義をうまく飼い慣らし、日本人がもう少し心地良く暮らせるようなあり方を、何らかの形で見つけていく必要があるんじゃないか。
それがどういうものだか、僕にもよくわからないけれど、少なくともはっきりしていることは、それは政治家や一部の専門家に任せればすむ問題ではないということだ。日本人の一人ひとりが、考え、模索していかなければならない課題なのであると思う。
金子勝氏のツイート:
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109103045996052480
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109378653477015553
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109381013926461440
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109386030322421760
昨日はグルメシティは、毎週木曜日の特売の「木曜もっくん」と、毎月1日の特売である「一の市」が重なって、巨大な特売日となっていた。しかし特売ってのは、どうして何でもかんでも、いっぺんに安くしてしまうのかな。品を替え、毎日順番に安くしてもらった方が、こちらとしてはあがたいんだがな。でもそれではスーパーとしては、意味がないということか。
そのグルメシティの特売で、昨日は鶏もも肉を買った。鶏もも肉はこのところずっと、汁の実にばかりしていたのだけれど、鶏もも肉自体を、一番おいしく味わうのだとしたら、僕は塩焼きだと思うのだよな。
塩焼きは、僕は粗塩だけをすり込んで、青ねぎとレモンをふって食べるのが好きだが、べつに好みでコショウを振ったっていい。でも間違いないのは、焼き過ぎないのが何より肝心だ。
僕はフライパンのフタはしないで、弱火でじっくり焼くようにするが、ちょっと赤いかな、というくらいで火を止めると、柔らかくてモチモチでうまいのだ。でも昨日は、久しぶりの塩焼きだったので、ちょっと焼きすぎてしまった。
茄子のおしたしは、前日硬すぎて失敗したから、もう一度チャレンジした。「ゆで過ぎかな」というくらいゆでてみたら、やはりゆで過ぎだったが、ゆで過ぎると困るのは、絞るとき形が崩れてしまいそうになることくらいで、味は硬いよりは100倍うまい。でももう少し硬めでもよかった。
こういうつまみで酒を飲むと、酒が非常にうまくて、つい飲み過ぎてしまいそうになるのだが、昨日はなんとか2合で終われた。
2011-09-01
福島からのお客さん
こないだまで焼きそばだの、うどんすきだの、麺を使った大皿料理に凝りに凝っていた僕だったが、サンマの登場により一転宗旨替え、このところ単品料理に精を出している。
大皿料理だと、材料を組み合わせていかないといけないから、サンマだの茄子だのピーマンだのといった個性の強い材料は、どうしても弾かれてしまいがちになる。しかしそうなってしまうと、秋の味覚を十分味わうことができないからな。
昨日はサンマ、198円でまだちょっと高いのだが買ってしまった。これだけ秋の気配が濃くなってくると、サンマを食べないわけにはいかない。こないだサンマを食べた時には、初めて使う焼き網で、久しぶりの焼き魚だったものだから、塩は振り忘れるわ、焼き加減は失敗するわという体たらくだったが、今回は完璧。とろけるかと思うような脂の乗ったこのサンマ、やはり魚のなかで一番うまいと言い切ってしまって間違いないんじゃないか。
冷蔵庫に茄子が残っていたので、おしたしにした。茄子がおしたしにできるって、知らない人も多いんじゃないか。僕は京都へ来て、八百屋のおばちゃんに聞いて初めて知った。
ごく軽く塩を振った水で茄子をゆで、水にさらさずそのまま冷やす。冷えたらよく絞り、適当な大きさに切って、すり胡麻にしょうゆでも、白味噌和えでも、何でも好きなものをかけて食ったらいいのだ。
柔らかい茄子の歯ごたえが楽しい一品となるわけだが、昨日はゆで時間が足りなくて、ちょっと硬さが残ってしまった。
スーパーで、福島県産のピーマンを発見したのだ。福島の野菜が売っていたらぜひ買いたいと思っていたのだが、今回初めて見つけた。昨日はおかずが十分あったから、ピーマンは後日食べようと思ってたのだが、茄子のおしたしが失敗したから、急遽おかかで炊くことにした。
ピーマンというと僕はサラダにするとか、肉詰めにするとか、どちらかというと洋風の食い方しか思い浮かばなかったのだが、いやいやいや。ピーマンはおかかやジャコにしょうゆというのが非常に合う。京都で唐辛子をジャコやおかかと炊いたりするのと、まったく同じ話だ。
ただゆでて、おかかやジャコにしょうゆをかけて食うのもうまい。昨日は茄子をおしたしにしたから、ピーマンは炊くことにした。
水にピーマンとおかかを入れ、酒とみりん、うす口しょうゆで味を付け、強めの火で炊いて、最後は煮詰めてしまう。くたくたに味がしみた、ほろ苦いピーマンというのが、またなんとも言えないわけだ。
あとは冷奴。
それからキュウリとセロリの浅漬。昆布と鷹の爪といっしょに塩もみし、酢をふりかけたキュウリとセロリを、タッパーに入れて冷蔵庫にしまっておくというだけの話だが、これがうまい。もうスーパーの、味の素がしこたま入った浅漬など食えないし、食う必要もないということだ。
昨日はこれだけつまみがあったもんだから、つい酒が進み、いつもは1合半か2合のところ3合のんだ。
ピーマンの炊いたんを作る時、福島県産のピーマン、一つを割ったらあおむし君が住んでいた。福島からはるばる、家まで遊びに来てくれたわけだ。茶色いうんちを、小さな体に似合わず驚くほどたくさんして、このピーマンが、あおむし君にとっては住み慣れた我が家なのだろう。
一回ゴミ袋に放り込んだのだが、福島からせっかく来てくれたのに、それも何だと思って、とりあえずピーマンのフタをして、ベランダに置いておくことにした。僕は生き物の世話をすることが、大の苦手だから、たぶん死んでしまうことになるのじゃないかとは思うが、今のところはまだ元気に、ピーマンの中を動き回っている。
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