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2011-08-27

アジの塩焼きとスイートコーンで夏の味覚を今ごろ満喫


一昨日サンマを食い、「秋の味覚だ」と喜んでたんだが、考えてみたら、夏の味覚でまた食ってないもんが色々あった。それで昨日は、アジの塩焼きにスイートコーン。やはりこれを食わずに夏を終わらせてはいけないだろう。他にトマトもまだ、今年になってから食ってない。

なぜこんな不手際を起こすことになったかといえば、この夏は焼きそばだのうどんすきだのの、麺料理に凝ってしまったからだ。「料理する」のが主眼になってしまったから、「焼くだけ」とか「ゆでるだけ」とかいう料理としてあまりにシンプルすぎるものは、眼中から外れてしまった。

しかしこの単品を「切るだけ」「焼くだけ」「ゆでるだけ」、味付けは塩か、またはしょうゆやポン酢などをぶっかけるだけという、料理と言うにはちょっとはばかられる食い方、手軽に季節を味わうには最高なんだよな。材料そのものの味わいを、最も感じることができる。

料理ってのは、やはり「鍋」に代表される、すべてを一つに集約していこうとするやり方と、材料を個別に味わっていくやり方と、大きく2つに分かれるな。どんな場所にも、この2つは混在するものと思うけれど、中国なんかは炒め物にしても八宝菜とかあるし、ギョウザにしても麺類にしてもすべての栄養を一つに合わせていくわけだから、どちらかと言えば「集約派」な感じがするよな。それに対して日本料理の代表を寿司や天ぷらだとすれば、日本は「個別派」だ。

中国人などの目から見れば、ただ魚を切りさばくだけの刺身だの寿司だのは、到底料理のうちには入らないのじゃないか。中国人に聞いたことないけれど。それに対して以前魯山人の本を読んだら、中国料理があまり素材に気を使わないと言って、魯山人は中国料理を糞味噌にけなしていた。

僕自身のことを考えても、鍋や焼きそばに凝っている時は、「味付け」のことなどを色々考え出して、ただ塩をふって焼いてポン酢をぶっかけて食う、なんてものは到底料理とは思えず興味が湧かなくなってくるし、逆にこうやって、塩焼きの魚を食べはじめると、味付けなどという面倒くさいもん、どうでもよくなってくる。


いやこんなこと考えていても、何の足しにもならないし、この先とくべつな結論もないのだけれど、まあ面白いから、もう少しこのことについて考えを進めると、ざっくり外から見ると、寿司や天ぷらを代表とする「個別派」の日本なのだけれど、少し詳しく見れば、集約派と個別派は混在している。

東京は明らかに、個別派の文化なのだけれど、京都に来て感じるのは、京都というのは味付けについて、ものすごく繊細な感覚を持っているなということだ。

「京都はうす味」だというのが一般的なイメージだろうが、京都へ来てラーメンを食べてみればわかるが、「天下一品」を代表として、ものすごくこってりしている。京都のラーメンと言えば、全国どこにでも「京風ラーメン」と呼ばれる、うす味で和風だしを使ったラーメンがあると思うが、京風ラーメンは実は京都にはない。京風ラーメンは京都人ではない誰かが、京都をイメージして勝手に創りだしたものなのだ。

京都がうす味なのは、基本は野菜を炊くときだけだ。しかもうすいのは色だけで、出汁の味がかなりきつく付き、甘みも意外に強く付けてある。それに対して肉や野菜を炊く時は、京都では徹底的にこってりさせる。

京都はうす味のうどんを食べるのかと思ったら、もちろんそれが中心ではあるんだが、そばもけっこう好んで食べる。そばの場合には、きちんと濃い出汁を使い、それを京都は「にしんそば」みたいな形で、きちんと名物にまで仕立て上げている。

だから京都は、ひとことで言えば「TPO」なのだよな。材料についても味付けについても、こだわりがない。様々な材料を、適切な味付けをすることにより、どうバランスよく、一つの料理として完成させていけるのか、というところに重点がある。「まぐろにしょうゆ付けて食うのが最高」なんていう東京とは、完全に対極にあるわけだ。


ところがここで、同じ関西にありながら、大阪というのが興味深いんだよな。京都と大阪の食文化は、全く違うんじゃないかと思う。まあ僕は大阪には住んでおらず、たまに行くくらいだから、あまり知ったような口をきくと、大阪の人に怒られるんじゃないかとは思うんだが。

京都を集約派の日本代表とすれば、大阪は京都のすぐ近くにありながら、個別派なんだと思うんだよな。

まず「塩味」に対するこだわりが強い。大阪は塩味のラーメンがほんとに多い。しょうゆラーメンは、今まで大阪であまりいいのを食ったことがないんだが、塩味のラーメンについては、大阪にはいくつも名店がある。僕の大阪の友人も、「塩味が一番いいのよ」などと言ってみたりする。

それからたぶん、うどんに対するこだわりが強い。京都では、うどんは多くの食べ物のうちの一つにすぎないが、大阪ではうどんは「ソウルフード」に近いものなのじゃないか。

僕がそれを一番感じたのは「うどんすき」だ。うどんすきは基本的に、ちょっと京料理の趣もあるごちそう料理なんだが、そこにうどんを入れてくるところが、「ごちそうにまでうどんを入れないと気が済まない大阪人」を表しているような感じが僕はした。実際大阪の友人のお母さんも、毎日うどんを食べないと気が済まないのだそうだ。

こういう事情は、商人の街である大阪は、貴族の街である京都から、何かと上から目線で馬鹿にしたような態度を取られ続けた、なんていう、歴史的な経緯もあったりするのかとも思う。「京都とは同じにならないぞ」と思い、自分たちの文化を模索した結果、京都の集約派に対して、個別派に行き着いた、みたいな。


まあこんなこと、だらだら書いても何の足しにもならないんだが、途中まで書いてしまったから、あともう少しだけ続けると、大阪がそうやって、京都に対する対抗意識をもって、自分たちの文化を形成してきたと考えるとして、大阪にはさらにもう一つ、対抗意識を燃やした場所があったのじゃないか。それは「東京」だったと思うんだよな。それが「ソース文化」というところに表れているんじゃないかという感じがする。

大阪の、これはさっきとは別の友人なんだが、「何にでもソースをかける」と言っていた。天ぷらにも当然ソースだそうだ。東京人は基本は、「何にでもしょうゆをかける」だと思うんだよな。僕はとんかつにも、ソースじゃなくしょうゆをかける。東京の人はそういう人多いんじゃないかと思う。

大阪は、ただ単純に京都と違おうとすると、何でもしょうゆをぶっかけて食う、東京人とおなじになってしまう危険があった。それで東京とは違う、「ソース」をぶっかけることで、京都とも東京とも違う、大阪独自の文化を確立したと。

とまあ以上は、何の足しにもならない、僕の勝手な空想話なわけなんだが、僕は色んな場所に住んでは、その土地のことを勝手に自分なりに想像して、一人で楽しんでいるというわけなのだ。


というわけで、昨日の飯の拡大写真を紹介。


これは完全に、ただアジに塩をふって焼いて、ポン酢をぶっかけて食べるってだけの話だが、さすが旬の魚は、それが一番うまいんだよな。非力なIHレンジにフライパンで焼いてた時は、どうしてもアジが水っぽくなってしまったんだが、カセットコンロに魚焼き用の網を使うと、完璧な焼け具合になった。

ただ家の中で魚を焼くと、部屋中が煙で充満し、真っ白になるという欠点がある。カセットコンロだから、ベランダに持ち出して焼いてもいいんだが、間違いなく、火事だと思われるな。「魚焼いてます」とかいう張り紙でもしておくか。


スイートコーン。これはただ、塩ゆでしただけ。何も付けずにかぶりつく。「甘くてウマー」となるわけだ。何の芸もないわけだが、やはりとうもろこしは、この食い方が一番うまいだろう。


キュウリは漬けてから2日目になったら、やはり味がなじんでうまくなった。


昨日もシメはかけうどんにしたんだが、考えてみたらとうもろこしは十分炭水化物だから、わざわざうどんまで食う必要はなかったのだ。明らかに食い過ぎだった。