2010-02-27

高野料理カード

和田拓治郎さんという人が、2時間もかけて、作ってくれたのだ。裏にはレシピが書いてある。

2010-02-26

晩 酌

今日は雨だったし、このところ出づっぱりだったし、明日は、朝から晩まで、飲み続ける予定だし、ちょっと用事で出かけた以外は、ずっと家で本を読んだりして、めしも三食、家で食べた。この晩酌の材料は、昨日買ってあったもの。

鶏もも肉は、いつも通り、スパーク庚午店のブラジル産。この3倍くらいの値段がする、日本産よりおいしいと思うのは、気のせいなのか。塩コショウして焼いて、青ネギとレモン汁をかけるが、僕はほんと好きだな、こういう簡単なもの。

インゲンは、どうしようかと思ったのだが、醤油味のだしで煮てみた。おいしくできたが、考えてみたらこういうものこそ、煮魚とかの残り汁で作ったらいいのだよな。


小林秀雄全作品27、28 本居宣長(上)(下)

小林秀雄全集の最終巻。ほかに別巻に、未完の作品が一つ、残っているのだが、これでほぼ、小林秀雄の作品は、読み終わったことになる。

この「本居宣長」は、1965年から1977年、小林秀雄が63歳から75歳まで、11年半の長きにわたって、雑誌に連載されたもので、小林秀雄は80歳で亡くなり、これをまとめた後には、まとまったものは書いていないから、これが小林秀雄の集大成ということになるのだが、実際読んでみるとこれは、「遺言」とでも言いたくなるような、激しい気迫を、吹き出していて、読みながら、息が詰まりそうな、ちょっと苦しい感じもした。

小林秀雄が、デビュー以来、一貫して変わらず主張するものは、現代文明にたいする強い批判だ。「インテリ」とか、「学者」とか呼ばれる人達が、自身の人間としての実感に基づかず、頭だけで考え、構築する世界というものにたいする、激しい嫌悪、評する対象ややり方は、時代の中で、次々と変わってきているのだが、その底流にはいつも、この嫌悪の気持が流れている。

この作品でも、初めのうちこそ、学者の誤った見解を、「面白い」などという言葉を使って、オブラートに包んで表現しているのだが、たぶん人間、70歳を過ぎると、先行きも長くないし、そういう細かな配慮をすることが、面倒くさくなるのだろうな、言うだけのことを、言っておかないと、とばかりに、中盤以降は、現代の国文学者にたいする、全面否定の言葉が連ねられていく。これは、否定された方としては、当然面白くないだろうし、苦笑いして黙殺するしかないだろうが、もう関係ないのだな、そんなこと、小林秀雄は。

そういうところが、47歳の僕としては、まだ70歳の人の気持に、完全に同化できないところがあって、息が詰まりそうになると書いた所以なのだが、しかしこの「本居宣長」、小林秀雄が、それだけの確信をもって、現代文明を非難するだけのことは、あるのだな。小林秀雄は、本居宣長に出会うことによって、完全に、新しく見つけたことがあるのだ。それは小林秀雄が戦うべき相手である、「現代」という時代を織り成す、基本的な考え方が、科学というものが誕生し、物質についての説明について、巨大な前進をして、さらにそれを、人間にまで当てはめようとした、ここ数百年のものだと思っていたところが、そうではなく、さらに遡るところ数千年、人間が、「文字」というものを手に入れた、その時から、間違いが始まっていた、ということなのだ。

本居宣長という人は、「古事記伝」という、日本最古の史書である「古事記」の注解書を、数十年をかけて完成させた人なのだが、その古事記が書かれた頃、日本は独特の、言葉にかんしての事情があった。当然「やまとことば」という、古来から人が話してきた、話し言葉があったわけだが、一方、中国から膨大な書物を受け入れ、古代日本の学問が、この中国の書物を勉強することにより、行われるようになると、文字を持たなかったやまとことばは、中国からの文字の影響を受けて、大きく変わろうとしていた。天武天皇が、太安万侶(おおのやすまろ、すごいな、これも、Google IMEだと、一発で出た)に命じて、古事記を編纂することにしたというのも、当時すでに、やまとことばが変化して、古い伝承などを、古いままに、正確に発音できる人が、いなくなろうとしていた。古い伝承や、また神様への言葉などは、言われていた、その通りに発音できて初めて、その威力を発揮できるものだから、まだかろうじて、それを発音できる人が残っているうちに、その音声そのものを、記録しておかなくてはならないという、そういうことだったのだ。

だから太安万侶は、古事記を編纂するに当たって、今の平仮名に相当するような、漢字の音を使って、やまとことばの発音を表わすという、画期的な発明もしながら、なんとか、古代やまとことばの発音を、そこに再現しようと、苦心惨憺したのだった。

本居宣長は、それをまっすぐに受け取り、古代の人が、その発音によらなければ伝えることができなかった、その思想的な内容とはどういうものなのか、同じ意味を表わす漢字に置き換えてしまっては、失われてしまう、一つの世界というものを、古事記を通して、まさに古代人と出会い、親交をむすぶようにして、自分の中に構築していく。いわば古代人の話し言葉を習得し、そのことによって、古代人の心持ちを知ろうとする、そういう道を選んだのだ。

しかしそれが、いかに画期的なことであったかということは、古事記が編纂された当時ですら、べつに同じ発音でなくたって、同じ意味の漢語に置き換えて、何も不自由はないではないかと、そういう考えで、「日本書紀」というものが、古事記とは別に編纂されたり、またそれ以後も、本居宣長に至るまで、学問は中国語で行えば良いのであると考えられ、古事記を、古代日本人の話し言葉が書かれたものとして尊重し、それをその通りに受け取って研究する人は、まったくおらず、さらには、小林秀雄が鋭く指摘するとおり、それは現代に至るまで、本居宣長が行ったことを、学者がきちんと評価したことは、一度もなかった、ということなのだ。

それはなぜかと言えば、言葉というものはもともと、話されていたものであって、人間の歴史が何万年か、あるとして、文字というものが発明されたのは、たかだかここ数千年のことであり、文字を手にしてしまった側から見れば、文字のない時代など野蛮であり、幼稚な人しかおらず、素朴なことしか考えられていなかったと、思いたくなるが、そんなことは、あるはずがない、文字のない世界に住んでいたのも、今の人間と変わらない、同じ人間であり、同じ情をもっていた、そういうことが、今の時代、いや、人間が文字を手にしてしまってよりこの方、見えにくくなってしまったからなのだ。

話し言葉そのものの中に、人間が社会生活を営む上で、すでに十分豊富な内容が、きちんと含まれている。独特の抑揚をもった話し言葉こそを、言葉として表現することがすなわち、何かを感じることである人間が、いちばんの基盤としていくべきものなのだ。小林秀雄はこの本の中で、そのことを繰り返し繰り返し、手を変え品を変え、訴えていくのである。

小林秀雄が今回、この本を書くに当たって、それではそのことを読者に、どのようにしたらわかってもらえるか、と考え、決めたことがある。それは、古事記の原文や、それにたいする本居宣長の注解など、それらはすべて、古文なわけだが、それをふんだんに引用するということだ。本居宣長が古事記の中に、何を見つけたかということは、それを現代語に翻訳してしまっては、決してわからないことがある、古事記の、そして本居宣長の、言葉そのものに、読者に触れてもらうようにしなければならない。ということで、のっけから、本居宣長の遺書の長文な引用があって、こちらは古文などを読んだ経験は、ほとんどないわけだし、新潮社がつけた簡単な脚注はあるのだが、小林秀雄自身はそれを、ほとんど説明しないしで、初めはちょっと、読むのがつらかった。

しかしこれは、小林秀雄自身の体験を、読者も自分で、いっしょに体験してみるということなのだな。古文をゆっくりと、味わいながら、細かいところはわからなくても、気にせず、進んでいくと、意外にわかるようになっていく。本居宣長の文体に垣間見える、明確な言葉にならぬ趣きというものも、感じられるようになっていく。小林秀雄のみならず、彼の親友たる本居宣長に、すこしは近づけたような、そんな気がした。

この本は、巻末に、次の言葉で締められている。
もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻(しき)りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。
僕は小林秀雄の作品を、ずっと通読してきたからわかるのだが、これはただ、小林秀雄の熱意の表れではないのだ。小林秀雄は、もうずっと以前から、批評という形式で、文学作品と言えるものを書いてみたいと、思い続けてきた。その文学作品とは、それ自体が独立した生命をもつようなもので、その一つの形として、結末に至ったときに、また初めに戻るような、そういうものであると、ドストエフスキーを論じたときに、言っていたと思う。上の言葉は、小林秀雄が、半生をかけて夢描き、到達しようとしたところに、自分はたしかに来ることができた、この「本居宣長」は、たしかに、一つの生命を持った、文学作品なのだという、これ以上のない、喜びの表現なのだ。

★★★★★


2010-02-25

三篠町 「高砂屋」

この店は夜だけの営業で、この頃は家で晩酌することが増えた僕にとっては、なかなか行きにくい店なのだが、広島を離れるにあたって、やはり来なければいけないだろうということで、実は今日は、つまみの材料をスーパーで、買い揃えてあったのだが、来てみることにしたわけなのだ。

暖簾がずいぶん、低いところにかかっていて、これは何を主張しているのか、目に入りやすいということかとは思うが、今どき流行りの、腰パンを思い出すのだよな。

この店ではやはりまず、おでんにビール。広島のおでんはよく、どうやったらここまで黒くなるのだろうと思うくらい、汁が真っ黒なやつがあるが、ここのはそれほどでもない。ほどよい加減なのだ。

そして、ラーメン。前に一度来ただけで、5つ星を付けたのだが、僕の舌は間違ってなかった、やはりうまいな。自画自賛だが。ひとことで言うと、人間に「ラーメンのツボ」というものがあるとして、そのすべてをグイグイと押してくるような、そういうラーメンなのだな、これは。

広島の標準的な醤油豚骨とは、ちょっと違って、たぶん豚骨より、鶏ガラが多く使われているのじゃないかという感じがする。あっさりとしながら、濃厚なコクのあるだしで、それにちょっと強めに、醤油味が付けられている。ラーメンのスープと言えば、これだろう、という、まさにそういう味なのだ。

麺がまた、ちょっと細めで、素麺のような食べ応えがする、やわらかいのだが、コシがあるという、普通といえばまったく普通なのだが、他ではあまり、食べたことがないようなもの。チャーシューは、歯応えがあって、しかもジューシー。言うことないな。

全体として、ありそうで、ない、普通のラーメン。女将のお母さんの代から入れると、もう50年になるそうだが、ぜひこの味を、長く続けてほしいな。



昼めし 五日市「来頼亭」

五日市の「来頼亭」へ、再び行ってみたのだ。コメントで、「このラーメンは、あまり間を置かずに、3回食べてほしい」というのがあったのだが、たしかに、ここのラーメン、「これ」とひとことで言うことができない、微妙なところがあって、前に食べた2回とも、それが何なのか、味わっているうちに、スープを飲み干してしまった、という感じだったのだよな。

今回は、余分な味を交えず、ラーメンだけをしっかり味わおうと思って、チャーハンとサラダの付いた定食はやめて、ラーメンの大盛りを頼んでみた。大変うまかったが、やはり今日も、そのうまさがどういうことなのか、わかる前に、スープを飲み干してしまった。九州の豚骨ラーメンに近いと思うのだが、それとも少し違って、やさしい感じがする。何なのかな。ニンニクが入っていないのかな。ようわからん。

まあしかし、そんなことは、わかる必要もないわけだし、実際、よくわからないところが、この店のラーメンの魅力とも、言えるわけだよな。

朝めし

わかめうどん。まだ酒が残ってる。今週はしかし、1年分の飲み会をやってるみたいだな。


2010-02-24

朝めし

紅茶とトースト。


西区小河内町 天ぷら「くりはら」

広島には「ホルモン天ぷら」というものがあって、以前別の店では食べたことがあったのだが、有名店であるこの店にも、来てみないといけないと思っていたのだ。住宅街の隅の方にあるが、地元の人らしき団体や、一人客、サラリーマン、子連れの家族、カップル、などなどで、店は賑わっている。会社帰りらしき女性が一人で来て、持ち帰りをしていくというのも、何人かいたな。

店内は、愛想というものがまったくなく、メニューすらない。店主のおばちゃんは、70歳くらいなのかな、恵美のおばちゃんにもちょっと似た、頑張り屋さん、という感じの顔立ちなのだが、愛想笑いの一つもせずに、カウンターの隅で黙々と、天ぷらを揚げている。

僕はそのすぐ脇、カウンターの、いちばん手前の端に座ったのだが、ビールを頼むと、後ろの冷蔵庫から、自分で取ってくれとのこと。飲み始めると、「天ぷら、適当でいいか」と聞かれて、揚がると、席に置かれているまな板の上に、まったく無造作に出してくれる。

ホルモン天ぷらは、箸では切れないから、まな板の上で、包丁で切って、それを酢醤油に、韓国唐辛子をたっぷり入れたタレで食べる。慣れないと、何だかわからず、ちょっと怖いが、食べてみると、何種類かあるのだが、どれもやわらかく、酒のあてには言うことないのだな。

初めての飲み屋で、こちらも一人で、黙々と飲んでいるのだが、こういうときは、下手に気にされるより、放っておかれた方が、居心地がいいのだよな。周りでは、人が出入りし、騒いで、僕を素通りして、おばちゃんと会話が交わされ、人間模様が繰り広げられるわけだが、そういう中で一人、黙々と酒を飲むのは、時間が止まったみたいで、または、大人の中に一人放り込まれた、小さな子供になったみたいで、なんとも癒される。

おばちゃんも、自分でこの店を始めて、もう40年になるというから、そういう酒飲みの習性は、よくわかっているのだよな。自分からは一切、しゃべりかけてこないが、たまにこちらが話しかけると、普通に答えてくれるし、「うまい」と褒めると、嬉しそうにする。いい人だな。

ビール一本で、ホルモンは食べ終わり、まだ少し飲みたかったので、熱燗を頼んで、野菜の天ぷらを追加。シメはホルモンスープと白めし。

ホルモンのスープというと、韓国の、真っ赤なホルモン鍋とか、名古屋の味噌煮込みとか、僕などは、濃い味を思い浮かべるのだが、広島は違うんだな。すまし汁になっていて、きちんと下処理するからなのだろう、臭みなどはかけらもない。かつおだしで割って、塩味を付けて、という感じだが、これはうまい。まさに滋味、酔っぱらいの五臓六腑に、しみわたるな。

勘定は、シメて2,460円。いいな、この店。また来たい。

くりはら (ホルモン / 観音町、福島町、西観音町)
★★★★ 4.0


2010-02-23

猫屋町 「かんらん車」

今日も、広島を離れる前に、行っておかなければいけない店、なのだ。考えてみたら、行っておかなくてはいけない店、色々あるのだよな。

お好み焼きは、僕にとっては2強があって、この「かんらん車」は、そのうちの一つ。みっちゃん系の中では、最強じゃないかと思うんだがな。

みっちゃん総本店で修行した大将は、基本、みっちゃん流の、キャベツがほくほくとした、端正なお好み焼きを焼くのだが、この店が、みっちゃん系はもちろん、他の店ともちがう、最大の特徴は、麺の扱い方にあるのだ。

みっちゃん系のお好み焼きは、生地の上に、キャベツやら肉やらもやしやらをのせ、上下をひっくり返してしばらく蒸し、その間に麺をゆで、鉄板で焼いて、焼き上がった麺の上に、蒸した本体をのせ、さらに横で卵を割って、つぶして広げ、麺と合体させた本体をそこにのせ、しばらく焼いて、卵に火が通ったら、ひっくり返して、ソースを塗って、トッピングをかけて出来上がり、という工程を経て、作られる。いちおう書いてみたが、これ文だけ読んでも、見たことない人にはわかりにくいな。

まあこの工程の全体は、どうでもいいのだが、この店では、最後に卵に火を通すとき、その時間3秒、半熟どころか、ほとんど生の状態のまま、ひっくり返してしまうのだ。そうするとどういうことになるかと言うと、焼けた麺のあいだを、ドロドロの玉子が浸透し、麺が玉子でコーティングされる、ということになるのだ。これがうまいのだな。

まず麺の食べ応え自体が、これによっておいしくなるのはもちろんで、大将は長崎出身なのだそうだが、長崎の皿うどん、あの感覚なのだと思う。焼けた麺に、ドロリとしたおいしい液体というのは、相性として、これ以上のものはないよな。

そしてさらに、こうやって麺が玉子でコーティングされることによって、時間がたっても味が変わらないのだ。

麺がカリカリに焼かれたお好み焼き、ずいぶんあると思うが、あれはほとんどが、最初の一口二口はいいのだが、時間がたつと、乾燥した麺が、下にある、ホクホクのキャベツの、水分を含んでしまって、そうすると、モソモソになってしまう。これは最悪で、お好み焼きは、食べるのに時間がかかるから、半分くらい食べ進んだ頃には、麺がこの、モソモソ状態になってしまい、僕に言わせると、ほとんど食べられたものではない、という状態になってしまう。

しかしこの店の麺は、ドロドロ玉子でコーティングされているから、水分を含んでしまうということが、まったくない。食べ終わるまで、味が変わらず、おいしいままなのだ。これは大きい。

みっちゃん総本店出身の人って、お好み焼きを焼く技術としては、やはり一日の長があるのじゃないかと思うのだよな。その技術をもって、さらに自分の発想で、新しい焼き方に挑戦するこの店、僕はいいと思うのだよな、ほんとに。

実際この大将、焼き方がほんとにていねいで、一枚一枚、心を込めて、焼いているというのが伝わってきて、それを見ているだけで楽しい。

かんらん車


2010-02-22

江波 「陽気」

ラーメン1杯では、当然お腹は一杯にはならないわけなので、続いて4時半開店の、江波の「陽気」。ここも言うまでもなく、広島のラーメンを、圧倒的に代表する店で、広島を離れる前には、来ておかなくてはならない場所なのだ。

「すずめ」と「陽気」は、元は一緒だそうなのだが、今食べてみると、ずいぶん違うな。すずめに比べて、陽気は、だいぶこってりした印象がある。この店の味が不思議なのは、ちょっと味噌みたいな風味がするのだよな。ニンニクが、まったく臭わない程度に少しだけ、入っているみたいなのだが、そのせいなのか、いずれにせよ、独特な味、老舗なのだが、他にはない味なのだよな。

麺はすずめより、ちょっと太めで、モッチリした感じ。続けて食べているから、よく比べられるのだ。

すずめも陽気も、僕は広島のラーメンの中で、評判のとおり、圧倒的にうまいと思うが、あえて比べれば、やはり、第1位はすずめ、第2位が陽気だな。

ほんとはこの後、夜だけやっている店に、もう一軒回ろうかと思っていたのだが、さすがにラーメンも、2杯食べればお腹は一杯で、やめることにした。しかし聞くところによると、ラーメン評論家の人たちは、一日にラーメンを、6~7杯食べることもあるのだとか。いくら好きとは言え、辛い職業だな。



すずめ

広島を圧倒的に代表するこの店、午後3時からの営業で、ラーメンは基本、昼に食べる僕としては、なかなか来にくいのだが、広島を離れるに当たって、この「すずめ」のラーメンは、やはりもう一度、食べておかなければいけないわけで、今日はわざわざ、昼めしの時間をずらして、やって来たのだ。3時過ぎに店に入ったが、こういう半端な時間でも、10人くらいのお客さんが入っているのだな。どう考えてもこの人たちも、この店に時間を合わせたのだろうな。

この店のラーメン、広島ラーメン全体の中では、醤油の味が勝った部類に属する。昔からここに来ていた人は、「味が変わった」と言うし、実際、今は見当たらなくなってしまったのだが、以前あった店のホームページにも、「時代に合わせて味を変えている」ということが書いてあった。べつに代が変わって、味が変わったということではなくて、積極的に味を変えたということなのだが、これは全くの僕の想像だが、化学調味料の量を、減らしたのじゃないかと思う。昔は化学調味料は、「頭が良くなる」とか言われていたのが、20年くらい前から、急に、「体に悪い」ということになってしまったしな。

まあ実際のところ、どうなのかは、聞いたわけじゃないから知らないが、いずれにしても、そうやって、大きく味を変えるという、ラーメン屋にとっては、これはまさに、挑戦だよな、そういうことをしたにもかかわらず、このラーメンがすごいのは、余分なところは一個もなく、足りないところも一個もない、という、このバランス。今回もつくづく、うまいなと思いながら、最後まで汁を飲み干してしまった。

特別な、際立った特徴みたいなものは、一つもないのだが、人間、味の好みは千差万別だろうに、その一人一人にたいして、そのように唸らせる、そのバランス感覚は、どうやって養われ、どのような形で保たれているのか。味を変えるということを、経ているわけだから、ただ教えられたレシピの通りにやっているということではないだろう。まさに秘伝と言うに、ふさわしいよな。

しかし考えてみたら、広島の老舗の、おいしい店というのは、味の指向が基本的にこの店と一緒、余分なものも、足りないものも、ない、これなのだよな。だからもしかしたら、この味は、秘伝などというものじゃなく、広島によって育まれた味、と言えるのかもしれないよな。

すずめ

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2010-02-21

晩 酌

夜になっても、昨日の酒が、まだ抜けていないわけだが、酒を飲むというのは、毎日決まったことだから、今夜も当然、飲むわけだ。

おでんにでもしようかと思ったが、考えてみたら、昨日夜、泥酔しながらもスーパーへ寄って、トマトと豆腐を買ったのが、結局使わずに、冷蔵庫に入っていたのだよな。なのでついでに、冷凍庫に入っていた、塩ジャケのカマを焼くことにして、スーパーでは、いかにもうまそうだった、カブだけ買って、これは煮浸しにすることにした。

カマはグリルで焼くだけだが、これがうまいのだよな。塩ジャケも、身の部分より、カマの方が、間違いなく、100倍はうまい。これで安いと来るわけだから、毎度言ってることだが、たまらんな。

煮浸しは、だしパックで取っただしに、酒、本みりん、醤油、塩で味をつけた汁で、皮をむいて適当に切ったカブを煮るだけだが、前回10分煮たら、やわらかくなりすぎだったので、今回は5分にしたが、それでもずいぶんやわらかかった。3分くらいでいいのか。まあしかし、今回味付けにかなり成功して、死ぬほどうまかったので、問題はないが。いつもより高い油揚げを買ったのも、良かったかもな。

トマトは一日おいたら、オレンジ色だったものが、真っ赤に熟れて、いつも食べてるものよりおいしかった。


朝昼 五日市「来頼亭」

昨日は、広島へ来てブログをやって、ほんとに良かったと実感したな。ほとんどの人は、初めて会ったのだったが、僕のブログをずっと見てくれているから、初めて会った気がしない。気持ちよく話しているうちに、杯も進み、ビール一本に、熱燗7合、さらに近くのカラオケに繰り出して、ウィスキーをダブルで、たぶん2杯。泥酔状態で自転車で帰ったので、ちょっと危なかったな。今度は飲みに出るときは、自転車で行かないようにしなくちゃな。

今週は、水曜日には、以前一度参加した、恵美のおばちゃんのお仲間とのカラオケ大会に、最後だからと誘ってもらったのと、土曜の午後には、ハニーさんという人が主催するカラオケ大会で、送別会をやってもらい、夜には、和田拓治郎さんという人が、やはり送別会をやってくれることになっている。こうやって、広島を離れることになってみて、自分が広島で、たくさんの人と出会っていたことに、改めて気付かされて、ほんとに嬉しく、自分は幸せ者だなと、つくづくありがたく思っています。

ということで、今日は午前中、まだ普通に酒が残っていたので、いやべつに、ので、ってこともないのだが、五日市の「来頼亭」を再度訪問。こないだは、あっという間に、気付いたら食べ終わってしまっていたので、今日はもう少し、味わってみたいなと思ったのだ。しかしこの店、ほんとに住宅地の中にあって、両隣も普通の家なのだな。

今日も頼んだのは、「ラーメン定食」、680円。カウンターの手前に座ると、調理場の奥までが見渡せるので、大将が作るのを眺めていたのだが、作業がいちいち、丁寧なんだよな、ここの大将は。どこかで、技術者の仕事をしていたのを脱サラして、来頼亭の後を継いだ、というのを見たような気がしたのだけれど、今探したのだけれど見つからなかったのだが、その丁寧さというのがまさに、いかにも技術者、という感じ、白衣を着せて、試験管でも持たせたら、似合いそうなのだよな。自分が行う一連の作業の、一つ一つについて、つねに意識的で、それを積み重ねながら、より良いやり方を、見つけようとし続けているということが、動作の一つ一つから、伝わってくるのだな。

ホームページを見ると、来頼亭の味を、ブレずに作り出すことができる、煮出し汁製造装置というものを考案したのだとか。来頼亭の伝統ある味を、なんとか次世代に継承したい、という思いの表れなのだと思うが、すごいことだよな。こういう、お金ではなく、ラーメンの味そのものを追求する、誠実な態度を見ると、僕もつい、この「中華そば店オーナ募集」に、応募したいなと思ってしまうのだが、現時点では2点ほど、募集の必須条件に、当てはまらないところがあるのだ。誰かやってくれたらいいのにな。

ラーメンだが、今日もやはりうまかった。ここのラーメン、たしかにうまい。豚骨のしっかりとしたコクがあるのだが、同時に、あっさりとした、さわやかな感じがするのだよな。これが何によるものなのか、今日もわかる前に、スープを飲み干してしまった。たぶん鰹節か何かが、少し入っているのかもな。麺は自家製だそうで、これもまた、もっちりしていてうまいのだ。

ラーメンの種類として分類すれば、いわゆる普通の、広島の醤油豚骨とはちょっと違って、醤油の味がもっと薄くて、九州の豚骨ラーメンに、ちょっと近いのかもな。でもそれとももちろん、同じじゃなく、もっとやさしい味がする。あえて言えば、「八戒」にちょっと、近いかな。でもラーメンを作る発想として、伝わってくるものは、八戒の「とにかく豚が好き」というのとは、ずいぶん違って、もっと複雑な、微妙なものがあるような感じがする。

僕がこの店のことを、ブログに書いたのは、4日前だったのだが、大将はもう、お客さんに聞いたそうで、僕がブログに書いたことを知っていて、「良く書いてくれてありがとう」とか言われて、ちょっと焦ったりした。でもたしかにこの店は、創業60年以上の、老舗の味を受け継ぐ、広島を代表する、と言っても言い過ぎではない店だと思うから、もっと注目されてもいいんじゃないかという気はする。

来頼亭 本店 (ラーメン / 五日市、広電五日市、佐伯区役所前)


2010-02-18

晩酌 豚ロース塩焼き

マダムジョイで、アメリカ産豚ロースが、広告の品で安く出ていたので、再び塩焼きにして、青ネギと柚子こしょう。これは当然、豚肉にも、ばっちり合う。ただ柚子こしょうは、けっこう塩っぱいので、肉にふる塩は少なめにしたつもりだったが、それでもまだちょっと、塩っぱかった。

魚焼きグリルで焼くのだが、昨日鶏もも肉を焼いたのと同じ、中火でやってみたら、豚肉は鶏肉に比べて、厚さが薄いからな、見た感じいい色になる前に、火が通ってしまって、ちょっと固くなってしまった。焼くのって簡単そうに見えて、うまく焼くのは、意外に難しいのだよな。

僕はほとんどのものに、青ネギをふるわけで、これは広島で覚えたことなのだ。東京では、基本は白ネギなわけだが、青ネギの方が、味が落ち着いていて、刺激が少ないし、どんな味にも合うし、色目もきれいだし、ほんとに便利だよな。青ネギは、一把買うと、使い切るまえに悪くなってしまうので、もう切ってある、パック入りのやつを買ってくるのだ。

ゴボウは、昨日の残り。芯まで味がしみて、とてもいい感じなのだが、ゴボウの入った鍋を、冷蔵庫に入れず、レンジの上に置きっぱなしにしたために、もしかしたら、微妙に悪くなっているのかも。でもいいのだ、食ってしまうのだ。

今日はPCで、朝から膨大な量の、細かい作業をしていたら、昼めしを食うのも忘れ、気付いたら夕方になっていた。あまり根を詰めるのは、からだに良くないが、PCの作業って、ハマりだすと、止められないのだよな。


朝めし

紅茶とトースト。トーストは、表はきれいに焼けたように見えるのだが、裏は、一瞬目を離した隙に、焦げてしまったのだ。


2010-02-17

晩酌 鶏もも塩焼き

東京の友人が、鶏もも肉は、塩だけふって焼いて、柚子こしょうを付けて食べると、最高にうまい、色々試してみた結果で、絶対に間違いないから、やってみな、とのことだったので、そこまで言われた以上、やってみた、というわけだ。たしかにうまい。

僕が今まで、いちばんうまいと思っていた、塩コショウしてレモンを絞るというのと、味の構成としては、柑橘系、プラス、香辛料だから、同じことではあるのだが、柚子こしょうを使うと、和風で、上品になるのだな。京都かなにかで食べてるみたいだ。いや京都が上品なのかどうか、最近京都のラーメンを食べてから、疑いをもってはいるが。

僕は調味料を、あまり色んな種類を揃えることを好まないのだが、というのは、結局は同じ働きをするものが、見かけがちょっと違うだけ、という場合が多いからなのだが、柚子こしょうは和風の調味料だから、まだ許せるかな。許せるも許せないも、もう買ってしまったが。

洋風の調味料は、僕は極力、買わないようにしているのだ。というか、洋食は作らない。イタリアンも。なぜなら、調味料を一通り、全部揃えないといけないことになるからだ。ハーブとか揃えだしたら、大変だよな。青ネギで十分なのだ。

同様に、インド料理にも、手を出さないのだ。とにかく僕は、ハマりやすい性格なので、スパイスなぞ揃えだした日には、棚がいくつあっても、足りないよな。

それから、一昨日のぶり大根の汁で、ごぼうを煮てみた。水にさらしたごぼうを、ただそのまま煮ただけだが、いいっすね、たしかに。煮物ってのはほんとに、一粒で、三度も四度も、おいしいわけだ。


五日市駅前 「来頼亭」

「来頼亭」というのは、西翠町にある、昭和23年創業の、広島では有名な老舗だが、それが五日市にもあるというのをコメントで知って、早速行ってみたのだ。五日市駅の北口を降りて、線路沿いを西に向かって歩き、「近鉄不動産」の所の、驚くほど細い道を入っていくと、住宅地の中にいきなり現れる。西翠町の店とは違って、カウンター10席ほどの、小さな店だ。

ラーメンは550円だが、「ラーメン定食」というのがあって、チャーハンとサラダが付いて、680円、それを頼んでみた。ビールでも飲もうかと思ったが、置いていないのだそうだ。

でこのラーメン、うまい。西翠町の来頼亭より、断然うまい。西翠町も、もちろんうまいのだが、こちらを食べると、あの西翠町の、角のない、まろやかな味というものが、間の抜けた、締まりのない味に思えてしまう。

基本は豚骨のみでだしを取り、化学調味料は一切使わないのだそうだが、濃厚なコクがあり、化学調味料を使っていないとは、まったく信じられない。さらに、ただコクがあるというだけでなく、味に微妙な陰翳があって、それが何なのか、味わっているうちに、あっという間にスープを飲み干してしまう。これはすごいな。

麺も、西翠町のようにやわらかすぎず、ちょうど良いゆで加減。店主は、昭和58年から平成7年まで、西翠町の店主をやっていて、色々あって五日市に出たそうなのだが、ホームページを見ると、いちばん上の、欄外に出てくるタイトルに、「来頼亭本店 ~昭和23年創業以来五日市で守る伝統の味~」となっていて、「本店」という言葉まであるから、来頼亭の伝統の味を守っているのは、こちらだ、という自負が、あるのだろうな。

以前、西翠町の来頼亭に行ったときのことを書いたら、コメントに、「西翠町の味は、自分が学生の頃に食べていたのとは、残念ながらまったく別物で、今では食べる気にならない、先代の時の来頼亭は、麻薬的なうまさがあった」と書いてくれた人がいた。実際先代と今の代で、西翠町の来頼亭の味がどのように変わったのかは、僕にはわからないが、もしかしたらその先代来頼亭の味は、五日市のこの店に、残っているのかも知れないよな。

来頼亭 本店 (ラーメン / 五日市、広電五日市、佐伯区役所前)
★★★★★ 5.0


朝めし

紅茶とトースト。5枚切りに変えたので、トーストの焼き加減もバッチリだ。


2010-02-16

晩酌 サバ味噌煮

名古屋の知人から、名古屋名物の八丁味噌を、これも再び頂き物をして、これでサバの味噌煮を作れと、いうことだったので、マダムジョイで長崎産のサバを買い、早速作ってみたわけだが、いきなり結論に行ってしまうと、これはウマイ。広島にいながらにして、名古屋の味。

サバはだいたい、濃い味噌味が合うのだよな。チゲみたいにしても、かなりOKなわけだから、八丁味噌が合うのは、当然のことなのだ。今回味噌は、他の味噌を混ぜず、八丁味噌のストレート、水と酒を半々にして、本みりんと砂糖を、かなり多めに入れてみたが、完全にあの、味噌カツの味になった。

この味、広島の人がどう思うのか、興味あるのだよな。超刺激的な辛い味か、または真逆のやさしい味を好む広島の人にとって、このストレートな濃さは、無遠慮な感じがして、イラッとするのじゃないかという気がするのだが。日本って、狭い国だけど、地域によって、けっこう文化が違うのだよな。

酒は亀齢だが、この繊細なやさしい味は、ド濃い味噌の味には、ちょっと負けてしまうのかも。ド辛い酒が、合いそうだな、この味噌味には。