2010-02-26

小林秀雄全作品27、28 本居宣長(上)(下)

小林秀雄全集の最終巻。ほかに別巻に、未完の作品が一つ、残っているのだが、これでほぼ、小林秀雄の作品は、読み終わったことになる。

この「本居宣長」は、1965年から1977年、小林秀雄が63歳から75歳まで、11年半の長きにわたって、雑誌に連載されたもので、小林秀雄は80歳で亡くなり、これをまとめた後には、まとまったものは書いていないから、これが小林秀雄の集大成ということになるのだが、実際読んでみるとこれは、「遺言」とでも言いたくなるような、激しい気迫を、吹き出していて、読みながら、息が詰まりそうな、ちょっと苦しい感じもした。

小林秀雄が、デビュー以来、一貫して変わらず主張するものは、現代文明にたいする強い批判だ。「インテリ」とか、「学者」とか呼ばれる人達が、自身の人間としての実感に基づかず、頭だけで考え、構築する世界というものにたいする、激しい嫌悪、評する対象ややり方は、時代の中で、次々と変わってきているのだが、その底流にはいつも、この嫌悪の気持が流れている。

この作品でも、初めのうちこそ、学者の誤った見解を、「面白い」などという言葉を使って、オブラートに包んで表現しているのだが、たぶん人間、70歳を過ぎると、先行きも長くないし、そういう細かな配慮をすることが、面倒くさくなるのだろうな、言うだけのことを、言っておかないと、とばかりに、中盤以降は、現代の国文学者にたいする、全面否定の言葉が連ねられていく。これは、否定された方としては、当然面白くないだろうし、苦笑いして黙殺するしかないだろうが、もう関係ないのだな、そんなこと、小林秀雄は。

そういうところが、47歳の僕としては、まだ70歳の人の気持に、完全に同化できないところがあって、息が詰まりそうになると書いた所以なのだが、しかしこの「本居宣長」、小林秀雄が、それだけの確信をもって、現代文明を非難するだけのことは、あるのだな。小林秀雄は、本居宣長に出会うことによって、完全に、新しく見つけたことがあるのだ。それは小林秀雄が戦うべき相手である、「現代」という時代を織り成す、基本的な考え方が、科学というものが誕生し、物質についての説明について、巨大な前進をして、さらにそれを、人間にまで当てはめようとした、ここ数百年のものだと思っていたところが、そうではなく、さらに遡るところ数千年、人間が、「文字」というものを手に入れた、その時から、間違いが始まっていた、ということなのだ。

本居宣長という人は、「古事記伝」という、日本最古の史書である「古事記」の注解書を、数十年をかけて完成させた人なのだが、その古事記が書かれた頃、日本は独特の、言葉にかんしての事情があった。当然「やまとことば」という、古来から人が話してきた、話し言葉があったわけだが、一方、中国から膨大な書物を受け入れ、古代日本の学問が、この中国の書物を勉強することにより、行われるようになると、文字を持たなかったやまとことばは、中国からの文字の影響を受けて、大きく変わろうとしていた。天武天皇が、太安万侶(おおのやすまろ、すごいな、これも、Google IMEだと、一発で出た)に命じて、古事記を編纂することにしたというのも、当時すでに、やまとことばが変化して、古い伝承などを、古いままに、正確に発音できる人が、いなくなろうとしていた。古い伝承や、また神様への言葉などは、言われていた、その通りに発音できて初めて、その威力を発揮できるものだから、まだかろうじて、それを発音できる人が残っているうちに、その音声そのものを、記録しておかなくてはならないという、そういうことだったのだ。

だから太安万侶は、古事記を編纂するに当たって、今の平仮名に相当するような、漢字の音を使って、やまとことばの発音を表わすという、画期的な発明もしながら、なんとか、古代やまとことばの発音を、そこに再現しようと、苦心惨憺したのだった。

本居宣長は、それをまっすぐに受け取り、古代の人が、その発音によらなければ伝えることができなかった、その思想的な内容とはどういうものなのか、同じ意味を表わす漢字に置き換えてしまっては、失われてしまう、一つの世界というものを、古事記を通して、まさに古代人と出会い、親交をむすぶようにして、自分の中に構築していく。いわば古代人の話し言葉を習得し、そのことによって、古代人の心持ちを知ろうとする、そういう道を選んだのだ。

しかしそれが、いかに画期的なことであったかということは、古事記が編纂された当時ですら、べつに同じ発音でなくたって、同じ意味の漢語に置き換えて、何も不自由はないではないかと、そういう考えで、「日本書紀」というものが、古事記とは別に編纂されたり、またそれ以後も、本居宣長に至るまで、学問は中国語で行えば良いのであると考えられ、古事記を、古代日本人の話し言葉が書かれたものとして尊重し、それをその通りに受け取って研究する人は、まったくおらず、さらには、小林秀雄が鋭く指摘するとおり、それは現代に至るまで、本居宣長が行ったことを、学者がきちんと評価したことは、一度もなかった、ということなのだ。

それはなぜかと言えば、言葉というものはもともと、話されていたものであって、人間の歴史が何万年か、あるとして、文字というものが発明されたのは、たかだかここ数千年のことであり、文字を手にしてしまった側から見れば、文字のない時代など野蛮であり、幼稚な人しかおらず、素朴なことしか考えられていなかったと、思いたくなるが、そんなことは、あるはずがない、文字のない世界に住んでいたのも、今の人間と変わらない、同じ人間であり、同じ情をもっていた、そういうことが、今の時代、いや、人間が文字を手にしてしまってよりこの方、見えにくくなってしまったからなのだ。

話し言葉そのものの中に、人間が社会生活を営む上で、すでに十分豊富な内容が、きちんと含まれている。独特の抑揚をもった話し言葉こそを、言葉として表現することがすなわち、何かを感じることである人間が、いちばんの基盤としていくべきものなのだ。小林秀雄はこの本の中で、そのことを繰り返し繰り返し、手を変え品を変え、訴えていくのである。

小林秀雄が今回、この本を書くに当たって、それではそのことを読者に、どのようにしたらわかってもらえるか、と考え、決めたことがある。それは、古事記の原文や、それにたいする本居宣長の注解など、それらはすべて、古文なわけだが、それをふんだんに引用するということだ。本居宣長が古事記の中に、何を見つけたかということは、それを現代語に翻訳してしまっては、決してわからないことがある、古事記の、そして本居宣長の、言葉そのものに、読者に触れてもらうようにしなければならない。ということで、のっけから、本居宣長の遺書の長文な引用があって、こちらは古文などを読んだ経験は、ほとんどないわけだし、新潮社がつけた簡単な脚注はあるのだが、小林秀雄自身はそれを、ほとんど説明しないしで、初めはちょっと、読むのがつらかった。

しかしこれは、小林秀雄自身の体験を、読者も自分で、いっしょに体験してみるということなのだな。古文をゆっくりと、味わいながら、細かいところはわからなくても、気にせず、進んでいくと、意外にわかるようになっていく。本居宣長の文体に垣間見える、明確な言葉にならぬ趣きというものも、感じられるようになっていく。小林秀雄のみならず、彼の親友たる本居宣長に、すこしは近づけたような、そんな気がした。

この本は、巻末に、次の言葉で締められている。
もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻(しき)りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。
僕は小林秀雄の作品を、ずっと通読してきたからわかるのだが、これはただ、小林秀雄の熱意の表れではないのだ。小林秀雄は、もうずっと以前から、批評という形式で、文学作品と言えるものを書いてみたいと、思い続けてきた。その文学作品とは、それ自体が独立した生命をもつようなもので、その一つの形として、結末に至ったときに、また初めに戻るような、そういうものであると、ドストエフスキーを論じたときに、言っていたと思う。上の言葉は、小林秀雄が、半生をかけて夢描き、到達しようとしたところに、自分はたしかに来ることができた、この「本居宣長」は、たしかに、一つの生命を持った、文学作品なのだという、これ以上のない、喜びの表現なのだ。

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