高野 それを実際に見ることができたらすごいことですよね、ほんとに。そのことについてもお聞きしたいことはいくらでもあるのですが、時間もありませんので次の質問に行かせていただきますね。
僕が次にものすごく面白いと思いましたのが、中村先生が「ゲノムが語る生命」の中で一連の流れとして書かれていらっしゃると思うのですけれど、まず「複雑なものを、まずはそのまま、自分が受け止める」ということ。次に「愛づる」という、自分と対象を分離するのではなく、対象を愛しいと思って、理解しようとすること。さらにそれを「物語る」こと。それなんですけれど、僕は小林秀雄がまったく同じことを言っていると思うんです。
「もののあはれをしる」という言葉は、小林秀雄の晩年の著作である「本居宣長」の中で、本居宣長の思想を言い表す言葉として、詳しく書かれているわけですけれど、これは同時に、小林秀雄自身の思想をあらわすものと受け取っても、僕はいいと思うんですね。それでそのことと中村先生の言われていることと、同じなんです。
この言葉は「ものの」「あはれを」「しる」という、3つのことから成り立っているのですけれど、まず「もの」にたいして、自分がまっすぐに向かっていくこと。そうやって向かっていくときに、自分のなかに湧き起こってくる「あはれ」があるわけですけれど、そのあはれは、それを自分が言葉にして「しろう」としない限り、自分自身にも見えてこないものであるということ。本居宣長は「古事記」に書いてある日本の古代の神話というものが、古代日本の人たちの「もののあはれをしる」という営みそのものであったと言っているわけです。
中村先生はご本の中で、「やまとことば」で物事を言い表すことで、漢語で言うのとは違った世界が見えてくるのじゃないか、ということとか、「アニミズム」、原始信仰のこととか、お書きになっていますよね。小林秀雄は、日本人ははもともと自然にたいして、「もののあはれをしる」という理解の仕方をしてきていて、それこそが、人間本来のあり方なのだけれど、中国から文字や文化を輸入することによってそれが妨げられてしまった、と言うんです。それで国文学者が本居宣長の言っていることをきちんと理解していないのだと、もうけちょんけちょんに批判するのですけれど、僕は小林秀雄のそういう自然にたいする見方というものは、中村先生がおっしゃっていることと、ものすごく重なることがあるように思うんです。
中村 なるほど。今まで自分では思っていませんでしたが、言われてみるとそうだろうと思います。たぶん自然とか、「もの」の本質を見ようとすると、それしかないのだと思う。だから科学ですか、文学ですか、哲学ですか、宗教ですかという問いは無しでね、ものの本質を知りたいわけでしょう。「生きている」とか、「いのち」とか、そういうことを知りたいということであるれば、それは文学であろうとなんであろうと、結局おんなじになるのだと思うんですよ。それはそれじゃ、日本だけかと言ったら、これまだ私はわからないけれど、「暗黙知」って話、知ってるでしょ、マイケル・ポランニーの。
高野 あ、聞いたことあります。
中村 彼は、物事には明確には表現することができない、「暗黙知」があると言っているけれども、私がいちばん関心をもつのは「コミットメント」なのです。「科学が客観的でなければいけない」ということにたいして、彼は批判するのです。科学だって、人間がやること、人間が分かろうとすることなのだから、説明しようとする対象の外側に自分をおいて、ただ客観的に説明するだけでは足りないんだ、そうではなく、対象にたいして、科学者自身の主体的なかかわり、コミットメントがなければ、本当には理解できないんだと言ってるわけです。
もちろんそれは、何でも自分で、勝手なことを言ってもいいというのとは違う。「主観的」というと「勝手なこと」と思われるけれど、そうではない。また「客観的」というと「真実」のように思うけれど、それも違っている。本当に分かろうとしたら、コミットメントしていかなければだめだということ。そしてコミットメントするとすれば、それは単に言葉で表現するだけでなく、ある種の直感みたいなことが、そこには関わりあうというので、「暗黙知」という言葉が出てくるのだけれど、彼の特徴は「コミットメントする」というところだと思うのです。
そういう意味でね、ちょっとずつ背景がちがうから、100パーセントみな同じとは言わないけれど、西洋とか東洋とか、日本とか中国とか言わずとも、本質を知ろうとしたときに、そういう関わりでなければわかってこないという感覚は、一生懸命考えると、おのずと出てくることなのじゃないかと思うのです。