「暗黙知」という言葉は以前から知ってはいて、本を読んだり話を聞いたりしたことはあったのだが、それは野中郁次郎という経営学者が暗黙知を組織経営の方法にとりいれた話の方で、元祖であるこちらマイケル・ポランニーのことは全く知らなかった。中村桂子先生とお話しさせていただいた時に話が出てきたので、早速買って読んでみたのだが、一気に釘付け。死ぬかと思うくらい面白い。
僕は以前「DNAの冒険」という本の制作にかかわり、分子生物学を学んだことがあるのだが、そこで思ったことは、細胞の中の分子の構造やふるまいについて、どんなに詳しく分かったとしても、それだけでは「生きているとは何か」という問いに答えることはできない、ということだった。例えてみれば、「このラーメンの何がおいしいのか」を説明しようとすることと、事情は全く同じなのだ。
ラーメンはスープや麺、チャーシュー、もやし、メンマ、青ネギなどからできていて、それらの一つ一つがどういうもので、どういう味がするかということを説明することはできる。しかしそうやって説明することで、「ラーメン」というものを説明し尽くしたことになるのかと言えば、全くそうではなく、特にほんとにおいしいラーメンの場合、麺がどうの、スープがどうのという話とはまったく別に、そのラーメンが一つのものとして、強烈に世界を語ってくるのである。それはほとんど「人格」とも呼べるものであって、麺やスープなどの個別の説明に還元することは到底できない。
「DNAの冒険」を作り終えてから、色々な科学者の話をきく機会があり、とくに「複雑系」という分野の人たちが、同じような考えのもとに研究を進めていることを知ったのだが、それから僕の仕事が別のことで忙しくなってしまって、このことについては僕自身の中では立ち消えてしまっていた。
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)
このことはラーメンに限らず、音楽でも絵画でも、人間がかかわる様々な局面に見られるものであると思うのだが、タンパク質やDNAなどの分子でできた「細胞」も、同じように、それら一つ一つの分子に還元できない、一つの世界を語っているのではないか。それが「生命」というものなのではないか。そう考えて、言語をはじめとした人間の活動について、自分の体験から見えてくるものを通して、細胞や動物の体の中で起こっていることを、素人なりに精一杯考えてみたというのが、「DNAの冒険」だったのだ。
「DNAの冒険」を作り終えてから、色々な科学者の話をきく機会があり、とくに「複雑系」という分野の人たちが、同じような考えのもとに研究を進めていることを知ったのだが、それから僕の仕事が別のことで忙しくなってしまって、このことについては僕自身の中では立ち消えてしまっていた。
今回仕事をやめて、再び以前の興味に立ちもどり、人の話を聞いたり本を読んだりするようになって出会ったのが、40年以上前に書かれたこの「暗黙知の次元」だったのだが、僕がDNAの冒険以来漠然と考えていたことと全く同じことが、しかしはるかに明確な形で、書かれていると思った。やっぱりいたんだ、同じことを考えている人は。マイケル・ポランニーは既にずいぶん前に亡くなってしまったので、実際に会って話せないのが残念だが、僕は自分の新たな冒険、やっと入口のドアの前に立てたような気がしている。
(つづく)
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)