2010-04-15

マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」(2)


マイケル・ポランニーは「暗黙知」を語るにあたって、次のようなことから話を始める。
「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。(中略)ある人の顔を知っているとき、私たちはその顔を千人、いや百万人の中からでも見分けることができる。しかし、通常、私たちは、どのようにして自分が知っている顔を見分けるのか分からない。だからこうした認知の多くは言葉に置き換えられないのだ」
ここで再びラーメンの話になるのだが、僕は京都のある老舗のラーメン屋のラーメンを食べたとき、似たような他のラーメン屋とは明らかに違ってとてもおいしく、店主の人格のようなものまで感じたにもかかわらず、それがどう違うのかをどうしても説明することができなかった。似たようなラーメンだったから、スープや麺などの構成としてはさほど変わらず、そういうものの目立った特徴として説明することができなかったからだ。しかしもちろん、ラーメンはスープや麺などから出来上がっているのであり、味の違いはそれらに由来するわけで、僕は何らかの形でそれらの味の違いを感じ取っているのは間違いないことなのだが、それは言葉で説明できるものの外にあったのである。

(一般にラーメンの味というものを、全く言葉で表現できないというわけではないが、少なくともこの老舗ラーメン屋のうまさが、他の似たような背脂醤油系のラーメン屋とどう違うのかは、どうやっても言葉にできなかったことだし、老舗どころのラーメンというのは、そういうとくべつ特徴らしきものは何もないのに、死ぬほどうまい、ということが往々にしてあるものだと思う。まあこのことはラーメンの話で、暗黙知とは関係ないのだが。)

またこの老舗ラーメン屋の味について、僕が誰かに説明したとして、それをほんとに理解できるのは、実際にそれを食べたことがある人だけだろう。
「私たちのメッセージは、言葉で伝えることのできないものを、あとに残す。そしてそれがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、言葉として伝え得なかった内容を発見できるかどうかにかかっているのだ」
とポランニーはいう。ラーメンの味というものは、
「認識を求める過程で、能動的に経験を形成しようとする結果として、生起するものである。この形成(シェイビング)もしくは統合(インテグレイティング)こそ、私が偉大にして不可欠な暗黙の力とみなすものに他ならない。それによって、すべての知が発見され、さらにひとたび発見されるや真実と確信されるのだ」
(つづく)