2011-04-30

京都地酒フェスタ

昨日はウエスティン都ホテル京都で開催された「地酒フェスタ」というのに行ってきた。僕はこれまで、この手の催しは敬遠していて、広島でも「酒まつり」というものが、毎年西条で開かれていて、僕は広島にいるあいだに2回、行こうとおもえば行けて、誘われもしたにもかかわらず、けっきょく行かなかった。だらだらと泥酔してくだを巻くという、以前の僕の飲み方からすると、昼間から酒をのんで、しかも歩き回って、さらに帰りはけっこうな長い時間、電車に乗らなければいけないということに、とうてい耐え切れると思えなかったからなのだが、昨日は正午から飲み始めて、夕方になって電車に乗って場所を変え、さらに夜まで飲むということだったのだけれど、意外に大丈夫だった。最近は僕も、飲み方がおとなしくなったからな。

それでも京都と滋賀の蔵元24軒があつまり、そのすべてを制覇して、1軒につき1~2杯を飲んだから、それぞれはほんのちょっとにしてもらったけれども、それが30ccだったとしても、1リットル、5合くらいは飲んだ計算になるわけで、たしかにかなり酔っ払いはした。初めの頃は、けっこう詳しく、味を分析したりしていたが、後半にはもう、何がなんやらわからなくなってしまった。

これだけたくさんの酒蔵が一堂にあつまると、やはりかなりはっきりとした味の違いというものがあって、それがなかなかおもしろかった。それをまた蔵元の人に質問すると、いちいち詳しく答えてくれるので、僕は昨日一日で、日本酒についてかなり詳しくなったような気がする。

このごろ家でも、地酒を色々飲むようになって、蔵元による味の違いはもちろんのことして、地域ごとに、共通の味があるのがおもしろいなと思っていたら、やはり酒の味というものは、「水」の性質が決めるところが大きいのだそうだ。伏見の酒は、どれも「はんなり」とした味がすると思っていたら、それは水が「軟水」であることによるらしい。逆に灘の酒は「硬水」で、それがああいう、キレのある味を生むのだそうだ。

滋賀県の酒というのが、また京都とはちがって、どれも基本的に、ちょっと「苦い」ような味がする。ワインのような「渋味」というか。蔵元の人も、それは認めていたけれど、そのことは何かのとくべつな努力の結果ということではなく、水や、気候や、そういうもののおかげで、自然とそうなってしまう、というものであるらしい。

「吟醸酒」というものが、米をよく磨いて、米粒の外側の雑味のある部分を取り除くことにより、ああいう果物のような味になるということは知っていたけれど、あとはやはり米自体の品質がよくなければいけないことと、それから低温でじっくりと時間をかけて熟成させるということがあるのだそうだ。「生もと造り」というのは、昔ながらの酒の造り方で、ふつうは「乳酸菌」を加えるところが、空気中の乳酸菌だけによって、やはり時間をかけて熟成させるやり方だとのことだった。

いちばん意外だったのが、「醸造アルコール」の使い方についてで、醸造アルコールというものは、低級な酒を加えて量を水増しするということかと思っていたら、そういうことではまったくなく、大吟醸などに醸造アルコールをほんの少し入れることにより、「香り」が酒粕に残らず、きちんと引き出されるという効果があるのだそうだ。よくだしを取ったとき、塩をほんのちょっぴりふって、だし殻にだしの風味が戻ってしまわないようにするということがあると思うけれど、同じようなことなのだろうな。

ちなみに京都の酒というと、大手の有名どころでは「月桂冠」「松竹梅」「黄桜」があるのだけれど、そのほかにも京都市内だったら「玉乃光」「古都」「富翁」「神蔵」「都鶴」、京都府北部の丹後のほうへ行くと、「玉川」「弥生鶴」、滋賀だと「富鶴」「美冨久」なんてのがある。

それぞれの蔵元で、王道の純米酒や吟醸酒の他に、主に女性をターゲットにした、リキュール系のお酒をいろいろ開発しているのだけれど、なかで一番おもしろいと思ったのが、滋賀の「竹内酒造」というところがやっていた、「ゆずのお酒」というもの。これは日本酒にゆずの果汁を入れたもので、大変うまいのだけれど、1リットルに対して、ゆずを13個、使わないといけなくて、儲けはまったく出ないのだそうだ。


2011-04-29

池波正太郎風すきやき

昨日から「現代思想」5月号、「東日本大震災特集」を読み始めていて、それがすごくおもしろい。

「現代思想」といえば文字が小さく、小難しい文章が多く、おまけに値段が高い(1300円)という、三拍子そろってしまっているともいえる雑誌で、ふだんはめったに買わないし、たまに特集のテーマに興味があると思って買っても、読み切れずにだいたい後悔するのだけれど、やはり今回の大震災というのは、日本人にとって共通の体験だから、読んでいて「わからない」と思うことは全くない。

震災そのものというより、「原発」についての記事が多く、僕もそちらのほうがおもしろい。原発の問題というものは、これまでの日本で、薄々そうかと思っていたけれど、平時だからそれが隠されて、よく見えなかったものが、今回の事故をきっかけに、ぱっくりと口を開けて、そのどす黒い構造やら問題点やらが、はっきりと見えるようになった、というものなのだよな。

だいたい「エネルギー問題」というのは、国の政策の根幹にかかわるものだから、政・官・財の癒着の構造とか、さらにアメリカを始めとした国際社会での「核」にかんする歴史的な経緯とか、ものすごく広い問題に関係していて、それが現在進行形の体験から、一気に見通せるようになっているというところがあり、これほどわかりやすいものはない。こんな機会は願っても得られないものだから、それを不幸中の幸いと考えて、このさい徹底的に、見られるだけのものは見てみたいと思っている。

情報はいままで、ネットを中心に探していて、この「現代思想5月号がおもしろい」というのも、ツイッターから情報を仕入れたのではあるのだけれど、やはり本当に読み応えのある、おもしろいものは、きちんとお金を出すもののなかにあるのだな。まあ当たり前の話なのだが。

昨日の朝めしは、おとといの常夜鍋の、おいしい豚のだしを使ってうどん。ペーパータオルで濾しただしに塩で味を付け、コショウをふって食べる。ほんとはネギでも入れたらうまいと思うが、べつにナシでも十分うまい。

昼めしは、「アサリのぶっかけめし」。昆布だしに酒、みりん、淡口醤油で味をつけた汁で、大根とアサリを煮て、それを炊きたてのめしの上から、なみなみとかける、というもので、池波正太郎の「そうざい料理帖」に載っている料理なのだが、昨日はみりんを入れすぎて、味付け的にちょっとイマイチだった。やはり貝の淡い味は、味付けも淡くしてやらないと引き立たないのだよな。

晩めしは、これも池波正太郎が、「自分の母親が作ってくれていた」ものとして語っている、すきやき。牛コマ肉と野菜を、砂糖と醤油で味付けした水で煮る。だしも使わないし、アクも取らない。それで十分うまい。

ただほんとは、こうやって鍋で初めからいっぺんに煮てしまうのではなく、池波正太郎が「そうざい料理帖巻2」で言っているように、まず水で野菜を煮て、やわらかくなったら牛コマ肉を入れ、砂糖と醤油で味を付ける、という手順でやったほうが、ちゃんとおいしくできる。わかってはいたのだけれど、横着してこういうやり方でやってしまった。七味をふって食べるのがポイント。

酒は、奈良で買ってきた「初霞」。これはまた、いかにも「はんなり」とした、奈良、という感じの味。スルスルと飲めてしまって、昨夜は体調がよかったのか、いつも1合半くらいのところ、2合半も飲んでしまった。

今朝はゆがいたうどんに、おかかと醤油、それに七味。

2011-04-28

豚コマ肉と水菜の常夜鍋

先日、日頃からお世話になっている人のところへ行って、原発・エネルギー問題について取り組んでみたいということを相談したのだ。

僕の気持ちは、先週金曜にソフトバンクの孫さんが、記者会見で話していたこと
http://www.ustream.tv/recorded/14195781#utm_campaign=twitter.com&utm_source=14195781&utm_medium=social
とほぼ同じで、もしかしたらこれは、日本人の多くがやはり同じように感じていることなのかもしれないと思ったりするのだけれど、今回の震災と福島原発の事故を経て、これからの日本を考えていこうとするとき、最大の問題は、日本にはいま、全国で50基をこえる原子力発電所があって、その多くが活断層の真上だとか、また津波の被害をいとも簡単にうける沿岸地域にあり、しかも、日本で大地震が発生する可能性は、かなり高まっているのであって、それをなんとかしないと、今回の福島原発の事故が、これからもふたたび起こるかもしれない、ということ。これまで僕は、原発の問題にはまったく関心をもたずに、ずっと過ごしてきてしまったわけなのだが、たぶん多くの日本人もそうであって、そのことが、政府やお役所、電力会社が好き放題にすることを許し、地震列島である日本に原発を林立させ、しかもそれらの安全対策や、万が一の危機のときのための対策が、十分ではないままに放置されてきたということを生み出してきてしまっている。であるとするならば、これからいちばん大切なことは、原発やエネルギーのことに、国民がきちんと「関心をもつ」ことであり、自分はそのために、何か役に立つことがしたい。

孫さんは、それではそこで、具体的にどうするのかということについて、解は「自然エネルギーの導入と拡大である」と思い定めて、「自然エネルギー財団」を設立し、そこで専門家に自然エネルギーの研究をさせて、国民の議論のきっかけにしたいという道を選んだ。僕は、それとはすこし違うが、やはり団体を立ち上げて、ひとりでも多くの人が、それはもちろん、何よりも「自分もふくめて」なのだけれど、この問題に関心を持ちつづけるということの、足しになることがしたいと思っている。

そういう話を、僕は先日したのだけれど、そうしたらその人は、「いま原発やエネルギー問題についての団体が、どのくらいあるのか知っているのか」と。いや僕は、だいたいこの問題について関心をもったのがつい最近だから、それは全然知らないのだけれど、そしたら推進派のものも、また反対派のものも、ものすごい数なのだそうだ。あなたがやろうとしていることが、ほかに誰もやったことがないことなら、ともかくとしても、これだけの数の人たちがやっているところへ、あなたがひとりで何かをやろうとしたって、大したことは何もできるわけがない。だから、まずは今やっている人たちが何を言っているのかをきちんと勉強して、さらにそのどこかの団体のなかに入って、その人たちと一緒にやるということを考えなさい、という助言をもらった。

それで、「この人はいい」という人を教えてもらって、その人は、すでに亡くなってしまったのだけれど、その人の書いた本を注文し、またその人の設立した団体のホームページを見て、勉強するということを始めているわけだ。

それはいわゆる「反原発」の団体で、「日本で最大」なのだそうだけれども、テレビや新聞などで報道されることは全くないし、最近僕はツイッターなどをマメにフォローしているのだけれど、そこでも引っかかってこない。こないだ渋谷でデモが行われて、僕は事前にまったく情報をキャッチしていなかったので、どこが主催したのだろうと思っていたら、その団体だったということらしい。坂本龍一ほかの著名人も多数参加したのだそうだから、もうその団体の存在は、当たり前のようになっているということなのだろうな。その団体は、震災があってから、ツイッターやユーチューブのアカウントも取得して、情報発信を活発に始めたみたいで、今回の震災についての見解や、原発についての基本的な事柄についての動画も置いてあったりして、とても参考になる。連休中はそういうものや、その創始者の本を読んで、勉強したいと思っている。

僕はもちろん、まだ勉強を始めたばかりだから、その内容について、どうこう言えるだけのものを持っているわけではないのだけれど、でもやはり、そういうものを見ながら、「自分のやりたいこと」がはっきりしてくるということはある。

「推進派」というものが、国民にたいして情報を隠して、都合のいいことだけを言って、とにかく物事を推し進めようとするわけだから、それにたいして「反対派」は当然、それを糾弾し、隠された情報を公けにするということに、力を注ぐことになるわけだ。それについて、否定するものではもちろんないし、実際そこで得られる情報は、これまで「まさに知りたかった」というものだったりして、役に立つものが多い。

でも僕が、原発にたいする「反対運動」をしたいのかと言えば、それはまだ、よくわからないのだな。

もう一方で孫さんは、反対運動ではなく、具体的な解決策としての「自然エネルギー」というところに注目し、それを推し進めるというところに、自分の力を注ぐ決断をしたわけだけれども、それでは僕がやりたいことがそこなのかということも、今はまだ、どうも違うような気がする。

それは単に、僕の知識が足りなくて、世の中の切迫した状況をわかっていないだけだ、といえば、たしかにその通りであり、推進派が権力をフルに活用して、物事をゴリ押ししてくるのだから、それにたいしてきちんと反対しなければいけない、ということについて、僕は異を唱えるものではないし、それが実際に必要なものであるということについて、十分認めるのだけれど、それをカジりはじめた今の段階の感覚でいえば、僕自身はまだ、そこに力を注ぐということについてはためらいがある。

「知識」というものは、それを推進する側のものであっても、反対する側のものであっても、明確になっていけばいくほど、同時に何かを「切り落として」いかざるを得ない性質をもつものだと思うのだよな。

典型的な例が、今回の震災における「死者数」とか「行方不明者数」だ。

朝日新聞によれば、昨日の時点で、震災の死者は1万4508人、不明は1万1452人ということになっている。これにもちろん嘘はないのだけれど、この数字はあくまで、「確認されたもの」なのであって、死者は遺体として確認された人の数、不明は家族などから警察に、行方不明であるとして届け出があった人の数、ということであり、実はその背後に、遺体として確認されてもおらず、家族からも届け出がない、「本当の不明者」という人が、どのくらいいるのかわからない、というのが実態だ。集落ごと流され、そのまま海へ持っていかれてしまったという人たちも、膨大な数に上るはずで、それはこの数字には入っていない。なぜならば、数字というものはあくまで、その性質上、確認されたもの以外のものを示すことができないからだ。

しかし今回の震災の被害の実態というものを、正確につかむためには、この、勘定に入れられていない、死者・不明者の数というものを考え合わせることが絶対に必要で、そのために必要なものは、すくなくとも報道機関の人間などではない、一般の市民にとっては、情報ではなく、「想像力」だ。

この想像力というものは、勉強によるものというよりも、「生活実感」のなかで生み出されるものではないだろうか。今おそらく、放射能についていちばん不安に思っているのは、小さな子どもをもったお母さんだったりするだろう。そういう人たちが、子供を2人も3人もかかえて、渋谷のデモに参加できるのかといえば、おそらくそれは、なかなか難しい。でもそういう人たちというのは、「自然」そのものである小さな子供を目の前にして、もっとも生活実感にあふれた人たちであると言うこともできるかもしれない。そういう人たちだからこそ、逆に見えてくるというものがあるはずなのであり、僕がやりたいのは、そういう人たちとのあいだに、連帯をつくることなのじゃないかと、今の段階では思ったりする。

まあ、もう少し勉強して、色々考えますが。

昨日の昼は、「ikoi cafe」で週刊文春。ランチは「フーチャンプルー」というもので、沖縄のお麩を、肉や野菜といっしょに炒めたもの。けっこううまかった。

晩酌は、豚コマ肉と水菜の常夜鍋。豚コマ肉は、グルメシティで買ったのだが、やはりこれは、西友のものよりだいぶうまい。グルメシティの豚コマ肉は「京都産」となっているのだけれど、これは京都の豚肉がうまいということなのかな。

酒は「浦霞」。昨日でこれは飲み切ったが、一見してすっきりとした飲み口なのにもかかわらず、その背後に、コクとか、酸味とか、いろんな複雑なものの味わいを感じさせる酒で、ほんとにうまい。

2011-04-27

大阪新世界 「八重勝」

僕は1年前から京都に住んでいるから、大阪へも電車で1時間もかからずに行けるのだけれど、これまでは京都をまわるので手一杯で、大阪はほとんど行ってなかった。しかしそれも、なんとももったいないことであるのは言うまでもないわけで、とりあえず手始めに、昨日は新世界へ行ってきた。

初めて見た通天閣。もともとエッフェル塔を模して作られたということなのだが、東京タワーほど大きくなってしまうと、近くへ行ってしまうと全貌が見えず、根元のところしか目に入らなくなってしまうわけだけれど、これはちょうどいい大きさで、商店街の向こうにかなり大きな姿を晒しているというようになっていて、けっこうな迫力がある。以前は夜になるとイルミネーションに照らされるようになっていたそうだが、今は節電のためだろう、上の展望台の部分がすこし光るという程度に抑えられていた。

通天閣のまわりは飲食店街になっていて、わりと小さな飲み屋がゴシャゴシャと密集する、僕好みの一帯となっている。名物の串揚げ屋が多く、またそれが、さすが大阪という感じのド派手な装い。

僕は個人的には、東京の「おしゃれ」な感じより、こういうディープな感じのほうが好きですな。

しかし一帯をいろいろ歩いてみると、通天閣のすぐ近くは、どちらかといえば観光客向けのエリアになっているみたいで、新しい感じの店が多くて呼び込みも多く、しかもこのご時世だからなのか、あまりお客が入っていないみたいだった。

ところがそこからさらに奥、南のほうへ下っていくと、「ジャンジャン横丁」という細い路地に、串揚げ屋はもちろん、寿司屋だの、食堂だの、立ち飲み屋だの、極小の飲み屋がぎっしりと軒を並べる一帯があって、そちらはどの店も大体いっぱい。どうやら地元の人は、こちらに来るということらしい。そのなかでずらりと行列ができている串揚げ屋があったので、そこに入ってみた。

「八重勝」という店なのだが、見たところ他には行列ができている串揚げ屋はないようだったから、ここがひとつの人気店であるということは、まちがいないだろう。ロの字に大きなカウンターがあって、人がぎっしりと座っている。中で店員が立ち働く様子は、東京で似たものを上げるとすると、「回転寿司」なのじゃないか。出てくるものはまったく違うが、全体がかもし出す雰囲気はそっくりだった。

串揚げは肉から魚介、野菜、などかなりの種類があり、東京の串揚げ屋はよく、おまかせで板さんが勝手に色んなものを出してくるという店が多いが、こちらは各自、自分の好きなものを頼むようになっている。やはりああいう、カウンターにいる調理師が勝手なものを出してくるというのは、東京の文化なのだろうな。

東京の串揚げ屋の場合は、調味料のほうはソースの他に、塩だのなんだの色んなのがあって、好きなのが選べるようになっているわけなのだが、こちらはソース、しかもいわゆる、昔ながらのすこし辛めのウスターソース一本。それが大きな器に入って、カウンター上に並んでいて、客は自分で串揚げをそこに浸して、食べるということになるわけなのだが、ここで有名な、噂にだけは聞いていた、「二度漬け禁止」というキマリがあるわけだ。食べかけのものを、公共のソースに浸すというのは、ダメだということなのだな。あと箸も出されておらず、これも同じ理由で、口をつけた箸をソースに漬けられると困る、ということみたいだ。

付け合わせのキャベツを、これもやはりソースに浸したものを、バリバリとかじりながら、次から次へと注文して食べまくる。「どて焼き」という味噌煮込みのホルモン、牛肉、豚肉、イカにタコに穴子にホタテ、アスパラだのレンコンだの、シイタケ、玉ネギ、ジャガイモ。ビールを伴に、食べまくる。辛口のソースに浸すのでさっぱりしているから、いくらでも食べることができる。気付いたら最後は、死ぬほどお腹がいっぱいになっていた。

二人でこれだけ食べて、ビールを計3杯飲んで、お勘定は6千円。さすがですな。


八重勝 串揚げ / 南霞町駅動物園前駅新今宮駅
夜総合点★★★★ 4.0

2011-04-26

鶏モモ肉と菜の花の小鍋だて

昨夜はいつも通りの時間に布団に入ったのだけれど、なんだか脳の興奮がおさまらず、起きだしてメールの返信とかをしていたりしたら、ますます目が冴えてしまって、寝られる気分がまったくしなくなってしまったので、仕方がないから家から徒歩2分のところにあるガールズバーへ、夜中の3時から出掛け、オネエちゃんと1時間ほどバカ話をして、それで寝た。

僕は基本的に寝付きはいいほうで、寝られなくなるということはあまりないのだけれど、それでも数ヶ月に一度は、神経がそのような状態になってしまうこともあり、そのガールズバーへはそういう時にだけ行き、それ以外には行ったことがない。20代前半のオネエちゃんがいるのだけれど、ちょっと若すぎて、こちらがよっぽどサービスしてやらないと、話が弾まないのだ。

僕もこれまで、人並み程度には、オネエちゃんのいる店で飲んだりはしてきたわけだが、圧倒的にたのしいのは名古屋。これまで何度も書いてきたけれども、名古屋には、酔っぱらいのオヤジを、女性がちやほやとかまってやる、という文化が、日常の生活のなかにあるのじゃないかとおもう。キャバクラのような専門店に限らず、居酒屋でも、ファミレスでも、アルバイトしているオネエちゃんをつかまえてオヤジトークすると、めっぽうたのしい。

こちらのオヤジトークを、表面上ニコニコとしながら受けるということは、日本全国どこの居酒屋のオネエちゃんでもするとおもうが、名古屋のオネエちゃんはかならず、100パーセントの割合で、質問してくるとか、何かおもしろいことを言うとか、なんらかの「返し」をきちんとしてくるのだ。たぶんそれが、礼儀の一環とされているのじゃないか。名古屋は「キャバクラ発祥の地」なのだが、僕は名古屋に転勤でいったとき、街中がキャバクラみたいだとおもったほどだ。

あとたのしいのは、中国や韓国の店。これは働いているオネエちゃんが基本的に出稼ぎで、とにかく真剣であるということもあるのだけれど、封建主義の国というのは、男性天国的なところがあるのだろう、男を持ち上げて気持よくさせるということに、慣れている感じがする。ただこの頃、韓国の店をあまり見かけなくなったような気がするのは、本国の経済状況がよくなり、出稼ぎに来なくてもよくなったということなのじゃないか。

そうすると、「名古屋の中国系」というのは、最強であるということになるが、実際その通りでものすごい。水商売をするために生まれてきたとしかおもえないような女性がゴロゴロいるのだが、あまりに危険なので、ここには近付かないようにすることをすすめる。

昨日の昼めしは、豚汁ぶっかけめし。
昆布だしに酒、みりんに淡口醤油で味を付ける。
西友の豚コマ肉をつかったのだが、グルメシティのやつのほうが、もっと脂身が多くてうまい。
玉ねぎはクタクタに煮込んでもいいが、さっと煮てシャキシャキ感を残すのもまたいい。

晩めしは鶏モモ肉と青菜の小鍋だて。
奈良に行ったときにお持たせでもらった、菜の花と、あとわさびといったかな、それを鶏モモ肉と豆腐といっしょに煮て、ポン酢に七味をふったタレで食べた。
大変うまかったが、青菜を下ゆでせずに使ってしまったので、汁にアクが出て、せっかくの鶏のだしを再利用できなくなってしまったのが、ちょっと失敗。

酒は宮城の「浦霞」を1合。
これはたしかにうまい。

2011-04-25

宮城 「浦霞」

昨日の昼めしは、毎度おなじみ、新福菜館三条店。

ビールにキムチ、中華そば(並)にチャーハン。
これは何度食べても、つくづくうまいのだ。

先週この店に来たときに、お客さんが「ありがとう」と言って、またその「ありがとう」が、「とう」にアクセントがある関西風の調子なのだが、それで店を出たのを見て、僕も真似してみたのだが、そしたらやはり、それまで「どうもー」とか、「ごちそうさまでしたー」とか、東京風の挨拶をしていたときよりも、店員の反応がいい感じがした。
挨拶というのは子供のころからの教育で叩き込まれているせいだろう、他のことばはけっこう京都弁ぽく話せるようになっても、どうしても「おおきに」とか、口から出てこなかったのだけれど、それ以来、この頃は、「おおきに」「ありがとう」、けっこう使えるようになってきている。

晩酌は豚コマ肉とほうれん草の常夜鍋。

酒は宮城県塩竈市の「浦霞」、純米酒。
まだ一升瓶が、酒屋に出回っていないので、とりあえず4合瓶で買ってみた。
これはうまい。
広島「賀茂鶴」にも似た、非常にバランスがいい酒。
日本酒の風味とか、酸味とか、いろいろ複雑な味がするのだけれど、どれ一つとして突出することなく、全員がお行儀よく、たがいに協力しあっているという感じ。
福島と岩手は、ちょっとした癖があるようにおもったが、これは王道ですな。

ここの蔵元は、震災による被害はそれほどでもなく、復旧にむけ一歩一歩進んでいるのだそうだ。
また浦霞一本につき5円を、地域の復興のためにあてるとのこと。
http://www.urakasumi.com/

今朝はうどんを食った。
冷凍うどんを鍋で温め、ほぐれたら温かいまま丼に入れて、おかかと醤油をかけ、七味をふって食べる。
これがうどんの食べ方としては、もっとも簡単なのじゃないか。
しかもかなりうまい。

2011-04-24

「数値がわからない」ということについて

大震災以来、とくに原発事故がらみでさまざまな「数値」を目にするようになり、「ベクレル」だの「シーベルト」だの、何よそれ、とおもうような、聞いたことのない単位までが、もう当たり前の顔をして世間をのさばり歩いている。

原発の問題というのは本来、国民全員にとって非常な関心事であって、実際地域の放射能汚染がどのくらい危険な状態になっているのかとか、今後のエネルギーを考えるうえで原発は本当に必要なのかとか、実生活に直結する、切実なことであるにもかかわらず、ここに様々な数値が大量に登場するということが、それを考えようとするときに大きな妨げになるということは、確かにいえることだろう。

しかもいま、「数値がわからない」ということを「バカ扱い」する風潮もある。

東京都副知事の猪瀬直樹(http://twitter.com/#!/inosenaoki)氏が、ツイッターで、4月21日の話だが、このように発言している。
「数値を示しながら発言してください。気分で言う意味はまったくありません。このツイッターでも金町浄水場の数値、新宿のセンターの蛇口の数値(いずれも都庁HP)にあります。言語技術の基本です。数値以外の議論は無駄です。」
「数値を示してもわからなければ゛わかる気がないということです。客観性という指標を否定したら、いま何時何分かも考えないで生きているということですから。別の個人的な不安を持ち込むのはやめたほうがよいです。」
「仕事をしない専業主婦は、パートでもなんでも仕事をして社会人になってください。数値の意味がわかるようになるしかありませんから。不確かな気分で子どもを不安にさせてはいけません。」
「数値を公表をしてもわからない人は「不定愁訴」です。ジョギングで気分でも変えください。行政の分野ではありません。」
「不安だ、不安だと東京でぶつぶつ言う人にかぎって東北へボランティアに行かない。現地を見てきたらよい。想像力が足りないんだろうね。」
この発言は、0歳の乳児をもつ母親が、「茨城県で母親の母乳からヨウ素が検出された」というブログ記事をみて、「東京も危険なのでは」と猪瀬氏に尋ねたものにたいしての返信で、母親のもっともな不安を真っ向から全否定するというのは、行政の長としてはまったく不適当な、最高にダメダメなものだとおもうけれども、ここまでひどくなくても、この種の物言いは、インターネットにあふれている。

そのように「専門家」を称するひとに言われてしまうと、素人としては、
「それじゃあ考えるのは、専門家にまかせよう」
と思考停止してしまうか、自分で猛勉強を始めるか、という二つの道のどちらかを歩むことになりがちだとおもうのだけれど、そのどちらに進んでも、問題の解決にはおぼつかない。

まず「専門家にまかせる」ということが、いかに危険であるかということこそを、だいたい今回の福島原発の事故で学んだわけなのだ。
原子力発電所は、電力会社のエリートたちが建設・運営し、それを原子力安全・保安院やらのひとたちが監視し、それによって「絶対安全」なものであるはずだった。
それが事故から1ヶ月以上がたっても、収束の見通しすら立たない体たらくを演じているというのが、専門家と呼ばれるひとたちの実態だったというわけだ。

その一方、「自分で猛勉強する」ということも、なかなかのイバラの道だ。

今回、ソフトバンク社長の孫正義氏(http://twitter.com/#!/masason)が、原発にたよらずエネルギー供給を可能にするための、さまざまな研究を行うための組織として、「自然エネルギー財団」を私費を投じて立ち上げた。
http://www.ustream.tv/recorded/14195781#utm_campaign=twitter.com&utm_source=14195781&utm_medium=social
僕はこれは、孫氏の気持ちにたいして非常に共感するものがあり、尊敬に値する行為であるとおもうのだけれど、孫氏がこの1ヶ月、「猛勉強した」その内容について、ネット上で批判がある。

孫氏は「原子力発電のコスト」と「太陽光発電のコスト」を時間軸上にプロットしたグラフを示した。

オレンジの線が原子力発電のコストで、これは時間がたつにつれて右肩上がりに上がっており、それにたいして緑色の太陽光発電のコストは、逆に右肩下がりに下がっていて、それは昨年、2010年に、上下が入れ替わっている。
原子力発電のコストには、それを廃炉にする場合の費用やら、さらに事故が起きた場合の保険金の積立やら、そういうものがじつは隠れて存在していたのにもかかわらず、それらをこれまでは意図的に、計算に入れないことにより、見かけ上、原子力発電が安いように数字を操作していたのであって、それらをきちんと計算に入れると、原子力発電のコストはこれまで考えられていたよりも、はるかに高いものとなるという主旨だ。

それにたいして経済学者の池田信夫氏(http://twitter.com/#!/ikedanob)は、
「彼の引用しているNC WARNなる反原発団体のパンフレットの数字には、何の客観性もない」
と言い切る。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51701378.html
そして池田氏にとって「客観性がある」と思えるということだろう、「アメリカのエネルギー省の予測」というグラフを持ち出してくる。

それによると、太陽光発電のコストは、2016年になっても、原子力発電のコストの2倍だというのだ。

池田氏は、孫氏が猛勉強する際にアドバイスをうけた人物を、「環境エネルギー政策研究所」所長の飯田哲也氏(http://twitter.com/#!/iidatetsunari)であるとみていて、この飯田氏が「政治的プロパガンダ」によって孫氏を「ミスリードした」と言っている。

これは要は、原発「反対派」と「推進派」とでは、おなじことを指し示すはずの数値でも、まったく違うものになるということを意味するのであって、こうなってくると、素人にはお手上げだ。
「どちらが正しいのか」を判定するなどということが、素人にできるはずはない。
このように、「猛勉強する」という素人の選択も、大きな壁に突き当たらざるを得ない、ということになるのである。

それなら素人は、原発・エネルギー問題に、どう向かっていったらいいのか。

それは僕は、ひと言でいえば、
「わからないとおもいながら、関心を持ちつづけること」
なのだとおもう。

今まで長いあいだ、「学校」の勉強においては、「早くわかる」ことが「いいこと」であると、叩き込まれつづけてきた。
試験をされて、早くわかった人間がいい点をとり、いい学校へ上がり、社会の中枢を占めていく。
しかしそういうひとたちが引き起こしたのが、今回の大事故なのではなかったか。

「わからない」とは、それが「バカ扱い」される社会の状況のなかで、たしかにあまり気持ちがいいものではないのだけれど、しかし人間、物事のほとんど、たとえばいま隣にいるひとが何を考えているのかすら、きちんとわかっているわけではない、ということを思いおこせば、本来「わからない」という状態が「ふつう」なのだということに気付く。
科学者が何かを発見する、という場合にだって、その前に、長い長い、「わからない時期」があるのであって、そこで関心を持ちつづけたからこそ、発見に至るということがあったわけだ。

べつに性急に結論をいそぐ必要はない。早くわからなくていいのだ。おかしいことはおかしいとおもいながら、関心を持ちつづけること。そして決断を急かされる場合には、そのこと自体に「NO」ということ。
そういう姿勢が、いま、もっとも必要なことなのであり、僕はそういうことについて、連帯の輪を広げていくということを、これからやっていきたいとおもうのだ。

「自然派」と「文化派」

僕はこのごろは、夜1時ごろ寝ても、朝はパッチリ6時半ごろ目が覚めることが多くて、それなりに気が張っているのかとも思うのだけれど、昨日もやはり早めに目が覚めて、メールやらツイッターやら、ニュースやブログやらのチェックをして、それからブログを更新したのだけれど、そしたらまだ午前中なのに睡魔が襲ってきて、ベッドへふたたび逆もどり。
1時間ほどして目が覚めてもまだダルかったので、これは疲れ、もちろん遊びの、が溜まっているとみて、とりあえずサウナへ。

サウナというのは、疲れを取るには最強なのじゃないすかね。
マッサージよりいい気がする。
僕は以前、マッサージへ行っても治らなかったふくらはぎの痛みが、サウナへ行ったら一発で取れたことがある。
それ以来、バカの一つ覚えで、疲れたらサウナへ行くことにしているのだ。

サウナへ行って、最大の問題は、やはり
「その後どこで酒をのむか」
だ。
僕がいつも行くのは「壬生やまとの湯」というスーパー銭湯で、座敷やテーブルが置かれた大きな休憩スペースが館内にあり、食事もできるようになっているので、そこで済ませてしまうのがいちばん手軽なのだけれど、なにしろまずい。
だいたい基本が、セントラルキッチンから冷凍で運んできたものを、パートのおばちゃんが温めるという形式だから、うまいはずがないのである。

それで昨日は、グラスビール一杯だけを館内で飲み、そのあと昨日行きがけに、初めて見つけた食堂へ行ってみた。
「麺どころ」という店なのだけれど、壬生寺近くの裏通りにあって、近くはいつも通っていたのに、気付かなかったのだ。

とりあえず冷や酒。

暖簾は真新しい、しゃれたのが掛かっていて、名前も「麺どころ」だから、一瞬新しい店なのかとおもうのだけれど、聞いたら店を開いて50年になるのだそうだ。
もう80近いだろうという、おいちゃんとおばちゃんでやっている。

いわゆるうどんそばと丼ものを中心とした、よくある食堂で、僕はこれまで京都で、こういう店にはあまり行ったことがなかったのだけれど、まず安い。
かけうどんは350円、にしんそばは600円、いちばん高い天ぷらうどんでも650円。
とりあえず500円の「鳥なんば」というのを頼んでみた。

いやそしたら鶏もも肉が、けっこう大量に入っていて、それにたっぷりの九条ねぎ。
汁はうす味に甘みの利いた京都風、麺もけっこうコシがあり、かなりうまかった。

メニューでは「鳥なんば」となっていて、そばともうどんとも書いていないから、「そばでお願いします」といったら、「あ、そばにしますか」とびっくりしたように聞かれて、それでよくよく聞いてみたら、そばもできるが、京都ではほとんどの人はうどんで食べるとのこと。
それで僕も、京都風にしておいた。

それに「小小ライス」130円。ちゃんとお新香も付いてくる。

これで意外にお腹がいっぱいになったので、それで終りにしたが、総額1,030円。いやこれはいいですな。

昨日吉野へ行ったとき、同行した知人から、途中にあった道の駅で買ったという新鮮な野菜を、いろいろお持たせしてもらったのだ。
それでそのなかで、とりあえずカブを食べてみた。
知人によればこれは火を通さず、葉っぱは塩もみして、実は何もせずそのまま切って、食べたらよいとのこと。
新鮮な野菜は、それで十分味があるとのことだったのだ。

昨日僕は、「京都好き」と「奈良好き」を、「主流派と反主流派」の対立の構図と書いたのだけれど、それはちょっと違うことがわかって、これは
「文化派と自然派」
の対立なのだな。
京都が好きな、僕のような人間は、京都が千年以上にわたって都であったあいだに蓄積してきた、膨大な「文化」の集積を愛でるわけだが、奈良派の人たちはおそらく、それをわりと「俗っぽい」とか「観光客ズレしている」という風にうけとって、そうでなく、もっと「自然」なほうがいいと、そう思うということなのだ。
それで千年前に都だった奈良が、都が京都へ移ってしまうことによって、徐々に風化し、自然に同化していく、その廃墟っぽいところがいいということなのだと思う。

実際以前、「奈良がいい」と言ってた人たちも、僕はそれは二人から聞いたのだけれど、二人とも自然科学者だった。
そうすると、そういう対立というのはもしかしたら、「人文科学」と「自然科学」みたいなところへも発展していく、人間の「好み」というものの根本的なところにある性質なのかもしれないなと、ちょっと思ったりもした次第。

それでその、自然派の知人に言われたとおりに、何も手を加えずに食べてみたカブ、文化派の僕には、残念ながら、やはりダメだった。
台所でつまみ食いしたときには、カブの実は素朴な甘味があるし、塩もみしただけの葉っぱも意外に味がするなと思ったけれど、まずだいたい、酒のつまみには、やはり塩気がないのはダメなのだ。
酒というのは、塩だけで飲む人もいるくらいで、やはり塩気は酒のつまみにとって、最低必要条件なのじゃないかと思う。

さらに昨日のラインナップ。

バックリブと大根の煮込み。

昨日買ってきた奈良漬と、以前嵐山で買った佃煮。

それに湯どうふ。

という、わりと味が濃いものが多くて、だから逆に、何も味をつけないカブはいいかなと、食べる前には思ったのだけれど、実際食べてみたら、まわりの濃い味に、カブの微妙な味わいは消されてしまって、ただ青臭さだけが残るという結末となってしまった。

なので結局、カブにはおかかと醤油をかけて食べた。

ということで、僕は自分が「文化派」なのだと、つくづく感じた昨日の晩酌だったのでした。


2011-04-23

孫正義氏の記者会見

http://www.ustream.tv/recorded/14195781#utm_campaign=twitter.com&utm_source=14195781&utm_medium=social

孫社長が私費10億円を投じて設立する「自然エネルギー財団」について、先日の民主党の何かの部会で話をしたのに続いて、こちらは昨日、自由報道協会の記者会見というかたちで、1時間の講演の後、40分の質疑応答をおこなった全映像。

ちょっと長いのだが、これはかなり見る価値があるのじゃないか。

孫氏が福島の原発事故を機に猛勉強を始め、「原発は経済的」とおもっていたところが、実はそんなことはまったくなく、むしろ高価なエネルギーであることを知るというところから、世界の趨勢は原子力発電ではなく、自然エネルギーへ移行しているということ、3月11日の震災直前に、自然エネルギーを拡大するための必要条件である「自然エネルギーの買取制度」が閣議決定されていたことなどを知り、それらを前提に、これからの自然エネルギー使用についての、ひとつの展望を描く。

僕はこれは、孫氏の売名行為のひとつかと、先日の話を聞いた時点では、おもわないこともなかったのだけれど、こちらの話を聞いて、孫氏はかなり本気だとはっきりおもった。

吉 野

おとといから昨日にかけて、またよく遊んだのだ。
仕事もしておらず、金にも限りがあるのに、よくそんなノンキに遊んでられるねと言われそうだが、まあたしかにその通り。
でも遊びというのも、人生にとっては非常に大事なことだとおもうので、こういうことをあまりケチってはいけないのだ。

おとといの晩は、家からわりかし近くにある「啓ちゃんのスタンドバー」で外飲み。
ママである啓ちゃんから、メールをもらったので出かけてきた。
いやバーのママがメールを寄こすというのは、疑いようもなく単なる営業なのだけれど、営業であっても、メールをくれたことには変わりがないわけだ。
それでさらに、それが嬉しかったりするのだったら、素直に喜べばいいというだけの話なのである。

僕が飲みにいく店は例外なく安くて、この店も酒は400円から500円、つまみも200円から400円で、それでやさしいママと、べちゃべちゃ話をしながら飲めるのだから、これは言うことない。
ほんとはここはスタンドバーだから、短めにサッと切り上げるのが粋というものなのだけれど、おとといは2時間ほど長居して、10時半の閉店時間ギリギリになって店をでた。
ビール1本に冷や酒2合、それにサービスの冷酒1合くらいを飲んだから、けっこういい気持ちになり、帰って風呂に入って、そのまま朝まで熟睡した。

昨日は朝から吉野へ行った。
最近仲良くしてもらっている知人の女性がいて、年は僕より一回り上なのだけれど、わりと気が合う。
僕は自分が女性的だからなのだとおもうが、わりと男っぽい、さばけた女性が好きで、子供のころもよく女の子とゴム段したりしてた。
運動が得意な女の子の「手下」的な位置にいるのとかが、居心地がよかったりするのだ。
今でも「女の中に男がひとり」みたいな状況は、僕は最も落ち着ける。

それでその知人は、いろいろ話をして、僕が京都を褒めたりすると、どうも気に食わないようなのだ。
僕は世の中には、どうも「京都派」と「奈良派」があるのではないかという気がする。
それは「巨人と阪神」、「大鵬と柏戸」、「自民党と社会党」みたいな、ってどれも古いが、主流派びいきと反主流びいきとの対立の構図で、僕はわりと、言動は反主流的なことを言いながらも、根本的な趣味のところでは非常にミーハーなところがあって、アイドルは松田聖子、バンドはサザンオールスターズ、基本的に王道を歩いてきたものだから、「南禅寺の桜」とか、こけおどし的なところがあるのはわかっていても、すごくいいとおもってしまう。
ところがそういう話になると彼女は、
「いや奈良の桜だっていい」
と主張し、吉野の桜を見に連れていってあげるということになり、それで昨日、彼女と彼女の友人と3人で、出かけていったわけなのだ。

奈良というのは、基本は「廃墟」なのだよな。
いかにも「日本の田舎」という感じの風景のなかに、朽ちかけた寺や神社があったりして、京都の寺社は今でも現役バリバリで、そのほとんどが本山だったりするわけで、生々しい、宗教の臭いがプンプンするところが多いわけだが、奈良は枯れていて、いわゆる有名な観光地はべつとして、半ば朽ちながら、まわりの野生の自然と調和していたりするところがある。
それでそれが、打ち捨てられているというわけでもなく、地元の人の手によって手入れをされ、そのひとたちの信仰の対象になっているという、なんとも自然な様子が見られるのだ。

ああいう自然な良さというのは、たしかにハマると中毒になるところがあるのかもしれない。
志賀直哉をはじめとして、奈良に魅せられた文化人も多かったわけだしな。
僕はまだその境地には達しないが、たしかに奈良は、歩いていると、いちいち強く主張してくる京都とはちがって、心がほっと落ち着くところはある。

それで昨日は、吉野の桜は、残念ながらもうほとんど終わってしまっていて、ちゃんと見ることはできなかったのだけれど、奥深い青々とした山のなかに、絵の具ではたいたように、あそこここに桜のピンク色が、ぽわぽわと浮かんで見えるというのは、たしかに桜のきれいさの一つの大きなあり方であって、これが見ごろだったら、さぞすごかっただろうなとおもった。

帰り際に宇陀市にある小さな寺へ寄ったのだが、たまたま住職がいて、話す機会があったのがおもしろかった。
僕よりたぶん、すこし下くらいの年じゃないかとおもうのだが、もともと郵便局員をしていたのが、思い立って仏教系の大学でインド哲学を学び、それから出家して大きな寺で修行をし、次に今の寺へきて、先代の住職の教えをうけ、2年前からその跡目を継いだのだそうだ。

僕は今回の震災以降、近所の寺社をお参りし、被災したひとたちの多幸を祈るということをしていて、僕は以前には宗教にはまったく興味はなかったのだが、被災したひとたちに対して、ただお金をわたすというだけでない、なにか気持ちを込めたことがしたいとおもい、結果として「祈る」というところへ行き着いたわけなのだけれど、もしかしたら僕に限らず、時代がそういうところへ向かっているのじゃないかと、僕はちょっとおもったりするところもあるのだよな。

これまで日本は、宗教にほとんど関心をもたずに、数十年を過ごしてきたわけだけれど、それは世界的にみても珍しいことなわけで、ふつうはどこの国の、どんな地域の人たちだって、それなりの宗教というものをもっていて、信仰するということをしているのだとおもう。
日本が手本にしてきたアメリカだって、アメリカ人の多くは、キリスト教を熱烈に信仰しているのであって、文明が進歩すれば宗教は必要なくなるということではまったくないだろう。

僕は今回、祈りをするようになって、「天国」ということの意味もよくわかって、亡くなったひとのことをおもって祈りを捧げるというとき、やはりそのひとの「多幸」を願わずにはいられないわけで、そうするとどうしても、「亡くなったひとが幸せに暮らす場所」というものを考えることが必要になるのだよな。
だから天国というものも、宗教団体が勝手に作ったということではなく、人間の思考のあり方の根本に位置するものなのだということを、あらためて感じたりしているわけで、僕は昨日、そうやってこのところ自分がおもっていることを、住職にぶつけてみたのだ。

そしたら住職も、やはりおもうところがあるみたいで、今ブログやツイッターを立ち上げつつあり、一般のひとに広く発信するということを始めようとしているのだそうだ。
住職の親類が何人も、今回の震災でなくなったとのことだし、また福島で被災者の救援にあたっている仲間の僧侶がいて、住職はそのひとと連絡をとりながら、物資を集めて送ったり、後方支援的な活動をしているそうなのだけれど、避難所の生活というのは、もうマスコミが話題にできないほど、ほんとうに悲惨なものなのだそうだ。
そういうことを見聞きしながら、宗教者として何ができるのかを、日々自問していると言っていた。

僕はいまこそ、伝統あるきちんとした宗教が、インターネットもふくめて、何らかの発信をしていくべき時じゃないかという気がするのだよな。
自分の心をどう落ち着けたらいいのかということを、考えている人は多いはずで、下手をすると悪質な新興宗教がそこで勢力を伸ばそうとしていくなんてことも起きるのじゃないかという気もするし、じっさいそういう話もあるらしい。
ぜひがんばってくださいという話をして、昨日は住職と別れた。

2011-04-21

鮭のアラ汁、アサリと小松菜の小鍋だて

安くてうまいものというのは、探せばあるもので、といっても僕はいつもほとんど、決まったスーパー、グルメシティへいくばかりだから、探すというほどのこともないのだけれど、いちおう入り口からはいったら、青果のコーナーから鮮魚のコーナー、精肉のコーナーまで、まずはひと通りを見てまわる。
このごろは青菜やキノコが、冬場の半額くらいになっていて、今は旬もクソもなく、ほとんどのものは1年中出まわっているわけなのだけれど、それでもやはり旬というものはあるのだなと思ったりする。

アラはもう、僕は得意中の得意で、グルメシティでうまそうなアラを見つけると、だいたい買うようにしている。
アラはもちろん、どこのスーパーにも売っているけれど、グルメシティがいちばん安くて、鮮度がいいような感じがする。
グルメシティは、一人暮らしの者のために、野菜のバラ売りや小分けの肉なども、わりと積極的に置いてくれていて、白菜などは8分の1カットというものまであり、僕はわりと気に入っているのだ。

おとといは鮭、というかチリ産のサーモントラウト、鮭とサーモントラウトがどう違うのか、よくわからないのだが買ってきて、これをジャガイモやら玉ねぎやらの野菜といっしょに汁にした。

鮭は味噌味もうまいけれど、おとといはみりんと淡口醤油の吸物仕立て。
鮭は湯通しをして、ザクザク切った野菜といっしょに鍋にならべ、だし昆布を入れ水を張り酒をドバドバとふり入れて、みりんと淡口醤油で味をつけて火にかける。

これに七味をふりかけて、岩手の酒「あさ開」をちびちびと飲みながら、ちょこちょこつまむ。
こうして1、2時間を過ごすというのが、僕の至福の時なのだ。

鮭はかなりたっぷりあって、晩酌だけでは食い切れないから、翌日の昼めしで白めしのおかずにする。
グラスに半分位の冷や酒と、三条会商店街に露天を出している上賀茂の農家のおばちゃんから買うスグキが付け合せ。

今はアサリが旬で、殻付きのも安く出ているが、中国産のむき身のものが、考えられないような値段で出ている。
大量に入ったやつが、だいたい100円ちょい。
池波正太郎「そうざい料理帖」に、「アサリと白菜の小鍋だて」というのが載っているのだが、昨日は小松菜が安かったので、それ豆腐をあわせてみた。

いや申し訳ないが、これは最高。
小松菜もアサリ同様、今が季節みたいで、季節の物どうしというのは、だいたい合うものなのだよな。
白菜よりこちらのほうが全然うまい。

タレはポン酢に七味をふり入れる。
一回に食べる分だけ鍋に入れ、煮えたてを食べる。

今日の昼は、「ikoi cafe」でタケノコご飯。
京都のタケノコは、けっきょく買わずに終わってしまう予感がするが、今日食べられたのでよかった。
やわらかくて、中国産の水煮とは全然ちがう。
さすがだわ。

そして食後は、コーヒーに週刊文春。