2011-04-24

「数値がわからない」ということについて

大震災以来、とくに原発事故がらみでさまざまな「数値」を目にするようになり、「ベクレル」だの「シーベルト」だの、何よそれ、とおもうような、聞いたことのない単位までが、もう当たり前の顔をして世間をのさばり歩いている。

原発の問題というのは本来、国民全員にとって非常な関心事であって、実際地域の放射能汚染がどのくらい危険な状態になっているのかとか、今後のエネルギーを考えるうえで原発は本当に必要なのかとか、実生活に直結する、切実なことであるにもかかわらず、ここに様々な数値が大量に登場するということが、それを考えようとするときに大きな妨げになるということは、確かにいえることだろう。

しかもいま、「数値がわからない」ということを「バカ扱い」する風潮もある。

東京都副知事の猪瀬直樹(http://twitter.com/#!/inosenaoki)氏が、ツイッターで、4月21日の話だが、このように発言している。
「数値を示しながら発言してください。気分で言う意味はまったくありません。このツイッターでも金町浄水場の数値、新宿のセンターの蛇口の数値(いずれも都庁HP)にあります。言語技術の基本です。数値以外の議論は無駄です。」
「数値を示してもわからなければ゛わかる気がないということです。客観性という指標を否定したら、いま何時何分かも考えないで生きているということですから。別の個人的な不安を持ち込むのはやめたほうがよいです。」
「仕事をしない専業主婦は、パートでもなんでも仕事をして社会人になってください。数値の意味がわかるようになるしかありませんから。不確かな気分で子どもを不安にさせてはいけません。」
「数値を公表をしてもわからない人は「不定愁訴」です。ジョギングで気分でも変えください。行政の分野ではありません。」
「不安だ、不安だと東京でぶつぶつ言う人にかぎって東北へボランティアに行かない。現地を見てきたらよい。想像力が足りないんだろうね。」
この発言は、0歳の乳児をもつ母親が、「茨城県で母親の母乳からヨウ素が検出された」というブログ記事をみて、「東京も危険なのでは」と猪瀬氏に尋ねたものにたいしての返信で、母親のもっともな不安を真っ向から全否定するというのは、行政の長としてはまったく不適当な、最高にダメダメなものだとおもうけれども、ここまでひどくなくても、この種の物言いは、インターネットにあふれている。

そのように「専門家」を称するひとに言われてしまうと、素人としては、
「それじゃあ考えるのは、専門家にまかせよう」
と思考停止してしまうか、自分で猛勉強を始めるか、という二つの道のどちらかを歩むことになりがちだとおもうのだけれど、そのどちらに進んでも、問題の解決にはおぼつかない。

まず「専門家にまかせる」ということが、いかに危険であるかということこそを、だいたい今回の福島原発の事故で学んだわけなのだ。
原子力発電所は、電力会社のエリートたちが建設・運営し、それを原子力安全・保安院やらのひとたちが監視し、それによって「絶対安全」なものであるはずだった。
それが事故から1ヶ月以上がたっても、収束の見通しすら立たない体たらくを演じているというのが、専門家と呼ばれるひとたちの実態だったというわけだ。

その一方、「自分で猛勉強する」ということも、なかなかのイバラの道だ。

今回、ソフトバンク社長の孫正義氏(http://twitter.com/#!/masason)が、原発にたよらずエネルギー供給を可能にするための、さまざまな研究を行うための組織として、「自然エネルギー財団」を私費を投じて立ち上げた。
http://www.ustream.tv/recorded/14195781#utm_campaign=twitter.com&utm_source=14195781&utm_medium=social
僕はこれは、孫氏の気持ちにたいして非常に共感するものがあり、尊敬に値する行為であるとおもうのだけれど、孫氏がこの1ヶ月、「猛勉強した」その内容について、ネット上で批判がある。

孫氏は「原子力発電のコスト」と「太陽光発電のコスト」を時間軸上にプロットしたグラフを示した。

オレンジの線が原子力発電のコストで、これは時間がたつにつれて右肩上がりに上がっており、それにたいして緑色の太陽光発電のコストは、逆に右肩下がりに下がっていて、それは昨年、2010年に、上下が入れ替わっている。
原子力発電のコストには、それを廃炉にする場合の費用やら、さらに事故が起きた場合の保険金の積立やら、そういうものがじつは隠れて存在していたのにもかかわらず、それらをこれまでは意図的に、計算に入れないことにより、見かけ上、原子力発電が安いように数字を操作していたのであって、それらをきちんと計算に入れると、原子力発電のコストはこれまで考えられていたよりも、はるかに高いものとなるという主旨だ。

それにたいして経済学者の池田信夫氏(http://twitter.com/#!/ikedanob)は、
「彼の引用しているNC WARNなる反原発団体のパンフレットの数字には、何の客観性もない」
と言い切る。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51701378.html
そして池田氏にとって「客観性がある」と思えるということだろう、「アメリカのエネルギー省の予測」というグラフを持ち出してくる。

それによると、太陽光発電のコストは、2016年になっても、原子力発電のコストの2倍だというのだ。

池田氏は、孫氏が猛勉強する際にアドバイスをうけた人物を、「環境エネルギー政策研究所」所長の飯田哲也氏(http://twitter.com/#!/iidatetsunari)であるとみていて、この飯田氏が「政治的プロパガンダ」によって孫氏を「ミスリードした」と言っている。

これは要は、原発「反対派」と「推進派」とでは、おなじことを指し示すはずの数値でも、まったく違うものになるということを意味するのであって、こうなってくると、素人にはお手上げだ。
「どちらが正しいのか」を判定するなどということが、素人にできるはずはない。
このように、「猛勉強する」という素人の選択も、大きな壁に突き当たらざるを得ない、ということになるのである。

それなら素人は、原発・エネルギー問題に、どう向かっていったらいいのか。

それは僕は、ひと言でいえば、
「わからないとおもいながら、関心を持ちつづけること」
なのだとおもう。

今まで長いあいだ、「学校」の勉強においては、「早くわかる」ことが「いいこと」であると、叩き込まれつづけてきた。
試験をされて、早くわかった人間がいい点をとり、いい学校へ上がり、社会の中枢を占めていく。
しかしそういうひとたちが引き起こしたのが、今回の大事故なのではなかったか。

「わからない」とは、それが「バカ扱い」される社会の状況のなかで、たしかにあまり気持ちがいいものではないのだけれど、しかし人間、物事のほとんど、たとえばいま隣にいるひとが何を考えているのかすら、きちんとわかっているわけではない、ということを思いおこせば、本来「わからない」という状態が「ふつう」なのだということに気付く。
科学者が何かを発見する、という場合にだって、その前に、長い長い、「わからない時期」があるのであって、そこで関心を持ちつづけたからこそ、発見に至るということがあったわけだ。

べつに性急に結論をいそぐ必要はない。早くわからなくていいのだ。おかしいことはおかしいとおもいながら、関心を持ちつづけること。そして決断を急かされる場合には、そのこと自体に「NO」ということ。
そういう姿勢が、いま、もっとも必要なことなのであり、僕はそういうことについて、連帯の輪を広げていくということを、これからやっていきたいとおもうのだ。